藤原公任(ふじわらのきんとう)が娘の結婚相手藤原教通(ふじわらののりみち)への引出物に用意したという『和漢朗詠集』の巻上の秋に、大中臣能宣(おおなかとみのよしのぶ)の、もみぢせぬときはの山にすん(む)鹿はおのれなきてや秋をしるらん、の歌が載っている。自分の鳴く声で求愛の季節、秋を知るという知の勝(まさ)った、技巧が鼻につくような歌である。鶴鳴くやわが身のこゑと思ふまで 鍵和田秞子(かぎわだゆうこ)。この鶴の声は、自分への問いである。自分の声は、果たして自分の声であるのか、他人の声、他人の考えではないのか。自分の声を自分の声と思うための、そもそもその自分とは何者なのか。何者でもなければ、何者であろうとしているのか。びいと啼く尻声悲し夜の鹿 芭蕉。この句の値打ちは、夜である。例えば、旅先で敷き延べた床に就こうとしている時に鹿の声を耳にする、という映像を想像すれば、通俗を免れないが、その実際の鹿の声は、通俗と関わりなく聞く者の胸の奥にまで届くはずである。転生を信ずるなれば鹿などよし 斎藤空華(さいとうくうげ)。芭蕉の句と並べれば、空華の句の成熟度は歴然としている。三十二歳で世を去った空華は、若い時には微塵も思わなかったに違いない転生というものを、遠くない死を前にして、仮定として考えることは構わないと思う。転生を想像すれば、気分が変わるかもしれない。が、この仮定は、願いではない。空華はまだ、転生を信じるほど追いつめらていない。だから鹿などよし、なのである。洛西栂尾(とがのお)にある高山寺に、一対の鹿の木像がある。いまは重要文化財に指定され、京都国立博物館の倉庫に眠っている、その神鹿と呼ばれている牝の写真が、『京都再見』(鹿島出版会1966年刊)に載っている。鹿は博物館のガラスケースの中ではなく、高山寺石水院の広縁に置かれている。背後は霞んだ秋の山である。鹿は床に腹をつけて臥せ、細い前肢を弓のように軽く曲げ、持ち上げた首を伸ばし、口を開き、目は中空に向かって見開かれ、その表情は哀切極まりない。施(ほどこ)された色は殆(ほとん)ど剥がれ落ち、顔や耳や胴や肢の継ぎ目が露わになっている。この牡牝の神鹿は、後鳥羽上皇の命で華厳道場高山寺を開いた明恵(みょうえ)が、その鎮守とした春日・住吉明神の拝檀に置いたものであるという。明恵は、己(おの)れの前を歩んでいた法然の専修念仏を、菩提心を撥去(はっきょ)する過失、と非難した者である。阿弥陀仏を信じ、念えるだけで救われるという法然の革新の教えは、明恵の眼には、根本の求めるべき悟りを骨抜きにしていると映ったのである。「片輪者にならずば、猶(なお)も人の崇敬に妖(ばか)されて、思はざる外に心弱き身なれば、出世もしつべし。左様にては、おぼろげの方便をからずは、一定(いちぢやう)損とりぬべし。片輪者とて、人も目も懸けず、身も憚(はばか)りて指し出でずんば、自(おのづか)らよかりぬべしと思ひて、志を堅くして、仏眼如来(ぶつげん)の御前にして、念誦の次(つい)でに、自ら剃刀を取りて右の耳を切る。」(「栂尾明恵上人伝記」)この耳切りは求道、悟りを求めるための強烈な明恵の姿であり、そうせざるを得なかった明恵のもろさである。あるいは、このような生の声を残した明恵の決意である。「我が朝に、鑑真和尚唐土より渡り給ひて、専(もっぱ)ら此の波羅提木叉を弘め給ひしかば、其の比、頭(かうべ)をそ(剃)れる類、是(これ)を守らずと云ふ事なし。面々、其の上に宗々をも学しけれども、今は年を遂(お)ひ日に随ひて廃(すた)れはてて、袈裟、衣より始めて、跡形もなく成れり。適(たまたま)諸宗を学する者あれども、戒をしれる輩はなし。況(いはん)や又受持(じゅじ)する類なし。何を以てか人身(にんじん)を失はざる要路とせん。今は婬酒を犯さざる法師も希(まれ)に、五辛(ごしん)・非時食を断てる僧も無し。此の如く、不当不善の振舞ひを以て法理を極めたりと云ふとも、魔道に入りなば、人天の益もなく自身の苦をも免(まぬが)れずして、多劫の間、徒(いたず)らに送らん事、返す返すも損なるべし。如何にしてか古(いにしへ)のままに戒門を興行すべき方便を廻(めぐ)らさん。」(「栂尾明恵上人伝記」)明恵は、「印度ハ仏国也、恋募之思ヒ抑ヘ難キニ依リ遊意ノ為ニ之ヲ計リ、哀々マイラハヤ」との釈迦への一途さだけではなく、遁世したはずの身の回りを悩ませる俗世からの脱出も理由にあったといわれているが、天竺行きを二度志し、「神のお告げ」を受けて二度とも断念した後、俗界の外れ栂尾に高山寺を構えるのである。「人は阿留辺幾夜宇和(あるべきやうわ)と云ふ七文字を持つべきなり。僧は僧のあるべき様、俗は俗のあるべき様なり。乃至(ないし)、帝王は帝王のあるべき様、臣下は臣下のあるべき様なり。此のあるべき様を背く故に、一切悪(わろ)きなり。我は後世(ごせ)たすからんと云ふ者に非ず。たゞ現世に、先づあるべきやうにてあらんと云ふ者なり。仏法修行は、けきたなき心在るまじきなり。武士なんどは、けきたなき振舞ひしては、生きても何かせん、仏法もかくなめくりて、人に随ひて、尋常(よのつね)の義共にて足りなんと思ふべからず。叶はぬまでも、仏智の如く底を究めて、知らんと励むべし。」(「栂尾明恵上人遺訓」)明恵にとってのあるべきやうわ、一日の規律はこうである。「一酉(午後六時)礼(拝)時 唯心観行式。一戌(午後八時)行法一度 三宝(仏法僧)礼。一亥(午後十時)座禅 数息。一子丑寅(午前零時より午前四時まで)三時休息。一卯(午前六時)行法一度有無可随時 礼時理趣礼懺等。一辰(午前八時)三宝礼 小食持経等読誦光明真言四十九遍。一巳(午前十時)座禅 数息。一午(正午)食事 五字真言五百遍。一未(午後二時)学問或書写。一申(午後四時)会師要決」「貞永式目」を定めた鎌倉幕府三代執権北条泰時は、「(明恵上人に)承久大乱の已後在京の時、常に拝謁す、我不肖蒙昧(もうまい)の身たりながら、辞する理(ことわり)なし、政(まつりごと)を務(つかさど)りて天下を治めたる事は、一筋に明恵上人の御恩なり。」(「栂尾明恵上人伝記」)と語る関係を明恵に持っていた。北条泰時の名は、明恵に箔が付かなかったはずはない。この明恵には奇妙な習慣があった。死の前年までの四十年間、見た夢を書き記していたのである。「八月廿七日の夜、夢に、自らの手より二分許(ばか)り之虫、ふと虫の如し、懇(ねんご)ろに之を出せりと云々。即(すなは)ち懺悔の間也。」「狼二疋(ひき)来リテ傍ニソイヰテ我ヲ食セムト思ヘル気色アリ、心ニ思ハク、我コノム所ナリ、此ノ身ヲ施セムト思ヒテ汝来リテ食スベシト云フ、狼来リテ食ス、苦痛タヘガタケレドモ、我ガナスベキ所ノ所作ナリト思ヒテ是(これ)ヲタヘ忍ビテ、ミナ食シヲハリヌ、然(しかして)シナズト思ヒテ不思議ノ思ヒニ住シテ遍身ニ汗流レテ覚メ了(をは)ンヌ。」「(建暦元年)十二月廿四日 夜の夢に云はく、一大堂有り。其の中に一人の貴女有り。面皃(めんぼう)ふくらかをにして、以ての外に肥満せり。青きかさねぎぬを着給へり。女、後戸(うしろど)なる処にして対面。心に思はく、此の人の諸様、相皃、一々香象(かうざう)大師の釈と符合す。其の女の様など、又以て符号す。悉(ことごと)く是(こ)れ法門なり。此の対面の行儀も又法門なり。此の人と合宿、交陰す。人、皆、菩提の因と成るべき儀と云々。即ち互ひに相抱き馴れ親しむ。哀憐の思ひ深し。此の行儀、又大師の釈と符合する心地す。」あるいは弟子が書き留めたこのような言葉こそが、明恵の真骨頂である。「若(も)しは一管の筆、若しは一挺の墨、若しは栗・柿一々に付きて、其の理を述べ、其の義を釈せんに、先づ始め凡夫、我が法の前に栗・柿としりたる様より、孔・老の教へに、元気、道より生じ、万物、天地より生じる、混沌の一気、五運に転変して、大象を含すと云ひ、勝論所立の実・徳・業・有・同異・和合の六句の配立、誠に巧みなりと云へども、諸法の中に大有性を計立して能有(のうう)とし、数論(しゆろん)外道(げどう)の二十五諦も、神我時自常住の能生を計して、已(すで)に解脱の我、冥性の躰に会する位を真解脱処と建立せる意趣にもあれ、又仏法の中に先づ自宗の五教によるに、小乗の人空法有(にんくうほふう)、始教の縁生即空、終教の二空中道、頓教の黙理、円教の事々相即、又般若(はんにゃ)の真空、法相(ほつさう)の唯識無境の談、法華の平等一乗、涅槃の常住仏性にもあれ、一々の経宗により一々の迷悟の差異、其の教宗に付きて、栗・柿一の義を述せんに、縦(たと)ひ我が一期を尽して日本国の紙は尽くるとも、其の義は説き尽し書き尽すべからず。」明恵は、栗一個柿一個ですらこの世のどのような教え知識をもってしても、いい尽くすことは出来ないというのである。晩年、明恵は仏光観の実践に費やしたという。若修行者求大菩提心者、無労遠求。但自浄一心。心無即境滅。識散即智明。智自同空。諸縁何立。仏、釈迦の教えを光として捉(とら)え、その光を受けた世界、教えによるところの世界の有様(ありよう)を、瞑想によってあたかも光のように己(おの)れに取り込み、己れ自身と世界との隔(へだ)たりが失われ、無くなり、成仏、悟った者としての己れ、あるいは真の己れをそこに見ることが出来るというのである。冬空に響き渡った自分の声を、疑いなく自分の声として自分の耳で聞きとめること、智自同空、が明恵のいう悟りである。高山寺の神鹿は、春日社詣での折、明恵の前で並び臥した東大寺の鹿に因(ちな)むという。その牝の哀しく鳴く顔は、鹿の顔ではない。転生した人間の顔である。

 「窓に うす明りのつく 人の世の淋しき」(「旅人かえらず」西脇順三郎西脇順三郎全詩集』筑摩書房1963年)

 「帰還率8割に 福島・川内、仮設と借り上げ住宅無償提供終了要因」(平成29年6月11日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 大田垣蓮月(おおたがきれんげつ)という名は、聞いた記憶があるが、何者かよく分からない。蓮月は、江戸幕末の歌人、陶芸作家である。その蓮月焼と呼ばれる、自作の和歌を釘彫りした手でこねたいびつな器は、評判の京土産であったという。蓮月の詠んだ和歌は、たとえばこのようなものである。つれづれと春のながめの手すさびにむすびてながす軒の糸水。明けぬるかほのかすみつつ山の端のきのふの雲は花になりゆく。山ざとは松のこゑのみきゝなれて風ふかぬ日はさびしかりけり。くさの名のおもひのはてはくちてだに野べの螢ともえわたるらん。いにしへを月にとはるる心地してふしめがちにもなる今宵かな。散りつもるこの葉の山をへだてにていとどうき世にとほざかりゆく。柴の戸におちとまりたるかしの実のひとりもの思ふ年のくれかな。明けたてば埴(はに)もてすさび暮れゆけば仏をろがみ思ふことなし。あるいはこんな歌も詠んだ。戊辰のはじめ事ありしをり あた(仇)みかたかつもまくるもあはれなりおなじ御国の人とおもへば。これは、蓮月が勤王派と親交があったとする噂をもとに、西郷隆盛の手にこの歌が渡り、勝海舟との会談後の江戸無血開城に繋がったという作り話を呼ぶことになった歌である。「蓮月、初名は誠(のぶ)、姓は大田垣氏。父光古(てるひさ)は因州大覚寺村の人。中年におよんで京都に入り、華頂王(知恩院門跡)に仕えるうちに誠が生まれた。誠は幼いとき母をうしない、父によく仕えた。うない髪の年頃を脱したので、父は彦根の人で近藤某というものを配して夫婦にした。子女は四人できたが、みな早くに死んだ。また夫の近藤某もそれにつづいて死んだ。このとき、誠は三十二歳。もともと美形の女なので、放蕩者が何べんも言い寄った。誠はわが身をうらめしく思い、そばにあった秤(はかり)を引き寄せると、自分で歯を抜いた。鮮血とびちり、放蕩者はおそれおののき、逃げ去った。ここにいたって、誠は髪をそり、墨染の衣をまとい、名を蓮月とあらため、ひそかに和歌を詠んで、それをたのしみにした。こうして、十年すぎ、父も歿した。尼は悲しみをおさえきれず、こんな歌を作った。つねならぬ世はうきものとみつぐりのひとり残りてものをこそおもへ。たらちねのおやのこひしきあまりにははかにねをのみなきくらしつゝ。ついに岡崎に隠れ暮らした。埴(はに)をこねて茶碗を作り、これで生計を立てた。晩年にはいよいよ世塵をいとい、さらに遠くの西賀茂に隠れ住んだ。明治八年十二月三日終焉。行年八十五歳。」(「書蓮月尼」中根香亭『香亭蔵草』大正三年(1914)刊)「大田垣蓮月 寛政三~明治八(1791~1875)幕末・明治初期の女性歌人。名は誠(のぶ)。出家して蓮月と称する。京都に生まれ、大田垣伴左衛門光古(てるひさ)の養女となる。十七歳で光古の養子望古(もちひさ)と結婚、のち死別し、彦根藩士石川重二郎を婿に迎えたが、蓮月が三十二歳の時に没したので出家した。養父とともに知恩院山内真葛庵に住んだが、四十二歳の時に養父を失い、四人の子供もすでに夭折(ようせつ)して、孤独の身となる。岡崎・知恩院・西賀茂などに転々と庵居し、人に勧められて、自詠の歌を彫りつけた陶器をつくった。線の細い文字を特徴とするこの陶器は蓮月焼と呼ばれて流行したが、一鍋一椀の食べ物以外は貧しい者に施して清く淋しい生涯を送った。」(『京都大事典』淡交社1984年刊)「蓮月尼隠棲茶所 神光院門内左手にあり、幕末の歌人大田垣蓮月が晩年に隠棲した。蓮月尼は名を誠(のぶ)といい、寛政三年(1791)鴨川西畔の遊廓三本木に生れ、まもなく京都知恩院の寺侍大田垣光古(てるひさ)の養女となった。二度結婚したが、愛児に死別し、文政三年(1820)三十三歳で落髪、蓮月と号した。生活の資として陶器を作り、自詠の歌と号を刻んだ急須や茶碗は、蓮月焼ともてはやされた。孤独を求めて生涯三十数回も住まいを替え、「屋越しの蓮月」ともいわれた。当所には慶応二年(1866)以来住み、明治八年十二月十日、ここで八十五歳の生涯を閉じた。茶所は四畳半の部屋と三畳の台所からなり、窯は土間に設けられているが、わが子同様にかわいがった富岡鉄斎筆の蓮月庵図が往時を思わせる。また蓮月が生前愛して「うぐひすの都にいでん中やどりかさばやと思ふ梅咲にけり」と詠んだ梅が茶所の前にある。」(『京都・山城 寺院神社大事典』平凡社1997年刊)「蓮月は寛政三年(1791)正月八日、京都の三本木に生まれ、誠(のぶ)と名付けられた。父に当たる人は故あって父を名乗らず、母に当る人も母を唱えることが出来ない事情があった。のぶは生後十日余で大田垣伴左衛門光古(てるひさ)の養女となった。………のぶ、のちの蓮月の実父は伊賀上野城代家老職、藤堂新七郎良聖(よしきよ)という人である。良聖は藤堂新七郎家の六代目に当たり、明和四年(1767)に生まれ、寛政十年(1798)八月二日、三十二歳で病歿した。」(杉本秀太郎『大田垣蓮月』青幻舎2004年刊)藤堂良聖と大田垣光古を結びつけたのは、杉本秀太郎によれば囲碁であるという。天明の大火で失った藩邸の再建で上洛した良聖を、藤堂高虎の藤堂家と関係浅からぬ知恩院で光古が囲碁の相手をしたのではないかと杉本は推測している。誠の実母は、藤堂高虎と縁(ゆかり)のあった丹波亀山藩に嫁ぎ、その亀山城に誠は、望古(もちひさ)と結婚する十七歳までの十年間御殿奉公に出ている。長男長女の死の後、「次女が智専童女となった文化十二年(1815)には、この次女の死の二箇月あまりのちに、養子の望古が死亡する。しかも彼はこの死に先立って大田垣家から離縁され、兄の田結荘天民のもとに身を寄せ、そこで病歿したとされる。のぶは二十五歳である。」(杉本秀太郎『太田垣蓮月』)誠の再婚相手は、文政二年(1819)に大田垣家に養子に入った彦根藩士石川重二郎であり、古肥(ひさとし)と名を付けられ、その重二郎古肥は、文政六年(1823)に病死し、文政八年(1825)には、その忘れ形見の女児が七歳で病死する。もう一人いたとされる男児は、文政十年(1827)に死亡したという。蓮月と共に文政六年(1823)落髪して西心と名乗った養父光古の死は、天保三年(1832)、蓮月四十二歳の時である。蓮月の焼き物はこの後に始まり、やがて贋物(にせもの)が出回るほどの人気となり、膳所藩士(ぜぜはんし)黒田光良に器を作らせ、己(おの)れが歌を釘彫りする共同作業になったという。それ以前にも、蓮月の身の回りの世話をしていた者がいる。蓮月が隣りに越して縁となった富岡鉄斎である。鉄斎の絵描きの初めには、蓮月の和歌に鉄斎が画を描き添えていたのである。評判の蓮月焼はよく売れ、売れた分はそのまま蓮月の収入となった。その金にまつわる挿話がある。一つ、嘉永三年(1850)の飢饉に、三十両奉行所に寄付した。一つ、鴨川の丸太町橋を私費で架けた。一つ、手間賃を払って仕立てた古着を、頭巾を被った蓮月が貧しい家々の玄関に投げ込んで逃げ帰った。あるいは、明治八年、この年の十二月に蓮月は亡くなるが、八月十八日の「東京曙新聞」に載った蓮月の記事。「昨十七日の読売新聞に西京の蓮月尼の宅へ近頃泥坊の這入(はい)った事が書いてありますがこの尼さんの風流好きで歌が上手のうえに、手作の瀬戸細工に名の高い技は新聞にある通り、皆さん御承知の事でございますが、西京の人から本社へ知らせてきました所は少々事実が違っています。どちらがうそかほんとうかその段においては分りませんが、皆さん御見合せのための知らせのままにかき載せます。さてその泥坊が尼さんに金を貸してくれよというに、少しも騒がず、手箪笥(てだんす)の中から一包の金(百円包のよし)を取り出し与えますと、泥坊はこれほどまでとは思いもよらず肝(きも)をつぶした様子なりしが、なんとも大胆に今度は腹がすいたから茶漬の御馳走になりたいといい出したので、わたしはひとり暮しだから余分の御膳は炊(た)きませんと、食い残りの御鉢をやると、泥坊たちまち食い尽して、これでは少し足らない、なんぞ外(ほか)に食いものがありませんかと不足をいうにぞ、昨日とか今日とか貰(もら)いし麦粉菓子を出しましたれば、泥坊は食い掛けながら気絶してどっさりその場に倒れたれば、尼さんはこれにびっくりしてうろつき廻り介抱するうち、近所の人も寄集りしに、泥坊は早死に切ってありました。この一件で麦粉菓子の由来を御上からお調べになりました所が、尼さんに金三百円借りている人よりの進物なることが分かりました。泥坊もこわいけれども、毒殺はまた一層こわいではございませんか、あまり奇妙なことゆえ御知(しら)せ申すというてよこした。」(「蓮月焼」服部之総(はっとりしそう)『黒船前後・志士と経済 他十六篇』岩波文庫1981年刊)この記事引用の著者服部之総は、「この記事の調子には、風流できこえている老蓮月尼を、単に金をためているという一事だけで、三面記事的にあばこうとする人情が見える。」と加え書いている。杉本秀太郎の襟を正した行儀のいい評伝『太田垣蓮月』には、このエピソードは出てこない。蓮月に、盗人のいりたるをり、と題した歌がある。白浪のあとはなけれど岡崎のよせきし音はなほ残りけり。「白浪」は、歌舞伎「白浪五人男」の盗賊を、「岡崎」は、もと住んでいた場所であるが、「よせきし音」は、事件の余韻のことかもしれぬが、分からない。富岡鉄斎宛の、蓮月のこのような手紙がある。「この村なども、冬中はどうかたべつづき申べく、春は何もなくなり候よし、みなみななげき居候。何分此年米不出来にて、値だん高ければむづかしく、多分子供多く、としより多く、わるい折には皆ゝ難儀ぞろひにて、毎日いろいろなことのみきゝ候て、ちからの及び丈はいたし居候へども、やくだつほどの事出来不申、一とうの事と存参らせ候。さりともしばゐ顔見せ大入のよし、民蔵と申もの二十日切三百両きふ金のよし、もとこのものかるわざ師ゆゑ、身は軽く候はんなれど、何分にも七十余老人なり、七化に、ちうにつり上のげいをいたし候よし。世渡りもいろいろ。この村近所、盗人のみ多く、全く難儀ゆゑの事と存、きのどくに存候………世渡りは川渡りと同ぜん、ふち瀬もあれば、又あさせも御ざ候、御心長く御世話被遊、御門人方も、おひおひ御出来、御出世のじせつ………」(「太田垣蓮月・消息」『近代浪漫派文庫2富岡鉄斎・太田垣蓮月』新学社2007年刊)七十余歳の老人の私、蓮月に、民蔵という輩(やから)が二十日を期限に三百両を貸してくれと、芝居がかったもの云いをしたことを、さながら大入りの顔見世興行のようだったと、蓮月は書き送っている。この出来事が、泥坊記事の元になったものであるかどうかは不明である、が、蓮月に、金貸しの顔はあったのである。「白浪のあとは」の歌が載る歌集「拾遺集」の、この歌の前に、人の妻にかはりて、かへりごとかきつかはすおくに、のことわり書きがある、つねならぬよはのこがらしふきしより乳房さむけき夢のみぞみる、の歌がある。人によって伝え記された、あるいは調べ上げられた蓮月についての事柄は、なるほど悲運不幸者であり、それを撥(は)ね退(の)け自立した歌人・陶芸作家として成功した者であり、社会にも目を配った者であるということが出来る。蓮月の和歌もその手紙も、そうであろう人が詠むような才能があり、時に知恵を効かせた歌であり、そうであろう人が書くような情愛の文面である。が、この、つねならぬよは(夜半)のこがらしふきしより乳房さむけき夢のみぞみる、には蓮月の生々しい声が残っている。外面(そとづら)のいいよそ行きの言葉ではなく、只一度の吐いた本音の淋しい声として。大正十年(1921)に改修したという、西賀茂神光院にある蓮月が住んだ茶所(ちゃじょ)、参拝者に茶を出した場所は、柱の細い二間だけの粗末な建物である。夜は東を流れる、賀茂川の流れが聞こえたという。蓮月の墓は、神光院を西に行った山裾の小谷(おだに)墓地にある。墓は名の通り、谷になった山肌に建ち、どの墓へ参るのにも石段を上る、村外れの古い墓地である。石の案内のある蓮月の墓までは、狭い石段を二つである。桜の老木の根方に建つ蓮月の墓は、大振りの漬物石のように、驚くほど小さい。墓の字は、富岡鉄斎である。この墓は、蓮月を小さくつましく見せようとする意図があるのかもしれない。たとえ生前本人がそう望んでいたとしても、この西瓜の種(たね)のような墓は、どこか出来すぎの、作りものめいたものに思えるのである。が、この蓮月の墓の前に立った者は、誰もその小ささに、思わずも膝を屈するに違いない。

 「たしかに日に焼かれ、雨に打たれるつらい日もあったが、野に一斉に花が咲き、普請場の川土堤に腰をおろして休んでいると、対岸の雑木林からうつくしい鳥の声が聞こえて来るときもあった。そういう季節には、孫六は会所勤めのころには知らなかった快い解放感に浸ることが出来た。そして年月が経つ間に、孫六も少しは楽をすることをおぼえ、普請組勤めに馴れた。組の人間になったと言ってもよい。」(「浦島」藤沢周平文藝春秋短篇小説館』文藝春秋社1991年)

 「分かりやすく「情報発信」 楢葉で廃炉・汚染水対策福島評議会」(平成29年5月30日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 平安京の東西の通りの一つ、四条坊門小路が蛸薬師通(たこやくしどおり)という名に取ってかわられたのは、通りの東の外れに蛸薬師堂が建った天正十九年(1591)より後のことであるが、その天正十九年には、豊臣秀吉の命で室町通姉小路の北にあった円福寺が、この蛸薬師堂の建つ地に移転し、その同じ年にこの薬師如来を本尊とする永福寺が円福寺に合併し、その子院となっている。が、いま蛸薬師堂に円福寺の名は見当たらない。円福寺は明治十六年(1883)、蛸薬師をここに置き去りにして、三河国額田郡岩津村に移り、その同じ地にあった岩津城主松平親則菩提寺妙心寺が檀家を置いて、居抜きとなった円福寺の空き家に移って来たのである。この蛸薬師堂と円福寺の元の場所は地名として残っている。地図を見れば、二条通とその一つ南の押小路通の間に蛸薬師町、その一つ南の御池通と次の姉小路通の間に円福寺町とあり、二つの町の真ん中を室町通が南北に通っていて、この二つの寺の位置が近かったことが分かる。が、その近さが合併に関わることなのかどうかは分かっていない。現在の妙心寺子院、蛸薬師堂の正式名は、浄瑠璃山林秀院永福寺である。その寺の伝えでは、この名にある林秀という名の者が、剃髪して比叡の薬師如来に参り、老いてその月参りが困難になり、養和元年(1181)、薬師如来に身の傍(そば)で拝める薬師仏を願うと、夢で薬師仏のありかを知らされ、そのお告げの場所で掘り出した石の薬師如来を、林秀は堂に祀る。時経(た)って建長(1249~1256)の頃、僧侶善光が、寺に引き取った病気の母が云った「好物の蛸が喰いたい」の願いを叶えるため、忍んで魚屋で蛸を買うが、見咎(とが)められ、母の病気のためであることをもってその薬師如来に念じ、箱の蓋を開けると、中の蛸のその足が八本の経巻に変身したのだという。別の話がある。林秀が薬師如来を祀った堂が水沢の近くだったため、沢の薬師、沢薬師(たくやくし)と呼ばれるようになった。もう一つは、蛸屋の家の土間に夜な夜な光るものがあり、掘り出すと碓(うす)の壺石で、そこに薬師像が浮かび上がっていた。病気の母の好物が蛸でなくても、魚をタブーとするこの坊主の話は成立する。恐らく語りのはじめにタク、タコの言葉があった。蛸薬師堂の前の、新京極通を上ったところに誓願寺がある。この二つの寺の移転合併の頃の誓願寺の住持は、落噺(おとしばなし)、落語の祖安楽庵策伝(あんらくあんさくでん)である。タクが蛸になっても蛸薬師の物語りは、世の中に落語のように受け入れられたのである。生臭いのは、円福寺妙心寺の入れ替わりである。『京都大事典』(淡交社1984年刊)は、このことを二つの寺同士が「寺名・寺歴を交換した。」と述べている。居抜きどころではない。奇妙で滑稽な話である。僧侶善光の母は、語りによれば、蛸を喰わなかった。が、病は癒えた。善光が経を唱えると、経巻から姿を戻した蛸が光を発し、その光を浴びて、善光の母は病いが治ったのである。

 「はじめて聞いた。いはれを聞かされても、どうてえことないけど。」(石川淳狂風記集英社1980年)

 「改正福島特措法が成立 帰還困難区域内に「復興拠点」」(平成29年5月13日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 鳶尾草(イチハツ)や一椀に人衰へて 綾部仁喜。鳶尾草はアヤメを小ぶりにしたようなアヤメ科の花であり、アヤメよりも早く、水のないところに、いま頃の時期に咲く花である。俳句はこの鳶尾草の花、あるいはイチハツという言葉に、人が衰えるというありきたりな様子を並べるのであるが、「一椀に」という言葉は、この俳句をありきたりにさせていない。たとえば、一椀分の食事も摂(と)れないほど食欲が衰えるという切実さは、誰の身にも起こり得る。あるいは、一つの茶碗を使い続けて、ある日ある時その割れもせぬ茶碗に比べ、自分の心身の衰えを自覚するということもあるかもしれない。あるいは、理想の椀、碗を追い求め、その椀、碗を作り得たか、作り得ぬまま肉体が衰えるに至った者を云い表わしたとすれば、俳句はありきたりである。毎日来る日も来る日も、一椀分の飯を食べ続けてきて、いま己(おの)れの身に衰えがやって来た。一椀は食事の単位であり、一杯の飯を食べ続けてきたことで、こうして生き延びたのであり、生き延びたことで、己れの衰えを味わうことになった。衰えを味わうことが出来るほど、その者は生きることが出来たのである。「一椀」は、生きるための必要な単位であり、生きることの持続を、俳句作者は「一椀」という単位に託したのである。衰えは変化である。人の衰えは死に向かうが、その変化を面白いと受け止めよ、という思いが「一椀に」の「に」に込められているのではないか。兄桓武天皇に、藤原種継(たねつぐ)暗殺への関わりを疑われ餓死自殺し、「怨霊」となった早良親王(さわらしんのう)は、洛北上高野の崇道神社(すどうじんじゃ)に、崇道天皇と諡(おくりな)を貰い、桓武天皇の命で祀られているが、上御霊神社(かみごりょうじんじゃ)にも早良親王は、怨霊神として祀られている。上御霊神社には、早良親王のほか、桓武天皇との父光仁天皇、白壁王の妃、聖武天皇井上内親王と、藤原百川ももかわ)の策謀で皇太子を廃されたその子他戸親王(おさべしんのう)の他五名の怨霊を、魂鎮めのために祀り、明治天皇は次々の皇子の早死を憂い、霊元天皇の後継で揉め、佐渡流罪となった霊元天皇典侍(ないしのすけ)の父小倉実起(さねおき)公卿一家らの怨霊を祀るよう命じた。その上御霊神社の南の空堀と境内に鳶尾草が咲いている。ここの鳶尾草は、一椀を自分の意思で拒み、強引な衰えを迎えた人魂に添えられたものである。

 「二つの記憶が残っている。最初のは何か格別なものを証明しているわけではない。二つ目は、まあ、革命期の雰囲気を確実に見きわめさせるものだ。」(ジョージ・オーウェル 新庄哲夫訳『カタロニア讃歌』早川文庫1984年)

 「デブリ除去で『新技術』開発 第1原発、レーザーと噴射水活用」(平成29年4月28日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 喉頭癌を患い職場を去って行った韓国籍の同僚だった者が、天神川の桜が奇麗であると、遠慮深げに云ったことがある。桜の話をしたのは、恐らく去年か一昨年のいま頃である。それより以前には、その者とは見ず知らずの関係であり、その者の退職は去年の夏である。その遠慮深げだった云いは、桜はどこで見ても桜であり、同じように奇麗であるという物云いに対する、些(いささ)かの異議でもあったが、桜について日本人に物云うことへの、韓国人の遠慮であったかもしれない。その元同僚は、二十歳で来日し、京都生まれの韓国人と結婚して二人の子を儲けた後、その夫と死別した六十余歳の女性である。天神川は、北の鷹峯からはじまり、北野天満宮の辺りまでの流れを紙屋川と呼び、南に下って吉祥院天満宮の西で桂川に注ぐまでを天神川と呼ばれている。元同僚の云う天神川の桜は、その口振りによれば、四条通から五条通の間の辺りを指していた。御池通で御室川と合流してからの天神川は、真っ直ぐな幅二十メートル余の、底の深い、浅い流れの川である。桜並木は、東の縁(ふち)沿いにあった。並んで走る葛野(かどの)中通に挟まれ、枝の下の叢(くさむら)には小径が通っている。川の西側は車の往来のある天神川通である。冷たい風が吹くこの日の空は曇り、日の暮れ様(よう)が緩慢な夕刻、並木の外れに並ぶ三つのベンチの内の二つで、数人の者が缶ビールを呑みながら持参のものを喰っていた。宴を張っているのは、その者らだけである。母子三人が、幾枚か写真を撮って帰り、五条通の方からやって来た中年の夫婦らしき者が、空いていたベンチに座り、ニ三分で腰を上げて行った。葱のはみ出た買い物袋を提げた者が、頭上を見上げながら通って行く。その後ろをやって来た者が、家に帰る途中かもしれぬ足を止めて桜を見上げる。その二人が去ると、人の通りが暫(しばら)く途絶える。日中響いていたかもしれぬ、鳥の声もしない。この桜並木の際の枝は、どれも川の底に向って撓(しな)い、それは何者かによってそうさせられたのではなく、人によって植えられた後は、己(おの)れの意思をもって枝を曲げ伸ばした、桜の身体とでもいうべき様(さま)であり、その並びの一本一本が、自らを花で覆っている様(さま)にも、この桜の身体の強靭な意思を思うのである。桜に限らず、大木(たいぼく)は擬人化され易い。ここの桜は、平凡で愚直な桜である。が、愚直でなければ示すことの出来ない意思を、この桜の幹に触(さわ)れば感じることが出来る。そのように感じなければ、日がとっぷり暮れた薄闇の中で、俄(にわか)にしみじみとした気分に襲われたりはしない。通りを挟んで天神川ホールという葬儀場が、東側にある。桜の咲く時期にこの場所で死者を送った者は皆、この愚直な桜を目にすることになるのである。

 「日毎夜毎(ひごとよごと)を入り乱れて、尽十方(じんじつぽう)に飛び交はす小世界の、普(あま)ねく天涯を行き尽して、しかも尽くる期(き)なしと思はるゝなかに、絹糸の細きを厭(いと)はず植ゑ付けし蚕(かいこ)の卵の並べる如くに、四人の小宇宙は、心なき汽車のうちに行く夜半(よは)を背中合せの知らぬ顔に並べられた。」(夏目漱石虞美人草(ぐびじんそう)』岩波漱石全集第三巻1966年)

 「浪江・請戸の慰霊碑に「氏名」刻まれず 町民以外の津波犠牲者」(平成29年4月16日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 平清盛の長男平重盛次男平資盛(すけもり)との恋愛の歌で知られる和歌集『建礼門院右京大夫(けんれいもんいんうきょうのだいぶ)集』の右京大夫(うきょうのだいぶ)は、高倉天皇の中宮として安徳天皇を産んだ平清盛の次女平徳子建礼門院に仕えた女房である。仕えた時期は承安三年(1173)から治承二年(1178)の十七八の年からの五年ほどであり、久寿二年(1155)生まれの建礼門院とは二、三の年下である。年下の恋人であった平資盛(すけもり)は、元暦二年(1185)の壇ノ浦の戦いの果てに入水(じゅすい)し、右京大夫(うきょうのだいぶ)は「弥生(やよひ)の廿日(はつか)余りの頃、はかなかりし人の水の泡となりける日なれば、れいの心ひとつに、とかく思ひいとなむにも、我が亡からむのち、たれかこれほども思ひやらむ。かく思ひしこととて、思ひ出(い)づべき人もなきが、たへがたくかなしくて、しくしくと泣くよりほかのことぞなき。我が身の亡くならむことよりも、これがおぼゆるに、いかにせむ 我がのちの世は さてもなほ むかしの今日を とふ人もがな」(『建礼門院右京大夫集』)水の泡となった資盛(すけもり)の命日を、自分のように思い出す人がいないことが、自分が死ぬことよりも悲しい、自分が死んだ後も誰か資盛(すけもり)を弔って欲しい、と素直な己(おの)れの心境を書き残す。同じ壇ノ浦で我が子安徳天皇と入水(じゅすい)し、源氏方に引き上げられた建礼門院徳子は、京に連れ戻され、剃髪し、大原寂光院に設けた庵で隠棲する。その翌年文治二年(1186)の春、裏山に花摘みに行っていた建礼門院の元を、後白河法皇が密かに訪れ、「互ひに御涙にむせばせ給ひて、しばしは仰せ出(い)ださることもなし。ややありて、法皇御涙をおさへ、「この御ありさまとは、ゆめゆめ知りまゐらせ候はず。」」(『平家物語』灌頂巻「大原御幸(おおはらごこう))と、後白河法皇は息子高倉天皇の中宮徳子の変わり果てた有様を嘆き、建礼門院は「生きながら六道を見てさぶらふ」と、平家の滅亡、身に降りかかった生き地獄を切々と後白河法皇に語るのである。同じ年のその秋、右京大夫(うきょうのだいぶ)が建礼門院を訪ね来る。「女院、大原におはしますとばかりは聞きまゐらすれど、さるべき人に知られでは、まゐるべきやうもなかりしを、深き心をしるべにて、わりなくてたづねまゐるに、やうやう近づくままに、山道の気色よりまづ涙は先立ちていふかたなきに、御いほりのさま、御すまひ、ことがら、すべて目もあてられず。昔の御ありさま見まゐらせざらむだに、おほかたの事がら、いかがこともなのめならむ。まして、夢うつつともいふかたなし。秋深き山颪(おろし)、近き梢にひびきあひて、筧(かけひ)の水のおとづれ、鹿の声、虫の音、いづくものことなれど、ためしなきかなしさなり。都は春の錦をたちかさねて、さぶらひし人六十余人ありしかど、見忘るるさまにおとろへたる墨染の姿して、わづかに三四人ばかりぞさぶらはるる。その人々にも、「さてもや」とばかりぞ、われも人もいひ出(い)でたりし、むせぶ涙におぼほれて、言(こと)もつづけられず。今や夢 昔や夢と まよはれて いかに思へど うつつとぞなき。 あふぎみし むかしの雲の うへの月 かかる深山の 影ぞかなしき。」(『建礼門院右京大夫集』)大原にいると聞いていたが、簡単に会いに行くことは出来ず、建礼門院を慕う、已(や)むに已(や)まれぬ己(おの)れの気持ちに従って訪ねると、その侘しい山道に足を踏み入れただけで涙が零(こぼ)れ、住まいの生活の様子は見るに堪(た)えられるものではなく、昔を知る者には信じ難(がた)く、辺(あた)りの様子もこれほど悲しく感じられる山里もなく、かつて着飾って仕えていた者たちも、いまは墨染を着た三四人だけで、その者たちと「それにしてもまあ」と口にしただけで、涙が零(こぼ)れ落ちて仕舞う。宮中では仰ぎ見ていた、とても現実の出来事と思うことのできないいまの建礼門院の様子が、ただただ悲しいのである、と右京大夫(うきょうのだいぶ)はかつて仕えた建礼門院との再会を思うのである。建礼門院は、大原の寒さに耐えられず、あるいは人目を避けての隠棲暮しが困難になり、山を下り、洛中東山で余生を送ったともいわれている。右京大夫(うきょうのだいぶ)は、四十年(しじゅう)前の建久六年(1195)、再び宮中に入り、後鳥羽天皇に仕えている。食うため生きるための他に、出仕した理由があったのかどうかは分からない。が、栄華の絶頂を極めた建礼門院の、変わり果てたみすぼらしいその姿を見て涙を零(こぼ)した右京大夫(うきょうのだいぶ)が、またしても宮仕えをしたことを思うのである。その心の割り切りを、思うのである。慶長四年(1599)、豊臣秀頼の母親淀君によって改修された寂光院の本堂は、平成十二年(2000)の放火によって焼失したが、再び同じ場所にいまは再建されている。寂光院は、山門の内にではなく、山門に至る石段の石の中にある。狭い荒れた石段を上がりきるまでの参拝者の頭の中にこそ「本物」の寂光院はあり、建礼門院の物語りも恐らく、参拝者が踏む足元の石段にあるのである。

 「あまり問題にされないことだか、日本神話で、神は「人」を創らない──生まない。伊邪那岐伊邪那美の男女神が生み出すものは、「国」であって「神」であって、「人を創る」ということはしていない。「人」は。神によって生み出されることはなく、いつの間にかこの日本に存在している。」(橋本治小林秀雄の恵み』新潮社2007年)

 「528品目の基準値超『ゼロ』 16年度・福島県産農林水産物検査」(平成29年4月6日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 大原三千院の城のような石積の門の左右に、「梶井門跡三千院」と「国宝往生極楽院」の二つの名が下がっている。天台宗三千院は、安永九年(1780)刊行の『都名所図会』では梶井宮円融院梨本房の名で載り、三千院と名乗るのは、明治四年(1871)門跡廃止により最後の門主・昌仁入道親王が還俗(げんぞく)し、御車路広小路にあった本房が大原に移ってからである。その大原の地は、保元元年(1156)より延暦寺が、叡山を下りた天台隠者の動きを取り締まる政所を置いたところであり、応仁の乱で焼けた折の、洛中にあった本房の移転先であり、門跡の主(あるじ)を失い、仏像仏具だけで再び戻った場所なのである。往生極楽院は、高松中納言実衡の妻・真如房尼(しんにょぼうに)が実衡の死を悼んで寛和元年(985)に建てた庵(いおり)であり、梶井本房の移転の後に、叡山政所の傍(そば)にあった庵は、本房に組み入れられ、遂にはその本堂となるのである。この経緯(いきさつ)のため往生極楽院は、苔生(む)した境内の片隅に、毛色の違う貰われ子のようによそよそしく建っている。その往生極楽院の、平安藤原時代の阿弥陀三尊像は国宝である。極楽から、死ぬ者を迎えに来た阿弥陀如来は足を組んで座り、立てた右手の掌(たなごころ)をこちらに向けている。左右の脇侍(きょうじ)菩薩、手を合わせる勢至(せいし)菩薩と、蓮台を捧げ持つ観音菩薩は折った両膝の間を広げ、背を前に傾けていて、このように座る菩薩の姿は珍しいのだという。観音菩薩の持つ蓮台が内側、腹の方に僅かに傾いているのは、往生者を乗せ終え、彼岸に帰る姿であるという。この両の菩薩の太腿の太さは、生きては見ることの出来ない極楽浄土からやって来た者として、信ずるに足ると思わせるような迫力、説得力を持っている。観音菩薩の表情は、薄く開けた両の目を手の蓮台の上に向けているように見える。であれば、蓮台に乗せた往生者を零(こぼ)さぬように内に傾けているという説明は、なるほどそうなのかもしれない。が、この阿弥陀三尊は拝み見る者の前に、このように常にいるのである。極楽からの来迎の姿として、常に見える所に在るのである。常に在るということは、念仏往生者をいつまでもここで待っている、ということなのではないか。往生は死であり、黄金の阿弥陀三尊は、有無を云わさぬ何人にも来る死を待つ姿であり、唯一人の死を待つことを許されている姿なのではないか。

 「はったいの粉(こ)は真夏の匂いがする。かんかん照りのひなたの匂い、むせかえるような雑草のにおい、はるかに遠い、わら屋根の村のにおい、物音が死んだような町の午後の匂い。」(「はったいの粉」平山千鶴『京のおばんざい』光村推古書院2002年)

 「浪江、川俣・山木屋、飯舘「避難指示」解除、帰還には課題山積」(平成29年3月31日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)