桂離宮を造営した八条宮智仁(としひと)親王は、慶長三年(1598)に兄である後陽成天皇が云い出した譲位が叶っていれば、第百八代天皇となっていた人物である。その譲位が叶わなかったのは、天正十四年(1586)に豊臣秀吉と猶子、養子縁組を結んでいたことがその理由とされ、自ら辞退したからともいわれている。が、反対した徳川家康は、天皇との外戚関係を築くため、弟ではなく、後陽成天皇の皇子政仁(ことひと)親王に関心を寄せていたのである。第百八代天皇にならなかった八条宮智仁親王はまた、豊臣秀吉の思惑のまま猶子になった時、秀吉亡き後の関白を約束された男でもあり、明国征服の暁には、「大唐都への叡慮(※後陽成天皇)うつし申すべく候。日本帝位の儀、若宮・八条殿(※政仁親王(後の後水尾天皇)か八条宮智仁親王)何にても相究めらるべき事。」(豊臣秀吉が関白秀次に与えた「二十五箇条の覚書」)として、天皇になる可能性があった男でもあった。が、天正十七年(1589)淀との間に世継ぎの棄(すて)が生まれると、猶子の関係は解消され、智仁親王は秀吉に八条宮家を創立させられるのである。このような翻弄屈曲を受けた者は、後にも先にもこの男しかいない。智仁親王は、猶子となった時、秀吉から天皇に次ぐ知行と財産を得ていた。その知行の一部丹波船井の土地を近衛家と交換したのが下桂であり、桂離宮の建つ地である。その近衛家近衛前久(さきひさ)の娘前子(さきこ)もまた天正十四年(1586)豊臣秀吉の猶子となって後陽成天皇に入内し、女御となり、その第三皇子が政仁親王後水尾天皇であり、後陽成天皇の四男二宮は前子の兄近衛信尹(のぶただ)の養子に入った後の関白近衛信尋(のぶひろ)であり、信尋は遊女吉野太夫を灰屋紹益と競った男である。八条宮智仁親王が、兄後陽成天皇の女御前子の実家の近衛家から得た下桂の地は、近衛家のものとなる前は、藤原道長の末裔藤原忠通の領地であり、八条宮智仁親王はこの地に、天皇が我が世の春であった平安王朝の名残りを嗅いだのである。藤原の栄華に憧憬を抱く教養を、智仁親王は身につけていたのである。『源氏物語』の「松風」の巻に出る桂殿は、藤原道長の別業、別荘をモデルにしたといわれている。作者紫式部は、道長の長女、一条天皇の中宮藤原彰子に仕えていたのである。「杯がたびたび巡ったあとで川べの逍遥(しょうよう)を危ぶまれながら源氏は桂の院で遊び暮らした。月がはなやかに上ってきたところから音楽の合奏が始まった。絃楽のほうは琵琶、和琴(わごん)などだけで笛の上手が皆選ばれて伴奏をした曲は秋にしっくり合ったもので、感じのよいこの小合奏に川風が吹き混っておもしろかった。月が高く上ったころ、清澄な世界がここに現出したような今夜の桂の院へ、殿上人がまた四、五人連れて来た。」(與謝野晶子訳『源氏物語』角川文庫1971年刊)歴史家中村直勝は桂離宮をこう書いている。「今出川殿(八条宮智仁親王)には相当な財産があることは面倒な事件になるかも知れぬ胚子である。反徳川の大名達が、今出川殿を盟主と仰いで、反江戸の旗を挙げる惧(おそ)れがないとは言えない。今出川殿は恐るべき怪鬼である。それをして、如何ともすべからざる状態に追い込む必要がある。判り易く言えば、今出川殿の財産を消費してしまう方策を案出することである。八條通桂川西の地が相せられた。そこに今出川殿のために別荘を新構することである。桂離宮はかくして出現した。」(『カラー京都の魅力 洛西』淡交社1971年刊)八条宮智仁親王丹波船井の土地と近衛家の下桂の土地を交換したのは慶長十八、九年(1613、4)の頃とされている。智仁親王のかつての養父であった秀吉の豊臣家が滅亡した大坂夏の陣は慶長二十年(1615)である。中村直勝の云いは、智仁親王が徳川の言い成りに、あるいは言い含められ別荘を造らされたということであるが、造ってもらった後に請求書が回って来るような言い成りは不自然であり、説得力が足りない。八条宮智仁親王は、自ら桂別荘に財産を注ぎ込み、大名勢力とは政治関係を持たぬ姿勢を徳川に示したのではないか。そのような頭の使い方を、八条宮智仁親王はしたのである。桂別荘、桂離宮の現在の姿は、智仁親王没後の荒廃を、二代智忠(のりただ)親王が新たに造営したものであるといわれている。智忠親王加賀藩主前田利常の息女富姫(ふうひめ)が嫁し、その前田家の財で智忠親王は父智仁親王の王朝趣味に茶の湯文化を色濃く肉付けし、離宮を避暑や観月、公家や僧や町衆との茶会や歌会や宴の場としたのである。桂離宮の見どころは、桂垣、穂垣、表門、御幸門(みゆきもん)、御幸道(みゆきみち)、御舟屋、住吉の松、中門、坪庭、御輿寄(おこしよせ)、古書院、月見台、中島、中書院、楽器の間、新御殿、月波楼(げっぱろう)、紅葉山、蘇鉄山、外腰掛、滝口、天の橋立、州浜(すはま)、石橋、松琴亭(しょうきんてい)、卍亭、螢谷、賞花亭(しょうかてい)、園林堂(おんりんどう)、笑意軒(しょういけん)、弓場跡、梅の馬場である。が、桂離宮修学院離宮と同じ皇室用財産であり、見学者は、解説者と警護の者に挟まれ、離宮の内を一時間余で脇目も振らず見て廻ることになる。飛石伝いに池を巡りながら、途中いくつかの茶屋の内を軒下から覗き、かの青と白の市松模様の襖を見、日に焼けた畳を見、目まぐるしく変わる庭景色の起伏に大抵の者は足を取られそうになる。離宮の中心、雁行並びの書院御殿はすべて障子を閉ざし、内に立って、あるいは腰を下ろして知り得るようなことは、外の位置からは永遠に知り得ない。見学の最後に、茅葺切妻屋根の中門を潜り、止めてはいけない足が止まる。田の字に組んだ四枚の石と縁(ふち)石の中門の雨落ちは大きく、踏み入れて止めた足の位置から奥に控える御輿寄は、左の生垣が遮り、見ることは出来ない。次の歩は飛石である。正方形の飛石は四枚あり、その二枚はくの字のように左に並び、次の二枚は右に折れて並び、折れたところは三枚が一線に右を向く恰好である。その正方形の石の間は、一枚目と二枚目、二枚目と三枚目、三枚目と四枚目と順に少しづつ幅を広く取ってある。四枚目の石の上に立ち、はじめて御輿寄の表が現われる。次の飛石はそこから左右二手に別れ、左は同じ正方形が一枚、右手はやや小ぶりの自然石が二つ置かれて尽きる。左の一枚は御輿寄の石段まで斜めに続く、モザイク状に真っ直ぐに敷き詰めた延石の先頭の一枚となる。延石を渡り終えると、また正方形の石が二枚斜め左に置かれ、最後の一個の自然石に足を載せれば、次は御輿寄の石段である。門からすぐには奥を見せず、歩みに一種の苦痛を強いるこの空間設計の慮(おもんばか)りは、畏敬の念を抱かせ、心を揺すられる何かである。この飛石は、「(小堀)遠州好み」の「すみちがい」と呼ばれるものである。もう一つ目に残った飛石は、園林堂の足回りの雨落ちを縫うように、猫の歩みのように横切る四角い石の列である。目に残ったものをもう一つ加えれば、書院の障子の白である。

 「一口に吾妻山と呼んでも、これほど茫漠としてつかみどころのない山もあるまい。福島と山形の両県にまたがる大きな山群で、人はよく吾妻山に行ってきたというが、それはたいていこの山群のほんの一部に過ぎない。」(深田久彌『日本百名山』山の文学全集Ⅴ朝日新聞社1974年)

 「福島県沖魚介「基準値超ゼロ」 95%が不検出、放射性物質検査」(平成28年12月30日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 後水尾(ごみずのお)天皇は、第百七代後陽成天皇の第三皇子、政仁(ことひと)親王であり、後陽成天皇は慶長三年(1598)、弟八条宮智仁(としひと)親王に譲位し院政の復活を夢見るが、徳川家康らの反対でその夢は一旦挫折する。が、慶長十六年(1611)、政仁親王への譲位が叶い、後陽成天皇は太上(だじょう)天皇、後陽成上皇となり、政仁親王後水尾天皇となる。慶長八年(1603)に征夷大将軍となった徳川家康は、二代将軍秀忠の娘和子(かずこ、まさこ)の後水尾天皇への入内(じゅだい)を企み、行く後は曾孫が天皇となり、己れが天皇外戚となることを思い描いたが、見届けぬまま死に、その四年後の元和六年(1620)、延期となっていた和子は、女官およつとの間に皇子皇女を儲けていた後水尾天皇の元に入内する。中宮となった和子は二人の皇子と五人の皇女を生み、その第二皇子となる高仁親王は二歳、第三皇子となる若宮は生まれた年に死亡し、寛永七年(1630)後水尾天皇は七歳の第二皇女である興子(おきこ)内親王に譲位して後水尾上皇となり、興子内親王明正天皇となる。この予告なしの後水尾天皇の突然の譲位は、これ以上言いなりにならないという、父後陽成天皇とも確執があった徳川幕府に対する「ザマア見ろ」であった。徳川幕府は元和元年(1615)、歴史に前例のない「禁中幷(ならびに)公家中諸法度」を定め、天皇、公家から絶対の権威と政治権力を奪い、行事儀礼の務めと学問の研鑚をその存在理由としたのである。法令に背けば天皇も流罪となるのである。後水尾天皇後陽成天皇の三宮で、一宮良仁(かたひと)親王と二宮幸勝親王仁和寺に入室させられている。兄二人を押しのけるような恰好で就いた天皇の地位を、後水尾天皇は自ら望んだわけではない。させられてそうなったのである。後水尾天皇は譲位を、玉体である天皇は身体に灸を据えることは出来ず、己れの身体に出来た腫物を灸で治療することを理由にし、徳川幕府に有無を云わせなかった。譲位した後水尾上皇は、皇族の系譜『本朝皇胤紹運録』によれば東福門院となった和子の二人を含め、五人の局らに三十人の皇子と皇女を産ませ、その内三人の皇子は、後光明天皇後西天皇霊元天皇となるが、徳川の血は流れていない。徳川和子との間の子の明正天皇は、結婚を許されない女帝であり、二十一歳で後光明天皇に譲位した後、出家して徳川家の血は絶える。後水尾上皇は心の中で「ザマア見やがれ」と呟いたのである。天皇の地位を捨てて身軽になった身を、後水尾上皇はそれ以上に身軽にするため、慶安四年(1651)落飾、仏道に入り、後水尾法皇となる。後水尾法皇にとっての仏道は、自由の味である。その四年後の明暦元年(1655)から、東福門院和子の実家である徳川家から金を出させて造営し、万治二年(1659)に完成したのが洛北の修学院離宮である。仏道に入ることが心の自由であれば、仙洞御所に閉じ込められている肉体に自由を得るのがこの別荘、離宮である。「御持病さまざまの事候へども、もと御うつき(鬱気)の一症よりおこり候由、医者ども申し、御自分にもその通りにおぼしめし候、針灸薬にては養生なりがたく候まゝ、内々仰せ出され候ごとく、山水の風景などご覧なられ候て、御気を点ぜられたくおぼしめし候。」(大老酒井讃岐守忠勝に宛てた後水尾法皇の覚書)「御自分にも」「ご覧なられ候」などと独特に己れを言い表わす後水尾法皇は、幕府の言いつけ通り諸藩とも政治にも一切関わらず学問、歌道やら書道やら茶道やら立花に精魂を傾けて来たが、定めに従ったせいで、身体の不調が一向に改善しないので、気晴らしをする場所、遊び場が欲しいと訴えたのである。修学院離宮は、その造営の始まる当時、後水尾法皇の第五皇子尊敬(そんきょう)法親王天台座主となっていた比叡山の西麓にある。総面積五十四万㎡の八割は三つの離宮、御茶屋であり、残りの二割は田圃と畠である。「離宮は御茶屋と称し、上中下の三所にありて、高低相属し、鼎立の状を為す。下ノ御茶屋には寿月観、蔵六庵の亭榭あり、頗(すこぶ)る瀟洒(しょうしゃ)たり。庭園幽邃(ゆうすい)にして青苔滑かなり。中ノ御茶屋には緋宮の化粧殿あり。張附杉戸等に具慶の名画を存す。側に楽只軒(らくしけん)の茗席あり。頗る佳致に富む。上ノ御茶屋は背面深山にして、大池前面にあり、之を浴龍池と号(なづ)く。懸泉漲りて之に注ぐ。島嶼に屋橋を架す。之を千歳橋と名く。橋の砌(みぎり)には奇石怪岩畳む。隣雲亭、洗詩台あり。共に眺望最も佳なり。北に窮邃亭(きゅうすいてい)あり。閑雅なる茗席なり。築庭の方法自然を存し、悠揚として人工の址を認めず。実に天下の名園たり。」(『京都坊目誌』)このような知識を携え、離宮の門を潜っても、宮内庁が管理する皇室用財産であれば、限られた時間を限られた人数で見て回ることになり、後尾に警護の者が控え、寄り道も足を留めることも許されない。列に従い歩く気分は、子ども時代の遠足を思い起させるようで、畠に植わる大根や白菜や葱を目にしていた目を比叡山まで向けると、ここはどこで、どうしてこのような場所を歩いているのかと、後水尾法皇離宮に来ている、あるいは離宮の中であるという思いから一瞬遠ざかる。穭(ひつじ)の出た田圃の通い道から、技巧を極めた中離宮、中の御茶屋の庭に入っても、田舎の隣近所の軒先を抜けるような気分に一瞬襲われる。上離宮、上の御茶屋に向かう通い道は、丈を低くされた松の並木が穏やかに田圃を隔て、待ち受ける門の先の石段の刈り込みは完全に左右の視界を塞ぎ、登りつめた隣雲亭に来てはじめて、ここが世を隔てた離宮であると思い至る。島の浮かぶ目を見張る曲線の大池と、その遥か向こうの洛中の街景色は、後水尾法皇己れが見たかった景色に違いないのであろうが、誰かに見てもらいたいと思わなかったであろうか。後水尾法皇が皇子尊敬法親王に宛てた置文(遺書)がある。「修学院山庄の事。内々思ひまうけ候子細も候へども、御所望候程に、愚老一世の後には譲与申し候べく候。此所は嵯峨の大覚寺に後宇多院皇居の御跡を残され候事、うらやましきやうに覚へ候ほどに、禁裏へゆづりまいらせ候て、つゐには門室をもとりたてられ候て、寺になさせおはしまし候へ。御一代の内に事行き候はずば、次々へゆづりをかれ候て、いつにても時節到来を期せられ候やうに思給ひ候。其の間は荒しはて候はぬやうに、誰にても修理職の者などに下知をくはへ候へと仰せ候てたび候やうにと申し置き候はんと思給ひ候つる事候。根本叡山の境内にて候へば、愚意の本懐相叶ふ事候条、若(もし)又成就ならざる時は、其方一世の後には禁裏へかへしまいらせられ候て給ふべく候。禁裏へも其のとをり申置候事候。相かまへてかまへて右の旨趣たがひ候はぬやうに御はからひ憑(たのみ)存ずばかりに候也。」後水尾法皇は、天台座主の息子尊敬法親王修学院離宮門跡寺院にせよと云った。この時後水尾法皇は、息子の目でこの景色を見、あるいはその先の、生まれるであろう親王の目で景色を見、もっと後の、誰とも知らぬ者の目になってこの景色を見たに違いない。後水尾法皇はそのような男であり、離宮にある田圃や畠は、誰でもない誰かを常に立ち入らせる開かれた余地なのである。

 「けれど私は、今回は新しい植樹の決心がつかなかった。私は、一生のあいだにかなりたくさんの木を植えてきた。この一本がそれほど重要なわけではなかった。そしてまたここでこのたびも、この循環を更新すること、生命の車輪を新たに始動させて、貪欲な死のためにひとつの新しい獲物を育成することに対して、私の心の中で何かが抵抗した。私はそれを望まなかった。この場所は空けたままにしておこう。」(ヘルマン・ヘッセ 岡田朝雄訳『庭仕事の愉しみ』草思社1996年)

 「年内の廃棄物搬入断念 「処分計画」環境省、楢葉と協定結べず」(平成28年12月17日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 山径の途中で、夫婦と思しき中年の男女に道を訊かれる。吉田神社へ行く道である。吉田山と呼ばれる神楽岡の頂の、吉田山公園の裾の山径である。中年の男女が登って来たのは、今出川通から入る北参道である。北参道は、入口で曲がり、ほぼ真っ直ぐな緩(ゆる)い上りを終えると、小刻みに曲がりくねりを繰り返しながら急斜面を登り詰める。訊いてきた男は、禿頭(とくとう)に汗を滲(にじ)ませ、息を切らしている。吉田神社は、神楽岡の西麓にあり、京大正門前の東一条通の東の行き止まりが、吉田神社の一の鳥居の前であり、東一条通を来れば行き迷うことはない。二の鳥居から石段と坂の並びを登れば、本殿である。吉田神社は、貞観年中(859~877)に藤原山蔭(やまかげ)が、その氏神である奈良春日大社と同じ健御加豆知命(たけみかずちのみこと)、伊波比主命(いわいぬしのみこと)、天之子八根命(あめのこやねのみこと)、比売神(ひめかみ)の四体を勧請してはじまり、室町期に吉田兼俱(かねもと)が、密教老荘、陰陽五行などの教説知識で捻り出した理論と偽書を以て唯一神道の名のもとに国全土の神を束ね、神官権威を独り占めにした神社である。境内にある斎場所大元宮は、三千百三十二座神を祀り、一度の参詣がその三千余社すべてを参詣したことであると、吉田兼俱は神々を窮極にモノ化し、武家も公家もそれを手放しで受け入れたのである。四百年の星霜を経て、八角形の後ろに六角形を付け合わせた奇体な形(なり)の大元宮は現在重要文化財である。黄葉の雑木の間を縫う山径は、指さす先もくねって見通すことは出来ず、枝分かれして下る径もあるが、その径もその先でまた一つに繋がるのであれば、吉田神社からいまその径を辿って来たのであるから、たとえ落葉で埋め尽くされている所があっても、このまま道なりに、と応えて間違いはない。途中、吉田山公園を横切って道なき道を東に折れると、竹中稲荷神社に出る。道なりに神楽岡の外れまで行ってしまうと、黒住教の宗忠神社に出る。宗忠神社の緩い石段を東に下ると、そのまま真っ直ぐ真正極楽寺真如堂の参道に繋がっていて、その石段の上からは真如堂の本堂と三重塔がよく見える。真如堂の南は、会津藩の墓がある黒谷金戒光明寺である。二人を見送り、北参道を下り降りるまで、何人かとすれ違う。若いカップルの男は、白いマスクの中で咳をしながら、頭上のモミジにカメラを向ける。撮った写真がブレていれば、男は己れの咳を景色に写したのである。父と子の親子は、その男の子の首に空(から)のムシカゴがぶら下がり、男の子はワガタがどうしたという話をしている。年を越すクワガタもいるというが、十二月のいま、姿を見せないクワガタを獲るというのであれば、俄にこの親子にただならぬ気配が漂って来る。父親は相槌でもない言葉を返し、よそ事を思う顔で子の後ろをついて行く。カブトムシは、二三カ月の寿命で、越冬出来ない。車谷長吉の短編「武蔵丸」は、舎人公園で拾ったカブトムシを夫婦で飼う話である。食欲旺盛だった武蔵丸と名づけられたカブトムシは、十一月半ばで遂に死ぬ。妻はその日、長吉の出版祝いで貰った茹で蟹を喰って寒気を感じ、言い知れぬ淋しさに襲われるのある。

 「人影も人里も見えぬ大木の並木路をたどるときには、どんなにか人というものの臭(におい)が恋しかったであろう。牛馬の踏み荒らした無数の細路に迷って、山巓(さんてん)から襲いくる霧の中に立ち尽くしたとき、ふと眼にはいった牧牛者の影はどんなにか自分の心を温めたであろう。牧牛者は半里の山道を迂回して自分を宿屋の前まで案内してくれた。自分は礼心に袂の中にあった吸い残りの「八雲」をあげた。牧牛者は気の毒そうに礼を言って霧の中に隠れて行った。」(阿部次郎『三太郎の日記』角川選書1968年)

 「安全強調か…パネル「第2原発はなぜ過酷事故を免れたか」」(平成28年12月2日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 夢に知人の男が現われ、その夢を見ている者に何か喋る。二十年以上会っていないその男は、当然その男の現在の姿ではなく、最後に会った時の姿か、それ以前の男の姿である。その男が、今度は身振りで何ごとかを説明する。その男の目は、その夢を見ている者の現在の姿を見ているのか、過去の若い時の姿を見ているのか、その夢を見ている者には分からない。2015年放送のNHKBSプレミアム「京都人の密かな愉しみ 夏編」のドラマの中のドラマ「其の一 真名井の女」の主な人物は、井戸掘り会社の四代目の跡取り息子とその会社の事務員と、跡取り息子が通う小料理屋の女将である。跡取り息子が、路地の奥にある、鉄輪井(かなわのい)と呼ばれるいわくつきの井戸のある命婦(みょうぶ)稲荷の手水(ちょうず)を直している時、小料理屋の女将が現われ、直したお礼がしたいと云って自分の店に跡取り息子を誘い、その日から跡取り息子の夜毎の店通いがはじまる。跡取り息子に旨いお茶を出す事務員は、その息子に好意を寄せている風ではあるが、息子の方は事務員に特別の意識があるように振る舞ってはいない。が、小料理屋の女将は、自分は嫉妬深い女であると云って、いまは枯れた鉄輪井で縁切りの願を掛けた水を跡取り息子に差し出す。その日、掘っていた井戸の中で跡取り息子が酸欠で倒れ、息子が最近の顔色も態度もおかしかったのは、昨年、井戸堀り仕事ではタブー、土を扱う仕事をしてはいけないとされている土用の時期に命婦稲荷で仕事をしたからであることに、社長である父親が思い至る。その日の夜も女将の元を訪れた跡取り息子は、差し出された水を飲んで正体を失くし、鉄輪井の前で倒れているところを父親に見つけ出される。それを見ていた小料理屋の女将は、稲荷の裏の闇の中に消えて行く。事務員が淹れるお茶に使う水が、市比賣(いちひめ)神社にある天之真名井の水であると知って、跡取り息子が十年前に掘り直したその井戸に行くと、水を汲んでいる事務員に会い、事務員は跡取り息子に、天之真名井の水は一つだけ願いを叶えてくれる水であり、跡取り息子に憑いた悪い霊から守るため、会社に採用された一年前からこの水でお茶を淹れていたと云うと、事務員も跡取り息子の前から消えていなくなる。跡取り息子は、井戸水の化身だった二人の女を同時に失うのであるが、ただ狐につままれたような顔で、ドラマは終わる。怪談話としているのであるが、跡取り息子が格別取り憑かれた様子でもなければ、女将も事務員もありきたりに振る舞っていて、二人が消えてしまったことに見る側も狐につままれる。ものに取り憑かれるのは生身の女将であり、生身の事務員でなければならない。そのことで狂うのが、跡取り息子である。茶の間で見るドラマであっても、怪談であるならば、そこには凄みの一瞬がなければ、虚構として空しい。「伝ヘテ云フ、昔嫉妬ノ女アリ。他(ヒト)ヲ呪詛(ノロヒ)テ神ニ祈リ毎夜(ヨゴト)丑(ウシノ)時(コク)社参(ヤシロマヒリ)ス。終(ッヒ)ニ此(ココ)ニ於(オイ)テ気疲レテ死ス。然(シカフ)シテ其ノ霊ノ荒(アル)ルヲ以テ、戴ク所ノ鉄輪ヲ以テ、塚ヲ築ッキテ之(コレ)ヲ祀(マツ)ルト云フ。」(『山州名跡志』)「そして、井戸に生れたのが、水を飲むと縁が切れるというウワサ。……けれども縁切り伝説は縁起がよろしくないというので、寛文八年(1668)五月、稲荷大明神をまつり、逆に縁結びの神とした。元治元年(1864)、火災で社殿は焼けたが、町総代が神霊を保管、新たに神社を建てて夫婦和合、福徳円満の神として、命婦稲荷神社と称した。昭和十年(1935)十一月のことである。」(『京都・伝説散歩』京都新聞社1971年刊)頭に載せた鉄輪の足に火を灯し、丑刻詣りで自分を捨てた男を呪った女の伝説のために稲荷社を設けたのであれば、伝説の凄みがそうさせたのである。その伝説はまた、京都の凄みである。

 「いい夜だ。君はどこにいるのか、ジャック・ベルニスよ? どこにいるのか? 君のいまいるそこは近くであるか、また遠くであるか? 早くも君の存在が何と軽いものになっていることか? 僕の周囲には見渡すかぎり身軽なサハラが展がって、そこかしこに羚羊の足跡を僅かに残しているだけだ。今夜、この砂の上に君の上に横たわる一番重いそのものが、空からそこへ落ちて来た軽い幽霊でなければよいが。」(サン・テクジュペリ 堀口大學訳「南方郵便機」現代世界文學全集7三笠書房1954年)

 「「放射線量は年々減少」 高校生が調査報告、広野国際フォーラム」(平成28年11月28日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 

 帰る家あるが淋しき草紅葉 永井東門居。永井東門居は、小説家永井龍男の俳号である。帰る家はあるのであるが、足元の草紅葉のうら淋しい様よ、と平凡に読まなければ、この「あるが」の「が」は二つに働く。帰る家があるということそのことが淋しいと、帰る家があるにはあるが心が淋しい、である。帰る家があるにはあるが淋しい、より、帰る家があるということが淋しい、の方に表現解釈の飛躍はあるが、どの読み方であっても、「帰る家」という言葉に並んだ「淋しき」は、ある種のポーズ、気取りのように目に映る。それは「淋しき」という言葉に、作者が甘えているからなのである。枕あるところに帰る草紅葉 中尾寿美子。草枕という言葉は、野宿する姿、旅の途中を意味するが、作者はこの草枕を踏まえ、眠る場所を「枕あるところ」と言い表わし、その必ず枕がある場所である自分の家に、草紅葉になったいつもの道を今日も帰る、というのである。「枕あるところ」には、非凡な俳句跳躍がある。北嵯峨の草紅葉の田圃道を北に辿り、後宇多天皇陵を過ぎて南を振り返ると、穭(ひつじ、稲のひこばえ)が伸び出た田圃越しに、市街のビルと京都タワーが遥かに見えて来る。北に緩やかに地面が高くなっている京都盆地であるが、不意打ちのように見える景色である。田圃道から外れ、住宅の間の径を入って行くと、山裾の直指庵(じきしあん)の門に出て、径はここで行き止まる。直指庵は、薩摩藩島津斉彬の養女篤子、天璋院篤姫が、第十三代将軍徳川家定の正室となるため一時養女となった右大臣近衛忠煕(このえただひろ)家の老女村岡局が、尊王攘夷の動きの最中に西郷隆盛らへの密通嫌疑で捕縛され、解かれた後に入った庵である。北嵯峨は村岡局、本名津崎矩子(つざきのりこ)の生れ故郷であるが、投獄のダメージを受けた、公卿家に仕えた老女には無住となって廃れていたこの庵の他に帰る場所はなかったのである。山裾の起伏のままの境内の紅葉ははじまっていたが、参拝者は数えるほどしかいない。聞こえるのは飛び交う鳥の声と、風に揺れて擦れる竹の音だけである。本堂の卓の上に、想い出草と記された悩みを綴るノートが置かれ、室の四方に寺の四季を撮した写真が飾ってある。このような人に甘えた俗ものは、庭の紅葉とは無関係である。人の寄らない本堂の小室の畳に座り、十分でも心鎮めてモミジを眺めることが出来れば、その十分は最早、その日の十分ではない。

 「思想家は身体の話になると必ず、法や制度、道徳とか倫理、あるいは常識を持ち出してしまうんです。そして歴史とか政治とかという物語も。身体の行為や運動の入っていないイベントは生活環境を持たないものだから、ほとんどフィクションにならざるを得ませんね。特に六〇年代の思想は街や身体のない、いわゆる生活環境のないフィクションです。だから、三十年も経ないうちに使いものにならなくなってしまいましたね。」(荒川修作・藤井博巳 対談集『生命の建築』水声社1999年)

「「自分の目で見たい」 福島高生が第1原発に、18歳未満事故後初」(平成28年11月19日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 ルイ=フェルディナン・セリーヌの小説『なしくずしの死』の日本語の直訳は、「信用販売の死」「分割払いの死」であると、翻訳者の滝田文彦は書いている。なしくずし(済崩)は、『言海』によれば、「借リタル金高ノ内ヲ若干ヅツ次第二返済スル。」であり、『広辞苑』は、「借金を少しずつ返却すること。物事を少しずつすましてゆくこと。」と記している。であるならば、『なしくずしの死』は、借リタル金高である「生」を若干ヅツ次第二返済、減らして行って、遂には返済が終わり、「死」を迎えるということであろうか。「生」は借リタルものであり、物事を少しずつすましてゆくことが「死」ぬことであるということであろうか。十一月十日の朝日新聞に次の記事が載った。「豊臣秀吉が京都の町を囲むように築いた「御土居(おどい)」の土塁や堀、暗渠(あんきょ)が京都市北区紫野花ノ坊町の発掘現場で見つかった。埋蔵文化財研究所が上部を削り取られた土塁の大きさを復元したところ、推定幅約18メートル、高さ7.5メートルあった。土塁の西側には推定幅約18メートル深さ4.5メートルの堀が掘られ、途中幅2.6メートルの通路状の犬走りが設けられていた。堀の底部から、土塁の頂上までを復元した高低差は約9.2メートルにおよび、堀を掘って出た土を自然の緩やかな斜面に盛ることで約45度の急斜面をつくっていた。」御土居は、明治期まである程度市中に形をとどめていたが、京都府が出した「御土居開拓之儀」あるいは、大正十一年(1919)の都市計画法によりその殆(ほとん)どが切り崩され、住宅地に代わっていった。御土居はなし崩しに、宅地にされたのである。この表現は正しくはないが、文字通り成し崩されたのであるから間違いであるとも云えない。発掘された御土居は、暫(しばら)く空地のまま叢(くさむら)になっていたところである。この後御土居は埋め戻され、その上に市営住宅が建つことになっている。御土居に防衛、治水の造られた理由はあっても、然(さ)したる物語りはない。切り崩された叢にも物語りはない。小説『なしくずしの死』は文体の行動であり、物語りは入り乱れ、そこには「生」の解決も解答もない。叢で、あるいは復元された御土居の上で「なし崩しだな」と呟いた者は、小春日に当たりながら、御土居ではなく、借りた「生」を徐々に返してゆく、という言葉の表現の意味を考えてみるのである。

 「わたしの望みは出発することであり、それもできるだけ早く、そしてもう誰の話もきかないことだった。重要なのは自分がまちがっているか正しいか知ることではない。そんなのはまったくどうだっていいことだ…… 必要なのは、世の中の連中に自分にかまう気をなくさせることだ…… そのほかのことは悪だ。」(セリーヌ 滝田文彦訳『なしくずしの死』世界の文学7「セリーヌ集英社1978年)

 「「中間貯蔵」17年秋開始 用地取得まだ1割……本体工事着手」(平成28年11月16日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 東福寺を己れの菩提寺として造営した摂政関白九條道家の姉立子と順徳天皇の娘懐成親王は、四歳で第八十五代仲恭(ちゅうきょう)天皇となるが、その承久三年(1221)、祖父後鳥羽上皇と父順徳天皇が北条追討に敗れ、僅(わず)か四カ月で天皇の座から下ろされる。道家の三男頼経(よりつね)は、三歳で鎌倉幕府四代将軍となり、長女竴子(しゅんこ)は第八十六代後堀河天皇の中宮となり秀仁親王を生み、秀仁親王は後の第八十七代四条天皇となる。天皇を廃された仲恭天皇は、道家の元で過ごし、天福二年(1234)十七歳で亡くなる。その二年後の嘉禎二年(1236)道家は吉夢により東福寺を発願し、道家の死後四男実経(さねつね)が引き継ぎ、建長七年(1255)聖一国師円爾弁円の開山で東福寺は東山に成る。臨済東福寺は、紅葉の名所ということになっている。「通天橋下の渓を洗玉澗(せんぎょくかん)といふ。このほとり楓多し。秋のすゑ紅錦の色をあらはしければ、洛陽の奇観となる。」(『都名所図会』)いまが秋のすゑにまだであれば、モミジの色づきはまばらで、身体を使って上り下りした庭園渓谷も、通天橋の上から見下ろした景色も、それを「奇観」とするには、いつか見た紅葉を青モミジの上に重ね合わせるしかない。が、これはものを考え思う言葉の上の事であり、開いた両目は、目の前の木の葉の色を欺(あざむ)いた紅色に変えたりしないことで、その目を信じることが出来る。いまではない紅葉の景色を「奇観」と思わせるのは目ではなく、言葉である。東福寺の東司(とうす)、便所は室町時代のものであり、重要文化財の指定を受けている。内は、柱の間の地面に円い壺が列をなして埋まっているだけである。地面の土は灰色である。灰色は言葉であるが、その見える灰色は、身体に寒気を催させる。頭の中で言葉が働けば、その寒気を畏敬の念と云い換える。畏敬の念は、六百年を経た骨のような便所の土に対してである。禅門曹洞宗開祖道元の『正法眼蔵』第五十四「洗浄」は、修行者の便所作法を詳しく定め、言葉に縛られたその身体行為も、思えば寒気であり、畏敬の念を抱かせる。「東司にいたる法は、かならず手巾(しゅきん)をもつ。その法は、手巾をふたへにをりて、ひだりのひぢのうへにあたりて、衫袖(さんしゅう)のうへにかくるなり。すでに東司にいたりては、浄竿に手巾をかくべし。かくる法は、臂(ひ、ひじ)にかけたりつるがごとし。もし九条・七条等の袈裟を著してきたれらば、手巾にならべてかくべし。おちざらんやうに打併(たひん)すべし、倉卒になげかくることなかれ。よくよく記号すべし。記号といふは、浄竿に字をかけり。白紙にかきて、月輪のごとく円にして、浄竿につけ列せり。しかあるを、いづれの字にわが直綴(ぢきとつ)はおりけりとわすれず、みだらざるを、記号といふなり。衆家おほくきたらんに、自他の竿位を乱すべからず。このあひだ、衆家きたりてたちつらなれば、叉手(しやしゅ)して揖(いつ)すべし。揖するに、かならずしもあひむかひ曲躬(きよくきゆう)せず、ただ叉手をむねのまへにあてて気色(けしき)ある揖なり。東司にては、直綴を著せざるにも、衆家と揖し気色するなり。もし両手ともいまだ触(そく)せず、両手ともにものをひさげざるには両手を叉して揖すべし。もしすでに一手を触せしめ、一手にものを提せらんときは、一手にて揖すべし。一手にて揖するには、手をあふげて、指頭すこしきかがめて、水を掬(きく)せんとするがごとくしてもちて、頭(かうべ)をいささか低頭(ていづ)せんとするがごとく揖するなり、他かくのごとくせば、おのれかくのごとくすべし。おのれかくのごとくせば、他またしかあるべし。褊衫(へんざん)および直綴を脱して、手巾のかたはらにかく。かくる法は、直綴をぬぎとりて、ふたつのそでをうしろへあはせて、ふたつのわきのしたをとりあはせてひきあぐれば、ふたつのそでかさなれる。このときは、左手にては直綴のうなじのうらのもとをとり、右手にてはわきをひきあぐれば、ふたつのたもとと左右の両襟とかさなるなり。両袖と両襟とをかさねて、又たたざまになかよりをりて、直綴のうなじを浄竿の那辺へなげこす。直綴の裙(くん)ならび袖口等は、竿の遮辺にかかれり。たとへば、直綴の合腰(あひごし)、浄竿にかくるなり。つぎに、竿にかけたりつる手巾の遮那両端をひきちがへて、直綴よりひきこして、手巾のかからざりつるかたにて、又ちがへてむすびとどむ。両三巾もちがへちがへしてむすびて、直綴を浄竿より落地せしめざらんとなり。あるいは直綴にむかひて合掌す。つぎに絆子(ばんす)をとりて両臂にかく。つぎに浄架にいたりて、浄桶に水を盛て、右手に提して浄廁にのぼる。浄桶に水をいるる法は、十分にみつることなかれ、九分を度とす。廁門の前にして換鞋(くわんあい)すべし。蒲鞋をはきて、自鞋を廁門の前に脱するなり。これを換鞋といふ。禅苑清規云、欲上東司、応須預往。勿致臨時内逼倉卒。乃畳袈裟、安寮中案上、或浄竿上。廁内にいたりて、左手にて内扇を掩(えん)す。つぎに浄桶の水をすこしばかり槽裏に瀉(しや)す。つぎに浄桶を当面の浄桶位に安ず。つぎにたちながら槽にむかひて弾指三下すべし。弾指のとき、左手は拳にして、左腰につけてもつなり。つぎに袴口・衣角ををさめて、門にむかひて両足に槽脣(そうしん)の両辺をふみて、蹲踞(そんきょ)して屙(あ)す。両辺をけがすことなかれ、前後にそましむることなかれ。このあひだ、黙然なるべし。隔壁(きやくへき)と語笑し、声をあげて吟詠することなかれ。涕唾狼藉(ていだろうぜき)なることなかれ、怒気卒暴なることなかれ。壁面に字をかくべからず、廁籌(しちゆう)をもて地面を劃することなかれ。」〔東司に行くには、必ず手巾(手を拭く布)を持つ。その仕方は、手巾を二重に折って、左の臂の上に当てて、衣の袖の上に掛けるのである。すでに東司に着いたならば、浄竿に手巾を掛けるべきである。掛ける仕方は、臂に掛けたのと同様である。もし九条・七条などの袈裟を着用して来たならば、手巾に並べて掛けるべきである。落ちないように、きちんと合わせるべきであって、粗忽に投げ掛けてはならない。よくよく記号すべきである。記号というのは、浄竿に字が書いてある。白紙に書いて、月の輪のように円くして、浄竿に並べて取り付けてあるのだ。それを、どの字の所に自分の直綴(上半身と下半身を一着に連ねた衣)を置いたかを忘れないで、混乱しないようにするのを、記号と言うのである。修行者たちが多く来た場合には、自他の浄竿の位置を乱さないようにしなければいけない。この間、修行者たちが来て行列していれば、叉手(握った左手を右の掌で覆って胸の前に当てる)して揖(重ね合わせた手を動かして行なう敬礼)すべきである。揖するには、必ずしも向かい合って身を屈めるのではなくて、ただ叉手を胸の前に当てて微かに動かす揖なのだ。東司では、直綴を着用していない場合でも、修行者たちに対して揖する所作をするのである。もし両手ともまだ汚れておらず、両手とも物を提げていないならば、両手で叉手して揖すべきである。もし、すでに片手が汚れているとか、片手に物を提げているような時には、片手で揖すべきである。片手で揖するには、手を仰向けにして、指先を少し屈めて、水を掬うような恰好にして、頭を少し下げるようなふうにして揖するのである。相手の人がそのようにすれば、自分もそのようにすべきである。自分がそのようにすれば、相手もやはりそのようにするはずである。褊衫(上半身を被う衣)および直綴を脱いで、手巾の傍らに掛ける。掛け方は、直綴を脱ぎ取って、両方の袖を背後で合わせて、両方の腋の下を取り合わせて引き上げれば、両方の袖が重なったようになる。この時、左手で直綴の裏の襟元を取り、右手で脇を引き上げれば、両方の袂と左右両方の襟とが重なるのである。両袖と両襟とを重ねて、また縦に中から折って、直綴の襟元を浄竿の向う側へ投げ越えさせる。直綴の裙(下半身の部分)ならびに袖口などは、浄竿のこちら側に掛かっている。いわば、浄竿の合腰(上半身部と下半身部の縫い合わせ)を浄竿に掛けるわけである。次に、浄竿に掛けた手巾のこちら側と向う側との両方の端を引き違いにして、直綴から越えるように引っ張って、手巾の掛かっていない方で、また引き違いにして結びつける。ニ、三周も引き違い引き違いにして結んで、直綴を浄竿から落ちないようにするのである。さらには、直綴に向って合掌する。次に、絆子(たすき)を取って、両臂に掛ける。次に、浄架(洗面所)へ行って、浄桶(洗浄用の桶)に水を入れて、右手で提げて、浄廁(便所)に上る。浄桶に水を入れる仕方は、いっぱいにしてはならないのであって、九分目ぐらいが適当である。廁の入口の前で、履物を換えるべきである。蒲製の履物を履いて、自分の履物は廁の入口の前に脱いでおくのである。このことを、換鞋と言う。『禅苑清規(ぜんえんしんぎ)』には、次のように書かれている。「東司に上らんと欲(おも)わば、応(まさ)に須(すべから)く預(あらかじめ、早めに)往(ゆ)くべし、時に臨んで内に逼(せ)まり(便意が差し迫る)倉卒(そうそつ、あわてる)を致すことなかれ。乃(すなわ)ち、袈裟を畳みて、寮中の案(物を置く台)上、或いは浄竿の上に安ず(置く)べし。」廁の中に入って、左手で入口の扉を閉じる。次に、浄桶の水を少しばかり槽(用便壺)の中に流し込む。次に、浄桶を正面にある浄桶の置き場に置く。次に、立ったままで槽に向って弾指(指を弾いて音を立てる呪法)を三回すべきである。弾指の時、左手は握り拳にして、左腰につけておくのである。次に、袴の裾・衣の端を収め込んで、入口の方に向かい、両足で槽の上端の両側を踏んでしゃがんで用便する。両側を汚してはならないし、前後に染み出せてはならない。この間、沈黙しているべきである。壁を隔てた相手と談笑したり、声を上げて歌うようなことをしてはならない。涙や唾を散らかしてはならない。荒々しく力んではならない。壁に字を書いてはならない。廁籌(便を拭う箆)で地面に線を引いたりしてはならない。〕(森本和夫『『正法眼蔵』読解』ちくま学芸文庫2004年刊)現在、禅の修行としてこれを行なわないのであれば、禅も禅寺も変質退行したことになる。

 「さて我々は、ただ一人で生きよう。仲間をもつまい・と企てる以上、我々の満足を我々自身によらしめよう。我々を他人に結びつけるあらゆる関係から抜け出よう。ほんとうに独りで生きることができるように・そうやって心静かに生きることができるように・なろう。」(モンテーニュ 関根秀雄訳『随想録』白水社1960年)

 「1号機・建屋カバー解体終了 福島原発、がれき撤去調査へ」(平成28年11月11日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)