ルイ=フェルディナン・セリーヌの小説『なしくずしの死』の日本語の直訳は、「信用販売の死」「分割払いの死」であると、翻訳者の滝田文彦は書いている。なしくずし(済崩)は、『言海』によれば、「借リタル金高ノ内ヲ若干ヅツ次第二返済スル。」であり、『広辞苑』は、「借金を少しずつ返却すること。物事を少しずつすましてゆくこと。」と記している。であるならば、『なしくずしの死』は、借リタル金高である「生」を若干ヅツ次第二返済、減らして行って、遂には返済が終わり、「死」を迎えるということであろうか。「生」は借リタルものであり、物事を少しずつすましてゆくことが「死」ぬことであるということであろうか。十一月十日の朝日新聞に次の記事が載った。「豊臣秀吉が京都の町を囲むように築いた「御土居(おどい)」の土塁や堀、暗渠(あんきょ)が京都市北区紫野花ノ坊町の発掘現場で見つかった。埋蔵文化財研究所が上部を削り取られた土塁の大きさを復元したところ、推定幅約18メートル、高さ7.5メートルあった。土塁の西側には推定幅約18メートル深さ4.5メートルの堀が掘られ、途中幅2.6メートルの通路状の犬走りが設けられていた。堀の底部から、土塁の頂上までを復元した高低差は約9.2メートルにおよび、堀を掘って出た土を自然の緩やかな斜面に盛ることで約45度の急斜面をつくっていた。」御土居は、明治期まである程度市中に形をとどめていたが、京都府が出した「御土居開拓之儀」あるいは、大正十一年(1919)の都市計画法によりその殆(ほとん)どが切り崩され、住宅地に代わっていった。御土居はなし崩しに、宅地にされたのである。この表現は正しくはないが、文字通り成し崩されたのであるから間違いであるとも云えない。発掘された御土居は、暫(しばら)く空地のまま叢(くさむら)になっていたところである。この後御土居は埋め戻され、その上に市営住宅が建つことになっている。御土居に防衛、治水の造られた理由はあっても、然(さ)したる物語りはない。切り崩された叢にも物語りはない。小説『なしくずしの死』は文体の行動であり、物語りは入り乱れ、そこには「生」の解決も解答もない。叢で、あるいは復元された御土居の上で「なし崩しだな」と呟いた者は、小春日に当たりながら、御土居ではなく、借りた「生」を徐々に返してゆく、という言葉の表現の意味を考えてみるのである。

 「わたしの望みは出発することであり、それもできるだけ早く、そしてもう誰の話もきかないことだった。重要なのは自分がまちがっているか正しいか知ることではない。そんなのはまったくどうだっていいことだ…… 必要なのは、世の中の連中に自分にかまう気をなくさせることだ…… そのほかのことは悪だ。」(セリーヌ 滝田文彦訳『なしくずしの死』世界の文学7「セリーヌ集英社1978年)

 「「中間貯蔵」17年秋開始 用地取得まだ1割……本体工事着手」(平成28年11月16日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 東福寺を己れの菩提寺として造営した摂政関白九條道家の姉立子と順徳天皇の娘懐成親王は、四歳で第八十五代仲恭(ちゅうきょう)天皇となるが、その承久三年(1221)、祖父後鳥羽上皇と父順徳天皇が北条追討に敗れ、僅(わず)か四カ月で天皇の座から下ろされる。道家の三男頼経(よりつね)は、三歳で鎌倉幕府四代将軍となり、長女竴子(しゅんこ)は第八十六代後堀河天皇の中宮となり秀仁親王を生み、秀仁親王は後の第八十七代四条天皇となる。天皇を廃された仲恭天皇は、道家の元で過ごし、天福二年(1234)十七歳で亡くなる。その二年後の嘉禎二年(1236)道家は吉夢により東福寺を発願し、道家の死後四男実経(さねつね)が引き継ぎ、建長七年(1255)聖一国師円爾弁円の開山で東福寺は東山に成る。臨済東福寺は、紅葉の名所ということになっている。「通天橋下の渓を洗玉澗(せんぎょくかん)といふ。このほとり楓多し。秋のすゑ紅錦の色をあらはしければ、洛陽の奇観となる。」(『都名所図会』)いまが秋のすゑにまだであれば、モミジの色づきはまばらで、身体を使って上り下りした庭園渓谷も、通天橋の上から見下ろした景色も、それを「奇観」とするには、いつか見た紅葉を青モミジの上に重ね合わせるしかない。が、これはものを考え思う言葉の上の事であり、開いた両目は、目の前の木の葉の色を欺(あざむ)いた紅色に変えたりしないことで、その目を信じることが出来る。いまではない紅葉の景色を「奇観」と思わせるのは目ではなく、言葉である。東福寺の東司(とうす)、便所は室町時代のものであり、重要文化財の指定を受けている。内は、柱の間の地面に円い壺が列をなして埋まっているだけである。地面の土は灰色である。灰色は言葉であるが、その見える灰色は、身体に寒気を催させる。頭の中で言葉が働けば、その寒気を畏敬の念と云い換える。畏敬の念は、六百年を経た骨のような便所の土に対してである。禅門曹洞宗開祖道元の『正法眼蔵』第五十四「洗浄」は、修行者の便所作法を詳しく定め、言葉に縛られたその身体行為も、思えば寒気であり、畏敬の念を抱かせる。「東司にいたる法は、かならず手巾(しゅきん)をもつ。その法は、手巾をふたへにをりて、ひだりのひぢのうへにあたりて、衫袖(さんしゅう)のうへにかくるなり。すでに東司にいたりては、浄竿に手巾をかくべし。かくる法は、臂(ひ、ひじ)にかけたりつるがごとし。もし九条・七条等の袈裟を著してきたれらば、手巾にならべてかくべし。おちざらんやうに打併(たひん)すべし、倉卒になげかくることなかれ。よくよく記号すべし。記号といふは、浄竿に字をかけり。白紙にかきて、月輪のごとく円にして、浄竿につけ列せり。しかあるを、いづれの字にわが直綴(ぢきとつ)はおりけりとわすれず、みだらざるを、記号といふなり。衆家おほくきたらんに、自他の竿位を乱すべからず。このあひだ、衆家きたりてたちつらなれば、叉手(しやしゅ)して揖(いつ)すべし。揖するに、かならずしもあひむかひ曲躬(きよくきゆう)せず、ただ叉手をむねのまへにあてて気色(けしき)ある揖なり。東司にては、直綴を著せざるにも、衆家と揖し気色するなり。もし両手ともいまだ触(そく)せず、両手ともにものをひさげざるには両手を叉して揖すべし。もしすでに一手を触せしめ、一手にものを提せらんときは、一手にて揖すべし。一手にて揖するには、手をあふげて、指頭すこしきかがめて、水を掬(きく)せんとするがごとくしてもちて、頭(かうべ)をいささか低頭(ていづ)せんとするがごとく揖するなり、他かくのごとくせば、おのれかくのごとくすべし。おのれかくのごとくせば、他またしかあるべし。褊衫(へんざん)および直綴を脱して、手巾のかたはらにかく。かくる法は、直綴をぬぎとりて、ふたつのそでをうしろへあはせて、ふたつのわきのしたをとりあはせてひきあぐれば、ふたつのそでかさなれる。このときは、左手にては直綴のうなじのうらのもとをとり、右手にてはわきをひきあぐれば、ふたつのたもとと左右の両襟とかさなるなり。両袖と両襟とをかさねて、又たたざまになかよりをりて、直綴のうなじを浄竿の那辺へなげこす。直綴の裙(くん)ならび袖口等は、竿の遮辺にかかれり。たとへば、直綴の合腰(あひごし)、浄竿にかくるなり。つぎに、竿にかけたりつる手巾の遮那両端をひきちがへて、直綴よりひきこして、手巾のかからざりつるかたにて、又ちがへてむすびとどむ。両三巾もちがへちがへしてむすびて、直綴を浄竿より落地せしめざらんとなり。あるいは直綴にむかひて合掌す。つぎに絆子(ばんす)をとりて両臂にかく。つぎに浄架にいたりて、浄桶に水を盛て、右手に提して浄廁にのぼる。浄桶に水をいるる法は、十分にみつることなかれ、九分を度とす。廁門の前にして換鞋(くわんあい)すべし。蒲鞋をはきて、自鞋を廁門の前に脱するなり。これを換鞋といふ。禅苑清規云、欲上東司、応須預往。勿致臨時内逼倉卒。乃畳袈裟、安寮中案上、或浄竿上。廁内にいたりて、左手にて内扇を掩(えん)す。つぎに浄桶の水をすこしばかり槽裏に瀉(しや)す。つぎに浄桶を当面の浄桶位に安ず。つぎにたちながら槽にむかひて弾指三下すべし。弾指のとき、左手は拳にして、左腰につけてもつなり。つぎに袴口・衣角ををさめて、門にむかひて両足に槽脣(そうしん)の両辺をふみて、蹲踞(そんきょ)して屙(あ)す。両辺をけがすことなかれ、前後にそましむることなかれ。このあひだ、黙然なるべし。隔壁(きやくへき)と語笑し、声をあげて吟詠することなかれ。涕唾狼藉(ていだろうぜき)なることなかれ、怒気卒暴なることなかれ。壁面に字をかくべからず、廁籌(しちゆう)をもて地面を劃することなかれ。」〔東司に行くには、必ず手巾(手を拭く布)を持つ。その仕方は、手巾を二重に折って、左の臂の上に当てて、衣の袖の上に掛けるのである。すでに東司に着いたならば、浄竿に手巾を掛けるべきである。掛ける仕方は、臂に掛けたのと同様である。もし九条・七条などの袈裟を着用して来たならば、手巾に並べて掛けるべきである。落ちないように、きちんと合わせるべきであって、粗忽に投げ掛けてはならない。よくよく記号すべきである。記号というのは、浄竿に字が書いてある。白紙に書いて、月の輪のように円くして、浄竿に並べて取り付けてあるのだ。それを、どの字の所に自分の直綴(上半身と下半身を一着に連ねた衣)を置いたかを忘れないで、混乱しないようにするのを、記号と言うのである。修行者たちが多く来た場合には、自他の浄竿の位置を乱さないようにしなければいけない。この間、修行者たちが来て行列していれば、叉手(握った左手を右の掌で覆って胸の前に当てる)して揖(重ね合わせた手を動かして行なう敬礼)すべきである。揖するには、必ずしも向かい合って身を屈めるのではなくて、ただ叉手を胸の前に当てて微かに動かす揖なのだ。東司では、直綴を着用していない場合でも、修行者たちに対して揖する所作をするのである。もし両手ともまだ汚れておらず、両手とも物を提げていないならば、両手で叉手して揖すべきである。もし、すでに片手が汚れているとか、片手に物を提げているような時には、片手で揖すべきである。片手で揖するには、手を仰向けにして、指先を少し屈めて、水を掬うような恰好にして、頭を少し下げるようなふうにして揖するのである。相手の人がそのようにすれば、自分もそのようにすべきである。自分がそのようにすれば、相手もやはりそのようにするはずである。褊衫(上半身を被う衣)および直綴を脱いで、手巾の傍らに掛ける。掛け方は、直綴を脱ぎ取って、両方の袖を背後で合わせて、両方の腋の下を取り合わせて引き上げれば、両方の袖が重なったようになる。この時、左手で直綴の裏の襟元を取り、右手で脇を引き上げれば、両方の袂と左右両方の襟とが重なるのである。両袖と両襟とを重ねて、また縦に中から折って、直綴の襟元を浄竿の向う側へ投げ越えさせる。直綴の裙(下半身の部分)ならびに袖口などは、浄竿のこちら側に掛かっている。いわば、浄竿の合腰(上半身部と下半身部の縫い合わせ)を浄竿に掛けるわけである。次に、浄竿に掛けた手巾のこちら側と向う側との両方の端を引き違いにして、直綴から越えるように引っ張って、手巾の掛かっていない方で、また引き違いにして結びつける。ニ、三周も引き違い引き違いにして結んで、直綴を浄竿から落ちないようにするのである。さらには、直綴に向って合掌する。次に、絆子(たすき)を取って、両臂に掛ける。次に、浄架(洗面所)へ行って、浄桶(洗浄用の桶)に水を入れて、右手で提げて、浄廁(便所)に上る。浄桶に水を入れる仕方は、いっぱいにしてはならないのであって、九分目ぐらいが適当である。廁の入口の前で、履物を換えるべきである。蒲製の履物を履いて、自分の履物は廁の入口の前に脱いでおくのである。このことを、換鞋と言う。『禅苑清規(ぜんえんしんぎ)』には、次のように書かれている。「東司に上らんと欲(おも)わば、応(まさ)に須(すべから)く預(あらかじめ、早めに)往(ゆ)くべし、時に臨んで内に逼(せ)まり(便意が差し迫る)倉卒(そうそつ、あわてる)を致すことなかれ。乃(すなわ)ち、袈裟を畳みて、寮中の案(物を置く台)上、或いは浄竿の上に安ず(置く)べし。」廁の中に入って、左手で入口の扉を閉じる。次に、浄桶の水を少しばかり槽(用便壺)の中に流し込む。次に、浄桶を正面にある浄桶の置き場に置く。次に、立ったままで槽に向って弾指(指を弾いて音を立てる呪法)を三回すべきである。弾指の時、左手は握り拳にして、左腰につけておくのである。次に、袴の裾・衣の端を収め込んで、入口の方に向かい、両足で槽の上端の両側を踏んでしゃがんで用便する。両側を汚してはならないし、前後に染み出せてはならない。この間、沈黙しているべきである。壁を隔てた相手と談笑したり、声を上げて歌うようなことをしてはならない。涙や唾を散らかしてはならない。荒々しく力んではならない。壁に字を書いてはならない。廁籌(便を拭う箆)で地面に線を引いたりしてはならない。〕(森本和夫『『正法眼蔵』読解』ちくま学芸文庫2004年刊)現在、禅の修行としてこれを行なわないのであれば、禅も禅寺も変質退行したことになる。

 「さて我々は、ただ一人で生きよう。仲間をもつまい・と企てる以上、我々の満足を我々自身によらしめよう。我々を他人に結びつけるあらゆる関係から抜け出よう。ほんとうに独りで生きることができるように・そうやって心静かに生きることができるように・なろう。」(モンテーニュ 関根秀雄訳『随想録』白水社1960年)

 「1号機・建屋カバー解体終了 福島原発、がれき撤去調査へ」(平成28年11月11日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 花村萬月の小説『百万遍(ひゃくまんべん)』の中で、百万遍は知らない土地として出て来る。百万遍のある京都という街自体も主人公は知らない。「百万遍という言葉に反応して、とじていた目をひらいた。百万遍──。記憶の底にのこっている。地名だ。岩尾から聞いた京都大学のある場所、京大西寮のあるところ。」主人公の惟朔(いさく)は、京都駅から乗って来た市電を降りる。「東大路を隔てて文房具店や宝石屋に囲まれるようにして地味な郵便局があり、それらの建物の背後は緑が濃い。通称百万遍こと知恩寺だが、まだ惟朔は百万遍の謂(いわ)れを知らないし、そこに寺があることさえ気づいていなかった。」この十月末の時期、百万遍知恩寺に古本市が立ち、手に取った『百万遍 古都恋情』の出だしてまもなくの文である。元弘元年(1331)、後醍醐天皇の命により知恩寺第八世善阿空円が、七日の念仏百万遍を修して疫病を鎮め、百万遍の寺号を受けたのがその謂れであるという。百万遍の境内は、前夜の雨で足元が泥濘(ぬかる)み、曇り空から時折り小粒の雨が降って来る。市の棚に並んでいる筑摩書房の『放哉全集 第二巻書簡集』をぱらぱら捲(めく)る。俳人尾崎放哉(おざきほうさい)は、学生時代に結婚を申し込んで果たせなかった従妹の沢芳衛(さわよしえ)に、毎日のように手紙を出していた、とある。が、その手紙の殆どは放哉の要請で灰になっている。辛うじて沢芳衛の手元に残っていた一葉の葉書はこうである。「明治三十六年一月六日 帰郷致し候、今日安藤より帰るさ、本屋に立より候ひし処、此の絵ハガキのみ、斜ならず小生の気に入り候は、如何(いか)なる因果の有之候ひしなる可(べ)き、呵々、もし家をたてたなら、総(すべ)てこの色の銀襖、銀屏風、にこの淡紅色の桜をちりばめて、其の百畳敷のまん中に長嘯(ちょうしょう、吟ずる)致す可く候、此のハガキ余り気に入り候故に一字も書かずに送らんかと存じ候ひしも、それではつまらず、為に無茶苦茶に書き候、御宥(ゆる)し被下度(くだされた)く候、何時伺ひ申す可き、御隙の時を御一報被下候はば、年詞に参る可く候、「元日や餅、二日餅、三日餅」呵々」全集の附録月報に、脚本家早坂暁が文を寄せ、俳優渥美清が、酒で身を持ち崩した尾崎放哉を演(や)りたがっていたと書いている。その渥美清は、晩年俳句をやっていた。「遠くでラジオの相撲西日赤く」「テレビ消しひとりだった大みそか」「おふくろ見にきてるビりになりたくない白い靴」放哉と同じ渥美清の自由律俳句は、演じる「寅さん」からの遁(のが)れを思わないでもない。渥美清の放哉映画は、「寅さん」の死で潰(つい)えた。百万遍は、東大路通今出川通の交差点の名でもある。その今出川通を西へ、鴨川を渡り、河原町通を過ぎてすぐのところに、詩人中原中也が大部屋女優長谷川泰子と同棲していた家がある。古本市で買った大岡昇平の評伝『中原中也』(角川書店1974年刊)にこうある。「中原中也が大正十三年十月から十四年三月まで住んだ、京都市上京区中筋通米屋町角の家屋は現存する。河原町と寺町の間筋を、今出川通から十間ばかり下った西南の角の、北に向いた二階家で、関西風に板を縦に張った東側は、二階に二尺角の掃き出し窓を一つ持っているだけである。その窓を中原中也が「スペイン窓」と自慢していた──。」山口の中学を落第し、立命館中学に転校した中也は十七歳、泰子は二十歳だった。大正十三年(1923)、その前年に朝鮮火災海上保険の支配人を馘になった尾崎放哉は、知恩院の塔頭常称院の寺男になっている。放哉と「汚れちまった悲しみに 今日も小雪の降りかかる」の中也は、大正十三年の京都の同じ空気を吸っていたことになる。

 「その頃、家では土蔵と納屋に囲まれた裏庭に、五、六羽の雌のニワトリを飼っていた。屑米と牡蠣の殻の砕いたのをやっておけば、井戸端で勝手に水を飲み、納屋の軒下の小屋にひとりで入って眠り、卵を産む。その他は、それほど広くもない裏庭を歩きまわったり、土をほじったりしているだけだ。雄がいないから追っかけたり追いかけられたりすることもない。」(「<私>という宇宙誌」日野啓三『魂の光景』集英社1998年)

 「映画「太陽の蓋」公開 3.11から5日間描く、福島で舞台あいさつ」(平成28年10月30日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 野菊道数個の我の別れ行く 永田耕衣。自分、己(おの)れをそうであると意識するのは、同じ年頃の集まる中で初めて自分の名を呼ばれる保育園、幼稚園の時であろうか。その時の道は、その行き帰りの道であり、道草を覚える道であろうが、そのような子ども時代から遥かに遠く経た七十歳を前にして、永田耕衣はこの句を詠んだ。道は野菊の咲く田舎道で、その道を「数個の我」が別々に歩み去る。「数個の我」は、一つの「我」からここで数個に別れたのか、はじめから「数個の我」であったのかは分からない。保育園でその名を呼ばれた時、その名の者は自分、「我」は一人の自分自身であったはずである。それから「我」は何ほどかの知識欲望を身につけ、この先にいくつかの可能性を見出したことを「数個の我」とするのが、現実に則したこの句の無難な解釈である。「我」は、可能性として別れて行った「数個の我」を見送る、あるいは見送った。「我」は、「数個の我」の内のひとりの「我」ではなく、彼らを見送った、そのどれでもない残された「我」である。斯(か)くして「我」は己れの可能性を見送り、波風も立てず平凡に人生を過ごしたとすれば、無難な解釈の続きとして繋がる。が、「野菊道」は「我」を平凡にしない。年を経て再び「野菊道」に立った「我」永田耕衣に、可能性として見送った「数個の我」が、次々に戻って来たのではないか。その「数個の我」の顔には、どこから帰って来ても、夕日が当たり、その表情はどれも眩し気なのである。上賀茂神社の北西に、柊野別れ(ひらぎのわかれ)と呼ばれる交差点がある。府道38号鞍馬街道と、府道61号雲ケ畑街道とが交わり、角に郵便局と美容室が立つ変のない場所であり、近くのバス停の名も柊野別れである。変のない場所であるが、狭い交差点の四つの信号機の傍らにある「柊野別れHiraginowakare」のプレート文字は、平凡とは云えない異様な光景である。交差点の真ん中に立って見渡せば、四方のどの道もその者に別れを迫るのである。

 「わたしは静かになった村の通りを抜け、軽くなった夜を抜け、静けさと生気を取りもどした森を抜けて行った。森の中では一羽の鳥が奇妙な、感激のない声で、魔法を解かれてかえって魔法に魅せられたごとくうっとりと広がる闇にむかって鳴いていた。」(ヘルマン・ブロッホ 古井由吉訳『誘惑者』世界文学全集56「ブロッホ集」筑摩書房1970年)

「事故教訓に「広域避難」 福島県、楢葉・広野両町が原子力防災訓練」(平成28年10月23日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載) 

 庇の下のベンチに腰を下ろしている小奇麗な身なりの老婦人に、顔の似た娘と思しき者が、「退屈してるの」と声を掛ける。堂を廻(めぐ)って祈る千度参りをさっきまでは二人でしていたのであるが、老婦人は途中で止め、庇の陰に入っていた。千度参りは、数え年の回数で堂を廻り、病の平癒や無病息災を願うのである。ここ家隆山光明遍照院石像寺(かりゅうざんこうみょうへんしょういんしゃくぞうじ)は、千本通上立売上ルにあり、釘抜地蔵尊と呼ばれている。苦を抜く、苦抜地蔵と呼ばれていた空海作と伝わる石地蔵が、「寺伝」に残る物語りでその名称が釘抜地蔵に変わったのである。「汝は前世に人を怨み、仮の人形をつくり、両手に八寸釘を打込んで呪いたることあり、その罪障によって苦しみを受く。われが救うてとらせよう。」両手を病んだ油小路上長者町の商人紀ノ国屋道林が、詣でた七日目の夜の夢に地蔵が現われ、こう告げると、目を覚ました道林の両手の痛みは已(や)み、翌朝その石地蔵は二本の釘を手に握っていたという。その老婦人の数え年が八十であれば、千度参りは八十回の堂廻りである。参る者は廻った回数を忘れぬよう、あらかじめ廻る回数分の竹棒を手に握り、一廻りで一本竹棒を元の場所に返していく。その老婦人は途中で止め、あるいは中断し、その娘と思しき者は千度参りを続けている。老婦人は、聞き取れない小さな声で何か応え、それから日向のどこかを見ている。紋黄蝶が一匹、日向を横切ってゆく。千度参りに二人三人が加わってゆく。老婦人が手提袋からペットボトルの茶を出して一口飲む。老婦人が娘と思しき者と一緒に始めた千度参りを途中で止めたことに、心が動かされる。そこには地蔵にはない、人の意思が存在している。

 「こうして、時間は大時計によってのみ測られるものではなくなった。もとよりこれはすべての都市で同一の時刻を告げていたわけではなかった。それまで商人はある町で自分の懐中時計を合わせたり、乗合馬車に備えつけの振り子時計で旅の所要時間を測ったりしていたが、彼らは次の宿駅でその所要時間を知ること、あるいは少なくとも町ごとに一貫した時間が施行されることを願っていた。」(ジャック・アタリ 蔵持不三也訳『時間の歴史』原書房1986年)

「楢葉・木戸川で「サケ漁」始まる 来春1000万匹放流へ採卵」(平成28年10月16日福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 例えば、地下鉄烏丸御池駅から京都駅までは六分であり、京都駅から宇治駅までは奈良線快速で十九分、普通で二十七分であり、この電車の所要時間が平安時代に貴族の別業〔別荘〕があった宇治までの現在の距離である。宇治川に架かる宇治橋は、宇治駅から三分ほど歩けば西詰で、川向うの京阪宇治線宇治駅の改札からは真ん前に見え、橋から眺める上流の山の重なる景色は、その距離を思えば何事かであり、市中から直接来なければその何事かは、恐らく実感しない。橋の東詰にある通圓(つうえん)茶屋の露台に座り、いずれも六十半ばの年恰好の四人の男が、抹茶ソフトクリームを舐めている。傍らの四台の自転車は、彼らのもののようである。通圓茶屋は、広辞苑に「茶人通円が宇治橋の東詰で茶を売っていたという店。」と載る茶店である。その通円の二項目に「狂言の一。通円という茶坊主の亡霊が現われて、旅僧に弔いを頼み、宇治橋供養で茶を点死(たてじに)にしたことを語り舞う。」とある。「通円」は、近衛天皇を悩ませた鵺を射落とし、高倉の宮以仁王を擁して平家討伐を企てて敗れた源頼政の最期を描く謡曲頼政」をもじった狂言である。「去程(さるほど)に源平の兵(つはもの)、宇治河の南北の岸にうち臨み、鬨(とき)の声叫びの音、波にたぐへて夥(おびただ)し、橋の行桁(ゆきげた)を隔て戦ふ、味方には筒井の浄妙、「一来法師(いちらいほっし)、敵味方の目を驚かす、角(かく)て平家の大勢、橋は引いたり水は高し、さすが難所の大なれば、「左右(さう)なふ渡すべき様(やう)もなかつし処に、田原の又太郎忠綱と名乗つて、「宇治河の先陣我なりと、名乗もあへず三百余騎。銜(くつばみ)を揃へ川水に、少もためらはず、群居るー群鳥の翅を並ぶる、羽音もかくやと白浪に、ざつざつと打入て浮ぬ沈みぬ渡しけり 忠綱ー兵を下知〔命令〕して曰(いは)く、水の逆巻く所をば、岩ありと知るべし。弱き馬をば下手に立てて、強きに水を防がせよ、流(ながれ)む武者には弓(ゆ)筈(はず)を取らせ、互ひに力を合すべしと、唯一人の下知によつて、さばかりの大河なれども、一騎も流れずこなたの岸に、喚(おめ)いて上がれば味方の勢は、我ながら踏(ふみ)もためず、半町計(ばかり)覚えず退(しさ)つて、切先を揃へて爰(ここ)を最後と戦ふたり。さる程に入り乱れ、われもわれもと戦へば、頼政が頼みつる兄弟の者〔頼政の子・仲綱兼綱〕も討れければ、今は何をか期(ご)すべきと唯一筋に老武者の是(これ)までと思ひて、是までと思ひて 平等院の庭の面、これなる芝の上に、扇うち敷き、鎧脱ぎ捨て坐を組みて、刀を抜きながら、さすが名を得し其身とて。埋木(うもれぎ)の、花咲く事もなかりしに、身のなる果ては、哀(あはれ)なりけり。跡弔(と)ひ給へ御僧よ、かりそめながらこれとても、他生の種の縁に今、扇の芝の草の陰に、帰るとて失せにけり、立帰るとて失せにけり。」(「頼政新日本古典文学大系57『謡曲岩波書店1998年刊)「さても宇治橋の供養、今を半ばと見えしところに、都道者〔都の巡礼〕とおぼしくて、通円が茶を飲み尽さんと、名のりもあえず三百人、名のりもあえず三百人、口わき〔左右〕を拡げ、茶を飲まんと、群れ居る旅人に、大茶(おおじや)を点(た)てんと、茶杓(さしやく)をおっ取り簸屑(ひくず)ども〔茶を箕でふるって残った屑〕、チャッチャッと打入れて、浮きぬ沈みぬ点てかけたり。通円下部を下知していわく、水の逆巻く所をば、砂ありと知るべし。弱き者には柄杓を持たせ、強きに水を擔(にな)わせよ。流れん者には茶筌(ちゃせん)を持たせ、たがいに力を合わすべしと、ただ一人の下知によって、さばかりの大場なれども、一騎も残らず点てかけ、点てかけ、穂先を揃えて ここを最期と点てかけたり。さるほどに入れ乱れ、我も我もと飲むほどに、通円が茶飲みつる、茶碗・柄杓を打ち割れば、これまでと思いて、これまでと思いて、平等院の縁の下、これなる砂の上に、団扇(うちわ)をうち敷き、衣脱ぎ捨て座を組みて、茶筌を持ちながら、さすが名を得し通円が。埋(うづ)み火の、燃え立つことのなかりせば、湯の無き時は泡も点てられず。跡弔(と)い給え、御聖、かりそめながら、これとても、茶生(ちヤしヨう)の種の縁に今、団扇の砂の草かげに、茶(ちヤ)ち隠れ失せにけり、跡茶ち隠れ失せにけり。」(「通円」日本古典文学大系43『狂言・下』岩波書店1961年刊)頼政の自害の場所が、川を西に渡った平等院の東門を入った左手に、扇の芝と名づけ囲ってある。先ほど見かけた通圓茶屋の男四人が、門を潜り、扇の芝は素通りして、藤棚越しに見える鳳凰堂に歩いて行く。門から鳳凰堂までの距離は短い。平等院鳳凰堂は、西方極楽浄土の言葉をもって語られる。「道長から頼通のころにあっては、仏教思想に二つの特色がある。その一つは阿弥陀信仰であり、その二つは末法思想である。仏教信者が礼拝すべき仏菩薩の種類にも時代々々の流行がある。平安末期は西方極楽の主宰者たる阿弥陀如来を至心信拝し、死後は弥陀の西方極楽に往生せんことを希ったのであった。それ故に阿弥陀堂を建立することが、この時代の風流であった。もう一つは、釈迦入滅後二千年にして釈迦の法は消滅し、爾後五十六億七千万年にして出現する弥勒菩薩の時までは、往生者は救済される事がない、という思想である。後冷泉天皇の永承七年(1052)が正に入滅後二千年目になる。その年に鳳凰堂は建立されておる。それはその年までに造寺または造仏の功を積んだものだけは救済されるからである。……西方十万億土にあるべき阿弥陀如来の浄土は、かかるものであれかしと想う念慮から、努めて西方浄土の現出に心を配った。鳳凰堂はその随一である。」(「宇治の浄環」中村直勝『新・京の魅力』淡交社1963年刊)鳳凰堂の屋根は新しく葺き替えられ、柱の朱色も鮮やかであり、阿字池の水際も当時の如き形状であるという。堂内の阿弥陀如来も光背の精緻な透彫(すかしぼり)も天蓋も金色を十分に留めているが、三面の板扉の九品来迎図も丸柱も色を失い、江戸期に荒廃した頃の落書の跡が残っている。長押(なげし)の上の白壁の五十二体の雲中供養菩薩にも当時の色はまったくない。鳳凰堂の謂(い)われは、屋根の上のニ体の鳳凰によるのであるが、その伽藍に、翼を広げた鳥の姿を見てとったともいわれている。であれば、それは阿弥陀如来を内に乗せ、西方浄土から降り立ったか、あるいはこれから浄土に戻るための羽ばたきの一瞬である。しかし、贅(ぜい)の限り、美の限りを尽くした当時の姿を心に描いただけでは、末法思想による浄土往生は、甘いものを口に入れ甘いと感じるようには、理解はそこには近づかない。関白藤原頼通が、父道長から譲り受けた宇治の別業に極楽浄土を願う阿弥陀堂を造った。最も多くの財を手にした者が、使える限りの財を使って十万億土の彼方(かなた)から強引に、この世に極楽浄土を引き寄せたのである。浄土に行きたい一心で、あるいは浄土に行けない恐怖に打ち勝つために。極楽往生は願いではなく、死ぬことの恐れの裏返しである。チェルノブイリ原子力発電所の石棺は、死の恐怖に蓋をしたものである。東京電力福島第一原子力発電所の、止まらぬ蛇口を素手で押さえているような汚染水タンクと錯綜するパイプの現場は、死ぬ恐怖への必死の祈りである。平等院鳳凰堂の甘さは、爆発事故を起こした東京電力福島第一原子力発電所の辛さと同じである。通圓茶屋の四人の男が、その男たちだけが阿字池を挟んでしゃがみ、ソフトクリームを舐めた口を閉じ、阿弥陀堂に向って手を合わせている。しゃがんだ高さが、格子戸に開いた丸窓の奥にある阿弥陀如来の目の高さなのである。

 「「沙漠」という言葉は我々がシナから得たものである。これに相応する日本語は存しない。「すなはら」は沙漠ではない。厳密な意味において日本人は沙漠を知らなかった。しからばシナ語としての「沙漠」は何を意味するのであろうか。」(和辻哲郎『風土』岩波書店1963年)

 「東日本大震災から「5年7カ月」 沿岸部で不明者手掛かり捜索」(平成28年10月12日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 

 カメラを首からぶら下げた男が、一枚のプレートを読んでいる。プレートは、京都四条病院の救急口の横にあり、病院の場所は、堀川四条の交差点のそばである。男は恐らく、遠くから来た者である。近くの者は、男のようにプレートの前で足を止めたりはしない。男は読んで、プレートの写真を撮る。後ろに下がりもう一枚病院を撮って、信号が変わった堀川通を西に渡って行く。男が読んだプレートにはこう書いてある。「SUS OBRAS HABLAN 二十六聖人発祥の地 ここから西百メートル妙滿寺町に一五九四年フランシスコ会のペトロ・バプティスタ神父により聖マリア教会病院学校スペイン使節館が建てられた 一五九七年二月五日に長崎で殉教した二十六聖人は同神父をはじめ五名のフランシスコ会士と三名の日本人イエズス会士および十七名の日本人信者で殆どここで活動した人であった ここに建設された聖アンナおよび聖ヨセフ病院は京都最初の西洋式のもので貧しい人が多数収容された ここに二十六聖人を顕彰するとともに救貧救病の社会事業が行われたことを記念して銘板を掲げる 一九七九年駐スペイン大使館カトリック京都司教区」天正十八年(1590)伊達政宗を降伏させ天下統一をなした豊臣秀吉は、朝鮮に派兵した文禄元年(1592)、防備が手薄だったマニラのエスパニャ政庁に対して服属を迫り、使節として国書を携え来て自ら人質となったフランシスコ会宣教師ペトロ・バプティスタに知行、土地を与えた。天正十五年(1587)のバテレン追放令でポルトガルイエズス会は表立った布教を禁止されていたが、フランシスコ会はこれを承認と解し、大っぴらに布教活動を始めるのである。その七月に畿内京坂を大地震が襲った慶長元年(1596)の九月、土佐浦戸に台風で破損した商船サン・フェリペ号が漂着する。エスパニャの貿易商人といわれるアビラ・ヒロンは『日本王国記』に、「九十六年、日本王国ではただならぬことどもが起こる。日本最初の司教到着。ガレホン船サン・フェリーペ号土佐へ漂着」の題の章を設け、その詳細を書いている。「この王国の奉行らが、あの船で運んで来た巨額の財宝を見て、すぐにこれを奪って、自分たちと国王のものにしようと提案した。」「長曽我部(元親)、増田(長盛)、石田(三成)の三人は、彼〔秀吉〕に「それらの財産と生命は海で失われるはずのものであった。地震や朝鮮の役の損失を回復するために、天がそれを日本にもたらしたものである。海で失うべき生命を、我が国が救助したから、エスパニャに不条理をなすことにはならないし、生命を与えるという大きな恩恵を与えたのである」といった。」(アビラ・ヒロンと同時期に日本に滞在していたイエズス会宣教師パードレ・ペドロ・モレホンの原書注釈)「パードレ〔神父〕たちは使節という肩書をおびてルソンからやって来たのにも拘らず、国王〔秀吉〕によって明示されたあらゆる禁令に反して、しかもその王国内で、国王がさきに厳重に禁じた教えを説き、教えているのだとして、パードレらが日本の諸法令や、神と仏の教理の破壊者だとして、告発されるような方策を何とかしてとろうというのであった。それについで、彼らパードレは、わが王国の海岸にうちあげられ、わが役人たちによって保管されているあの財宝が、彼らの国王の臣下だと称しているエスパニャ人のもとに戻るようにと努めていると非難したのであった。太閤様は自国内に己が法令を破る不届者がいるということを聞き及んで大いに怒り、即刻、全パードレと、彼らをマニラから連れて来たという科(とが)で、太閤自ら彼らを預けた法眼殿〔長谷川宗仁〕も、彼らもろとも捕えて殺すように命じたのである。」宣教師モレホンは、「右衛門尉〔増田長盛〕は、船の財物を押さえたのち、航海図を取って航海士(ピロート)ランディーアムに、エスパニャはどういう方法で、フィリピナス〔フィリピン〕、モルーカス、ヌエバ・エスパニャ〔メキシコ〕、ペルーなどを奪ったのか、と訊ねた。航海士は彼に恐怖心を起こさせようと考えて、われわれは世界中と取引しようとしている。もしわれわれを好遇すれば味方となり、虐待すれば、領土を奪う、といった。右衛門尉は、これを聞いて喜んでいった。「そのためにまず修道士(フライレ)が来なければならないだろう」彼〔航海士〕がそうであると答えると、右衛門尉はこの言葉を大坂の太閤様に報告した。そして彼は財物を取上げるため、何か良い口実をひたすらさがし求めていたので、エスパニャ人修道士の大虐殺をおこなった。」と注釈している。(アビラ・ヒロン 佐久間正他訳『日本王国記』大航海時代叢書Ⅺ・岩波書店1979年刊)取り調べたキリシタン宗徒名簿には、三千を超える殉教を望む者の名が連なったという。その中から殉教者を選んだのは、京都奉行石田三成である。殉教者は一条戻橋西詰で耳たぶを削がれ、伏見まで車で引き廻される。その先頭の札にはこう書かれていた。「宣告 これらの使節の称号を帯びて、ルソンより我国へ渡事せし者どもは、余が去(い)んぬる年月すでに厳(おごそか)に禁令を下したるキリシタンの信仰を説き、これを講じて当地に留まりたる故をもちて、先に陳(の)ぶる科(とが)によりて長崎へ送られ、彼処において、改宗せる日本人らもろともに磔(はりつけ)の極刑に処するものなり。しかして総数二十四人の者どもは十字架にかけたるままにさし置くものなれど、他の者どもの見せしめにせんがためなるをもって、何人といえども、この者どもを十字架より降ろすことを許さず。しかして、ここに改めて、何人も今日より以後、敢(あえ)てこの信仰を説くことはもとより、共犯者たることも厳に余は禁ずるものなり、これを犯すにおいては、この法令を破る者ただ一人たりとも、血族一同とともに死罪に処すべきことくだんのごとし。」長崎までの道中、付き添いの信徒二名が殉教者の馬の列に加えられる。長崎西坂の丘での刑の執行は、慶長元年十二月十九日(西暦1597年2月5日)である。殉教者は、刑の執行者に両脇腹を槍で突き刺されたのである。二十六名の内、二十名が日本人である。その職業は、織職、菜種商、医師、僧侶、樋屋、弓矢師、刀研師、大工、左官手伝い、料理方、門番他である。十歳、あるいは十二歳の日本人の少年ルドビコは、丘に連れて来られた時、自分の十字架はどこにあるのかと尋ね、子どもの背丈のそれを見つけて走り寄った、とイエズス会ルイス・フロイスは『日本二十六聖人殉教記』に書いている。フロイスは、日本人イルマン・パウロ三木の十字架の上の説教を書き留める。「ここにおいでになるすべての人々は、私の言うことをお聴き下さい。私はルソンからの者ではなく、れっきとした日本人であってイエズス会のイルマンである。私は何の罪も犯さなかったが、ただ私が主イエス・キリストの教えを説いたから死ぬのである。私はこの理由で死ぬことを喜び、これは神が私に授け給うた大いなる御恵みだと思う。今、この時を前にして貴方達を欺(あざむ)こうとは思わないので、人間の救いのために、キリシタンの道以外に他はないと断言する。キリシタンの教えが敵及び自分に害を加えた人々を許すように教えている故、私は国王〔秀吉〕とこの私の死刑に関わったすべての人々を許す。王に対して憎しみはなく、むしろ彼とすべての日本人がキリスト信者になることを切望する。」(ルイス・フロイス 結城了悟訳『日本二十六聖人殉教記』聖母の騎士社1997年刊)長崎西坂の丘に、日本二十六聖人記念館が建っている。その建物の前に、彫刻家舟越保武の二十六聖人の彫刻像がある。その最も小さい像がルドビコである。舟越保武は日本人殉教者フランシスコ・吉の像を作っている時、その顔に不義理のあった父親を見た、と随筆に書いている。その父親カトリック信者で、少年保武の手術で変形した脛の傷口に教会から貰ったという聖水を垂らしたのを見て怒鳴り拒否すると、父親は改めてクレゾールで傷口を消毒し、その聖水は保武の目の前で捨てたという。「フランシスコ・キチの顔をわたくしの父に似せて作ったのではない。そんなことは許されることではない。」(『舟越保武全随筆集 巨岩と花びらほか』求龍堂2012年刊)

 「ふたりをつなぐものは昔話しかない。お糸さんは娘と孫三人とで暮らしているから、喋ろうと思えば喋ることもあるが、菊蔵にはなんにもないのである。菊蔵には友達というものがない。幼い時の友だち、小学校の友だち、長じていっしょに遊びまわった友だちと、友だちにはその時その時でいろいろあったが、菊蔵はその時が終ると友だちと別れてきた。これはだれだって同じことだ。そして今、七十幾歳かになって、菊蔵はもう友だちが要らない。」(「立切れ」富岡多恵子『当世凡人伝』講談社1977年)

 「福島第1原発・20キロ圏内の海底がれき撤去着手 福島漁連」(平成28年9月27日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)