西陣上立売通浄福寺東入ルの雨宝院の南門を入って左傍らに植わる御衣黄を今年は見ることが出来ない、ばかりでなく来年も目にすることが出来ない。門の内の柱に「御衣黄桜は残念ながら枯れてしまいました。」と書いた白い紙が貼ってある。塀越しにも見ることが出来たその木は、やや薄黒くなった裸の枝を中空に晒しているだけである。去年色が染まる前の葉を急に落しはじめたのだという。改めて枝を見上げれば胸を突かれる。原因は分からない。病気であるか、老いたのか。御衣黄は去年の猛暑をやり過ごし、地中に張った根が水を吸わなくなった。吸えなくなったのか、自ら吸うのを止めたのか。木が水を吸わなくなるというのはどういうことなのであろう。自ら感じていたはずの生命が、次第次第に感じなくなっていくのであろうか。一切の声も立てず、樹木の死は穏やかである、とたとえば書くと、樹木の悲鳴に気づかなかったのではないか、と口を挟む者があるかもしれない。この御衣黄は悲鳴を上げていたのかもしれない。が、そのような素振りを見せない樹木もあるのではないか。枯れた樹木は自ら倒れ、あるいは人の手で切り倒される。雨宝院の御衣黄は恐らく切り倒されるのであろう。「残念ながら枯れてしま」ったのであるから。雨宝院の枯れた御衣黄を「見た」足で、上立売通を西へ、千本通を越えて大報恩寺千本釈迦堂の南門を潜る。本堂前の枝垂れ桜が散った境内の目立たぬところに細枝を垂らし御衣黄が咲いている。雨宝院の御衣黄よりも幹はひと回り細く若い木であると分かる。御衣黄の萌黄色は「公家の着る衣」の色であるという。芯から花びらに一筋づつ桜色のすじが入り、やがてその桜色が滲むように広がって御衣黄は散るのである。雨宝院の御衣黄も去年はそのように花を咲かせて散ったのであるが。この日、もう一本の桜を見に南に下がり、壬生通八条角の六孫王神社まで足を伸ばした。六孫王神社の境内には御衣黄の「兄弟」ともいうべき鬱金桜が御衣黄と同じ頃に咲く。六孫王神社鬱金桜は薄く水を張った池に架かるセメントの太鼓橋の袂に咲いている。着いて鳥居を潜った丁度その時、右手に植わるソメイヨシノがサアッと目の前が霞むほど花吹雪を散らせ、思わず足を止める。風が止み、後ろからタクシーが一台鳥居を潜った先で止まる。と、真新しい制服姿の子どもが二人とその親であろう「よそ行き姿」の若い夫婦が降りてきて、拝殿の方には向かわず、丈の低い八重桜の前に子どもを立たせ、携帯電話で半分逆光で陰る二人を撮る。入園入学式の帰りに六孫王神社の桜を目にし、あるいはあらかじめまだ咲いていることを知っていて立ち寄ったのに違いない。またも吹き散る花吹雪の中で、そして止むのを待って父親と母親が自分の携帯電話で子どもだけの写真を何枚か撮ると、待たせてあったタクシーに乗り込み砂利音を立て境内から出て行く。花吹雪の止んだ境内は暫く静まり返る、いま目にした親子の姿などなかったかのように。鬱金桜も御衣黄ソメイヨシノなどと比べれば目にすることの少ない桜である。人目につかないところ、野山で自らひっそり咲いているという桜でもない。そして、人に植えられなければ、人知れず枯れるということもない。

 「豆まきして豆が残ると、にんじんのしっぽとか入れて、みそ豆、作っていましたね」鬼は外、福は内。福を呼び寄せたあとで作るみそ豆は、あったかご飯に似合う甘辛味。ますの底に残った豆にも、まめまめしく福を見出した。『今でも私は客が小皿に残した醤油を捨てるとき、胸の奥で少し痛むものがある』(夜中の薔薇『残った醤油』)」(『向田邦子の手料理』向田和子監修 講談社1989年)

 「処理水5回目放出、19日から 福島第1原発」(令和6年4月18日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 雨宝院。

 千本釈迦堂御衣黄と普賢象。

 六孫王神社鬱金桜とソメイヨシノ

 寺町通今出川上ル本満寺の枝垂れ桜。

 帷子ノ辻踏切りのソメイヨシノ

 過日新宿御苑鬱金桜。

 

 この日の前日と前々日に雨が降り、京都一帯肌寒い風も吹いたのであるが、八幡市の背割堤の桜は満開を過ぎた六七割ほどの花がまだ枝に残っていた。背割堤は瀬割堤とも書き、二つの川の交わるところに土を高く積み上げ互いの川筋を侵して洪水などを起こさぬようにしたものであり、木津川と宇治川が合流するところ、その緩やかに曲がる流れに沿った一・四キロあるという大人の背丈の三倍ほどの高さに築いた土手の両側に二百数十本のソメイヨシノが植えられている。合流した二つの川はそのすぐ先で桂川と交わり、一筋となって淀川と名乗るのである。最寄り駅である京阪本線石清水八幡宮駅の真ん前の男山の上に石清水八幡宮があるが、その参道ケーブルの乗り口は閑散としていて駅前をひっきりなしに行き交っているのは、四月七日で終わるはずの桜まつりが十二日まで延長になるほど遅く咲いてまだ散らぬ桜を見に来た、あるいはすでにその景色を目に残し帰って来た者らばかりのようで、時は十一時半を過ぎた辺り、改札を出てすぐのところに長テーブルの店を出す弁当屋の女が、弁当売り切れ、弁当売り切れました、とその仲間にあるいは電車を降りたばかりの者らに声を上げる。その傍らにある店舗の入り口には、この先にコンビニはありません、という貼紙が張ってあり、手ぶらでやって来た者らがそろぞろその店の中に入って行く。この先を迷うことはない。即席の案内板があり人の流れがあり、京阪本線の踏切りには警備員が立ち、道がうねるように盛り上がる東高野街道沿いに京都守口線をまたもや警備の者の指示でぞろぞろ横切って木津川御幸橋の上に立てば、背割堤の桜並木が目に入る。が、その一・四キロの長さは遥か奥の土手の下にいる人の姿が米粒のように見えても、目に映ったものとしてもおいそれと「実感」出来るものではない。橋を渡り終え左手に一歩踏み出せばそれが背割堤の上であり、左右に植わる「出だし」の二本の桜はどこか迎い入れる者の「姿」のように目に映らないでもない。この桜まつりの入り口と称するところで、運営協力金百円を支払い、前を進む家族連れに従い、後ろに東南アジアのどこかの国の若者らを従えて桜の「門」を潜る。三人が並んで歩けば両端の者の腕が桜に届いてしまうほどの径幅である。桜は昭和五十三年(1978)に植えたものであるという。それ以前、ここにはあたかも天橋立の如く松が植えられていたが、松喰い虫にやられすべて桜にられたのである。樹齢五十年ほどであればどれも幹にそれなりの太さとごつごつした手触りの風格を持ち、その多くは左のものは左に右のものは右に土手の端からやや躰を傾け、己(おの)れの頭上の込み合う枝から逃れるように左右のなだらかな傾斜の上を這う如く枝の腕を波打たせている。この枝の木蔭にも叢の斜面にも径の端にも敷いたビニールシートの上で二人連れ数人連れが弁当を開け、ビールなど見当たらぬつつましやかな折りの飯を口に運び、あるいは握り飯を手に持ち、それは「いま」をしみじみ味わう術を身につけた振る舞いのようにも見える。歩を進めるに従って景色が変わるということはない。やがて目はその一年に一度きりの景色に慣れる。目が景色に馴染み、あたかも当たり前のように目に映り、見飽きるという思いはおぼろ気に遠く、いま少し何ごとかを見極めようという思いが募り出したとことで堤は尽き、桜並木は果てる。踵を返し径を戻ってもよいのであるが、「思い」はすでに凋(しぼ)んでいる。円く曲線を描いた石段を左手、木津川の方に降りる。一面の叢の河原から一・四キロの桜並木の全貌が見える。遮るものはない。この「清々しい」景色は町中(まちなか)で見ることは出来ない。半ば呆然と見惚れていると、「撮ってもらえませんか」と声をかけてくる者がいる。六十ほどの年の女で、後ろに夫らしきやや年上の男が薄ら恥じ入るような笑みを浮かべている。女から小型のデジタルカメラを受け取る。「ズームはこのボタンで、横向きで」背割堤の桜並木が左手から奥に遠ざかる手前に二人を立たせ一枚撮る。二人は日光を眩し気に笑っている。

 「山の草むらの中を彼らは小刻みに進んでゆく。それ以上早くは行けないのだ。あせりと動物的な恐れとにせきたてられて、がむしゃらに分け入ってゆく。ときおり、余りにも無謀に突き進むので茂みがはね返って、彼らは後の方にはじき返される。そして絶望だけが先へ先へと進み彼らをはるか後方に置き去りにする。男は山刀をはげしく振りまわす。希望を取り戻したいという気持ちと、自分たちはまだ死んではいないんだと感じたいためと、あれほどか細くお化けのようにひょろりとしていながらも、まるで糊の塊のように彼らの体をはりつけて通そうとしない菅や茨のかたまりを切り裂くためだ。」(「汝、人の子よ」ロア=バストス 吉田秀太郎訳『ラテンアメリカの文学10』集英社1984年)

 「原発事故訴訟 国賠償責任否定の判決が確定 最高裁」(2024年/4/11 毎日新聞・福島)

 

 「桜のめでたく咲きたりけるに、風のはげしく吹きけるを見て、この児(ちご)さめざめと泣きける」。さめざめ、とは止まらぬ涙をこぼして泣くということ。この稚児は片田舎からひとり比叡山に預けられ、修行していた。「これも今は昔、田舎の児(ちご)の比叡の山へ登りたりけるが、桜のめでたく咲きたりけるに、風のはげしく吹きけるを見て、この児さめざめと泣きけるを見て、僧のやはら寄りて、「などかうは泣かせ給ふぞ。この花の散るを、惜しう覚えさせ給ふか。桜ははかなきものにて、かく程なくうつろひ候ふなり。されども、さのみぞ候ふ」と慰めければ、「桜の散らんは、あながちにいかがせん、苦しからず。わが父(てて)の作りたる麦の花散りて、実の入らざらん思ふがわびしき」と言いひて、さくりあげて、よよと泣きければ、うたてしやな。」(『宇治拾遺物語』「十三、田舎の児(ちご)、桜の散るを見て泣く事」)昔、とある田舎からやって来たひとりの稚児が比叡山で修行していたのであるが、春が来て、桜もいよいよ満開に咲き誇っているところに、吹き荒れる風が花びらを散らしていくを目の当たりにした。と、この稚児の目からはらはら涙がこぼれ落ちているではないか。通りすがりにそのことに気づいたひとりの僧が稚児に歩み寄り、「なぜそのようにお泣きになる。花が散るのを心惜しくお思いなさるか。桜というものははかないものだから、このようにすぐに散ってしまうものなのですよ。そうであっても、それだけのことなのです」と慰めるように云うと、稚児は、「桜の花が散ってしまうのは、別にどうということでもないんです。ただわたしの父が育てている麦の花が皆この風で飛ばされ、実らなくなってしまうのを思うとつらくて悲しい」と応えながらしゃくりあげ、ついにはおいおい声を上げて泣き出してしまった。それを聞いた僧は、何だそうだったのか、とがっかりしたということだ。ませた稚児が無常観に浸って泣いていたのではなかった。己(おの)れの父の麦の出来を思って泣いたのだ。稚児の言葉を聞いた僧は何だと半ばあきれ、半ば当てが外れてがっかりした情けない気分、それが「うたてしやな」である。落花の風流が「分かる」ことは、「諸行無常」の理解へ近づく道かもしれない。が、この稚児は「現実に根ざした」思いで父の麦を心配した。麦の出来不出来もまた「諸行無常」である。『臨済録』にこのような言葉がある。「道流、你(なんじ)如法に見解せんと欲得(ほつ)すれば、但だ人惑を受くること莫(なか)れ。裏に向い外に向つて、逢著すれば便(すなは)ち殺せ。佛に逢うては佛を殺し、祖に逢うては祖を殺し、羅漢に逢うては羅漢を殺し、父母に逢うては父母を殺し、親眷(しんけん)に逢うては親眷を殺して、始めて解脱を得、物と拘らず、透脱自在なり。」(「示衆」)諸君、まっとうな正しい方法を見極めようと思うなら、人に惑わされてはならない。世の中の内にあっても外にあっても逢ったものはすぐに殺せ。佛に逢ったら佛を殺し、祖師に逢ったら祖師を殺し、聖人に逢ったら聖人を殺し、父母に逢ったら父母を殺し、親類に逢ったら親類を殺し、そうしてはじめて解脱することが出来、なにものにも縛られず突き抜けて自在でいることが出来るのだ。父も、麦の不作という「無常」にも出くわしたならば殺さなけらばならない。殺すほどの理解の果てに解脱、「悟り」があると。が、「悟る」ためのその者の口にも麦は必要だ。その麦が穫れないと稚児は嘆いたのだ、「悟り」が飢え死にしないために。という考えも、臨済は「佛に逢うては佛を殺」せとするのである。

 「この手紙は闇の中で書いているのです。昼間だったら、読める字が書けるかといえば、やはりだめだろう、と思います。なにしろ僕の手帖は、たいていいつも濡れているので、鉛筆の字はどっちにしても載らないのです。今だって、僕が左手に握っているこの手帖、濡れています。紙が破れないように、僕はそっと鉛筆を動かしています。暗くて、何も見えません。山の闇って、ほんとうに真っ暗だね。書き終わると僕は、手さぐりで手帖の頁をちぎって、手さぐりで足もとの土の中に埋めてしまうのです。この手紙が読めるのは、佑子しかいないのだ。」(「蟻の自由」古山高麗雄『二十三の戦争短編小説』文藝春秋2001年)

 「双葉の伝承館、最多9万人来館 23年度、福島県独自の旅行施策浸透」(令和6年4月4日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 嵐山、小倉山、北嵯峨。

 

 満開のふれてつめたき桜の木 鈴木六林男。北嵯峨広沢池の畔にある植藤造園は、十六代佐野藤右衛門の私邸でもあるが、桜の咲くこの時期、中に立ち入ることを許している。十六代の父、十五代佐野藤右衛門は円山公園の枯れた「祇園枝垂れ桜」のいままさに咲き誇る二代目を戦後復活させたことでその名を知られている。一条通あるいは宇多野嵐山山田線という長ったらしい通りから入ると、いやその近くまで来れば高い丈の枝先から通りに垂れ下がる花の房が目に入る。植藤造園の樹木の植わる敷地は通りを挟んだ向こうにも広がっているのであるが、車の出入り口から足を踏み入れた敷地はその区別のつかぬすでに佐野家の庭であり、すぐ右手の透けた茂みの間を抜けた地面の盛り上がる一角を囲むように幹のさほど太くない、ということは恐らく樹齢数十年の枝垂れ桜の幾本かが空を覆っている。これらはすべて「祇園枝垂れ桜」の種を引き継いだ「兄弟」であるという。見渡すまでもなく樹の枝はどれも高い位置で剪定されていて、その花を見るためには頭上を見上げなくてはならないのであるが、たとえば満開のソメイヨシノを鼻先で見るのとは違う、中空より降り留まっているやや色の薄い、風が通ればその間から光の射す桜色の滴りは、辺り一帯にどこか粛然とした雰囲気を漂わせている。あるいはそれはところどころで「虫除け」のために煙で燻(いぶ)す篝火を焚いているせいからかもしれない。いま樹の周りにいるのは七、八人であるが、先ほどまで数人の海外の旅行者らしい一団が二組携帯電話を頭上に掲げていた。平らな叢に露台が二つ置かれていて、その一つにハイキング姿の初老の夫婦者らしい二人が腰を下ろしている。それから中年女の二人連れ、ジャージ姿の若い男、くすんだ色のジャンパーを羽織った若い女━━。が、際立って目につくのは、脱いだ上着と黒い鞄を手にじっと頭上を見上げて動かない、三十半ばほどの上背のない痩せた男である。まったく動かないのではなく、あるところまで静かに進むと足を止め、暫く上を見上げたままの姿になる。それからまた少し歩を進め立ち止まり、数分はその位置から動かない。その顔つきは、「感動」で呆然としているかのようにも横目に映ってもいたのであるが、よく見れば青白くどこかやや虚ろにも冷静にもその表情は見え、「人並み」でないその佇まいはあるいは「感受性」豊かな物書きか楽器の演奏を生業にでもしている者かもしれぬとも思ったしりたのであるが、いつの間に木立ちの中から姿を消し、それから暫くして、造園の作業場の外れのようなところで作業着姿の小柄な老人に話しかけているのに出くわした。その老人こそは恐らく九十半ばを過ぎた十六代佐野藤右衛門である。「どういう人でしたか」と訊いたあの男の声と、十六代の「どういう人といわれたかて普通の人と何も変わらないよ、普通の人と」「普段の生活は」「普段の生活も普通の人と同じ。あんた何やの、いきなり来はって」「いや、本を読んで興味を持ったので」というやり取りがすれ違いざま耳に入った。傍らに恐らく跡継ぎの孫の嫁らしい若い女と三輪車に乗った小さな子どもがいて、嫁らしい若い女は困惑した顔つきだ。十六代は曾孫と遊んでいたところに男から声をかけられたのだろう。この男は目の前の老人が十六代佐野藤右衛門と知って言葉をかけたのだろうかと思っていると、その不機嫌な口ぶりに、男はしどろもどろに口ごもりそのまま引き下がったようである。男はそれから敷地から出て行ったのであろうか。いま一度枝垂れ桜の下で足を止め、通りに出ようとしたところで早足で戻って来たあの男が作業場の方に向かって行った、その辺りには十六代も誰の姿もなかったが。こちらが目にしたのはこれだけの光景である。が、それでも以下のような想像は可能であろう。あの男はやはり十六代佐野藤右衛門をその人と知らずに声をかけた。訊いたのは十五代佐野藤右衛門のことだったかもしれない。が、十六代佐野藤右衛門のことをその「当人」に訊いたとすれば男は甚だ間抜けであり、自ら名乗らなかった十六代はそのことは当然であるとしても甚だ滑稽で些(いささ)か意地の悪い老人である。男は通りに出てはじめていまの老人が十六代であることに思い至ったのではないか。そして泡を喰って戻って来た。東日本大震災の後いくつかの被災地にこの造園で育てた枝垂れ桜を植えて廻った十六代佐野藤右衛門は、このような無礼な男に手厳しい年をくった「横山やすし」のようなスジの通った男のように目に映ったのである。

 「桜に姥桜(うばざくら)という表現がありますな?このひと言聞くだけでも、女性蔑視のなんのと、ええように受けとらん人が多いけど、これも実は違う。なるほど姥桜と言われるほど歳のいった桜は、幹は皺くちゃです。けど、わずか残った枝に咲かせる花には「色香」がある。花にはみんな色気があって、若い花がパーッと開いた時には、そら、ものすごい色気ですわ。けど、この「色香」はなかなか出ませんのや。姥桜は、自分で枝や幹を少しずつ枯らしながら花をつける。調整せんと体がもたへんからね。知恵を働かせて永らえるから、皺くちゃの幹に風格がある。そこに花がほろりと咲いて「色香」を放つ。なかなか姥桜にはなれへんぞ、というのはそこですわ。」(十六代佐野藤右衛門「JAPONisme」2019/冬・春voL,20)

 「中国の学術誌に処理水の科学的情報掲載へ 福島医大、現地と共同」(令和6年4月4日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)












 京を下に見るや祇園のゑひもせす 西山宗因。いろはにほへと ちりぬるを わかよたれそ つねならむ うゐのおくやま けふこえて あさきゆめみし ゑひもせす京、といろは歌の最後に京をつけて覚えていれば、この句の意味は他愛もない。折角祇園で呑んだのに少しも酔えない酒だった、お高くとまっている京なんてしょせん「いろは」の一番下ではないか。井原西鶴の『日本永代蔵』にも「ゑひもせす京」は出て来る。「借屋請状(しやくやうけじやう)之事、室町菱屋長左衛門殿借屋に居申され候藤市と申す人、確かに千貫目御座候」。「広き世界に並びなき分限我なり」と、自慢申せし、子細は二間口の棚借にて千貫目持、都の沙汰になりしに、烏丸通に三十八貫目の家質(かじち)を取りしが、利銀積りておのづから流れ、初めて家持となり、これを悔みぬ。今迄は借屋に居ての分限と言はれしに、向後(きやうこう)家有るからは、京の歴々の内蔵の塵埃ぞかし。この藤市、利発にして、一代のうちに、かく手前富貴になりぬ。第一、人間堅固なるが、身を過ぐる元なり。この男、家業の外に、反故の帳をくくり置きて、見世を離れず、一日筆を握り、両替の手代通れば、銭小判の相場を付け置き、米問屋の売り買ひを聞き合せ、生薬屋・呉服屋の若い者に、長崎の様子を尋ね、繰綿・塩・酒は、江戸棚の状日を見合せ、毎日万事を記し置けば、紛れし事はここに尋ね、洛中の重宝になりける。不断の身持ち、肌に単襦袢(ひとへじゆばん)、大布子綿三百目入れて、一つより外に着る事なし。袖覆輪(そでふくりん)といふ事、この人取り始めて、当世の風俗見よげに、始末になりぬ。革足袋に雪踏(せつた)を履きて、終(つひ)に大道を走り歩きし事なし。一生のうちに、絹物とては、紬の花色、一つは海松茶染(みるちやぞめ)にせし事、若い時の無分別と、二十年もこれを悔しく思ひぬ。紋所を定めず、丸の内に三の引き、又は、一寸八分の巴を付けて、土用干にも、畳の上に直(ぢき)には置かず、麻袴に鬼錑(おにもぢ)の肩衣(かたぎぬ)、幾年か、折り目正しく取り置かれける。町並みに出る葬礼には、是非なく、鳥部山に送りて、人より後に帰りさまに、六波羅の野道にて、奴僕(でつち)もろとも苦参(たうやく)を引いて、「これを陰干にして、腹薬なるぞ」と、只は通らず。けつまづく所で火打石を拾ひて、袂に入れける。朝夕の煙を立つる世帯持は、万(よろづ)、かやうに気を付けずしてはあるべからず。この男、生れ付きて悋(しは)きにあらず、万事の取り廻し、人の鑑にもなりぬべき願ひ、かほどの身代まで、年取る宿に餅搗かず。忙はしき時の人遣ひ、諸道具の取置きもやかましきとて、これも利勘(りかん)にて、大仏の前へあつらへ、一貫目に付き何程と極めける。十二月二十八日の曙、急ぎて荷なひ連れ、藤屋見世に並べ、「請け取り給へ」といふ。餅は搗きたての好もしく、春めきて見えける。旦那は聞かぬ顔して、十露盤(そろばん)置きしに、餅屋は時分柄にひまを惜しみ、幾度か断りて、才覚らしき若い者、杜斤(ちぎ)の目りんと請け取つて帰しぬ。一時ばかり過ぎて、「今の餅請け取つたか」と言へば、はや渡して帰りぬ。「この家に奉公する程にもなき者ぞ。温(ぬく)もりの冷めぬを請け取りし事よ」と、又目を懸けしに、思ひの外に減(かん)の立つ事、手代、我を折つて、喰ひもせぬ餅に口を明きける。その年明けて、夏になり、東寺あたりの里人、茄子の初生(はつなり)を、目籠に入れて売り来るを、七十五日の齢(よはひ)、これ楽しみの一つは二文、二つは三文に値段を定め、いづれか二つ取らぬ人はなし。藤市は一つを二文に買ひて、言へるは、「今一文で、盛りなる時は、大きなるが有り」と、心を付くる程の事悪しからず。屋敷の空き地に、柳・柊・譲り葉・桃の木・花菖蒲・数珠玉など、取り交ぜて植ゑ置きしは、一人有る娘が為ぞかし。葭垣に自然と朝顔の生えかかりしを、同じ眺めには、はかなき物とて、刀豆(なたまめ)に植ゑ代へける。何より、我が子を見る程面白きはなし。娘大人しくなりて、やがて、嫁入屏風を拵(こしら)へ取らせけるに、「洛中尽しを見たらば、見ぬ所を歩きたがるべし。源氏・伊勢物語は、心のいたづらになりぬべき物なり」と、多田の銀山(かなやま)出盛りし有様書かせける。この心からは、いろは歌を作りて誦(よ)ませ、女寺へも遣らずして、筆の道を教へ、ゑひもせす京のかしこ娘となしぬ。親の世智なる事を見習ひ、八歳より、墨に袂を汚さず、節句の雛遊びをやめ、盆に踊らず、毎日髪頭もみづから梳きて、丸曲(まるわげ)に結ひて、身の取り廻し人手にかからず、引き習ひの真綿も、着丈の縦横を出かしぬ。いづれ女の子は、遊ばすまじき物なり。━━」(巻二「世界の借屋大将 京に隠れなき工夫者 餅搗きも沙汰なしの宿」)「借屋請状について、室町菱屋長左衛門殿の家を借りていると申請した藤市という者は、確かに千貫目の財産を所有しております」「私はこの広い世界に並ぶ者のない金持ちである」と藤市が自慢げに大口を叩くその理由は、二間間口の店を借りている身分で一千貫目もの財産を持っているからなのである。このことは京の都で評判をとっていたが、烏丸通にあった三十八貫目の担保になっていた家が利息の払いが滞り抵当流れとなって図らずも初めて家を持つ身分となり、藤市はこのことを後悔したという。というのは、今までは借屋身分の者だからこそ金持ちと云われたのであり、これから家持ちとして見れば、一流の町人、大商人(おおあきんど)の内蔵の塵か埃ぐらいにすぎないからである。この藤市という男は利口者で、己(おの)れ一代でこのような金持ちになったのだ。人はそのいの一番に、体が丈夫で堅実であることが世渡りに欠かせない。この男は家業の他に反故になった紙を紐で括った帳面をいつも手許に置き、一日中店番をしながら筆を握り、両替屋の手代が店の前を通れば、呼び止め、銀の銭や小判の相場を訊いて書きつけ、米問屋の取り引き相場の動きを訊き、生薬屋や呉服屋の若い手代には長崎の様子を尋ね、繰綿・塩・酒の相場は江戸店(だな)から来る書状が着くのを待って情報を照らし合わせ、ほか何事なりとも毎日書き残していたので、分からないことがあるとこの店に訊きに行き、都中の者から重宝がられていた。藤市の普段の姿は、単衣の襦袢の肌着とその上に三百目の綿を入れた綿入れを着ているだけで、これ以外は何も身につけない。袖口を細く包み縫いした袖覆輪(そでふくりん)というものはこの藤市が始めたもので、そのような経済的な恰好が昨今は流行っている。足元はいつも革足袋に雪駄履きで、大通りを走り歩きしたことなど一度もない。一生のうちで着た絹物は紬の花色染めが一枚と、もう一枚染め返しのきかない海松茶染(みるちゃぞ)めにしてしまったものは若い時分に思慮が足りなかったと二十年たってもそのことを悔やんだものである。着物の紋所は決めず、出来合いによく見かける丸の内に三つ引きか、あるいは一寸八分の巴をつけ、土用干しの時も畳の上に直(じか)には置かず、麻袴と鬼錑(おにもじ、目の粗い麻布)の肩衣も、何年経っても折り目が崩れぬよう仕舞っておいた。町内のつき合いで出る葬式には仕方なく鳥辺山まで野辺送に同行し、人の後ろについて帰る途中など、六波羅の野道で丁稚と一緒に道端に生えているせんぶりを引きむしり、「これは陰干しにしておくと腹痛の薬になるのだ」とただでは通らず、あるいはけつまづいても地面に目をやり、落ちていた火打石を拾って袂に入れて帰るほどである。朝夕に煙を立てて生活を営む者は、何事にもこのように気をつかわなくてはならぬのだ。この藤市という男は生まれ持ってのけちなのではない。万事の立ち居振る舞いは人の手本にもなろうという思いで、あれほどの資産家になっても、新年を迎える我が家で餅を搗いたことがない。忙しい年の瀬は人手が足りないし、餅を搗くための道具の扱いも面倒くさがり、これも計算づくのこと、(方広寺の)大仏前の餅屋隅田に頼み、一貫目につきいくらと決めて搗かせた。十二月二十八日の朝早く餅屋はせわしなく数人で搗いた餅を運び入れて藤屋の店先に並べ、「どうぞお受け取り下さい」と声をかける。搗きたての餅は見た目も気持ちよく、正月気分を目で味わうようである。が、藤市の旦那は聞こえぬ振りで算盤を弾いていて、餅屋は年末のかき入れ時だけに時間を気にし何度も催促すると、横から気を利かした手代が棹秤で慎重に目方を量り、餅を受け取って餅屋を帰した。二時間ほどしてから藤市が、「餅は受け取ったのか」と訊き、手代が「さきほど置いて帰っていきました」と応えると、「わしの店に奉公している者とは思えぬやつだ。温かいままの餅をよくもまあそのまま受け取ったものだ」と云われ、いま一度餅の目方を量ってみると、思いの外目方が減っているではないか。手代は驚き恐れ、喰ってもいない餅の前で口をあんぐり開けてしまった。その年が明けて夏になり、東寺辺りの村人が、茄子の初生りを目籠に入れて売りに来た時、初ものを喰えば七十五日命が延びるといわれ、縁起物としてありがたがられるので、一個で二文、二個で三文の値をつけると二個買わない者はいない。が、藤市は一個を二文で買い、周りの者にこう云った、「取っておいた一文で盛りの時に大きいものが買える」その計算高さに皆、なるほどと頷いたものだ。自分の屋敷の空き地に、柳や柊やゆずりはや桃の木や花菖蒲、数珠玉などを取り混ぜて植えたのはどれも一人娘のためだった。あるいは葭垣にいつの間に朝顔が這ってきたのを、「同じ眺めるにしてもこれはつまらん」と云い、実の成る刀豆に植え替えた。どんなことより自分の子の成長を見守ることほど嬉しいことはない。藤市は娘が成人するとすぐ、嫁入り道具の屏風を拵えてやった。が、「都中の名所を描いたりすると、見たことのない所へ行きたがるだろし、源氏や伊勢物語の絵ではふしだらな女になる」と、多田の銀山の賑やかだった頃の様子を描かせた。こんな発想であるから、自分でいろは歌を作って習わせ、女寺子屋にもやらず手習いを教え、酔ひもせず京一番のかしこ(女手紙の最後の「かしこ」)い娘に仕立て上げた。娘は娘で親の抜け目のなさ処世術を身につけ、八歳から墨で袂を汚すこともなくなり、節句の雛遊びもやめ、盆踊りにも行かず、毎朝髪も自分で梳いて丸髷に結い、身の回りのことで人の手を借りず、真綿の引き方もよく習って、着丈の縦横に見映えよく仕立てた。どうやら女の子どもは遊ばせておいてはだめなようだ。もう一つ、安楽庵策伝の『醒睡笑』にはこんなやり取りが載っている。京のとある油屋の許に、丹波から荏(え、えごま)売りがやって来る。油屋は簸(ひる、糠やちりを除く)ったものを買うと伝える。それを聞いた荏売りは「京では簸(ひ)っては売らない」と応える。「荏簸(ゑひ)もせす京」。

 「例えば日本の曲芸師がそうだ。彼らは、梯子を地面に立てるのでなく、なかば仰向けに寝て両足を上げている相棒の足の裏の上に立て、しかもそれを壁に立て掛けもせずに宙にただ棒立ちにさせたまま、その梯子をのぼっていく。ぼくにはそんなことはできない、ぼくの梯子には意のままになるそういう足の裏さえないということはさておくとしても。」(「日記」フランツ・カフカ 谷口茂訳『カフカ全集7』新潮社1981年)

 「ALPS新設検討 廃炉中長期プラン改定、20年代後半稼働目指す」(令和6年3月29日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 祇園京都御所








 生きるより死はなつかしく春彼岸 神蔵器。『今昔物語集』の巻第二十六、第二十二の「名僧、人の家に立寄りて殺さるる語(こと)」はこのような話である。「今は昔、京に生名僧(なまみやうぞう)して、人の請(しやう)を取りて行き、世を渡る僧有りけり。而(しか)るに、此の僧、然(しか)るべき所の請を得たりければ、喜びて行かむと為るに、車を否(え)借り得ざりければ、歩行(かちありき)にて行かむとするに、法服をして行かば、遠くて歩行の見苦しかりければ、懸衣(けのころも)にて、平笠など打着て、法服をば袋に入れて持たせて、「其の請(しやう)じたる所の近からん小家を借りて、法服をして寄らむ」と思ひて、行きにけり。然(さ)て、其の所の向なりける小家を、「然々(しかじか)」と云ひて借りければ、若き女主有りて、「疾(と)く入らせ給へ」と云ひければ、入りにけり。客人居(まらうどゐ)と思しき所の一間許(ばかり)有りけるに、莚を敷きて取らせたりければ、其こに居て法服をせんとて、冒被(かぶりかつ)ぎて居けるに、早う此の家には、若き女主の、法師の間男ぞ持たりけるを、実(まこと)の夫の雑色なりける男は、此れを伺はんとて、外へ行きぬる様にて、隣の家に隠て居て伺ひけるを、知らずして立ち入りたりけるに、僧の入りぬれば、此れを、「其れぞ」と思ひて、左右無く家へ行きけるに、僧の長(なが)むれば、大路の方より、若き男の糸気悪気(いとけにくげ)にて入り来るままに、妻(め)に向ひて、「汝、此れや虚言(そらごと)なりける。彼の女」と云へば、妻、「彼れは向殿の請の有りて、装束奉らんとて、立ち入られ給へる人ぞ」と云ひも敢へず、男、刀を抜きて走り寄りて、僧を捕へて最中を突きつ。僧、思ひ懸けずして、手を捧げて、「此は何に」と云へども、取り合ふべき力も無くて、突かれて仰様(のけさま)に臥しぬ。妻も、「穴奇異(あなあさま)し」と云ひて取り懸かれども、更に益無し。男、突くままに踊り出でて逃ぐるを、僧の童子の小童の有りける、漸く大路に出でて、「人殺して行く」と叫びければ、人捕へてけり。僧は突かれて後、暫く生きたりけれども、遂に死にけり。家より人来たりて、突きたる男をば、検非違使に取らせてけり。妻をも捕へて、検非違使に取らせてけり。男、▢問せられて、遂に獄(ひとや)に禁(いまし)められけり。実(まこと)に由(よし)無き事に依りて、三人の人なむ徒(いたづ)らに成りにける。此れを前生の宿報(すくほふ)の至す所ぞと有らめ。但し、世の人、上も下も、知らざらん小家などには、由無く白地(あからさま)にも立ち入るまじきなり。此(か)く思ひ懸けぬ事の有るなり。努々(ゆめゆめ)止(とど)むべしとなん、語り伝へたるとや。」昔、京に、名僧きどりで、人から請われると加持祈祷を施し、それを生業にしている僧がいた。そうしたある日、この僧が結構な身分のところからお呼びがかかり、喜び勇んで出かけようとしたところ、折り悪く牛車をつかまえることができず、歩いていくことにしたのであるが、法衣を身につけたまま遠くまで行くのは傍目にもみっともないと思い、普段着に平たい笠を被り、袋に入れた法衣を童子に持たせ、「お招きのあった家の近くに来たら、適当な民家の部屋を借りて法衣に着替えお寄りしよう」と思い、出かけたのである。そして、その招かれた家のそばまでやって来るとお誂えむきの民家を見つけ、「実はこれこれで」と理由を云って部屋を貸してほしいと頼むと、この家の主のような若い女は、「どうぞ、お入り下さい」と言葉を返してくれたので、僧はその家の中へ入った。女は客間のような一間に僧を案内し、莚を敷き延べてくれたので、早速その上に腰を下ろし、法衣に着替えようと童子に後ろから被せて貰っていたところ、実は、この家の若い女主には法師の間男がいて、この女の実の夫の雑色の身分の男がそのことを薄々感づいていて様子を探るべく出かけた振りをし、隣りの家に隠れ妻を見張っていたのである。そんなことは露知らず家に上がり込んだ僧を、男は「こいつだ」と思うと頭に血が上り、家に向かって飛び出した。着替えた僧が立って外を眺めていると、大路の向こうから若い男が血相を変え家に飛び込んで来るなり、自分の妻に向かって、「お前これでも嘘だと云うつもりか、この野郎」と喚くと、妻は、「このお坊様は、お向かいのお招きを受け、お召しかえになるためうちにお立ちよりなさった方ですよ」と云うのを最後まで聞かず、刀を抜いた男は駆け寄って僧を掴まえるとその体のど真ん中を突き刺した。僧は訳が分からず、両手を差し上げ、「何をなさる」と云ったが、手向かう力もなく、刺し突かれるとそのまま仰向けに倒れた。男の妻は、「ああ何てことを」と、夫に取り縋ったのであるが、後の祭りだった。男は僧を突き刺すとすぐさま身を踊らせるように外へ飛び出して行く。僧のそば使いをしていた小僧は、我に返ると大路に出て、「人殺しが逃げたぞ」と大声で叫び、それを聞いて駆けつけた者に男は捕らえられる。刺された僧は暫くの間意識があったが、息を引き取った。ある家の者が呼びに行った検非違使に犯人の男は引き渡され、この妻も同じ検非違使に引き渡され、それから男は尋問を受け、結局牢屋送りとなったのである。まったくもってつまらぬ理由で三人の人間が一生をふいにしてしまったものである。これも恐らくは前世の宿報によるものなのであろう。そうであっても、世の者は、身分の上下を問わず見ず知らずの民家などにみだりにほんのちょっとの間でも上がり込んではならない。このような思いがけないことも起こりうるのである。ゆめゆめそんなことはするな、と語り伝えていることである。話は悲劇であり喜劇であり不条理である。が、この話の最後に些(いささ)かのいたずらの如くこのような一文をほどこしてみたい。刺し殺された「生名僧」は「生名僧」とだけしか書かれていないのであるが、「暫く生きた」その死ぬ間際、こんなことがその頭を過った。「いつかこんな風に、不意に死を迎えることをどこかで思っていたかもしれない。いや、誰かに殺されることを心秘かに待ち望んでいたのかもしれない。なぜいまこう思うのか、自分でもよく分からぬが。」生きるより死はなつかしく春彼岸。

 「もう誰の墓でもよくて花吹雪」(遠藤陽子『遠藤陽子俳句集成』素粒社2021年)

 「制御棒収納箱の落下確認、福島第1原発1号機 内部動画を公開」(令和6年3月22日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 大谷本廟、大谷祖廟。

 

 

 

 「嵯峨お松明」は、五山の送り火鞍馬の火祭りとをもって京都三大火祭りの一つとされている。頃は三月十五日、所は清凉寺、嵯峨釈迦堂境内である。江戸期にはその番号を振った提灯が意味を持ち籤(くじ)によって決まった並べる高さで米相場を予想したという十三本の赤提灯を掲げた本堂前に、赤松の古枝を藤蔓で編んだ円錐を逆さまにした形の高さ七メートルの大松明が三基据えられる。護摩壇の赤松に火が点き、読経の中護摩木が焚かれると人垣の輪の中に檀家総代を先頭に式服を纏った僧侶と提灯を掲げあるいは手に持った数十人の檀徒が大松明の回りを何周か練り歩いた後、一斉に松明に火が入る。豊作を呼ぶという天狗の顔に見立てた縄で作った十二の輪を縦に帯びた三基の大松明は、かつてそれぞれ早稲、中稲、晩稲に見立てられ、その燃え方で農家がその年の米の出来を占ったといい、あるいは、旧暦二月十五日、新暦三月十五日は釈迦入滅の日とされ、釈迦が荼毘にふされる様を表しているのだともいう。三月十五日、午後七時過ぎ、丸太町通の西の果てで交わる門前通に入れば、薄暗さの中にぽつぽつ釈迦堂に向かう人の姿が現れ、着いた山門前の露店には子ども連れが群がっていて、ひっきりなしに出入る者らとすれ違いながら門を潜れば、大松明を遠巻きに囲んだ人垣の後ろ、同じように囲んで立ち並ぶ露店との間を大勢の者らが行きつ戻りつしながらぞろぞろ行き交っている。喰い物屋、おもちゃ屋、スーパーボール掬い、籤引き屋の前で屯(たむろ)しているのは教室の外で会う私服に着替えた地元の小学中学の同級生であろう。そこここで肉の焼ける匂いや甘い香りをかぎながら仲間同士で声を掛け合い、あるいは誰々を見かけたかなどと話し込み、PTAの上着を羽織った者らがその者らの間を縫うように巡回していて、後ろで子どもがソースの垂れで服を汚し、金髪や赤毛の若者が英語で何事かをしゃべり続け、幼稚園に子どもを入れるのに前の日から並んだ話が傍らの中年女の口で語られ、あるいは物静かな老夫婦は辛抱強くロープの前で立ち続け、そちこちで携帯電話の明かりが灯り、いよいよ八時に近づくと人垣は千人を超すばかりに膨れ上がり、中に入ればもはや身動きも取れぬまま火がつくのを待つことになる。八時過ぎ、人垣の一角を割って法被姿の者が中に入り赤松の枝の護摩壇に火を点ければ忽ち風に煽られた炎はものすごい勢いで燃え上がり、その火の粉のかけらが大松明のひとつの先に火をつける。人垣に歓声が上がるが、これは順に従っていないまだ火がついてはならぬ「事故」である。が、火のついた松明は「消すわけにもいかず」なすがままに燃え、北西から吹く風にもうもうと煙とともに音を立てて燃え上がり、舞い上がった火の粉が風下の人垣に降り注ぎ出すと軽い悲鳴が上がって輪が崩れ、控えていた消防隊員が割れた人垣に「空」を作る。火のついてしまった松明は下に凋むその姿とともに炎の勢いを鈍らせて燃え尽き、それを待って提灯を掲げ、老僧と法被姿の檀徒が輪の中に入って来る。そして大松明を何度か巡った後、竹竿の先に刺した護摩壇の火をつけた藁束を中空に掲げ、二つの大松明の中へ振るい落す。松明は忽ち燃え上がるとまた炎は北西の風に煽られ、煙とともに舞い上がった火の粉が風下の人垣に降り注いで割れる。が、消防隊員が「空」を作っても風が止めば人垣はもとに戻っていく。その初めの一時の松明の炎の勢いは人垣の最前に並ぶ顔を火照らせる以上の熱を持って一瞬皆の怯む様子が人垣中を小波のように駆け巡り、それでもその瞬間も燃えさかる「火」に見入ってしまう何事かをそれらの眼差しはありありと語っていたのである。二基の内の一基は燃え進みが悪く、それから二度藁束の火がつけられ、やがて松明は下に向かって燃え尽き、地に落ちた枝の残り火がすっかり消えるのを待って消防隊員が水をかけたのであるが、その頃には人垣はすかすかにほどけ、その大分は「引く波の如く」に姿を消し、露店は店じまいをはじめている。一基は「事故」で早々に燃え、一基の燃えつきの悪かった今年の「嵯峨お松明」の占いは些(いささ)か不穏である。が、京都の春はこれより到来するという。

 「その年の冬はたくさん雪が降った。しかし降るのはたいていいつも暗くなってからだった。昼間は寒さで身が切られるようであり、白い光のためにきらきらと輝いていた。エドワードは青い防寒服を着、赤い手袋をはめ、新しいオーバーシューズをはいていた。そしてルーシィは、部屋をきちんと整頓すると彼を明るい色の冬服に着がえさせて、マーケットまで買物車を押しながらいっしょに連れて行くのであった。エドワードはルーシィの横について歩きながら、新しく雪が積もったところに来ると赤いシューズを片方ずつそのなかへ突っ込み、いつもたいへん慎重にいっしょうけんめいそれを引き抜くのであった。」(『ルーシィの哀しみ』フィリップ・ロス 斎藤忠行・平野信行訳 集英社文庫1977年)

 「川俣と楢葉で震度5弱、男女2人けが 処理水放出、一時停止」(令和6年3月16日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)