織田信長と十一年の間、石山寺で戦った武装教団真宗本願寺は、紀伊鷺森、和泉貝塚、大坂天満と居場所を移し、信長の死後、豊臣秀吉に己(おの)れの目の届く京都七条堀川に移転させられる。信長との和議に応じた十一代宗主顕如(けんにょ)の死後を継いだ嫡男教如(きょうにょ)が、その継職の顕如の譲状を巡って秀吉と揉め、僅(わす)か一年後に顕如の弟准如(じゅんにょ)に宗主を譲り、隠居の命に応じたのであるが、秀吉の死後、徳川家康教如の持つ勢力を見逃さず、七条烏丸に広大な地を与え、よって本願寺は東西に二分してしまう。その政治によって分裂したまま今日に至る巨大な仏教教団の姿は、それを俯瞰(ふかん)して見れば、背を向け合う双子のように奇妙な姿である。浄土教信者徳川家康は、東山の知恩院香華院(こうげいん)として大伽藍に変貌させ、側近に天台宗南光坊天海と、臨済宗の最高位南禅寺の以心崇伝(いしんすうでん)を持っていて、法華宗徒の衰えた京都の大寺(おおでら)仏教は、徳川幕府の手の内にあった。寛永十八年(1641)その分派に手を貸した東本願寺から、地面の拡張を請われ、三代将軍家光は、東西一九四間、南北二九七間の土地を寄進する。これは言うまでもなく、東本願寺の力を示すものである。寛永九年(1632)に出た末寺帖令に従った東本願寺は、幕府の手の内にあってなお、積み上げた末寺の数の力を家光に示したのである。その東本願寺の二町(にちょう)東、寄進地の百間四方が、十三代宣如(せんにょ)が隠居所とした渉成園(しょうせいえん)である。舟を浮かべたという池があり、池の中に点々と小島があり、小流れがあり、水辺や築山に茶室があり、持仏堂があり、楼閣のような左右に登り階段がある四畳半の花見の二階部屋があり、燈籠(とうろう)が立ち、梅林があり、松が生え、大広間の亭の前に広々とした芝地がある。が、いま印月池(いんげつち)と名づけられている池には、水が一滴もない。侵雪橋(しんせつきょう)と呼ばれている反橋(そりばし)の工事のため、水を抜いているのである。池に水がなければ、趣(おもむき)は変わる。あるいは趣は損(そこ)なわれ、あるいは茫然と失われる。乾いて罅(ひび)の入った泥の池は、池ではない。その故(ゆえ)に中に下り、底に立って辺りの写真を撮る者がいる。その様(さま)は夢でなく、水のある景色の方がいまは夢である。水辺に建つ建物は火事に遭い、すべて再建されたものである。臨池亭(りんちてい)、滴翠軒(てきすいけん)、閬風亭(ろうふうてい)にはガラス戸が嵌(は)まり、水のない渉成園をそのように映している。露地を設けた二階建て二間の茶室蘆菴(ろあん)は、昭和三十二年(1957)の再建である。二階四畳半の肘掛窓から外を眺め、ここで点(た)てて喫む茶は煎茶である。窓にいい風が通る。昭和三十二年の窓に吹き込むのは、昭和三十二年の風である。昭和三十二年は、南極越冬予備隊の、南極大陸初上陸の年であり、茨城県東海村の原子炉が、初めて臨界に達した年である。その火は、数を増やし点(とも)り続けたのであるが、六年前の大津波に飲み込まれ、ひとたまりもなかったのである。掲示によれば、下の池に水が戻るのは、十一月である。

 「秋雨のそぼふる夕暮の京都はいかにもよい。よいと思ふだけ、自分は東京がやはりなつかしい。上田君に半日、ワツトーの画、ダヌンチオ、春水なぞ、つまり人種固有の特徴から出た特種の文藝と云ふやうな事を語つた。京都の生活の内面は到底他の土地の人の覗(うかが)ふべからざる処らしく感じられる。」(「斷腸亭尺牘(だんちょうていせきとく)」永井荷風荷風全集 第二十五巻』岩波書店1965年)

 「「放射線量」立体で可視化 小型カメラ開発、JAEA実用化へ」(平成29年9月12日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 「己未年の春二月(つちのとのひつじのとしのはるきさらぎ)の壬辰(みづのえたつ)の朔辛亥(ついたちかのとのゐのひ)に、諸将(いくさのきみたち)に命(みことおほ)せて士卒(いくさのひとども)を練(えら)ぶ。是(こ)の時に、層富縣(そほのあがた)の波哆丘岬(はたのをかさき)に、新城戸畔(にひきとべ)といふ者有り。丘岬、此をば塢介佐棄(をかさき)と云ふ。又和珥(わに)の坂下(さかもと)に、居勢祝(こせのはふり)といふ者有り。坂下、此をば瑳伽梅苔(さかもと)と云ふ。臍見(ほそみ)の長柄丘岬(ながらのをかさき)に、猪祝(ゐのはふり)といふ者有り。此三処(みところ)の土蜘蛛(つちぐも)、並(ならび)に、其(そ)の勇力(たけきこと)を恃(たの)みて、来庭(まう)き肯(か)へにす(※帰順しない)。天皇(※神日本磐余彦天皇(かむやまといはれびこのすめらみこと))乃(すなは)ち偏師(かたいくさ ※一部の軍)を分け遣(つかは)して、皆誅(ころ)さしめたまふ。又高尾張邑(たかをはりのむら)に、土蜘蛛(つちぐも)有り、其(そ)の為人(ひととなり)、身短(むくろみじか)くして手足長し。侏儒(ひきひと ※小人)と相類(あひに)たり。皇軍(みいくさ)、葛(かづら)の網を結(す)きて、掩襲(おそ)ひ殺しつ。因(よ)りて改めて其(そ)の邑(むら)を号(なづ)けて葛城(かづらぎ)と曰(い)ふ。」(『日本書紀』巻第三 神日本磐余彦天皇 神武天皇)土蜘蛛は、大和朝廷服従しなかった辺境の地の首長、民の蔑称(べっしょう)で、風土記には土雲、都知久母とも記されているのであるが、例えば『平家物語』では、蔑称であった言葉が具体的な蜘蛛の化物(ばけもの)として源頼光(みなもとのよりみつ)の前に現われ、頼光に、源家に伝わる二つの剣の内の一つである「膝丸(ひざまる)」を振り下ろされる。「また頼光、そのころ瘧病(ぎやへい ※熱病)わづらはる。なかばさめたるをりふしに、空より変化(へんげ)のものくだり、頼光を綱にて巻かんとす。枕なる膝丸抜きあはせ、「切る」と思はれしかば、血こぼれて、北野の塚穴のうちへぞつなぎける。掘りてみれば、蜘蛛にてあり。鉄の串にさしてぞ、さらされける。それより膝丸を「蜘蛛切」とぞ申しける。」(『平家物語』巻第十一 剣の巻下)『拾遺都名所図会』は、この「北野の塚」を、蜘蛛塚として載せている。「蜘蛛塚、七本松通り一条の北西側、圃(はたけ)の中に一丈ばかりの塚あり、これをいふ。古(いにし)へこのところに大いなる土蜘蛛棲みしとなり。『太野記(※『源平盛衰記』)』に「北野のうしろ」とあり。後考あるべし。一名山伏塚といふ。」この塚は、明治二十年代に宅地にされていまはない。が、蜘蛛塚と呼ばれる塚がもう一つある。「源頼光塚、舟岡山の南田の中に有。又の説に蓮台寺のうち、真言院の後檀の上にある所也。」(『名所都鳥』巻第六)千本通鞍馬口上ル紫野十二坊町の上品蓮台寺(じょうぼんれんだいじ)の塔頭真言院の墓地に「源頼光朝臣塚」の石碑がある。が、この石碑は、昭和初期に鞍馬口通千本西入ル紫野郷ノ上町にあった同じ蓮台寺の塔頭宝泉院の西裏の土饅頭にあったものを移したものであるという。源頼光は、藤原道長の側近であり、その父は、鎮守府将軍源満仲(みなもとのみつなか)であり、満仲の父は、清和源氏の祖、六孫王源経基(みなもとのつねもと)であり、経基は清和天皇の第六皇子貞純親王である。頼光は伊予、美濃、摂津などの国司を歴任して財を成し、道長の住まい土御門殿の再建に、その家具調度の一切を自腹で揃えたという。一条天皇の「摂津国大江山夷賊追討の勅命」を受け、四天王、渡辺綱(わたなべのつな)、坂田金時(さかたのきんとき)、碓井貞光(うすいさだみつ)、卜部季武(うらべのすえたけ)を率いて「酒呑童子(しゅてんどうじ)」を征伐したのが頼光である。その頼光が高熱で臥(ふ)せっているところを、土蜘蛛の化物が襲いかかり、化物は返り討ちに遭って「北野の塚穴」に逃げ込んだ。北野は、菅原道真を祀る北野天満宮である。その頼光が退治した蜘蛛塚と称するものが、二つ存在していたのである。『源平盛衰記』の土蜘蛛は、七尺の法師に化けて頼光の前に現われ、能の『土蜘蛛』は、その僧形が、病む頼光に無数の紙の糸を擲(なげう)つのである。源頼光は実在し、蜘蛛塚と称するものも二つこの世にあった。が、土蜘蛛の化物はどうか。この話が説話であれば、権力に盾突く、土に籠(こも)る、土蜘蛛と呼ばれた者は悪とは言い切れない。土蜘蛛の法師は、頼光に向って「苦しめ、苦しめ、乱世が欲しい」と言ったというのである。あるいは頼光は財を成して、怨みを買ったかもしれぬ。二つの蜘蛛塚は、作り話の証拠としてあったのではない。怨みの重さと殺された者への畏敬の念の深さが、恐らく二つの塚を生んだのである。退治された者への哀れさの共鳴が、二つなのである。この蜘蛛塚と称するものがなければ、頼光の話は何ほどの面白味もない。上品蓮台寺にある、「源頼光朝臣塚」の石碑の傍らの楠(くす)の大木に、蟬の抜け殻が幾つもしがみついていた。蟬の幼虫の形(なり)は、土の中で何年も過ごすための形である。

 「スペインから流れてきたテージョ河は、大西洋に注ぎだす前に、リスボン付近で湾のような大河になる。地図にはその大河を横断する航路が点線で記されていた。どうやら、コメルシオ広場の先にあるテレイロ・ド・パソという駅からフェリーが出ているようだ。私は、不意にそのフェリーに乗りたくなってきた。」(沢木耕太郎『一号線を北上せよ』講談社2003年)

 「セシウム検出限界値下回る 二本松で「早場米」全量全袋検査」(平成29年8月27日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 ひらいたひらいた なんのはながひらいた れんげのはながひらいた ひらいたとおもったら いつのまにかつぼんだ。手を繋(つな)ぎ、輪になってする「ひらいたひらいた」の遊戯で、ひらいていた輪がつぼんだことを、いつのまにかと思うのは、輪の中で目を閉じてしゃがむ幼児である。目を開け、輪の動きを見ていれば、いつのまにかの云いは成り立たない。目を開けている幼児がいれば、目を閉じるように先生から注意を受けるのである。このように子どもでも分かる言葉として、いつの間に、は使われるが、輪の中で目を開けていれば、つぼんだことが、いつの間にではないことが分かる。その幼児だけは、輪がせばまってゆく情報を知ることが出来るのである。蓮華(れんげ)、蓮の寺法金剛院は、JR嵯峨野線花園駅の前にある。法金剛院は明治30年(1897)、国鉄に譲る前の京都鉄道が線路を敷設し、その南半分の敷地を失い、昭和43年(1968)線路に並ぶ丸太町通の拡張で、再びその拡張分の地面を失い、削られることに甘んじたことを歴史とする寺であり、削られたことで、埋もれていた平安時代の庭の復活を見た寺である。その元(もとい)は、桓武天皇より四代の朝廷に仕えた清原真人夏野(きよはらのまひとなつの)の狩場の別荘地であり、その死後双丘寺、天安寺となり、死後怨霊となって恐れられた崇徳天皇の母、鳥羽天皇中宮待賢門院(たいけんもんいん)が、養父白河法皇の追善に法金剛院としたものであり、その待賢門院は、皇后の高陽院、美福門院に己(おの)れの居場所を奪われ、この寺で落飾、尼となり、鳥羽天皇の第二皇女上西門院(じょうさいもんいん)も母待賢門院の死後、引き継いだこの寺で落飾している。上西門院は、神護寺を再興した文覚が、北面の武士として仕えていた、後白河天皇の姉であり准母である。阿弥陀堂を三つ並べた、法金剛院のその苑池は、浄土の如くであったというのであるが、時経って荒廃し、落葉に埋もれ、土に埋もれ、九百年後に身を削られた代償でその浄土の一部が発掘され、再び日の目を見たのである。蓮は浄土の池を埋めて花開き、浄土の径も鉢植えの蓮が埋め、誂(あつら)えたような昨日降った雨の粒が、葉の上で揺らいでいる。が、いまここに浄土を見る者は恐らくいない。目に見える極楽浄土は、その教えもろ共土に埋もれるほどに衰え、誰もそれを思わなくなった。そのことを、いつの間にかとは、歴史家であれば認めない。時間に対する無責任な甘えは、言うまでもなく歴史家にはない。

 「──新石町はうまくいってます、ええ、由太夫という人をご存じですか、その人がね、あなたの代りに、新石町の稽古所で、冲也ぶしを教えているそうです。」(山本周五郎『虚空遍歴』山本周五郎全集15新潮社1982年)

 「5年後に年20ミリシーベルト未満 宅地・農地除染後の追加被ばく」(平成29年7月29日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 天の川ここには何もなかりけり 冨田拓也。何もない、というもの云いに出鼻を挫(くじ)かれる。何かあるだろうと考えていた者は、話を進めることが出来ない。この俳句の「ここには」のここは、天の川とは限らないが、天の川のことであるとすれば、天の川あるいは銀河と名づけらげたものは、己(おの)れが自ら光る恒星の集まりであり、そこに星があることは光りとして確認できる以上、否定出来ない事実である。それでも「何もなかりけり」という云いは、その構造においては、天の川の一つの星に近づけば近づくほど、別の星々との間隔は離れ、元のように何もない空間が広がるばかりであるということであり、近づいたはずの天の川は、依然として頭上に横たわっているのである。そうではなく、「ここ」を天の川としなければ、「ここ」は生きて在る地球上のどこか、あるいは死後ということになる。日常の生活で、何もないという云いは誰でもする。ある店に行ったけれども、欲しいものは何もなかった。有名な観光地に行ったけれども、何もなかった。己(おの)れの生れ育ったところは、何もないところである。何かはあるが、目新しいもの、欲求を満たすもの、あるいは面白いというような感情を揺さぶるものはないというのである。ものごとはあるけれども、そこには何もない。悉(ことごと)くあるものの価値を否定し続けて行った先で待つのは、ニヒリズムである。仏教のいうところの「空」は、現象はあるが、その実体はないと思え、ということであるが、冨田拓也の「何もなかりけり」には、悟り澄ましたニヒリズムのにおいがしないでもないが、ただ天の川を天上、死の後(のち)に行くところとして素直に凡庸に詠んでいるのかもしれない。死後は何もない、というのは一つの考えである。これを正しいと思うことも、一つの考えであり、誤りであるとすることも一つの考えである。が、何もないということ、何もない状態、何もない状況を想像することは難しい。暗闇は、そのあるなしの判断が出来ない状態である。何もないことで満ちているという云いは、言葉の遊びである。「空」をいう仏教は、何もないこととしての「無」へは向かわない。公案の書『無門関(むもんかん)』はいう。「三百六十の骨節、八万四千の毫竅(ごうきょう)を将(も)って、通身に箇(こ)の疑団を起こして箇(こ)の無の字に参ぜよ。昼夜提撕(ていぜい)して、虚無の会(え)を作(な)すこと莫(なか)れ。有無の会(え)を作(な)すこと莫(なか)れ。(三百六十の骨節と八万四千の毛穴を総動員して、からだ全体を疑いの塊にして、この無の一字に参ぜよ。昼も夜も間断なくこの問題をひっ提げなければならない。しかも、決して虚無だとか有無だとかいうようなことと理解してはならない。)」(『無門関』西村恵信訳注 岩波文庫1994年刊)犬にも仏性(ぶっしょう)があるのか、の問に、趙州(じょうしゅう)禅師は「無」と応えるのであるが、別の時には「有」と応え、その仏性、禅の悟りは身体を使って考え得よ、と云うのである。しかし、病の苦痛を味わい、死後を恐れる心を克服出来ない者もいる。その者もまた、何もないという死後を想像することは難しいのであり、極楽浄土、あるいは地獄があると思うほうが易(やさ)しいのである。克服できない欲求は、死後浄土を求め、誰でも念仏阿弥陀仏を唱えるだけで極楽往生出来ると教えられれば、一も二もなく飛びついたのである。もう一度云えば、何もないことを想像することは難しい。草木国土悉皆成仏という天台宗の教えがある。この世にある草木の、生まれ花咲き、実をつけ枯れる様がそのまま成仏の様であり、あるがまま、そのまま何もせずとも成仏出来るという、この本覚思想と呼ばれるものは、死後の、何もないことの想像を、もっとも遠ざけた思考である。有ることを説明するよりも、何もないと突き放すもの云いは、容易である。死がいまよりも身に迫り、絶えず死を思って暮らさねばならぬ者らに、仏教者は、死後何もないとは決して云わなかった。あるひは思ふ天の川底砂照ると 斎藤空華。

 「しかし、もっとも不可解で神秘的な現象は、素粒子という、構造さえもたないものが、にもかかわらず、振動状態にみずからをおくということである。振動状態にあるとき、素粒子は<適当な状態>にあるということである。」(大岡信『彩耳記』青土社1972年)

 「「海洋放出」に波紋 第1原発トリチウム水、増え続け処分に苦慮」(平成29年7月16日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 竹田深草の、龍谷大学短期大学部の正面で交差する二つの通りは、南北が師団街道で、東西が第一軍道であり、どちらも些(いささ)か物々しい。師団街道の師団は、旧帝国陸軍第十六師団のことであり、軍道は南へ第二第三と並び、第二軍道の東の突き当りにあったその司令部の緑青の銅板屋根に赤煉瓦の建物が、払い下げを受けた聖母学院にそのままいまも使われている。龍谷大学とその北側の警察学校には、陸軍兵器廠(へいきしょう)があり、第一軍道を挟んだ南側は深草練兵場であり、京都教育大学には歩兵第三十八連隊、京都教育大学附属高等学校には輜重兵(しちょうへい)第十六連隊があった。騎兵第二十連隊は深草第三市営団地の辺りに、砲兵第二十二連隊は藤森中学校の辺りに、工兵第十六連隊は桃陵団地の辺りにあった。その帝国陸軍第十六師団の末路は、フィリピンレイテ島での一万八千余名の死であり、六百名足らずの生還である。小説家水上勉は、昭和十九年五月に深草練兵場の南にあった中部四三部隊に応召し、輜重輸卒で働かされた、と随筆「醍醐への道」に書いている。この中部四三部隊は、輜重兵第十六連隊である。水上は、教育兵として馬の世話や出陣の荷造りをしていたという。そのある日、同じ二等兵の同僚が牽いていた馬が暴れ、止めようとしたその同僚を引き摺ったまま苗を植えたばかりの田圃に入って走り回り、失態を演じた日ごろ要領のよかったその同僚は、懲罰として重営倉に入れられ、発狂して病院送りになったと人伝(ずて)に聞く。水上は、その日牽いて行った馬を桜の樹に繋いだ醍醐寺で見た五重塔の想い出を書いているが、立ち直った苗の植わった田圃の、その数日の後には消えて仕舞ったに違いない馬の蹄の跡は、紛れもなく戦争の足跡である。数年前に見たテレビの番組に、年のいった老婆が出ていた。途中から見たその番組は限界集落を扱い、腰の曲がったその老婆は、山の中に一人で住んでいて、茄子や胡瓜や隠元豆の植わった家の前の畑から見渡しても、辺りには一軒の人家も見当たらない。老婆は、夫を亡くしてから月に一度様子を見に来る娘に、一緒に住むようにいわれているが、断っているという。カメラの後ろにいる者が、その理由を訊くと、ひとりの方が気楽やけん、と平凡な応えを返した。そう応えて歩き出した老婆に後ろから、淋しくないですか、とその者が声を掛けると、淋しかよ、と老婆は後ろ姿の向うから平板な口調で応えた。野良着姿の老婆が、山道を辿って行った先は、古めかしい人の背丈ほどの社だった。毎日欠かさずお参りをする、と老婆は云う。屋根の落葉を腰を伸ばして手で払い、老婆が暫(しばら)く手を合わせる。カメラの後ろの者が、何をお祈りしたのですか、と訊く。終えて振り向いた老婆は、平和を祈うとります、と神妙に応える。それまで一度も姿を現わしていない、カメラの後ろにいた者の虚を突かれたような顔に、一瞬カメラマンがレンズを向ける。祈りは自分の健康でも子や孫の幸福でもない。老婆の口から出たそれは、ありふれた言葉であるが、人前で口にすることは時に躊躇(ためら)われる言葉である。書かれたその言葉は、正論にして疑わしく、理想として空々しく、読む者に受け流されて仕舞うか、あるいは反抗心をも催(もよお)させるかもしれぬ言葉である。が、この老婆が使ったその言葉は、この世に初めて使われた言葉のように原始的な響きを持ち、地に足をつけた農夫の云い様(よう)であったから、カメラの後ろにいた、世のすべてに疑いを持つようなその者は、虚を突かれたのである。その言葉は老婆にとって切実でも、当たり前のことでもない。山の農耕で使った肉体から、ただ生きるための息のように発せられたのである。虚を突かれた、恐らく都市で暮らしているであろうその者は、老婆が見ている山の景色に顔を向け、カメラの前で軽く笑んだ。その笑みは、例えば若年が勇気を得た時のような表情に見えたのである。その土曜の午(ひる)、第十六師団司令部を校舎の一部にしている聖母学院の門から、下校する児童が一列になって出て来るのに行き会った。引率の教員が腕を広げ、児童に道を渡らせる。足を止めた通行人のある者たちの笑みは、児童らの笑い顔の反映でもあるが、その笑みに、老婆の祈りの言葉を聞いたあの者の笑みを、重ね合わすことも出来るのである。

 「彼は僕にクレイモア地雷を渡し、東西に走る道路沿いの一点を指さした。暗い道路に歩いて出て行きながら、僕は自分が勇敢であると同時に馬鹿なことをしているような気もした。」(ティム・オブライエン 中野圭二訳『僕が戦場で死んだら』白水社1990年)

 「吉野復興相、東電会長・社長に「福島第2原発廃炉」判断を迫る。」(平成29年7月8日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 栂尾(とがのお)高山寺の表参道は、そのなだらかな道幅から、山寺の懐の深さを予感させる。上りきって左に折れ、方形の踏み石の角と角をずらし並べた参道に立てば、その予感に違(たが)わぬ景色が目の前にある。老楓老杉老檜の巨木の木立ちの様を見通すことが出来るのは、建物の影が一つもないからである。寺の建物は、参道の奥に続く乱れた石段の上と、右手の石垣白塀の内にあって、いまはどれも目に入らない。木の間の参道は、進めば地面を這う木の根や岩であいまいになり、巨木の他に何もないのではなく、苔生(む)した石垣の列があり、かつてあった堂宇、僧房の跡であるというこの石垣は、いまは何もないということを証明するばかりで、このまま石段を上って金堂を拝まない限り、寺の雰囲気からは遠ざかったままである。金堂にある釈迦如来は、その扉が閉ざされている限り拝むことは出来ず、例えば山の上の木蔭に並び立つような墓もない。この位置からはまだ見えない開山堂は、明恵その人を敬う施設であり、白塀の内の国宝石水院は、明恵の当時の住まいである。この石水院の二間には、仏像ではなく、明恵のささやかなコレクション、複製の「鳥獣人物戯画」、複製の「明恵上人樹上坐禅像」、明恵がその前で右耳を切ったという複製の「仏眼仏母像」、「阿留辺幾夜宇和(あるべきやうわ)」の額、愛玩の子犬の置物が並べ掲げられ、その小さくて見過ごされる「仏眼仏母像」を除けば、明恵が身を捧げた仏教は、この場所からも匂って来ない。履物を脱いだ拝観者は皆、東縁から眺める、清滝川を下に見る山の景色に目を奪われてしまうのである。明恵は云う。「凡(およ)そ仏道修行には、何の具足も入らぬ也。松風に睡(ねむ)りを覚まし、朗月を友として、究め来り究め去るより外の事なし。」(「栂尾明恵上人遺訓」)高山寺では、老杉の巨木の間に足を止めてこそ、この明恵の声が響き透るのである。清滝川は、河鹿が鳴き、楓が彩(いろど)る渓流である。高山寺から南に一キロ余くねり下って朱い高雄橋を渡ると、神護寺の参道口がある。神護国祚真言寺(じんごこくそしんごんじ)、神護寺は、高雄山寺と神願寺との合併の後の名であるが、このニ寺は、道鏡皇位野望を挫(くじ)く宇佐八幡の神託を持ち帰り、平安京造営大夫となった和気清麻呂(わけのきよまろ)の寺であり、高雄山寺は、その子広世(ひろよ)が招(よ)んだ比叡山最澄が奈良仏教のエリート学僧に法華経の講義をし、彼らに密教灌頂、仏位の継承を授け、同じく唐で最澄より高度な密教知識を身につけて帰朝した空海が、年長の最澄に弘仁三年(812)灌頂を授けた寺である。空海に預けた弟子が戻らず、経典より我が元で実践せよと言を返された最澄空海と絶交した舞台であり、仏法、真言密教による国家鎮護を唱えた空海が、東寺、あるいは高野山へ移るまでの十余年を拠りどころとした真言宗のもといの寺である。が、仁安三年(1168)に修験者文覚(もんがく)が見た神護寺は、住む僧もなく、荒廃を極めていたという。その文覚が、神護寺を再興するのである。文覚は、『源平盛衰記』によれば、人の妻を殺した男である。北面の武士だった文覚、十八歳の俗名遠藤盛遠(えんどうのもりとお)は、同僚渡辺渡(わたなべのわたる)の妻、袈裟御前(けさごぜん)を手に入れるため、渡を殺すに至るのであるが、実際に殺したのは、渡に扮(ふん)した袈裟御前であったという。この後人殺しの青年盛遠は、那智の瀧に打たれ、山岳荒行を経て、呪術使いの修験者文覚となるのである。『平家物語』による文覚は、空海の仏法王法を保つの思想と神護寺の再興に取り憑かれ、寄進運動の果てに、管弦遊びの最中の後白河法皇に寄進を迫って罵(ののし)り、その流罪先の伊豆国で、平家により流罪となっていた源頼朝と出会い、挙兵を勧め、その過程からは奇妙であるが、治承四年(1180)平家討伐の院宣をその近臣藤原光能(ふじわらのみつよし)を介し、後白河法皇から取り付けるのである。後白河法皇の第三皇子以仁王(もちひとおう)が源氏に出した平家打倒の令旨も治承四年であり、遠藤武者盛遠が仕えたのは、後白河法皇の同母姉、上西門院(じょうさいもんいん)であり、伊豆国に流される前の源頼朝も上西門院の蔵人であり、そうであれば、文覚の伊豆国流罪はあらかじめ別の意味、頼朝の説得を帯びて見えて来るのである。源頼朝後白河法皇の寄進で、文覚の願いの通り神護寺は再興する。が、この後ろ盾二人の死後の文覚は、謀反の謀議、後高倉院の即位の企(はか)り事で、佐渡対馬への再び三度(みたび)の流罪に処され、対馬への途中、鎮西で没する。この文覚の元に叔父の上覚(じょうがく)がいて、八歳で両親を失った明恵は、治承五年(1181)、九歳で俗塗(まみ)れの文覚の弟子になるのである。神護寺の参道は、険しい石段である。その三百数十段を上って構え立つ楼門を潜ると、目の前の地面には何もない。右手に、あるいはその奥に、書院堂宇が並び立つのであるが、平らに削られた山の上に、先ずは何もないのである。荒々しい石段の上の金堂の中に、朱い唇の薬師如来が祀られ、不死であるとされている、空海の出現の折りの住まいとなる大師堂があるが、およそ神護寺には、空海の気配はない。修験者文覚の目にもそう映り嘆いたのであり、文覚の死後、再び荒廃したのであれば、文覚もまた仮りの宿りをした者である。慈円は『愚管抄』にこう書いている。「文学(覚)ハ行(ぎやう)ハアレド学ハナキ上人(しやうにん)ナリ。」神護寺を嫌った明恵は、二度生まれ故郷紀伊国の白上に遁世し、天竺行きを企てる。明恵は釈迦の教えを仮りの宿りとしたのではなく、釈迦の教えが明恵を仮りの宿りとしたのである。

 「さてたまたま、垂直と水平にすすんでいたふたりが、同じ時刻に同じ場所で鉢合わせすることになった。」(ミヒャエル・エンデ 丘沢静也訳『鏡のなかの鏡』岩波書店1985年)

 「「土壌貯蔵施設」10倍の100ヘクタールまで増設 中間貯蔵施設」(平成29年6月23日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 藤原公任(ふじわらのきんとう)が娘の結婚相手藤原教通(ふじわらののりみち)への引出物に用意したという『和漢朗詠集』の巻上の秋に、大中臣能宣(おおなかとみのよしのぶ)の、もみぢせぬときはの山にすん(む)鹿はおのれなきてや秋をしるらん、の歌が載っている。自分の鳴く声で求愛の季節、秋を知るという知の勝(まさ)った、技巧が鼻につくような歌である。鶴鳴くやわが身のこゑと思ふまで 鍵和田秞子(かぎわだゆうこ)。この鶴の声は、自分への問いである。自分の声は、果たして自分の声であるのか、他人の声、他人の考えではないのか。自分の声を自分の声と思うための、そもそもその自分とは何者なのか。何者でもなければ、何者であろうとしているのか。びいと啼く尻声悲し夜の鹿 芭蕉。この句の値打ちは、夜である。例えば、旅先で敷き延べた床に就こうとしている時に鹿の声を耳にする、という映像を想像すれば、通俗を免れないが、その実際の鹿の声は、通俗と関わりなく聞く者の胸の奥にまで届くはずである。転生を信ずるなれば鹿などよし 斎藤空華(さいとうくうげ)。芭蕉の句と並べれば、空華の句の成熟度は歴然としている。三十二歳で世を去った空華は、若い時には微塵も思わなかったに違いない転生というものを、遠くない死を前にして、仮定として考えることは構わないと思う。転生を想像すれば、気分が変わるかもしれない。が、この仮定は、願いではない。空華はまだ、転生を信じるほど追いつめらていない。だから鹿などよし、なのである。洛西栂尾(とがのお)にある高山寺に、一対の鹿の木像がある。いまは重要文化財に指定され、京都国立博物館の倉庫に眠っている、その神鹿と呼ばれている牝の写真が、『京都再見』(鹿島出版会1966年刊)に載っている。鹿は博物館のガラスケースの中ではなく、高山寺石水院の広縁に置かれている。背後は霞んだ秋の山である。鹿は床に腹をつけて臥せ、細い前肢を弓のように軽く曲げ、持ち上げた首を伸ばし、口を開き、目は中空に向かって見開かれ、その表情は哀切極まりない。施(ほどこ)された色は殆(ほとん)ど剥がれ落ち、顔や耳や胴や肢の継ぎ目が露わになっている。この牡牝の神鹿は、後鳥羽上皇の命で華厳道場高山寺を開いた明恵(みょうえ)が、その鎮守とした春日・住吉明神の拝檀に置いたものであるという。明恵は、己(おの)れの前を歩んでいた法然の専修念仏を、菩提心を撥去(はっきょ)する過失、と非難した者である。阿弥陀仏を信じ、念えるだけで救われるという法然の革新の教えは、明恵の眼には、根本の求めるべき悟りを骨抜きにしていると映ったのである。「片輪者にならずば、猶(なお)も人の崇敬に妖(ばか)されて、思はざる外に心弱き身なれば、出世もしつべし。左様にては、おぼろげの方便をからずは、一定(いちぢやう)損とりぬべし。片輪者とて、人も目も懸けず、身も憚(はばか)りて指し出でずんば、自(おのづか)らよかりぬべしと思ひて、志を堅くして、仏眼如来(ぶつげん)の御前にして、念誦の次(つい)でに、自ら剃刀を取りて右の耳を切る。」(「栂尾明恵上人伝記」)この耳切りは求道、悟りを求めるための強烈な明恵の姿であり、そうせざるを得なかった明恵のもろさである。あるいは、このような生の声を残した明恵の決意である。「我が朝に、鑑真和尚唐土より渡り給ひて、専(もっぱ)ら此の波羅提木叉を弘め給ひしかば、其の比、頭(かうべ)をそ(剃)れる類、是(これ)を守らずと云ふ事なし。面々、其の上に宗々をも学しけれども、今は年を遂(お)ひ日に随ひて廃(すた)れはてて、袈裟、衣より始めて、跡形もなく成れり。適(たまたま)諸宗を学する者あれども、戒をしれる輩はなし。況(いはん)や又受持(じゅじ)する類なし。何を以てか人身(にんじん)を失はざる要路とせん。今は婬酒を犯さざる法師も希(まれ)に、五辛(ごしん)・非時食を断てる僧も無し。此の如く、不当不善の振舞ひを以て法理を極めたりと云ふとも、魔道に入りなば、人天の益もなく自身の苦をも免(まぬが)れずして、多劫の間、徒(いたず)らに送らん事、返す返すも損なるべし。如何にしてか古(いにしへ)のままに戒門を興行すべき方便を廻(めぐ)らさん。」(「栂尾明恵上人伝記」)明恵は、「印度ハ仏国也、恋募之思ヒ抑ヘ難キニ依リ遊意ノ為ニ之ヲ計リ、哀々マイラハヤ」との釈迦への一途さだけではなく、遁世したはずの身の回りを悩ませる俗世からの脱出も理由にあったといわれているが、天竺行きを二度志し、「神のお告げ」を受けて二度とも断念した後、俗界の外れ栂尾に高山寺を構えるのである。「人は阿留辺幾夜宇和(あるべきやうわ)と云ふ七文字を持つべきなり。僧は僧のあるべき様、俗は俗のあるべき様なり。乃至(ないし)、帝王は帝王のあるべき様、臣下は臣下のあるべき様なり。此のあるべき様を背く故に、一切悪(わろ)きなり。我は後世(ごせ)たすからんと云ふ者に非ず。たゞ現世に、先づあるべきやうにてあらんと云ふ者なり。仏法修行は、けきたなき心在るまじきなり。武士なんどは、けきたなき振舞ひしては、生きても何かせん、仏法もかくなめくりて、人に随ひて、尋常(よのつね)の義共にて足りなんと思ふべからず。叶はぬまでも、仏智の如く底を究めて、知らんと励むべし。」(「栂尾明恵上人遺訓」)明恵にとってのあるべきやうわ、一日の規律はこうである。「一酉(午後六時)礼(拝)時 唯心観行式。一戌(午後八時)行法一度 三宝(仏法僧)礼。一亥(午後十時)座禅 数息。一子丑寅(午前零時より午前四時まで)三時休息。一卯(午前六時)行法一度有無可随時 礼時理趣礼懺等。一辰(午前八時)三宝礼 小食持経等読誦光明真言四十九遍。一巳(午前十時)座禅 数息。一午(正午)食事 五字真言五百遍。一未(午後二時)学問或書写。一申(午後四時)会師要決」「貞永式目」を定めた鎌倉幕府三代執権北条泰時は、「(明恵上人に)承久大乱の已後在京の時、常に拝謁す、我不肖蒙昧(もうまい)の身たりながら、辞する理(ことわり)なし、政(まつりごと)を務(つかさど)りて天下を治めたる事は、一筋に明恵上人の御恩なり。」(「栂尾明恵上人伝記」)と語る関係を明恵に持っていた。北条泰時の名は、明恵に箔が付かなかったはずはない。この明恵には奇妙な習慣があった。死の前年までの四十年間、見た夢を書き記していたのである。「八月廿七日の夜、夢に、自らの手より二分許(ばか)り之虫、ふと虫の如し、懇(ねんご)ろに之を出せりと云々。即(すなは)ち懺悔の間也。」「狼二疋(ひき)来リテ傍ニソイヰテ我ヲ食セムト思ヘル気色アリ、心ニ思ハク、我コノム所ナリ、此ノ身ヲ施セムト思ヒテ汝来リテ食スベシト云フ、狼来リテ食ス、苦痛タヘガタケレドモ、我ガナスベキ所ノ所作ナリト思ヒテ是(これ)ヲタヘ忍ビテ、ミナ食シヲハリヌ、然(しかして)シナズト思ヒテ不思議ノ思ヒニ住シテ遍身ニ汗流レテ覚メ了(をは)ンヌ。」「(建暦元年)十二月廿四日 夜の夢に云はく、一大堂有り。其の中に一人の貴女有り。面皃(めんぼう)ふくらかをにして、以ての外に肥満せり。青きかさねぎぬを着給へり。女、後戸(うしろど)なる処にして対面。心に思はく、此の人の諸様、相皃、一々香象(かうざう)大師の釈と符合す。其の女の様など、又以て符号す。悉(ことごと)く是(こ)れ法門なり。此の対面の行儀も又法門なり。此の人と合宿、交陰す。人、皆、菩提の因と成るべき儀と云々。即ち互ひに相抱き馴れ親しむ。哀憐の思ひ深し。此の行儀、又大師の釈と符合する心地す。」あるいは弟子が書き留めたこのような言葉こそが、明恵の真骨頂である。「若(も)しは一管の筆、若しは一挺の墨、若しは栗・柿一々に付きて、其の理を述べ、其の義を釈せんに、先づ始め凡夫、我が法の前に栗・柿としりたる様より、孔・老の教へに、元気、道より生じ、万物、天地より生じる、混沌の一気、五運に転変して、大象を含すと云ひ、勝論所立の実・徳・業・有・同異・和合の六句の配立、誠に巧みなりと云へども、諸法の中に大有性を計立して能有(のうう)とし、数論(しゆろん)外道(げどう)の二十五諦も、神我時自常住の能生を計して、已(すで)に解脱の我、冥性の躰に会する位を真解脱処と建立せる意趣にもあれ、又仏法の中に先づ自宗の五教によるに、小乗の人空法有(にんくうほふう)、始教の縁生即空、終教の二空中道、頓教の黙理、円教の事々相即、又般若(はんにゃ)の真空、法相(ほつさう)の唯識無境の談、法華の平等一乗、涅槃の常住仏性にもあれ、一々の経宗により一々の迷悟の差異、其の教宗に付きて、栗・柿一の義を述せんに、縦(たと)ひ我が一期を尽して日本国の紙は尽くるとも、其の義は説き尽し書き尽すべからず。」明恵は、栗一個柿一個ですらこの世のどのような教え知識をもってしても、いい尽くすことは出来ないというのである。晩年、明恵は仏光観の実践に費やしたという。若修行者求大菩提心者、無労遠求。但自浄一心。心無即境滅。識散即智明。智自同空。諸縁何立。仏、釈迦の教えを光として捉(とら)え、その光を受けた世界、教えによるところの世界の有様(ありよう)を、瞑想によってあたかも光のように己(おの)れに取り込み、己れ自身と世界との隔(へだ)たりが失われ、無くなり、成仏、悟った者としての己れ、あるいは真の己れをそこに見ることが出来るというのである。冬空に響き渡った自分の声を、疑いなく自分の声として自分の耳で聞きとめること、智自同空、が明恵のいう悟りである。高山寺の神鹿は、春日社詣での折、明恵の前で並び臥した東大寺の鹿に因(ちな)むという。その牝の哀しく鳴く顔は、鹿の顔ではない。転生した人間の顔である。

 「窓に うす明りのつく 人の世の淋しき」(「旅人かえらず」西脇順三郎西脇順三郎全詩集』筑摩書房1963年)

 「帰還率8割に 福島・川内、仮設と借り上げ住宅無償提供終了要因」(平成29年6月11日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)