雨か雪という天気予報の朝、晴れ間ののぞく空から吹かれ漂う小さな雪の一粒の発見があり、忽(たちま)ち空が雲に覆われ、その数の数えは最早追いつかない雪の降り現われは、雨とならない大気の冷たさの説明である。寒さの最中に熱さを思うことは、一つの逃避であるとすれば、熱さではなく別の寒さを思い起こすということは、どういうことであろうか。ロス・マクドナルドに『さむけ』という探偵小説があり、ジョン・ル・カレに『寒い国から帰ってきたスパイ』というスパイ小説がある。どちらもそそる題名であり、その題名の通り『さむけ』は、人を殺す寒さであり、『寒い国から帰ってきたスパイ』は、嘘をつく国の寒さである。物語りの細部は記憶にない、が、その題名にそそられ、心に触れた寒さは、読む行為の豊かさとしていまも記憶している。『寒い国から帰ってきたスパイ』は1963年の発表であり、ケネディ大統領の暗殺された年であり、『さむけ』の発表は、1964年である。私小説車谷長吉(くるまたにちょうきつ)の小説『赤目四十八瀧心中未遂』にある「見知らぬ市(まち)へはじめて降り立った時ほど、あたりの空気が、汚れのない新鮮さで感じられる時はない。その市(まち)の得体の知れなさに、呑み込まれるような不安を覚えるのである。その日の朝早く京都小山花ノ木町の知人の家を出て、鴨川べりへ出ると、川が一面に凍っていた。尼ヶ崎は霙(みぞれ)まじりの雨だった。シベリアから南下した烈しい寒気団が日本列島を天から圧していた。」は、車谷長吉の過去の実感の投影であり、ここ数日のいまの京都の実感である。『赤目四十八瀧心中未遂』の「私」と、同じアパートに住む「アヤ子」との心中は、題名の通り未遂に終わる。心中場所の赤目で入った食堂でビールを飲みながら、「私」は「アヤ子」から、「あんたは、あかんやろ」と呟かれる。「私」は、「己(おの)れの心が、ふたたび「冷え物。」になって行くのが、はっきり感じられた。」(『赤目四十八瀧心中未遂』)この「冷え物」は、冷(さ)めた食い物であり、それは冷え者としても同じであり、喰えない者、融通の利かない強情者であり、「愚図」であり、「腑抜け」であり、「臆病者」であり、書かれた車谷長吉自身の姿である。車谷長吉は、二十五歳で広告代理店のサラリーマンの身分を捨て、小説原稿を書く生活に入るが、三十歳で行き詰まり、故郷播州飾磨(しかま)に逃げ帰り、調理師学校に通った後、昭和五十二年(1977)京都西洞院通(にしのとおいんどおり)丸太町上ルの料理屋柿傳で下働きをしている。車谷長吉の『文士の生魑魅(いきすだま)』にこのような一文がある。「私は京都の料理屋で料理場の下働きをしていた。三十一歳だった。朝五時に起きて、料理場の拭き掃除、便所掃除、朝飯の拵(こさ)えにはじまる毎日だった。本を読むいとまはなかったし、文士になりたい、という悪夢も九割はあきらめていた。……仕事が終わるのは夜十一時である。それから私はこの本(野呂邦暢の『諫早菖蒲日記』)を持って、京都御所の外苑へ行き、外灯の下で、夜中の二時、三時まで立ってむさぼり読んだ。」料理屋の寮の相部屋では、明りを点けて本を読むことは許されなかったのである。車谷長吉はその後料理屋を転々とし、昭和五十七年(1982)小説「萬藏の場合」が芥川賞候補になるが、その落選の知らせを、神戸元町の料理屋みの幸の料理場で聞いたという。車谷長吉が『赤目四十八瀧心中未遂』で直木賞を受賞するのはそれから十六年後、平成十年(1998)五十三歳の時である。

 「因(ちな)みに「冷位」というのは、例の心敬の「氷ばかり艶(えん)なるはなし」に通じる、世阿弥の「冷えたる曲」の論を体した、私近来の志を霊的に表記したつもりの造語である。」(永田耕衣 句集『冷位』コーベブックス1975年)

 「(汚染)土のう破損 「元請けの指示で切った」 現場作業員が関与認める」(平成29年2月15日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 油小路通(あぶらのこうじどおり)は、その西の堀川通と東の西洞院通(にしのとういんどおり)の間を南北に走り、東西に走る六角通から五条通までの堀川通の間は、醒ケ井通(さめがいどおり)が挟まり、北の紫明通(しめいどおり)から錦小路通西洞院通の間には小川通が挟まり、錦小路通から途切れ、仏光寺通から塩小路通までの油小路通西洞院通の間に挟まれた小川通は、天使突抜通あるいは東中筋通と呼ばれている。平安京造営で引かれた、油小路通の名前の謂(いわ)れは分からない。小川通が終わる紫明通の一筋南の寺之内通油小路通も一旦途切れ、通りは尭天山報恩寺に突き当たる。報恩寺には、「撞かずの鐘」と呼ばれる鐘がある。夕に鳴る鐘の数で口論となった機屋の十三歳の織子(おへこ)が、相手の十五歳の丁稚(でっち)に言い含められ寺男が一つ減らしてその日の夕に鐘を撞いたため、悔しさに鐘楼に掛けた帯で首を吊って以来、除夜にしか撞かないという鐘である。南の方を下(さが)ル、北の方を上(あが)ルという京都の云いで、鄙(ひな)びた報恩寺から油小路通を下(さが)ッて最初に交差する今出川上ルには、平清盛らを率いた弟後白河天皇と朝廷の実権を争った保元の乱で破れ、讃岐に流された崇徳上皇(すとくじょうこう)を祀る白峯神宮と、徳川家康に洛北鷹峯の地を貰うまで住んでいた本阿弥光悦の屋敷跡がある。崇徳上皇は自分の血で経を写し、爪や髪を伸ばし続けて天皇家を呪い、死後その怨霊が京洛を襲ったとされ、前の孝明天皇が果たせず、明治天皇白峯神宮を造り、名誉の回復のため、その霊を讃岐から京に慶応四年(1868)帰還させたのである。次に交わる元誓願寺通を下ッた油小路頭町(あぶらのこうじかしらちょう)には、慶長ヤソ会天主堂教会跡の駒札が立っている。建物は美しかったが、教会がこの地にあったのは、慶長十七年(1612)の徳川幕府の弾圧までの十年足らずの間であった、と駒札は記している。次の一条通を下ルと、茶道千家十職(せんけじっそく)の一つ、茶碗師樂吉左衛門家の樂焼美術館がある。その謳(うた)い文句は、「手のひらの中の宇宙 楽焼」である。次の中立売通西入ルには、壁にヴィーナスやライオンの頭のレリーフがある逓信技師岩元祿が設計した重要文化財、大正十年(1921)竣工の旧京都中央電話局西陣分局の建物がある。その灰色の壁の色は、取り残された最先端の身の竦(すく)みである。下立売通を下ッた人形店に、桃の節句雛人形が飾ってある。「お内裏様とお雛様ふたり並んですまし顔」のその顔が見ているのは、宇宙の何事かである。二条通を下ッた、二条城を前に並んだホテルの一つ、昭和四十四年(1969)学生運動の最中、二十歳で鉄道自殺した立命館大学学生、日記『二十歳の原点』を残した高野悦子がアルバイトをしていた京都国際ホテルは、いまは解体され、囲みの内では、新しいホテルの工事が始まっている。彼女の自殺の現場は、その下宿先から毎日目にしていた、まだ高架になっていない国鉄山陰線円町駅の手前の踏切である。油小路通蛸薬師には、織田信長が自害し果てた本能寺跡の碑、空也が念仏を広めた道場、空也紫雲山光勝寺がある。錦小路下ル、仏光寺下ルには織物問屋染物屋の間(あい)に京都有形文化財の町家野口家住宅、商家秦家住宅が建っている。秦家の向いは、祇園祭太子山の会所である。その山車(だし)に乗る太子像は、四天王寺建立の材を探して山城の森に入った若き聖徳太子である。五条上ル西には、山本亡羊(やまもとぼうよう)読書室舊跡の碑がある。山本亡羊は安永七年(1778)に生れ、安政元年(1859)に没した本草学者であり、読書室は私塾である。平成二十六年(2014)、この土蔵から維新時に岩倉具視が使った暗号表が見つかっている。仏壇仏具屋が軒を連ねる珠数屋町(じゅずやちょう)の正面通を西へ進めば、堀川通の向うに西本願寺がある。正面通東入ルの煉瓦造りの洋館は、西本願寺伝道院である。七条通を越し、木津屋橋上ルにある本光寺の前に、「伊東甲子太郎(いとうかしたろう)外数名殉難の地」と記した駒札が立っている。「伊東甲子太郎常陸茨城県)の出身で、学問もでき、剣は北辰一刀流の名手であった。元治三年(1864)に門弟ら七人を率いて新撰組に入隊し、参謀として重視された。しかし、尊王派であった伊東は次第に隊長近藤勇と相反するようになり、慶応三年(1867)三月に同士十五人とともに新撰組を離脱して御陵衛士となり、高台寺月真院を屯所とした。その後薩摩藩の援助を受け、盛んに討幕を説いた。しかし新撰組との対立は深く、同年十一月近藤勇は、伊東を招いて酒をふるまい、酔った伊東をその帰路この地で刺殺した。この知らせを聞いた伊東一派は直ちに駆け付けたが、待ち伏せていた新撰組数十名の隊士に襲われ、三名が斬られた。世にこれを油小路七条の変という。京都市油小路通は、京都駅の線路を潜ると、堀川通と合流し、道幅は格段に広くなるが、その南の先には然(さ)したる歴史は刻まれていない。やり羽子(やりばね、羽子つき)や油のやうな京言葉 高濱虚子。 

 「こうした不幸者たちのいくらかは、おそらく自分自身から何かが滲み出るのを漠然と感じるからであろう。まるでそうした神秘的な発散物が外へ出ないようにするかのごとく、あらゆる出口を閉ざして、みずからも緊張した固い表情をつくる。それとも、彼らが仮面を前にしてそうした凍ったような死の表情をつくるのは、模倣の精神や暗示の結果であろう──彼らもやはりとても影響を受けやすく、感じやすいのだ。」(ナタリー・サロート 三輪秀彦訳『見知らぬ男の肖像』河出海外小説選1977年)

 「第1原発事故「最大値」…2号機・格納容器内530シーベルト」(平成29年2月3日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 「嵯峨に遊びて、去来が落柿舎(らくししゃ)に至る」ではじまる芭蕉四十八歳、元禄四年(1691)の嵯峨滞在の記『嵯峨日記』に、小督局(こごうのつぼね)の遺跡を尋ねる件(くだり)がある。「松の尾の竹の中に小督屋敷といふ有り。すべて(※どれも)上下(かみしも)の嵯峨に三ところ有り。いづれか確かならむ。かの仲国(なかくに)が駒をとめたる所とて、駒留の橋といふ、このあたりにはべれば、しばらくこれによるべきにや。墓は三軒屋の隣、藪の内に有り。しるしに桜を植ゑたり。かしこくも(※恐れ多くも)錦繍綾羅(きんしうりようら)の上に起き臥しして、つひに藪中(そうちゆう)の塵芥となれり。昭君(※中国漢の美女)村の柳、巫女廟の花の昔も思ひやらる。うきふしや竹の子となる人の果て 嵐山藪の茂りや風の筋。」平清盛の娘、高倉天皇の中宮徳子は、その女房の召使いの、寵愛の女童葵前(あおいのまえ)との別離を余儀なくされ気落ちした高倉天皇のため、「主上(しゆじやう、高倉天皇)の御思ひにしづませ給ふを、中宮の御方(徳子)より、なぐさめまゐらせんとて、「小督殿(こがうどの)と申す女房を参らせらる(※お側に差し上げる)。桜町の中納言成範(しげのり)の卿(きやう)の御むすめ、冷泉(れいぜい)の大納言隆房(たかふさ)卿のいまだ少将なりしとき、見そめたりし女房なり。」(『平家物語』巻第三 葵の女御)そうなれば、その大納言隆房は、「今はまた君(高倉天皇)に召されまゐらせて、せんかたなくかなしくて、あかぬ別れ(※未練の別れ)の涙には、袖しほたれてほしあへず(※袖が濡れて乾く間もない)。……今はこの世にてあひ見んこともかたければ(※逢うことも難しいので)、「生きてひまなくものを思はんより(※小督殿を思い続けるより)、ただ死なん」とのみぞ願はれける。」と思いつめてしまう。「太政入道(平清盛)このよしを伝へ聞き給ひて、御姫(徳子)は中宮にて、内裏へわたらせ給ふ(※宮中に召されていらっしゃる)、冷泉の少将(隆房)の北の方(妻)も同じく御むすめ(※清盛の四女)なり。この小督殿ひとかたならずか様(よう)にありしあひだ(※二人の婿に愛されているので)、太政入道、「いやいや、この小督があらんほどは、この世の中あしかりなんず(※娘夫婦の間が良くならない)。小督を、禁中を召し出(い)ださばや」とぞのたまひける。小督殿、このよしを聞き給ひて、「わが身のことはいかにもありなん、君(高倉天皇)の御ため心ぐるしかるべき」と、内裏をひそかに逃げ出でて、いづくともなく失せ給ひぬ。」その小督局の失せた先が嵯峨である。が、高倉天皇は弾正大弼仲国(だんじやうのだいひつなかくに)に行方を探させる。笛の名手仲国は、琴の名手だった小督局を、その琴の音で探し当て、密かに宮中に連れ戻す。が、これを聞き及んで怒った清盛は、「小督殿をたばかり出(い)だして(※だまして出して)、尼にぞなされける。出家は日ごろより思ひまうけたる(※覚悟していた)道なれども、心ならず尼になされて、年二十三にて、濃き墨染にやつれつつ(※姿を変えて)、嵯峨の辺にぞ住まれける。主上高倉天皇)は、か様の事どもを御心ぐるしうおぼしめされけるより、御悩つかせ給ひて(※ご病気にかかられて)、つひに崩御(※亡く)なりぬ。」小督局が連れ戻され、高倉天皇との間に範子内親王を生んだのが、治承元年(1177)であり、中宮徳子が第一皇子言仁親王安徳天皇)を生んだのが、治承二年(1178)である。『平家物語』は、仁安二年(1168)高倉天皇が即位し、「この君(高倉天皇)の位につかせ給ふは、いよいよ平家の栄華とぞ見えし。……入道相国(にふだうしやうごく、平清盛)かやうに天下をたなごころににぎり給ふあひだ、世のそしりをもはばかり給はず、不思議のこと(※けしからぬこと)をのみし給へり。たとへば、そのころ京中に白拍子の上手、義王(ぎわう、祇王)、義女(ぎによ、祇女)とておととひ(※姉妹)あり。これはとぢといふ白拍子のむすめなり。姉の義王を入道最愛せられければ、妹の義女をも世の人もてなすことかぎりなし。母とぢにもよき家つくりてとらせ、毎月百石百貫をぞおくられける。家のうち富貴にしてたのしきことかぎりなし。」(『平家物語』巻第一 義王)と、その物語をはじめてまもなくに、清盛が寵愛した遊女義王を登場させ、そのけしからぬことをこう語るのである。「宮中にまた白拍子の上手一人出できたり。これは加賀の国の者なり。名を仏(ほとけ)とぞ申しける。」その仏を、清盛の門前払いにもかかわらず、義王が招き入れると、清盛は忽(たちま)ち虜(とりこ)になるが、「(仏御前が)「かやうに召しおかれさぶらひなば、義王御前の思ひ給はんずる心のうちこそ(※義王の心の様を思うと)はづかしうさぶらへ、はやはやいとまを賜はりて出(い)ださせ給へ」と申しけれども、入道「なんでう、その儀あるべき。ただし義王があるをはばかるか。その儀ならば義王をこそ出(い)ださめ」とのたまふ。」義王は清盛の邸を自ら出て行くと、毎月の百石百貫も打ち切られ、悲嘆に沈み暮らした翌春、清盛が、「いかに義王。そののちなにごとかある(※どうしているか)。さては仏御前のあまりにつれづれに(※退屈そうに)見ゆるに、なにかくるしかるべき(※遠慮はいらぬ)、参りて今様をもうたび、舞なんどをも舞うて、仏なぐさめよ」とぞのたまひける。」義王は母刀自(とじ)の説得に従い、清盛と仏御前の前で涙を堪えて舞うが、「かくて都にあるならば、また憂き目をも見んずらん(※辛い目を見るに違いない)。いまは都のうちを出(い)でん」とて、義王二十一にて尼になり、嵯峨の奥なる山里に、柴のいほりをひきむすび、念仏してぞゐたりける。」(『平家物語』巻第一 義王出家)妹義女、母刀自も共に剃髪し、時過ぎてその秋、嵯峨の庵に尼になった仏御前が現われ、義王らを驚かす。「つくづく物を案ずるに、娑婆の栄華は夢のうちの夢、たのしみさかえてもなにかせん。人身(にんじん)は受けがたく、仏教にあひがたし。このたび泥梨(ないり、奈落)に沈みなば、多生曠劫(たしやうくわうごふ、生まれ変わりの長い時)を経(ふ)るとも浮かびがたし。年の若きをたのむべきにもあらず。老少不定(らうせうふぢやう、予測できない寿命)のさかひなり。出(い)づる息の入るをも待つべからず(※死期が来るのにひと呼吸の猶予もない)。かげろふ、いなづまよりもなほかなし。一旦のたのしみにほこりて(※驕って)、後生を知らざらん(※顧みなかった)ことのかなしさに、今朝まぎれ出(い)でて(※こっそり邸を脱け出て)、かくなりて(※尼になって)こそ参りたれ。」義王の没年とされる承安二年(1172)は確かではないが、治承元年(1177)に京に戻った小督局は、その一時を義王らの暮らす庵から一キロ足らずの所に隠れ住んでいたのである。義王らの墓がある往生院祇王寺は、去来の住まいだった落柿舎から数百メートルの場所にあるが、芭蕉は『嵯峨日記』には何も記していない。芭蕉が目にした小督局の墓と称する桜は、その住居跡であるが、渡月橋北詰から大堰川(おおいがわ)をやや上がった引っ込みにあるその住居跡の小督塚は、昭和三十年代に女優の浪花千栄子が設けたものである。塚は塵一つ、雑草の一本も生えてなく清潔だったが、一本の花も供えられていなかった。

 「熊谷直実入道蓮生(くまがいなおざねれんしょう)がしゃにむに上品上生(じょうぼんじょうしょう)をこそと願ったのは、荘厳はなやかな中で極楽往生することが目的ではなく、往生した後、再び極楽から還り来って、娑婆(しゃば)即(すなわ)ち現世の有縁無縁の衆生が極楽へ往生する折の先導役をつとめることに在った。この点に蓮生の特色があり、それは極楽往生を眼目とする法然の専修念仏には欠けていたところではなかったかと私は思う。」(唐木順三『あづま みちのく』中公文庫1978年)

 「福島・富岡の避難解除2月に判断 政府の住民説明会終了」(平成29年1月30日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 季節は、言葉によって作られる。暦の上の一月二十日は、大寒である。探梅や枝のさきなる梅の花 高野素十。四条通の西の外れ、桂川の手前の梅宮大社(うめのみやたいしゃ)の境内の、早咲きの白梅が花をつけていた。鼻を近づけ冷たい空気と一緒にかぐと、紛れもなく梅の匂いであり、思い出した梅の匂いとして、梅は匂うのである。九相図(くそうず)という仏教絵がある。死体が膨らんだり、血や膿が滲み出て青黒くなり、鳥獣に喰われ、骨になって土に帰る様を、これが人間の正体であるとして子ども時代に教えられた絵である。その朧げな記憶の絵は、東山六道の辻の西福寺にある「檀林(だんりん)皇后九相観」だった。梅宮大社はこの檀林皇后を祀っている。「人皇五十二代、嵯峨の天皇の后、姓橘、諱(いなみ)は嘉智子(かちこ)、清友の女(おんな)也。少(おさな)くして経書に渉猟(しょうりょう)し、眉目画くが如し。人となり寛和にして風容絶(はなは)だ異なり(※美人である)。」(『雍州府志』)嵯峨天皇は、淳和天皇に譲位して後、今の大覚寺の地に御所、嵯峨院を設け、その死の後、嘉智子皇后はその地に別館檀林寺を創建して檀林皇后とも呼ばれ、仏教に篤く、己(おの)れの肉体は滅(ほろ)ぶに任(まか)すとして、その遺体は帷子ノ辻(かたびらのつじ)の辺りに捨て置かれ、犬鳥に喰われるままにされていたという。あるいは、風葬の地はその先で、葬送の際、この辻で棺を覆っていた帷子が風に飛んで落ちたのだともいう。嘉智子皇后は、「太子無きを以って凄々として楽しまず。茲(これ、梅宮大社)に因(よ)りて、神代の幽契に憑(たの)み、酒解(さかとけ)ニ座に祈る。一旦、応感、妊孕有り、遂に当宮の白砂を以って御座(みまし)の下に敷き其の上に居て児を生む。所謂(いわゆる)、仁明(にんみょう)天皇、是(これ)なり。」(『雍州府志』)車を降りた時からクズる三つ四つの孫を連れた若いなりの祖母が、梅宮大社の門を潜る。手水舎で与えた柄杓(ひしゃく)の水で胸をびしょびしょに濡らしたのにもかかわらず、祖母は引き摺るように孫の手を引き、本殿で子授け安産の神に手を合わせる。授かった孫の礼参りなのか、もう一人孫を授かりたいのかは分からない。が、グズる孫を連れて、わざわざやって来るほどの御利益のある場所なのである。本殿の傍らに「またげ石」と呼ばれる、またぐと子宝に恵まれるという、舟の形の石に二つの丸い石が載ったものがある。嘉智子皇后もこれをまたいだのだという。「またぎ石」でも「またぐ石」でもなく、「またげ石」なのである。

 「生き生きとした孤独のなかで感覚や経験を陶冶(とうや)し、社交界の踏み段の上に、申し分なくゆっくりと、祈りのごとくひそかなすばらしい効果をいくぶん持ちうるような思想を形成するという夢を、ジルはなかば忘れていた。」(ドリュ・ラ・ロシェル 若林真訳『ジル』国書刊行会1987年)

 「福島大が第1原発視察事業 新年度から学生対象、廃炉へ人材育成」(平成29年1月23日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 「邸宅を一個の生物に例えるならば、玄関はその頭部に当り客が先ず入って来る所である。玄関の前庭は如何なる客が入って来ても無礼にならぬ程度の特に引き締った式正の格調を要求される所であった。貴人の玄関前の鋪道は正式には石を四盤、亀甲、網代、乱継等の組様に敷き、両側を一直線に揃え、又その前後の両端は必ず門と玄関に連絡されていた。而(しこう)しこの桂御殿は桂御所そのものが御山荘であり一個の大露地であった。(御輿寄(みこしよせ)の)「中門」は内露地の猿戸に比すべき位置にあった。その為に敷石を飛石で打ったが、只の飛石では(書体の)草体に過ぎ、こゝが玄関であると云う意味が薄らぎ格調に乏しくなる、と云って敷石の両端を門と玄関に連絡しては山荘の雰囲気が破壊される。そこで敷石の両端を門と玄関に直結しない「真の飛石」が案出された。それは三十一尺もある大飛石を独立させ苔の中に浮かび上らせる絶妙の構想であった。中門を入って直ぐの砌(みぎり)を廻らした四個組の敷石は両扉への配慮と、これから渡って行く飛石を前にして佇む一呼吸入れる安定の場所であり、次の「角違い」の「くの字」に打った角飛石は左に向かう延石に対し一応右に行く力を与えたかった為で、「歩み」を乗せぬ視覚上打たれた「飾り」の飛石、或は「よろけ」の飛石であった。延石は加工された一つの大角飛石でもあり、これとの調和の為延石と接する所、及び東西両側には角飛、長石が適当に混用され、「角違い」に打ち継がれ「真の飛石」は完成された。」(久恒秀治『桂御所』新潮社1962年刊)「御殿への昇降口には、古書院の北面に設けられた御輿寄と元御台所のわきに設けた御玄関の二カ所、外部から御殿への入り口になっている。このうち御玄関は現在も御殿への通用入り口に使用されているように、一般の昇降口であった。八条宮家の奉公衆は台所入り口を使用するのが、当日本一般のならいである。御輿寄は、宮家の当主と家族および当主より高位の人、たとえば後水尾上皇の専用入り口であった。」(『桂離宮と茶室』原色日本の美術15小学館1967年刊)御輿寄は、宮家の当主と家族および当主よりも高位の人、たとえば後水尾上皇の専用の入り口であった、この慮(おもんばか)りに、桂離宮の見学の足を止めたのである、いや、足を止めさせられたのである。このような話がある。東京に住むある者が、東北福島のある温泉旅館の朝食に出た納豆が気に入り、月に数度その製造元に注文をし、製造元はその度(たび)に三十個ほどの納豆を段ボールに詰めて送っていた。ある年の四月、その製造元の息子の大学の入学式に出るため、その父親は注文のあった納豆の段ボールを抱えて上京する。上野で待ち合わせた親子二人は、その者の住む蒲田で電車を降り、住所を頼りに見知らぬ土地でどうにかその者の住まいを見つけ、柵の門扉を開け、芝生に並べたセメントの飛石を伝って玄関の呼び鈴を押す。出て来た女の主(あるじ)に、はじめて顔を合わせた父親が名乗ると、女の主は二人に、裏に回れと云う。裏に回ると、塀の勝手口が開いていて、親子二人は勝手の狭い三和土(たたき)に靴を脱いでその家の台所に上り、調味料が載ったテーブルに並んだ鉄パイプの椅子に座らされる。女の主は受け取った納豆の礼を云うが、二人に茶を出すようなことはしない。父親が入学式で来たと云っても、祝うような何事も云わず、椅子に座り、いま持ち合わせがないので代金は後で振り込むと云うと、すぐに立ち上がる。用は済んだのである。親子二人は頭を下げ、台所の床に尻を下ろして自分の靴を履き、表に出て行く。黙って来た道を駅まで戻り、親子二人は乗って来た京浜東北線の中で悪夢から放り出されたように覚束なく立ったまま、揺れればつり革にしがみつく。これは聞いた話ではない。

 「ここでみてきた宮城図や各種の官衙(かんが)図もまた、それと一体となった「あるべき実態」を表現し、それを転写し続けていたのだろうと思われます。それは、現実の実態とは必ずしも同一ではなく、かつてあった状況を含む、「あるべき様相」であったとみられることを再確認しておきたいと思います。」(金田章裕『古地図で見る京都』平凡社2016年)

 「避難指示「4月1日解除」評価 政府、富岡に方針説明」(平成29年1月11日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 桂離宮を造営した八条宮智仁(としひと)親王は、慶長三年(1598)に兄である後陽成天皇が云い出した譲位が叶っていれば、第百八代天皇となっていた人物である。その譲位が叶わなかったのは、天正十四年(1586)に豊臣秀吉と猶子、養子縁組を結んでいたことがその理由とされ、自ら辞退したからともいわれている。が、反対した徳川家康は、天皇との外戚関係を築くため、弟ではなく、後陽成天皇の皇子政仁(ことひと)親王に関心を寄せていたのである。第百八代天皇にならなかった八条宮智仁親王はまた、豊臣秀吉の思惑のまま猶子になった時、秀吉亡き後の関白を約束された男でもあり、明国征服の暁には、「大唐都への叡慮(※後陽成天皇)うつし申すべく候。日本帝位の儀、若宮・八条殿(※政仁親王(後の後水尾天皇)か八条宮智仁親王)何にても相究めらるべき事。」(豊臣秀吉が関白秀次に与えた「二十五箇条の覚書」)として、天皇になる可能性があった男でもあった。が、天正十七年(1589)淀との間に世継ぎの棄(すて)が生まれると、猶子の関係は解消され、智仁親王は秀吉に八条宮家を創立させられるのである。このような翻弄屈曲を受けた者は、後にも先にもこの男しかいない。智仁親王は、猶子となった時、秀吉から天皇に次ぐ知行と財産を得ていた。その知行の一部丹波船井の土地を近衛家と交換したのが下桂であり、桂離宮の建つ地である。その近衛家近衛前久(さきひさ)の娘前子(さきこ)もまた天正十四年(1586)豊臣秀吉の猶子となって後陽成天皇に入内し、女御となり、その第三皇子が政仁親王後水尾天皇であり、後陽成天皇の四男二宮は前子の兄近衛信尹(のぶただ)の養子に入った後の関白近衛信尋(のぶひろ)であり、信尋は遊女吉野太夫を灰屋紹益と競った男である。八条宮智仁親王が、兄後陽成天皇の女御前子の実家の近衛家から得た下桂の地は、近衛家のものとなる前は、藤原道長の末裔藤原忠通の領地であり、八条宮智仁親王はこの地に、天皇が我が世の春であった平安王朝の名残りを嗅いだのである。藤原の栄華に憧憬を抱く教養を、智仁親王は身につけていたのである。『源氏物語』の「松風」の巻に出る桂殿は、藤原道長の別業、別荘をモデルにしたといわれている。作者紫式部は、道長の長女、一条天皇の中宮藤原彰子に仕えていたのである。「杯がたびたび巡ったあとで川べの逍遥(しょうよう)を危ぶまれながら源氏は桂の院で遊び暮らした。月がはなやかに上ってきたところから音楽の合奏が始まった。絃楽のほうは琵琶、和琴(わごん)などだけで笛の上手が皆選ばれて伴奏をした曲は秋にしっくり合ったもので、感じのよいこの小合奏に川風が吹き混っておもしろかった。月が高く上ったころ、清澄な世界がここに現出したような今夜の桂の院へ、殿上人がまた四、五人連れて来た。」(與謝野晶子訳『源氏物語』角川文庫1971年刊)歴史家中村直勝は桂離宮をこう書いている。「今出川殿(八条宮智仁親王)には相当な財産があることは面倒な事件になるかも知れぬ胚子である。反徳川の大名達が、今出川殿を盟主と仰いで、反江戸の旗を挙げる惧(おそ)れがないとは言えない。今出川殿は恐るべき怪鬼である。それをして、如何ともすべからざる状態に追い込む必要がある。判り易く言えば、今出川殿の財産を消費してしまう方策を案出することである。八條通桂川西の地が相せられた。そこに今出川殿のために別荘を新構することである。桂離宮はかくして出現した。」(『カラー京都の魅力 洛西』淡交社1971年刊)八条宮智仁親王丹波船井の土地と近衛家の下桂の土地を交換したのは慶長十八、九年(1613、4)の頃とされている。智仁親王のかつての養父であった秀吉の豊臣家が滅亡した大坂夏の陣は慶長二十年(1615)である。中村直勝の云いは、智仁親王が徳川の言い成りに、あるいは言い含められ別荘を造らされたということであるが、造ってもらった後に請求書が回って来るような言い成りは不自然であり、説得力が足りない。八条宮智仁親王は、自ら桂別荘に財産を注ぎ込み、大名勢力とは政治関係を持たぬ姿勢を徳川に示したのではないか。そのような頭の使い方を、八条宮智仁親王はしたのである。桂別荘、桂離宮の現在の姿は、智仁親王没後の荒廃を、二代智忠(のりただ)親王が新たに造営したものであるといわれている。智忠親王加賀藩主前田利常の息女富姫(ふうひめ)が嫁し、その前田家の財で智忠親王は父智仁親王の王朝趣味に茶の湯文化を色濃く肉付けし、離宮を避暑や観月、公家や僧や町衆との茶会や歌会や宴の場としたのである。桂離宮の見どころは、桂垣、穂垣、表門、御幸門(みゆきもん)、御幸道(みゆきみち)、御舟屋、住吉の松、中門、坪庭、御輿寄(おこしよせ)、古書院、月見台、中島、中書院、楽器の間、新御殿、月波楼(げっぱろう)、紅葉山、蘇鉄山、外腰掛、滝口、天の橋立、州浜(すはま)、石橋、松琴亭(しょうきんてい)、卍亭、螢谷、賞花亭(しょうかてい)、園林堂(おんりんどう)、笑意軒(しょういけん)、弓場跡、梅の馬場である。が、桂離宮修学院離宮と同じ皇室用財産であり、見学者は、解説者と警護の者に挟まれ、離宮の内を一時間余で脇目も振らず見て廻ることになる。飛石伝いに池を巡りながら、途中いくつかの茶屋の内を軒下から覗き、かの青と白の市松模様の襖を見、日に焼けた畳を見、目まぐるしく変わる庭景色の起伏に大抵の者は足を取られそうになる。離宮の中心、雁行並びの書院御殿はすべて障子を閉ざし、内に立って、あるいは腰を下ろして知り得るようなことは、外の位置からは永遠に知り得ない。見学の最後に、茅葺切妻屋根の中門を潜り、止めてはいけない足が止まる。田の字に組んだ四枚の石と縁(ふち)石の中門の雨落ちは大きく、踏み入れて止めた足の位置から奥に控える御輿寄は、左の生垣が遮り、見ることは出来ない。次の歩は飛石である。正方形の飛石は四枚あり、その二枚はくの字のように左に並び、次の二枚は右に折れて並び、折れたところは三枚が一線に右を向く恰好である。その正方形の石の間は、一枚目と二枚目、二枚目と三枚目、三枚目と四枚目と順に少しづつ幅を広く取ってある。四枚目の石の上に立ち、はじめて御輿寄の表が現われる。次の飛石はそこから左右二手に別れ、左は同じ正方形が一枚、右手はやや小ぶりの自然石が二つ置かれて尽きる。左の一枚は御輿寄の石段まで斜めに続く、モザイク状に真っ直ぐに敷き詰めた延石の先頭の一枚となる。延石を渡り終えると、また正方形の石が二枚斜め左に置かれ、最後の一個の自然石に足を載せれば、次は御輿寄の石段である。門からすぐには奥を見せず、歩みに一種の苦痛を強いるこの空間設計の慮(おもんばか)りは、畏敬の念を抱かせ、心を揺すられる何かである。この飛石は、「(小堀)遠州好み」の「すみちがい」と呼ばれるものである。もう一つ目に残った飛石は、園林堂の足回りの雨落ちを縫うように、猫の歩みのように横切る四角い石の列である。目に残ったものをもう一つ加えれば、書院の障子の白である。

 「一口に吾妻山と呼んでも、これほど茫漠としてつかみどころのない山もあるまい。福島と山形の両県にまたがる大きな山群で、人はよく吾妻山に行ってきたというが、それはたいていこの山群のほんの一部に過ぎない。」(深田久彌『日本百名山』山の文学全集Ⅴ朝日新聞社1974年)

 「福島県沖魚介「基準値超ゼロ」 95%が不検出、放射性物質検査」(平成28年12月30日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 後水尾(ごみずのお)天皇は、第百七代後陽成天皇の第三皇子、政仁(ことひと)親王であり、後陽成天皇は慶長三年(1598)、弟八条宮智仁(としひと)親王に譲位し院政の復活を夢見るが、徳川家康らの反対でその夢は一旦挫折する。が、慶長十六年(1611)、政仁親王への譲位が叶い、後陽成天皇は太上(だじょう)天皇、後陽成上皇となり、政仁親王後水尾天皇となる。慶長八年(1603)に征夷大将軍となった徳川家康は、二代将軍秀忠の娘和子(かずこ、まさこ)の後水尾天皇への入内(じゅだい)を企み、行く後は曾孫が天皇となり、己れが天皇外戚となることを思い描いたが、見届けぬまま死に、その四年後の元和六年(1620)、延期となっていた和子は、女官およつとの間に皇子皇女を儲けていた後水尾天皇の元に入内する。中宮となった和子は二人の皇子と五人の皇女を生み、その第二皇子となる高仁親王は二歳、第三皇子となる若宮は生まれた年に死亡し、寛永七年(1630)後水尾天皇は七歳の第二皇女である興子(おきこ)内親王に譲位して後水尾上皇となり、興子内親王明正天皇となる。この予告なしの後水尾天皇の突然の譲位は、これ以上言いなりにならないという、父後陽成天皇とも確執があった徳川幕府に対する「ザマア見ろ」であった。徳川幕府は元和元年(1615)、歴史に前例のない「禁中幷(ならびに)公家中諸法度」を定め、天皇、公家から絶対の権威と政治権力を奪い、行事儀礼の務めと学問の研鑚をその存在理由としたのである。法令に背けば天皇も流罪となるのである。後水尾天皇後陽成天皇の三宮で、一宮良仁(かたひと)親王と二宮幸勝親王仁和寺に入室させられている。兄二人を押しのけるような恰好で就いた天皇の地位を、後水尾天皇は自ら望んだわけではない。させられてそうなったのである。後水尾天皇は譲位を、玉体である天皇は身体に灸を据えることは出来ず、己れの身体に出来た腫物を灸で治療することを理由にし、徳川幕府に有無を云わせなかった。譲位した後水尾上皇は、皇族の系譜『本朝皇胤紹運録』によれば東福門院となった和子の二人を含め、五人の局らに三十人の皇子と皇女を産ませ、その内三人の皇子は、後光明天皇後西天皇霊元天皇となるが、徳川の血は流れていない。徳川和子との間の子の明正天皇は、結婚を許されない女帝であり、二十一歳で後光明天皇に譲位した後、出家して徳川家の血は絶える。後水尾上皇は心の中で「ザマア見やがれ」と呟いたのである。天皇の地位を捨てて身軽になった身を、後水尾上皇はそれ以上に身軽にするため、慶安四年(1651)落飾、仏道に入り、後水尾法皇となる。後水尾法皇にとっての仏道は、自由の味である。その四年後の明暦元年(1655)から、東福門院和子の実家である徳川家から金を出させて造営し、万治二年(1659)に完成したのが洛北の修学院離宮である。仏道に入ることが心の自由であれば、仙洞御所に閉じ込められている肉体に自由を得るのがこの別荘、離宮である。「御持病さまざまの事候へども、もと御うつき(鬱気)の一症よりおこり候由、医者ども申し、御自分にもその通りにおぼしめし候、針灸薬にては養生なりがたく候まゝ、内々仰せ出され候ごとく、山水の風景などご覧なられ候て、御気を点ぜられたくおぼしめし候。」(大老酒井讃岐守忠勝に宛てた後水尾法皇の覚書)「御自分にも」「ご覧なられ候」などと独特に己れを言い表わす後水尾法皇は、幕府の言いつけ通り諸藩とも政治にも一切関わらず学問、歌道やら書道やら茶道やら立花に精魂を傾けて来たが、定めに従ったせいで、身体の不調が一向に改善しないので、気晴らしをする場所、遊び場が欲しいと訴えたのである。修学院離宮は、その造営の始まる当時、後水尾法皇の第五皇子尊敬(そんきょう)法親王天台座主となっていた比叡山の西麓にある。総面積五十四万㎡の八割は三つの離宮、御茶屋であり、残りの二割は田圃と畠である。「離宮は御茶屋と称し、上中下の三所にありて、高低相属し、鼎立の状を為す。下ノ御茶屋には寿月観、蔵六庵の亭榭あり、頗(すこぶ)る瀟洒(しょうしゃ)たり。庭園幽邃(ゆうすい)にして青苔滑かなり。中ノ御茶屋には緋宮の化粧殿あり。張附杉戸等に具慶の名画を存す。側に楽只軒(らくしけん)の茗席あり。頗る佳致に富む。上ノ御茶屋は背面深山にして、大池前面にあり、之を浴龍池と号(なづ)く。懸泉漲りて之に注ぐ。島嶼に屋橋を架す。之を千歳橋と名く。橋の砌(みぎり)には奇石怪岩畳む。隣雲亭、洗詩台あり。共に眺望最も佳なり。北に窮邃亭(きゅうすいてい)あり。閑雅なる茗席なり。築庭の方法自然を存し、悠揚として人工の址を認めず。実に天下の名園たり。」(『京都坊目誌』)このような知識を携え、離宮の門を潜っても、宮内庁が管理する皇室用財産であれば、限られた時間を限られた人数で見て回ることになり、後尾に警護の者が控え、寄り道も足を留めることも許されない。列に従い歩く気分は、子ども時代の遠足を思い起させるようで、畠に植わる大根や白菜や葱を目にしていた目を比叡山まで向けると、ここはどこで、どうしてこのような場所を歩いているのかと、後水尾法皇離宮に来ている、あるいは離宮の中であるという思いから一瞬遠ざかる。穭(ひつじ)の出た田圃の通い道から、技巧を極めた中離宮、中の御茶屋の庭に入っても、田舎の隣近所の軒先を抜けるような気分に一瞬襲われる。上離宮、上の御茶屋に向かう通い道は、丈を低くされた松の並木が穏やかに田圃を隔て、待ち受ける門の先の石段の刈り込みは完全に左右の視界を塞ぎ、登りつめた隣雲亭に来てはじめて、ここが世を隔てた離宮であると思い至る。島の浮かぶ目を見張る曲線の大池と、その遥か向こうの洛中の街景色は、後水尾法皇己れが見たかった景色に違いないのであろうが、誰かに見てもらいたいと思わなかったであろうか。後水尾法皇が皇子尊敬法親王に宛てた置文(遺書)がある。「修学院山庄の事。内々思ひまうけ候子細も候へども、御所望候程に、愚老一世の後には譲与申し候べく候。此所は嵯峨の大覚寺に後宇多院皇居の御跡を残され候事、うらやましきやうに覚へ候ほどに、禁裏へゆづりまいらせ候て、つゐには門室をもとりたてられ候て、寺になさせおはしまし候へ。御一代の内に事行き候はずば、次々へゆづりをかれ候て、いつにても時節到来を期せられ候やうに思給ひ候。其の間は荒しはて候はぬやうに、誰にても修理職の者などに下知をくはへ候へと仰せ候てたび候やうにと申し置き候はんと思給ひ候つる事候。根本叡山の境内にて候へば、愚意の本懐相叶ふ事候条、若(もし)又成就ならざる時は、其方一世の後には禁裏へかへしまいらせられ候て給ふべく候。禁裏へも其のとをり申置候事候。相かまへてかまへて右の旨趣たがひ候はぬやうに御はからひ憑(たのみ)存ずばかりに候也。」後水尾法皇は、天台座主の息子尊敬法親王修学院離宮門跡寺院にせよと云った。この時後水尾法皇は、息子の目でこの景色を見、あるいはその先の、生まれるであろう親王の目で景色を見、もっと後の、誰とも知らぬ者の目になってこの景色を見たに違いない。後水尾法皇はそのような男であり、離宮にある田圃や畠は、誰でもない誰かを常に立ち入らせる開かれた余地なのである。

 「けれど私は、今回は新しい植樹の決心がつかなかった。私は、一生のあいだにかなりたくさんの木を植えてきた。この一本がそれほど重要なわけではなかった。そしてまたここでこのたびも、この循環を更新すること、生命の車輪を新たに始動させて、貪欲な死のためにひとつの新しい獲物を育成することに対して、私の心の中で何かが抵抗した。私はそれを望まなかった。この場所は空けたままにしておこう。」(ヘルマン・ヘッセ 岡田朝雄訳『庭仕事の愉しみ』草思社1996年)

 「年内の廃棄物搬入断念 「処分計画」環境省、楢葉と協定結べず」(平成28年12月17日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)