京都錦小路の青物問屋枡源の四代目、伊藤源左衛門を継いだ絵師伊藤若冲の代表作「動植綵絵(どうしょくさいえ)」三十幅の内の三幅に「丹青活手妙通神」の印がある。これは絵の筆捌(さば)きが神業であるという意味であるが、この言葉は、八十六歳の煎茶売りの元僧、売茶翁(ばいさおう)が四十五歳の若冲に送った言葉であり、若冲は感激のままにこの言葉を印に彫り、お墨付きの如くに己(おの)れの絵に押したものである。草庵茶室の茶の湯を極めた千利休の死から百年の後、その侘び茶から最も遠いところで新しい茶のもてなしをしていたのが売茶翁であり、その百年経った茶の湯形式を禅僧として選ばなかったことが売茶翁の、利休の侘び茶に対する態度なのである。「處世不也世 學禪不會禪 但將一擔具 茶茗到處煎 到處煎兮無人買 空擁籃坐渓邊 咦 世を処するに世を知らず 禅を学んで禅を会(え)せず 但(た)だ将(まさ)に一つの具を担ぎ 茶茗(さめい)を到るところに煎る 到る処に煎るも人の買うこと無く 空しく提籃(ていらん)を擁して渓辺に坐す 咦(い、笑うべし) 世を渡るのに、世の中がわかっていない。禅を学んだが、禅を悟っているわけではない。只単に、一揃(ひとそろい)の茶具を担いで、行く先ざきで茶を煎(に)て売る。到る処で茶を煎るけれど、買う人とて無く、空しく提籃を抱きかかえて、渓(たに)の辺(ほとり)に坐っている。笑いものではないか。」(大槻幹郎 訳注『賣茶翁偈語(げご)』全日本煎茶道連盟2013年刊)売茶翁、本名柴山元昭は延宝三年(1675)肥前国佐賀に生まれ、十一歳で地元蓮池藩菩提寺龍津寺で得度し、月海元昭となり、京都宇治の黄檗宗萬福寺に暫く身を置いた後、江戸、磐城三春を経て仙台安養寺に二十七歳まで身を寄せ、再び萬福寺での修行を経て、佐賀龍津寺に戻り、先住持の死後、己(おの)れの代わりに萬福寺に在った兄弟子、大潮元晧を呼び寄せて住持に据えると、四十九歳にして漂泊住所不明の坊主となり、享保十九年(1734)五十九歳で鴨川二ノ橋のたもとに茶店を開き、世間に売茶翁と名乗るのである。「対客言志」の題で売茶翁が記した問答がある。一人の客が売茶翁に、出家者は寺にいて信者の供養を受けるか、そうでなければ托鉢をして生きるのであり、茶を売って金を得ることは、仏の教えに背いているのではないか、と訊く。それに対して売茶翁は、こう応える。寺にある僧の十中八九は俗に塗(まみ)れ、信徒に媚(こ)び、布施をする信徒はそのような僧を軽蔑している。施者も受者も施物も空(くう)であると真に悟ることが出来るのであれば、色のついた布施を受け取ることが出来るのであるが、自分はその浄穢(じょうえ)の思いから逃れることが出来ない、「余未(いまだ)此(この)翳(かげ)を除くこと得ず。故に妄(みだ)りに空華(くうげ、※実体のない幻)の浄穢を見る。是を以て造次顛伂(ぞうじてんぱい)にも孜々(しし)として玆(こ)れを思うこと玆(ここ)に在り。」このことを思い続けるために世間から賤(いや)しく思われている茶売りとなり、それで飯を喰うためだけの金を得ているのである。聞いた客はこう云ったという。あなたの云う言葉を紙に書き残しておいて欲しい。売茶翁は宝暦十三年(1763)八十九歳で亡くなるまで、幾編もの偈(げ)と呼ばれる漢詩を手元に残していた。売茶翁はその客の男を信じ、己れの言葉を信じていたのに違いない。「瓦鼎翻波松籟發 點來賣與五湖人 柰何箇裡無知味 獨坐自煎絶等倫 瓦鼎(がてい)波を翻(ひるがえ)して松籟(しょうらい)発す 点じ来(きた)って売与(ばいよ)す五湖の人 奈何(いかん)ぞ箇(こ)の裡(うち)の味を知る無き 独坐自煎して等倫を絶す 素焼きの釜の中は湯が沸き立って波が翻り松風のような音を発する。茶を点ててあちこちの人々に売りひさぐ。この味を解する人が無いときはどうしようもない。独り腰を落ちつけて自分で煎て喫めば、茶は等しき倫(ともがら)としてこれにまさるものはない。身老殊知吾性拙 舊友盡占機先 可憐隻影孤貧客 賣却煎茶充飯錢 身老いて殊(こと)に知る吾が性(さが)の拙(つた)きことを 旧友尽く是(こ)れ機先を占む 憐むべし隻影(せきえい)孤貧の客 煎茶を売却して飯銭に充(あ)つ 自分自身が年老いて、ことさらに知ることがある。それは自分の生まれつきは拙であることである。古くからの友人たちは、皆それぞれが先んじて然るべきところを得ている。それにくらべ自分は憐れなるひとりぼっちのさびしいかげ孤独で貧乏な旅人である。ただ煎茶を売ることで、日々の飯代に当てている。夏日松下煮茶 獨愛清間夏日長 千株松下石爐香 人間炎熱復何到 洞裏風光豈是望 水擇麗泉汲音羽 茶烹唐製自家郷 此生尤喜脱煩累 世上笑吾心轉狂 夏日(かじつ)松下に茶を煮る 独り愛す清間(せいかん)夏日長きことを 千株(せんしゅ)松下石炉香(かんば)し 人間(じんかん)の炎熱(えんねつ)復(また)何ぞ到らん 洞裏(とうり)の風光豈(あ)に是を望まんや 水は麗泉を択(えら)んで音羽に汲み 茶を唐製に烹(に)て家郷(かきょう)よりす 此の生(せい)尤(もっと)も喜ぶ煩累(はんるい)を脱する 世上笑う吾が心転(うた)た狂(きょう)することを 夏の日の木陰で茶を煮る 心のどかに長い夏の日を独り楽しみ、多くの松が立ちならぶ林の中で、茶を煮る石の炉から立のぼる匂いが香ばしい。俗世間の焼けつくような暑さも、ここには来ないから仙人のいる洞天の風景をうらやましがることもない。水は麗(うるわ)しい 音羽(おとわ)の滝を選んで汲み、茶は故郷から唐製の釜炒り茶を取り寄せて煮る。煩(わずら)わしい世間のしがらみから脱け出ることを、最も喜びとしているのに、世の人々は私の心はますます狂っているとあざ笑う。遊新長谷寺煮茶 観音靈場在洛東 秋風扶我到河東 獨荷竹爐燒落紅 嶺上松音來入鼎 耳根透徹大圓通 新長谷寺に遊び茶を煮る 観音霊場洛東に在り 秋風我れを扶(たす)けて河東(かとう)に到る 独り竹炉を荷(にな)って落紅を焼く 嶺上の松音来りて鼎(かなえ)に入り 耳根(しこん)透徹す大円通(だいえんつう) 新長谷寺に遊んで茶を煮る 秋風に扶(たす)けさそわれて、鴨河を東へ新長谷寺に来て、独り荷ってきた竹枠の炉で、紅葉を焚いて茶を煮る。嶺から吹きおろす松風の音が、釜の中に入り、耳にははっきりと、すべての真理が大きくゆきわたるのが聞こえてくる。賣茶偶成 (一)非僧非道又非儒 黒面白鬚窮禿奴 執謂金城周賣弄 乾坤是一茶壺 売茶偶成(ぐうせい) (一)僧に非(あら)ず道に非ず又儒に非ず 黒面白鬚(はくしゅ)窮禿奴(きゅうとくぬ) 執(た)れか謂(い)う金城売弄周(ばいろうあまね)しと 乾坤(けんこん)都(すべ)て是れ一茶壺(いっさこ) 売茶偶成(ぐうせい) 其の一 僧侶でもなく、道士でもなく、また儒者でもない。色黒の顔に白いひげの貧乏なはげ男。京都の街の誰かが言っている。すぐれた茶であるとひけらかして広めていることを。だがしかし、天地自然のすべての心が、この一つの小さな茶壺の中にこめられている。偶成 性癖風顛世上違 賣茶生計愜其機 心休冷淡勝甘旨 意足破衫齊錦衣 曉酌井華涵月荷 暮挑瓦鼎帶雲歸 老身用得這般事 物外逍遥絶是非 偶成(ぐうせい) 性癖(せいへき)の風顛(ふうてん)世上(せじょう)と違(たが)う 売茶の生計其の機に愜(かな)う 心休して冷淡甘旨(かんし)に勝(まさ)れり 意足(た)りて破衫(はさん)錦衣(きんい)に斉し 暁(あかつき)に井華(せいか)を酌(く)んで月を涵(ひた)して荷(にな)い 暮に瓦鼎(がてい)を挑(かか)げて雲を帯びて帰る 老身用得たり這般(しゃはん)の事 物外逍遥(しょうよう)是非(ぜひ)を絶す 偶々(たまたま)成る 生まれつきの風変りな生き方は、世間の人々とは相容れないが、茶を売って生計を立てるのが気持はしっくり合っている。心が安らかであると、あっさりした味わいがうまい味にすぐれ、気持が満足していると破れ衣も錦の衣と同じ思いである。夜明けに井戸水を酌み、月影をざぶりと入れて荷って運び、夕べに素焼きの釜をかついで夕焼け雲と共に帰る。年老いた身であるが、このような事は行いたえることができる。世俗の外にゆったりと気ままに楽しみ、ことの善し悪しをこえた境地に暮している。舎那殿前松下開茶店 松下點茶過客新 一錢賣輿一甌春 諸君莫笑生涯乏 貧不苦人苦貧 舎那殿前(しゃなでんまえ)の松下で茶店を開く 松下に茶を点じて過客新たなり 一銭売与(ばいよ)す一甌(いちおう)の春 諸君笑う莫(なか)れ生涯の乏(とぼ)しきことを 貧人を苦しめず人貧に苦しむ 舎那殿前の松の下で茶店を開く 大仏殿前の松の下で、行き過ぎる新しい客に茶をたてて、一文銭で売り与える、一杯の新茶。皆さん方よ、一生涯貧乏であることを笑って下さるな。貧乏は人を苦しめるのではなく、人が貧乏であることを苦しいと思うのだ。晩夏偶成 竹林深處寄殘生 獨坐悠然物外情 屋後移花空有色 窓前對石聽無聲 甜留河畔梵音響 緩歩池邊荷氣清 客至扣參別傳旨 卽談家事最分明 晩夏偶(たま)たま成る 竹林深き処残生を寄す 独坐悠然たり物外(もつがい)の情 屋後(おくご)花を移して空しく色有り 窓前石に対して聴くに声無し 河畔に憩留(けいりゅう)すれば梵音響き 池邊に緩歩すれば荷気(かき)清し 客到りて別伝の旨を扣参(こうさん)すれば 即ち家事を談ずること最も分明(ぶんみょう) 六月偶(たま)たま詩を作る 奥深い竹林に、人生の残りを寄せる。独り悠々と坐っていると、俗世間の外にいるかのような気分である。家の裏に移し植えた花は、ひっそりと咲くも色美しい。窓先きの石に相対して、その声なき声を聞く。川の畔(ほとり)に憩(いこ)い留まると、読経の音が響き、池のまわりを緩やかに歩むと、荷(はす)の花の香りが清らかである。客がおとづれて、禅の極意は如何に会得するかと尋ねれば、そこで私の仕事として茶売りをしていることが、そのまま禅の在方を示しているといえばあきらかであろう。衲衣 百綴裁成山水衣 通身贏得被雲歸 回頭直下返觀去 衣舊繋珠衲裏輝 衲衣(のうい) 百綴(ひゃくてつ)裁(さい)し成す山水の衣 通身贏(か)ち得たり雲を被(かぶ)って帰ることを 回頭(かいとう)直下(じきげ)に返観し去れば 旧(きゅう)に依って繋珠(けいしゅ)衲裏(のうり)に輝く ぼろ布を綴(つづ)った衣を着ていると、山水自然をそのまま衣としている思いで、体全体にあまるほど得て、雲をまとって行き帰って来た。頭を回らしてずばりと我が身を省みると、もと通りの貴重な宝珠が衣のうちに輝いているように思われる。自賛三首 (一)咄這瞎漢 謾打風顛 早歳入釋 事師參禪 百城烟水 遠探要津 熱喝痛棒 嘗苦喫辛 歴盡雪霜 自救不了 マンカン面皮 モラ多少 老來安分 爲賣茶翁 乞錢博飯 樂在其中 煮通天澗 鬻渡月花 若人論味 驀口蹉過 因憶昔年王太傳 依然千古少知音 自賛三首 其の一 咄(とつ)這(こ)の瞎漢(かつかん) 謾(みだ)りに風顛(ふうてん)を打(だ)す 早歳(そうさい)釈に入り 師に事(つか)えて参禅す 百城烟水(ひゃくじょうえんすい) 遠く要津(ようしん)を探る 熱喝(ねつかつ)痛棒(つうぼう) 苦を嘗(な)め辛を喫す 雪霜を歴尽して 自救(じぐ)不了(ふりょう) まんかんの面皮 もら多少ぞ 老来(ろうらい)分(ぶん)に安(やす)んじて 売茶の翁と為(な)る 銭を乞(こ)うて飯に博(か)え 楽は其の中に在り 通天の澗(たに)に煮て 渡月の花に鬻(ひさ)ぐ 若(も)し人味を論ぜば 驀口(まっく)に蹉過(さか)す 因(よ)って憶(おも)う昔年(せきねん)の王太傳(おうたいふ) 依然として千古(せんこ)知音(ちいん)少(まれ)なり 自分の画像の賛 其の一 おい、このわからずや、むやみに物狂いの様をする。年少に仏門に入り、師について参禅修行。多くの町や村、山川を越え渡り広く旅をして、遠く深い禅の要諦を探ってきた。熱く一喝され、痛(きび)しく棒を食らい、苦しみを嘗め、辛さを喫むこともあった。酷(きび)しい年間を過ごしてきたが、自分一人さえ救いきれないでいる有様。ぼんやり間の抜けた顔つきで、面の皮が厚く、赤恥をかくのがおち。年をとって分相応に、茶売りの翁となり、銭を求めて飯代とし、楽しみはこの中にある。東山東福寺の通天橋の澗間(たにま)で茶を煮たり、嵐山渡月橋の花の季節に茶を売る。若し人あって茶の味について議論するならば、まっこうから見当はずれ。その昔唐の王太傳のことを思うにつけても、昔も今も本当に心の通じ合える友は少ない。自警偈 夢幻生涯夢幻居 了知幻化絶親疎 貪榮萬乘猶無足 退歩一瓢還有餘 無事心頭情自寂 無心事上境都如 吾儕荀得体斯意 廓落胸襟同太虚 自(みずか)ら警(いまし)める偈(げ) 夢の生涯夢幻の居(きょ) 幻化(げんか)を了知(りょうち)すれば親疎(しんそ)を絶す 栄(えい)を貪(むさぼ)れば万乗(ばんじょう)も猶(な)お足ること無く 歩を退(さが)れば一瓢(いっぴょう)も還(かえ)って余り有り 心頭に無事なれば情(じょう)自(おの)ずから寂(じゃく)に 事上(じじょう)に無心なれば境(きょう)都(すべ)て如(にょ)なり 吾儕(ごさい)荀(いやし)くも斯(こ)の意を体(たい)するを得ば 廓落(かくらく)たる胸襟(きょうきん)太虚(たいきょ)に同じ 自ら警めてのべる ゆめまぼろしの一生、ゆめまぼろしの住まい。全(すべ)てがゆめまぼろしと悟り知れば、親しいとか疎(うと)いとかいう区別もなくなる。栄誉を欲しがれば、天子となってもまだ満足せず、慎(つつし)み深くすれば、一つの瓢箪(ひょうたん)の水でも十分すぎる。心に何事もなければ分別はなくなり、何事にも無心で向き合えば、知覚や思考の対象となる世界はすべてそのまま真実である。もしもわたしたちがこのことを体得できたならば、胸の中はさっぱりとして、大空と同じであろう。仙窠燒却語 仙窠是具籃名所以鬻煎茶也 我從來孤貧 無地無錐 汝佐輔吾曾有年 或伴春山秋水 或鬻松下竹陰 以故飯錢無缼 保得八十餘歳 今已老遇 無力干用汝 北斗藏身 將終天年 却後或辱世俗之手 於汝恐有遺恨 是以賞汝以火聚三昧 直下向火焔裏轉身去 轉身一句且如何 良久云 劫火洞然毫未盡 青山依舊白雲中 便付丙丁 乙亥九月初四 八十一翁高遊外 仙窠(せんか)焼却の語 仙窠は是(こ)れ具籃(ぐらん)の名、煎茶を鬻(ひさ)ぐ所以(ゆえん)也 我れ従来孤貧(こひん) 地無く錐(すい)無し。汝(なんじ)我を佐輔(さほ)すること曽(かつ)て年(とし)有り、或(ある)いは春山(しゅんざん)秋水(しゅうすい)に伴(ともな)い、或(ある)いは松下竹陰に鬻(ひさ)ぐ 故(ゆえ)を以(もっ)て飯銭欠くること無く、八十余歳を保得(ほとく)せり。今(いま)已(すで)に老遇(ろうまい)、汝(なんじ)を用うるに力無し、北斗に身を蔵(ぞう)して、将(まさ)に天年(てんねん)を終えんとす。却後(きゃくご)、或(ある)いは世俗の手に辱(はずかし)められれば、汝(なんじ)に於(おい)て恐らくは遺恨(いこん)有らん、是(これ)を以(もっ)て汝(なんじ)を賞(しょう)するに、火聚三昧(かじゅうざんまい)を以(もっ)てす。直下(じきげ)に火焔(かえん)裏(り)に向(お)いて転身し去れ、転身の一句且(か)つ如何(いかん)。良久(りょうきゅう)して云う、劫火(ごうか)洞然(とうぜん)毫末(ごうまつ)尽(つ)く 青山(せいざん)旧(きゅう)に依(よ)る白雲(はくうん)の中 便(すなわ)ち丙丁(へいてい)に付(ふ)す。乙亥(いつがい)九月初(しょ)四(し) 八十一翁高遊外(こうゆうがい) 仙窠(せんか)を焼きすてる語(ことば) 仙窠(せんか)は茶道具を納める籃の名前で、煎茶を鬻(ひさ)ぐいわれのものである。私はもとより孤独のたちであり、貧乏で住む土地とて無い。なのにそなたは、長い間私を助けて、ある時は春の山、秋の水辺、またある時は松の木陰竹林の中で茶を売ってきた。おかげをもって飯代を欠くこと無く、八十余年を生きることが出来た。ところが今や老いて、そなたを使うだけの力が無くなった。そこでひっそりと身を隠して、天命を終えようと思う。却(しり)いた後、或(ある)いは俗人の手にわたって辱(はずかし)められるようなことになると、そなたも恐らく残念なことであろう。この事によってそなたを賞(ほ)めて、燃え盛(さか)る炎の中で心の安らぎを与えよう。そのまま火燃の中で、身を転じて安住してほしい。身を転じた一句はさあどうか。しばらく沈黙して云う。世界の終末の炎に、すべてが焼き尽くされても、青々と樹が繁る山は、変わることなく白雲の中に聳(そび)えている。そこで火によせる。宝暦乙亥(ほうれききのとい)五年九月四日 八十一翁高遊外」(大槻幹郎 訳注『賣茶翁偈語』)『賣茶翁偈語』の「売茶翁伝」に「翁且(まさ)に七十にならんとす。復(ま)た国に還り、乞(こ)うて自(みずか)ら僧を罷(や)め、名を肥人の宦(かん)にして京に在る者に隷(ふ)して、以(もっ)て十年の限(かぎり)を免(まぬがれ)んことを欲す。」とあり、肥前蓮池藩の国外滞在十年ごと許可更新の帰国の免除を高齢を理由に願い出て、大坂藩邸詰めの身分を得、還俗(げんぞく)し、高遊外(こうゆうがい)と名を改めたという。還俗は、肥前への帰国の、肉体金銭の負担という理由だけでなく、僧、出家者の矜持(きょうじ)を、最早(もはや)脱ぎ捨てても一向に構わない衣にすぎないと思い至ったのに違いない。人を悟りに導くためには、まず自(みずか)らが悟らなければならないという、十一歳の得度の際に習ったであろう教えは、ここに至って、そうではなかったのである。禅は、すべては「空(くう)」であるという「色即是空 空即是色」を、一瞬間の体験こそが実体であり、そこにとどまって在るものはないという「悟り」を、その教えの根本とするのであるが、布施を貰って死者を葬る、あるいは供養の金、食い物で信者を説き導くことに、売茶翁は平気でいられなかった。果たしてその「交換」に平気でいられることが悟りなのか、それを思い続けるしかない、あるいはもう一歩踏み込んだ、僧であっても悟らなくても構わないのではないかという思いが、口を糊するための茶売りであり、その最も遠い煎茶売りに身を置いたことで、恐らくは「悟り」という呪縛から解放され、図らずも己(おの)れの悟りに触れたその様(さま)が、売茶翁が書き残した偈なのである。売茶翁の偈、漢詩の云うところは、ただ一つである。それは、松の木陰で煮た茶の味の旨さである。禅僧趙州(じょうしゅう)の云う「喫茶去(きっさこ)」は、「茶を飲んで出直せ」という意味である。売茶翁は、その「喫茶去」の、自分で飲むための茶を自分で煮、人にも勧め、思いを巡らす場を共有したのである。『賣茶翁偈語』に描かれている歯の抜けた売茶翁の肖像は、伊藤若冲の筆によるものであり、その自賛の筆を執ったのは池大雅である。この二人が、売茶翁の淹れた茶を存分に味わった者らなのである。

 「こゝでは、三人の教授が国語の改正をいろいろと熱心に考えていました。一つの案は、言葉を全部しゃべらないことにしたらいゝというのでした。その方が簡単だし、健康にもよい。ものをしゃべれば、それだけ肺を使うことになるから、生命を痛める、というのです。それで、その代りにこんなことが発明されました。言葉というものは、物の名前だから、話をしようとするときには、その物を持って行って、見せっこをすれば、しゃべらなくても意味は通じるというのです。しかし、これも一つ困ることがあります。それはちょっとした話なら、道具をポケットに入れて持って行けばいゝのですが、話がたくさんある場合だと大へんです。そのときは、力の強い召使が、大きな袋に、いろんな品物を入れて、背負って行かなければなりません。」(原民喜原民喜ガリバー旅行記晶文社1977年)

 「新米4年連続で基準値超ゼロ 17年度産956万点、18年も全袋検査」(平成29年12月30日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載) 

 南無阿弥陀仏を口で唱えることをすることだけで、極楽浄土に誰でも往生出来る、と法然は説き、その「誰でも」は挙(こぞ)ってその念仏を唱え始めた。十二世紀末のその「誰でも」は皆、極楽往生を望んでいたのである。が、その「誰でも」の範疇に入らない皇族貴族の金で寺を建て仏像を作り、手の届かない教義を重んじてきた比叡山の天台真言、あるいは南都旧仏教から、激しい攻撃を受け、法然は讃岐に流罪になる。この法然の教えの元(もとい)は、叡山黒谷の経蔵で読んだ、中国善導の「観無量寿経」の注釈書『観無量寿経蔬(かんむりょうじゅきょうしょ)』の内にあった一言「一心専念弥陀名号」の発見である。「観無量寿経」は、「無量寿経」「阿弥陀経」と共に浄土三部経典の一つであり、実の子に幽閉され、その運命を嘆く母親に仏世尊が、浄土へ導くための法を説く経である。王舎城の太子阿闍世(あじゃせ)は、悪友調達(ちょうだつ 提婆達多、調婆達多ちょうばだった)の唆(そそのか)しで父王頻婆娑羅(びんばしゃら)を幽閉して王の位を奪い、秘かに身体に食い物を塗って父王に与えていたその夫人である母親韋提希(いだいけ)を殺そうとするが、家臣の説得で父王と同様に幽閉して仕舞う。悲しみやつれた母親韋提希が、救済を欲して世尊の弟子阿難(あなん)と大目犍連(だいもくけんれん)の出現を願うと、この弟子らと共に仏世尊が目の前に姿を現わし、韋提希は世尊にこう訴える。「「世尊よ、我れ宿(むかし)に何の罪ありてか、此(こ)の悪子を生めるや。世尊は復(また)何等の因縁有りて、提婆(だいば)達多と共に眷属(けんぞく)と為(な)るや。唯願わんは世尊よ、我が為(ため)に広く憂悩無き処を説かれんことを。我れ当(まさ)に往生すべし。閻浮提(えんぶだい ※人間世界)の濁悪(じょくあく)の世を楽(ねが)わざるなり。此の濁悪の処には、地獄・餓鬼・畜生盈満(えいまん)し、不善の聚(ともがら)多し。願わくは我れ未来に、悪声を聞かず、悪人を見ざらんことを。今、世尊に向かいて、五体投地し、哀れみを求めて懺悔(ざんげ)す。唯願わくは仏日(ぶちにち)よ、我れをして清浄業(せいじょうごう)の処を観せしめよ」爾(そ)の時、世尊は眉間の光を放つ。其(そ)の光は金色にして、十方無量(※無限)の世界を徧(あま)ねく照らし、還りて仏の頂に住(とど)まり、化して金の台(うてな)と為る。須弥山(しゅみせん ※世界の中央にあるという山)の如し。十方の諸仏の浄妙の国土、皆中に於(お)いて現わる。或(あるい)は国土有り、七宝もて合成す。復(また)国土有り、純(もっぱ)ら是(こ)れ蓮華なり。復国土有り、自在天宮の如し。復国土有り、玻瓈鏡(はりきょう)の如し。十方の国土、皆中に於いて現わる。是(かく)の如き等(ら)の無量の諸仏国土有り、厳顕観る可(べ)し。韋提希をして見せしむ。」悪のない清浄な場所を見せてくれと云う韋提希の願いに、世尊は様々な荘厳清浄な仏国土を見せたのである。が、韋提希は猶(なお)もこう云う。「世尊よ、是(こ)の諸仏土は、復(また)清浄にして皆光明有りと雖(いえど)も、我れ今、極楽世界、阿弥陀仏の所に生まれんことを楽(ねが)う。唯願わくは世尊よ、我れに思惟を教えよ、我れに正受を教えよ」世尊は応える。「彼(か)の国に生まれんと欲する者は、当(まさ)に三福を修むべし。一(いつ)は、父母に孝養し、師長に奉事し、慈心にして殺さず、十善業(※十善戒 不殺生・不偸盗(ちゅうとう)・不邪婬・不妄語・不両舌・不悪口・不綺語・不食欲・不瞋恚(しんい ※憎悪しない)・不邪見)を修む。ニは、三帰(※三帰依 仏・法・僧)を受持し、衆戒(※多くの戒律)を具足し、威儀を犯さず。三は、菩提心を発(おこ)し、深く因果を信じ、大乗を読誦し、行者を勧進す」この三種の行いこそが、諸仏の修行の唯一の根本であると世尊は云う。韋提希は世尊にこう云わせて、一歩踏み込む。「世尊よ、我れの今者(いま)の如きは、仏力を以(もっ)ての故(ゆえ)に、彼の国土を見ん。仏の滅するの後の若(ごと)きは、諸もろの衆生等は、濁悪不善にして、五苦(※生苦・老苦・病苦・死苦・愛別離苦)の逼(せま)る所となるに、云何(いかん)ぞ当(まさ)に阿弥陀仏の極楽世界を見るべきや」この問いが、この「観無量寿経」の主題である十六観、極楽往生のための、十六の対象を見て惟(おも)う方法を世尊から導き出すのである。世尊の云うその一つは、西に沈む太陽を観て、その形を再び心に想うことである。その二は、水を観て、水の光を想うことである。その三は、先の二つを極め、心に浮かぶ仏国土を想うことである。その四は、宝石が施されて瑠璃色に輝く宮殿が幾つもある宝樹の幹、枝葉、花果を詳しく観て想うことである。その五は、如意珠王(※宝石の王)から流れ出た水の調べを湛(たた)える池を観て、仏の教えを想うことである。その六は、無数の宝石で出来た楼閣と、そこに住む天人の演奏を観て、中空の響きに念仏の教えを想うことである。その七は、宝石の光を放つ蓮華とその花弁の一つ一つの様を観て、その光の変化に仏の様を想うことである。その八は、蓮華の上の仏と、先に観た宝石で輝く大地、水、樹木を再び観て、仏の左右に観世音と勢至菩薩の姿を想うことである。その九は、無辺の身体、八万四千の相を持つ無量寿仏の一つ一つの様を観て、無数の諸仏を想うことである。その十は、無限の身体を持ち、五百の諸仏を従えた観世音菩薩を観て、その八万四千の宝石の輝きに無数の仏侍者を想うことである。その十一は、十方を知恵の光で照らす勢至菩薩を観て、その動作の一つにすら無上の力が及ぶのを想うことである。その十二は、極楽世界の蓮華に座る己(おの)れを観て、一旦閉じた花が開き、己れを五百色の光が照らすその時、仏を見る己れの眼が開けたことを想うことである。その十三は、水が光る池の畔(ほとり)に一丈六尺の仏の像を観て、その阿弥陀仏に寄り来る観世音、勢至菩薩を想うことである。その十四から十六は、浄土往生のための行業と来迎の様を、上品上生(じょうぼんじょうしょう)から下品下生(げぼんげしょう)の九品(くほん)段に分けて説き、その上品上生は、その衆生は真実を想い、その心を深く信じ、往生のための善行の功徳を誓い、慈悲の心で殺生をせず、戒律を守り、大乗経典を読唱し、仏・法・僧・戒・捨・天を思う六念の法を修め、廻向発願(※善行功徳を他の一切衆生に振り向ける)し、浄土に生まれんことを念願して、この善行功徳が一日ないし七日に及べば、直(ただ)ちに往生することが出来るとし、浄土に生まれんとする時、阿弥陀如来が観世音、勢至菩薩他の無数の仏を伴って現れ、手を差し伸べる。その導かれた浄土で仏、諸菩薩の優れた様を観て、宝石の光を放つ樹木のさざめきに仏の教えを聞き、無生法忍(むしょうぼうにん ※すべてにおいて生もなく滅もない)を悟る、とするのである。次に来る上品中生以下の階級は、修行意識が緩やかになり、来迎の規模も小さくなっていき、下品上生の衆生は、罪悪をなして心に恥ることがない者であるが、大乗十二部経の題目を唱えて罪悪を消し去り、浄土に再び生まれ、観世音、勢至の二菩薩の教えを理解した後には菩薩のはじめの位階に加わることが出来、「下品下生とは、或(あるい)は衆生有りて、不善の業、五逆・十悪を作(な)し、諸もろの不善を具(ともな)う。此(かく)の如き悪人は、悪業の故を以て、応(まさ)に悪道に堕(お)ち、多却(たこう ※永遠)を経歴し、苦を受くること窮まり無かるべし。此(かく)の如き愚人は、命の終わる時に臨み、善知識(※高徳の人)に遇(あ)い、種々に安癒し、為(ため)に、妙法を説き、教えて念仏せしむ。此(こ)の人、苦逼(せま)りて、念仏するに遑(いとま)あらず。善友、告げて言う、「汝、若(も)し、念ずること能(あた)わざれば、応(まさ)に、(帰命)無量寿仏を称(とな)うべし」と。是(かく)の如く、至心に、声をして絶たざらしめ、十念を具足し、南無阿弥陀仏と称う。仏の名を称うるが故に、念念の中に於(お)いて、八十億劫の生死の罪を除く。命終わるの時、金蓮華の、猶(なお)日輪の如くなるもの、其の人の前に住(とど)まるを見る。一念の如き頃(あいだ)に、即ち極楽世界に往生するを得たり。蓮華の中に於いて、十二大劫(※世界の生滅にかかる時間)を満たして、蓮華方(はじ)めて開く。観世音・大勢至は、大悲の音声を以て、其の為に諸法の実相と、罪を除滅するの法を広説す。聞き已(お)わりて歓喜し、時に応じて即ち菩提の心を発(おこ)す。是(こ)れを下品下生の者と名づく。」戦乱の絶えないあの時代に、法然はこの「観無量寿経」を根拠に、念仏を唱えれば誰でも極楽往生出来ると説いた。法然の弟子親鸞は、その「誰でも」が悪人であると云い、そのために、あるいはそれ故に阿弥陀如来は存するのであるとしたのである。十一月のひと月、真如堂で「観無量寿経」を絵にした「観経曼荼羅」、浄土変相図を見ることが出来る。「観経曼荼羅」は、本堂祭壇の左側に天井から垂れ下がっている。縦五メートル、幅四・四メートルの金糸を使った大刺繍である。「観経曼荼羅」の図の大部分を占めるのは、極楽浄土の住人である阿弥陀如来、観世音菩薩、勢至菩薩の大姿と、彼らを取り巻く無数の諸々の仏たちであり、背後にある彼らの住む楼閣と、庭の池辺に生まれた新しい住人である往生者と蓮華の花々、空中で楽器を奏でながら舞う飛天の姿である。「観無量寿経」の内容である、王舎城の太子とその母親韋提希の話と十六観法は、この浄土を縁取るよに、その両脇と下に、添え物の紙芝居の如くに並べられている。十一月五日のその日、真如堂は十夜念仏法要の初日に当たり、若僧数人が、「観経曼荼羅」の裏の祭壇で、図面のコピーを手に檀の幾つもの仏具の位置を、離したり戻したりしていた。その者らの裏でのやり取りを目にして目を戻すと、「観経曼荼羅」は忽(たちま)ちにその荘厳さを失い、巨大な双六(すごろく)の様(さま)に成り下っている。宗教は気分である。そうであれば、この浄土変相双六では、骰子(さいころ)は盤の外で振られ、そのコマのどこからでも上がりである極楽浄土へ行くのには、誰でも念仏を唱えればよいのである。

 「おまえが戦争中の自分の住所へ、戦争中の自分自身へと戻るために、雪の上の足跡やトラックのタイヤ跡を越え、暗闇の中を自分ひとりで作って歩まねばならない道へと。好むと好まざるとにかかわらず、どのような海を渡ってきたにせよ、家へ帰る道を……。」(トマス・ピンチョン 越川芳明他訳『重力の虹国書刊行会1993年)

 「「国が第2原発廃炉を」 内堀福島県知事が全国知事会議で要請」(平成29年11月25日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 夏目漱石が手帳に残した、明治四十年頃のものとされるメモに、次のような言葉がある。「京都へ落ちる。糺(ただす)の森の夜。烏。時計。正岡子規。」漱石の京都行きは、四十九年の生涯のうちで四度ある。明治二十五年(1892)七月、東京帝大生の漱石は、松山に帰省する正岡子規に同行し、共に京都に二泊する。明治四十年(1907)四月、就いていた教職のすべてを捨て、漱石朝日新聞社に入る、その前月の京都行きが二度目である。明治四十二年(1909)九月、第一高等中学の同級生だった南満州鉄道会社総裁中島是公の招きによる満州・韓国行きの帰り、京都に立ち寄り、その翌年明治四十三年(1910)八月、漱石は伊豆修善寺で胃から吐血し、生死を彷徨(さまよ)う。大正四年(1915)三月の、四度目の京都は、二十九日の間滞在し、翌大正五年(1916)十二月、漱石胃潰瘍出血で、小説『明暗』を途中にしたままこの世を去る。明治四十年四月九、十、十一日の大阪朝日に載った「京に着ける夕」と同年六月二十三日から十月二十九日の東京朝日に載った小説『虞美人草(ぐびじんそう)』は、朝日新聞社漱石の初仕事であるが、「京都へ落ちる。」はその筆の走りの始めに置かれた言葉である。「京に着ける夕」は、こう始まっている。「汽車は流星の疾(はや)きに、二百里の春を貫いて、行くわれをを七条のプラツトフオームの上に振り落す。余(よ)が踵の堅き叩きに薄寒く響いたとき、黒きものは、黒き咽喉から火の粉をぱつと吐いて、暗い国へ轟(ぐわう)と去つた。唯さへ京は淋しい所である。原に真葛、川に加茂、山に比叡と愛宕と鞍馬、ことごとく昔の儘(まま)の原と川と山である。昔の儘の原と川と山の間にある、一条、二条、三条をつくして、九条に至つても十条に至つても、皆昔の儘である。数えて百条に至り、生きて千年に至るときも京は依然として淋しからう。」「唯さへ京は淋しい所である。」と書く漱石は、その淋しい理由を云っていない。「唯さへ」は極めて強い断定であるが、具体のないこの淋しさを丸呑みすることには、読む者は慎重である。この時、この「唯さへ淋しい京」は、漱石にとって二度目の場所である。「始めて京都に来たのは十五六年の昔である。その時は正岡子規と一所であった。麩屋町の柊屋とか云ふ家へ着いて、子規と共に京都の夜を見物に出たとき、始めて余の目に映つたのは、此の赤いぜんざいの大提燈(ちょうちん)である。此の大提燈を見て、余は何故か是(こ)れが京都だなと感じたぎり、明治四十年の今日(こんにち)に至る迄(まで)決して動かない。ぜんざいは京都で、京都はぜんざいであると余が当時に受けた第一印象で又最後の印象である。子規は死んだ。余はいまだ、ぜんざいを食つた事がない。」(「京に着ける夕」)「糸瓜(へちま)の如く干枯(ひから)びて死んで仕舞った」とも書く子規の死は、漱石の事実として心の内にあるものであるが、外に点るぜんざいの赤い大提燈は、この時その心の内を照らしたのかもしれぬ。夏蜜柑を食いながら一緒に遊廓を歩いた子規は、「血を吐いて新聞屋となる。余は尻を端折つて西国へ出奔する。───子規の骨が腐れつつある今日(こんにち)に至つて、よもや、漱石が教師をやめて新聞屋にならうとは思はなかつただらう。」(「京に着ける夕」)京都駅から人力車に乗り、寒い夜を南から北へ走り抜け、漱石は糺(ただす)の森にある宿に着く。「「是(こ)れが加茂の森だ」と主人(※京都帝国大学文科大学長狩野亭吉)が云ふ。「加茂の森がわれわれの庭だ」と居士(※第三高等学校教授菅虎雄)が云ふ。大樹を繞(め)ぐつて、逆に戻ると玄関に燈(ひ)が見える。成程(なるほど)家があるなと気がついた。玄関に待つ野明さんは坊主頭である。台所から首をだした爺さんも坊主頭である。主人は哲学者である。居士は洪川和尚の会下(ゑか)である。そうして家は森の中にある。後(うしろ)は竹藪である。顫(ふるへ)ながら飛び込んだ客は寒がりである。」(「京に着ける夕」)風呂に入って、そのまま漱石は床に就いた。「車に寒く、湯に寒く、果(はて)は蒲団に迄(まで)寒かつたのは心得ぬ。京都では袖のある夜具はつくらぬものの由(ゆゑ)主人から承つて、京とはよくよく人を寒がらせる所だと思ふ。」(京に着ける夕」)真夜中に漱石は、部屋の置時計の音で目を醒まし、明け方の烏の声で、再び見ていた夢を破られる。メモにある「糺の森の夜。烏。時計。」である。「時計はとくに鳴り已(や)んだが、頭のなかはまだ鳴つてゐる。しかも其の鳴りかたが、次第に細く、次第に遠く、次第に濃(こまや)かに、耳から、耳の奥へ、耳の奥から、脳のなかへ、脳のなかゝらこころの底へ浸み渡つてこころの底から、心のつながる所で、しかも心の尾(つ)いて行く事の出来ぬ、遥かなる国へ抜け出して行く様に思はれた。───此の烏はかあとは鳴かぬ。きやけえ、くうと曲折して鳴く。単純な烏ではない。への字烏、くの字烏である。」(「京に着ける夕」)翌朝の窓の外は小雨が降り、「幾重ともなく寒いものに取り囲まれてゐた。」で「京に着ける夕」は終わる。その最後に、このような句が置かれている。「春寒の社頭に鶴を夢みけり」京都の淋しさの具体は、最後まで出て来ない。死んだ子規との思い出は、漱石が京都につけた思い出に過ぎない。小雨の降る翌日から漱石は、『虞美人草』の取材に京都を巡って歩く。知恩院清水寺上賀茂神社詩仙堂銀閣寺、真如堂永観堂、御所、建仁寺、北野天満、金閣寺大徳寺東慶寺高台寺伏見稲荷三十三間堂東本願寺西本願寺、東寺、萬福寺平等院興聖寺清凉寺天龍寺、嵐山、保津川仁和寺妙心寺等持院比叡山祇園。東京朝日連載第一作の『虞美人草』は、継ぎ目の目立つ小説である。継ぎ目は、言うまでもなく欠点である。作中最も作り込んだ人物である藤尾を、漱石は小説の最後で殺して仕舞う。これは、自分で積んだ積木を壊す子どもの仕業と変わりがない。「紅を弥生(やよい)に包む昼酣(ひるたけなは)なるに、春を抽(ぬき)んずる紫の濃き、点を、天地(あめつち)の眠れるなかに、鮮やかに滴(した)たらしたるが如き女である。夢の世を夢よりも艶(あでやか)に眺めしむる黒髪を、乱るゝなと畳める鬢(びん)に上には、玉虫貝を冴々と菫(すみれ)に刻んで、細き金脚にはつしと打ち込んでゐる。静かなる昼の、遠き世に心を奪ひ去らんとするを、黒き眸(ひとみ)のさと動けば、見る人は、あなやと我に帰る。半滴のひろがりに、一瞬の短かきを偸(ぬす)んで、疾風(しつぷう)の威(い)を作(な)すは、、春に居て春を制する深き眼である。此瞳を遡(さかのぼ)つて、魔力の境を窮(きわ)むるとき、桃源に骨を白うして、再び塵寰(ぢんくわん)に帰るを得ず。只の夢ではない。糢糊(もこ)たる夢の大いなるうちに、燦(さん)たる一点の妖星が、死ぬ迄我を見よと、紫色の、眉近く迫るのである。女は紫色の着物を着て居る。」登場のはじめの藤尾という女の描写である。新聞連載の初仕事に、漱石の肩にいかに力が入っていたかが分かるような文である。異母兄甲野がいて、父親の遺産問題を兄との間に抱えた藤尾は、文学の個人教師小野との結婚を望むが、小野は、京都時代の恩師の娘との間で右往左往し、藤尾との結婚を待っていた甲野の友人宗近に不誠実を問い詰められ、藤尾を振って仕舞う。筋はこうであり、小説『虞美人草』はその描写、「心臓の扉を黄金の鎚(つち)に敲(たた)いて、青春の盃に恋の血潮を盛る。飲まずと口を背けるものは片輪である。月傾いて山を慕ひ、人老いて妄(みだ)りに道を説く。若き空には星の乱れ、若き地(つち)には花吹雪、一年を重ねて二十に至つて愛の神は今が盛(さかり)である。緑濃き黒髪を婆娑(ばさ)とさばして春風に織る羅(うすもの)を、蜘蛛(くも)の囲と五彩の軒に懸けて、自(みづから)と引き掛る男を待つ。引き掛つた男は夜光の璧(たま)を迷宮に尋ねて、紫に輝やく糸の十字萬字に、魂(たましひ)を逆(さかしま)にして、後の世迄の心を乱す。女は只心地よげに見遣(みや)る。耶蘇教(やどけう)の牧師は救はれよといふ。臨済黄檗(わうばく)は悟れと云ふ。此女は迷へとのみ眸(ひとみ)を動かす。迷はぬものは凡(すべ)て此女の敵(かたき)である。迷ふて、苦しんで、狂ふて、躍(をど)る時、始めて女の御意は目出度い。欄干に繊(ほそ)い手を出してわんと云へといふ。わんと云へば又わんと云へと云ふ。犬は続け様にわんと云ふ。女は片頬に笑(ゑみ)を含む。犬はわんと云ひ、わんと云ひながら右へ左へ走る。女は黙つてゐる。犬は尾を逆(さかしま)にして狂ふ。女は益(ますます)得意である。───藤尾の解釈した愛は是(これ)である。」に魅力を覚えるかどうかにかかっている。『虞美人草』における京都は、漱石の生まれ育った東京に対して、古い田舎の町である。太宰治に『佐渡』という短篇がある。「佐渡は、淋しいところだと聞いている。死ぬほど淋しいところだと聞いている。前から、気がかりになっていたのである。私には天国よりも、地獄のほうが気にかかる。関西の豊麗、瀬戸内海の明媚(めいび)は、人から聞いて一応はあこがれてもみるのだが、なぜだか直ぐに行く気はしない。相模、駿河までは行ったが、それから先は、私は未(ま)だ一度も行って見たことが無い。もっと、としとってから行ってみたいと思っている。心に遊びの余裕が出来てから、ゆっくり関西を廻ってみたいと思っている。いまはまだ、地獄の方角ばかりが、気にかかる。新潟までいくのならば、佐渡へも立ち寄ろう。立ち寄らなければならぬ。謂(い)わば死に神の手招きに吸い寄せられるように、私は何の理由も無く、佐渡にひかれた。私は、たいへんおセンチなのかも知れない。死ぬほど淋しいところ。それが、よかった。お恥ずかしい事である。」太宰は正直である。「京に着ける夕」の漱石は、子規を失くした己(おの)れの感傷、センチメンタルを京都に擦(なす)りつけ、気取っているのである。京都は、淋しいところである。佐渡は、淋しいところである。東京は、淋しいところである。福島、は淋しいところである。

 「人ハ自分に相談シテ言動セズ。故(ゆえ)ニ気ニナラヌ者ナリ。若(も)シ之(これ)ヲ忌(い)マバ自己の標榜(ひょうぼう)ト他トヲ一致セシメザルベカラズ 或(ある)程度迄出来る。(感化的形式的ニ)然(しか)シ他ノ立場ヲ考ヘナイ場合若(もし)クハ考ヘテモ理解デキナイ場合ハ全知ノ特権ヲ有(も)ツテ居ナイ場合トテモ取除ク訳ニ行カナイ」(夏目漱石の手帳、大正四年の断片『漱石全集 第二十巻』岩波書店1996年)

 「福島県産米規制を12月解除 EUの食品輸入、水産物の一部も」(平成29年11月12日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 『夢中問答』は、臨済禅師夢窓疎石(むそうそせき)が、足利尊氏の弟直義(ただよし)の発した九十三の問いに応えたものであり、二人の親密な関係を語るものである。「問。世情の上に浮かべる喜怒憎愛のやまぬほどは、偏(ひとへ)にこの念を対治することを心にかけて、かやうの凡情(ぼんじやう)皆やみて後に始めて本分の工夫をばなすべきやらむ。答。たまたま人界(にんかい)の生(しやう)を受けて、あひがたき仏法にあひながら、今生(こんじやう)にこれを明らめずば、何の生(※生まれ変わり)をか待つべきや。人の命は出入(いでいり)の息を頼みがたし。暫時なりとも、世事に心を移さむやと、かやうに志を励ます人は、世情にひかれて、工夫を忘るることあるべからず。たとひ境界にあふ時、世情の起こることあれども、その憎愛の念の起こる所について、猛烈に工夫をなす故に、憎愛の念もなかなか修行の力となるべし。然(しか)れども、道心(※求道心)の深切ならぬ故に、順逆の縁(※因縁)に転ぜられて(※妨げられて)、一向に工夫を忘るる人のために、先づ浅近(※卑近)の道理にて、世情を尽くしはてて、然(しか)して後に、始めて本分の修行をなすべしとにはあらず。羅漢果(※修行)を証せる人は、順逆の縁にあうても、憎愛の念は起こらずといへども、これを得法の人とは名づけず。薄地(はくぢ ※苦に追われる)の凡夫より悟入(ごにふ)する人は、喜怒の情は、いまだ尽きざれども、これをば得法の人と名づけたり。されば先づ世情をつくして、後に悟るべしとは申すべからず。妄情(まうじやう)の起こる時、これを和らぐる道理を思ひ出でたる処にも、本分の工夫をば捨つべからず。道心深切なる人は、寝ることを忘れ、食(じき)することをも忘れると言えり。かやうの人は、時々は困ずることもあり、飢ゑたることもあれども、工夫の中にやすみ、工夫の中に食する故に、寝食の時も、さまたげなし。それまでの道心はなき人の、飢ゑを忍び、睡りを念(ねう)ずれば(※がまんすれば)、身も疲れ、病も起こりて、なかなか道行(だうぎやう)の障(さわ)りとなる故に、飢ゑをやすめむために物を食し、身をやすめむために枕をせよとすすむれども、寝食の時は、しばらく工夫をなすことなかれとにはあらず。古人云はく、行(ぎやう)の時は、行の処を看取せよ。見聞(けんもん)の時は見聞の処を看取せよ。覚知の時は覚知の処を看取せよ。喜びの時は喜びの処を看取せよ。嗔(いか)りの時は嗔りの処を看取せよと、云々。これはこれ古人苦口叮嚀(くこていねい)の垂誠なり。かやうに修行せば、悟らずといふことなけむ。」凡人の悟りは、情欲感情を克服してから、改めて始めるものではなく、その克服そのものへの努力が、悟りに至るのであるから、歩く時は、歩くことそのことをよく思え。見聞きの時は、見聞きそのものをよく思え。知り覚える時は、知り覚えることそのことをよく見て思え。喜ぶ時は、喜びの元をよく思え。怒る時は、怒りの元をよく思え。政治知識を身につけていた後醍醐天皇は、国の実権を己(おの)れの手に戻すため鎌倉幕府の討幕を二度企て、二度目の失敗の後、元弘二年(1332)隠岐島に流されるが、翌年脱出し、反幕の武士を集め、幕府の命で兵を挙げた足利尊氏は、後醍醐天皇の意を受けて寝返り、京都六波羅探題を攻め、新田義貞が鎌倉北条軍を攻め落し、鎌倉幕府は滅び去る。京都に戻った後醍醐天皇は、新政の元(もとい)に尊氏に命じ、鎌倉で遁世していた世評高い夢窓疎石を呼び寄せ、この三人と尊氏の弟直義の関係はこれより深まるのであるが、公家貴族、武家の言い分を統率出来ず、経済も失敗した後醍醐天皇の新政は三年で潰(つい)え、鎌倉幕府の消え残り北条時行の反乱の鎮圧に、後醍醐天皇の命に背いて向かった尊氏は、朝敵とみなされ、新田義貞楠木正成との戦(いくさ)の末、比叡山に逃げ込んだ後醍醐天皇の座に、光明天皇を据える。後醍醐天皇は、三種の神器を携えて吉野に逃れ、もう一つの朝廷を山の中で始めるのであるが、暦応二年(1339)「只生々(シヤウジヤウ)世々(セゼ)ノ妄念トモナルベキハ、朝敵ヲ悉亡(コトゴトクホロボ)シテ、四海ヲ泰平ナラ令(シ)メシト思計也(オモフバカリナリ)。朕(チン)則(スナハチ)早世ノ後ハ、第七ノ宮ヲ天子ノ位ニ即奉(ツケタテマツ)テ、賢士(ケンシ)忠臣事ヲ謀(ハカ)リ、義貞義助ガ忠功ヲ賞シテ、子孫不義ノ行(オコナヒ)ナクバ、股肱(ココウ)ノ臣トシテ天下ヲ鎮(シズム)ベシ。之(コレ)ヲ思フ故ニ、玉骨(ギヨクコツ)ハ縦(タトヒ)南山ノ苔ニ埋ルトモ、魂魄(コンパク)ハ常ニ北闕(ホクケツ ※北の宮城)ノ天ヲ望(ノゾマ)ント思フ。若(モシ)命(メイ)ヲ背(ソムキ)義ヲ軽(カロン)ゼバ、君モ継体(ケイタイ)の君ニ非ズ、臣モ忠烈ノ臣ニ非ジ。」(『太平記』巻二十一「先帝崩御事」)とする凄(すさ)まじい怨念の綸言を残してこの世を去る。「政道一事モ無キニ依テ、天モ災ヲ下ス事ヲ不知(シラズ)。斯(カカリケ)レ共道ヲ知(シル)者無レバ、天下ノ罪ヲ身ニ帰シテ、己(オノレ)ヲ責(セム)ル心無リケルコソウタテ(※ますますひどい)ケレ。サレバ疾疫飢饉、年々ニ有テ、蒸民ノ苦ミトゾ成ニケル。──夢窓国師左武衛督(足利直義)ニ被申(マウサレ)ケルハ、「近(年)天下ノ様ヲ見候ニ、人力ヲ以テ爭(イカデ)カ天災ヲ可除(ノゾクベ)候。何様(イカサマ)是(コレ)ハ吉野ノ先帝崩御ノ時、様々ノ悪相ヲ現(ゲン)ジ御座(ゴザ)候(サフラヒ)ケルト、其神霊(ジンレイ)御憤(オンイキドホリ)深クシテ、国土ニ災ヲ下シ、禍(ワザハイ)ヲ被成((ナサレ)候ト存(ゾンジ)候。──哀(アハレ)可然(シカルベキ)伽藍一所御建立候テ、彼御菩提ヲ吊(トフラ)ヒ進セラレ候ハゞ、天下ナドカ静(シズマ)ラデ候ベキ。」(『太平記』巻二十四「天龍寺建立事」)憤死した後醍醐天皇の怨念を恐れ、その魂を鎮めるため、夢窓疎石の進言で足利尊氏と直義は、天龍寺を建立する。が、その光厳上皇の勅として幕府が建てる伽藍は、壮大でなければならない。「此為ニ宋朝(※元)ヘ宝ヲ被渡(ワタサレ)シカバ、売買利ヲ得テ百倍セリ。」として、直義は貿易船の上納金でその資金を賄ったのである。康永四年(1345)、後醍醐天皇の七回忌、天龍寺落慶法要に尊氏は「衣冠正ク」、直義は「巻纓老懸(マキフサノオイカケ)ニ蒔絵(マキエ)ノ細太刀帯(ハイ)テ」共に出るのであるが、文和三年(1352)、直義は敵(かたき)となった尊氏の軍に降伏し、その一カ月後不自由の身で急死する。幕府の実質の政務と所領の沙汰を取り仕切る直義と、尊氏の執事高師直(こうのもろなお)は、勝ち戦(いくさ)の所領の互いの配分の遣(や)り口が気に入らず、直義は師直の暗殺を企(たくら)む。が、密告で露見し、この関係を憂慮した尊氏は師直を解任する。師直はその翌月軍を引き連れ、尊氏直義兄弟に弓を弾く構えを見せ、直義は失脚する。失脚し夢窓疎石の授戒で出家した直義は、吉野の南朝に出向いて降伏し、尊氏の庶子である直義の養子直冬の九州討伐に向った、師直を執事に復帰させた尊氏に対して挙兵する。この室町幕府を二分する戦いは、一度(ひとたび)は、尊氏が出した師直・師泰兄弟の出家を条件に幕を閉じ、師直・師泰兄弟はその二日後、直義派の者に殺される。その火種は、師直に担がれていた尊氏の嫡子義詮(よしあきら)に残り、政務に就いた義詮と補佐役の直義とが上手くいく道理はない。引退を表明した直義は、各地で起こる反幕挙兵への尊氏らの対応に不穏を察し、一派を引き連れて京を脱出する。尊氏は、直義を追討する条件を受け入れて南朝と講和を結び、北陸から鎌倉に下り、伊豆に追い詰められた直義は、尊氏に降伏する。天龍寺の庭園は、天下の名園であるという。天龍寺開山の夢窓疎石の作である。この名園に対して、言葉で決着をつけようとするとこうなる。「夢窓国師が作庭した独特の瀑布、石橋、岩島などは巨然、馬遠、夏圭らの宋、元の画家が画いた唐様山水を想わせる石組である。それは独立する意思も、組み合わされた石も、平安時代の「こゝかしこの立石どもゝ、皆転びうせたるをわざとつくろふもあいなき(※つまらない)わざなり」(源氏物語、松風の巻)とする石組、遣水、前裁の風情に調和した、和風の、草の自然描写的石組とはまったく異質な、禅的な立石法であった。これは国師の長い禅僧生活の中にはぐくまれた感覚が日本の造庭法に画期的変革を齎(もたら)したものであった。滝口右(北)上の、主護石「被雲石」は全庭第一の高所に立ち、その形は高峯、峻嶽の象であるが、また一段と別格な石で、白衣の観音大士が結跏趺坐(けっかふざ)の姿とも察せられる。後醍醐天皇の御菩提を弔う国師の本願大慈悲の顕れであろう。説明の便宜上、寺伝の石名によると、石橋前の岩島は補陀落山(ふだらくせん)を意味し、その主石を「補陀石」という。主人岬(主人島、北岬)と客人岬(客人出島、南岬)との石組の対称的地割の面白さは、「主人岬」の主石は陸上に立ち、横石は岸より水へ這い降りる状態、岬の端石は岸から離れようとするところにある。これに対し「客人岬」の主石は水の中より立上り、これにつぐ量の横石は岬の鼻石となり、端石は岸からすでに離れて独立している。庭に向って左右(南北)の抑えの役を果たす石を、秘伝書(※作庭秘伝の書)では「二神石」あるいは「二王石」という。これに相当すつ天龍寺の庭石は左(南)に屏風石様に側立する大石「光禅石」があり、右(北)には主人岬の東に礼拝石を兼ねる黄褐色の大石「臥月石」がある。「月見石」とも呼ばれる。この「臥月石」の東に数組の石組とさつきの植え込みがある。これは方丈と書院を双方より限る目的で筋違(すじか)いに大石二個が立ち、離れて見れば一連の目をさえぎる石組となり、近づけば園路を挟む左右の石となる。この立石法は滝口の左(南)側にある「不即不離の石組」とまったく同じ手法で、その上客人岬にある馬瑙石(大理石)の形に見られる独特の感覚とも共通している。これにより国師が自ら全庭にわたって手を下されていたことがわかる。云々。」(「天龍寺の庭」久恒秀治『京都名園記』誠文堂新光社1969年刊)あるいは、『太平記』の決着は短い。「石ヲ集メテハ煙嶂(エンシヤウ)ノ色ヲ假(カ)リ、樹ヲ栽ヱテハ風濤ノ声ヲ移ス。慧宋(エサウ)ガ煙雨ノ図、韋偃(ヰエン)ガ山水ノ景ニモ未ダ得ザリシ風流也。」言葉で決着をつけないのであれば、足元、方丈軒下の雨落から白砂が始まり、緩(ゆる)い弧を幾度か描く池の縁には芝が生え、池は水を湛え、池の向こう岸は、松楓の繁る築山が迫り、水辺にはこちらを向いて立ったままの石の群が並ぶ。築山には登り道があり、その頂上から京都の市街を見ることが出来るほど築山は大きく、その後ろは地続きの亀山であり、南の山が嵐山である。夢窓疎石は、作庭の後に天龍寺十境と題する詩を詠み、大堰川(おおいがわ)に架かる渡月橋をその一つとしているのであるが、方丈の縁からは大堰川渡月橋も見えない。見ることの出来ない川と橋を、夢窓疎石はこの庭の景色に隠し持たせたのである。後醍醐天皇側の軍を破り、光明天皇を据えた建武三年(1336)八月十五日から二日後の十七日、足利尊氏清水寺に「願文」を奉納している。「この世ハ夢のことくに候。尊氏にたう心(道心)たハ(賜わ)せ給(たまい)候て、後生たすけをハしまし候へく候。猶なおとくとんせい(遁世)いたしたく候。たう心たハせ給候へく候。今生のくわほう(果報)にかへて、後生たすけさせ給候へく候。今生のくわほうをハ直義にたハせ給候て、直義あんおん(安穏)にまもらせ給候へく候。」この十四年後の観応元年(1350)、直義の誅伐相手となった師直・師泰側を率いた尊氏は、天龍寺で撤退途中の軍の休息を乞うが、夢窓疎石はそれを拒絶する。尊氏と直義が着飾って落慶法要に出たのはその五年前の康永四年(1345)である。『太平記』は、直義の死を尊氏による毒殺としている。尊氏と直義の和議を何度も図った夢窓疎石の死は、観応二年(1351)である。天皇も公家も武家も殺し合い、領地をぶん取ることに血眼(ちまなこ)になっていた時代に作られたのが、天龍寺の庭である。尊氏と直義の目に映った庭景色に、容易(たやす)く近づくことが出来ると思うのは、間違いである。

 「ぼくの三人の登場人物を前にして、彼らを行動させるという問題が生じてくる。例の騎士は森を通ってやってくる。猫は妖精に向って進んでいく。ただひとり妖精は、林間の空地で踊っている。もし期待の方が実際に起こることよりも豊かで、手段の方が目的よりも確かであるなら、彼女は骨折り損とはいえないだろう。」(「メリュジーヌの本」アルベール・カミュ 高畠正明訳『直観』新潮社1974年)

 「原発事故「国にも責任」 福島地裁判決、5億円の賠償命令」(平成29年10月11日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 織田信長と十一年の間、石山寺で戦った武装教団真宗本願寺は、紀伊鷺森、和泉貝塚、大坂天満と居場所を移し、信長の死後、豊臣秀吉に己(おの)れの目の届く京都七条堀川に移転させられる。信長との和議に応じた十一代宗主顕如(けんにょ)の死後を継いだ嫡男教如(きょうにょ)が、その継職の顕如の譲状を巡って秀吉と揉め、僅(わす)か一年後に顕如の弟准如(じゅんにょ)に宗主を譲り、隠居の命に応じたのであるが、秀吉の死後、徳川家康教如の持つ勢力を見逃さず、七条烏丸に広大な地を与え、よって本願寺は東西に二分してしまう。その政治によって分裂したまま今日に至る巨大な仏教教団の姿は、それを俯瞰(ふかん)して見れば、背を向け合う双子のように奇妙な姿である。浄土教信者徳川家康は、東山の知恩院香華院(こうげいん)として大伽藍に変貌させ、側近に天台宗南光坊天海と、臨済宗の最高位南禅寺の以心崇伝(いしんすうでん)を持っていて、法華宗徒の衰えた京都の大寺(おおでら)仏教は、徳川幕府の手の内にあった。寛永十八年(1641)その分派に手を貸した東本願寺から、地面の拡張を請われ、三代将軍家光は、東西一九四間、南北二九七間の土地を寄進する。これは言うまでもなく、東本願寺の力を示すものである。寛永九年(1632)に出た末寺帖令に従った東本願寺は、幕府の手の内にあってなお、積み上げた末寺の数の力を家光に示したのである。その東本願寺の二町(にちょう)東、寄進地の百間四方が、十三代宣如(せんにょ)が隠居所とした渉成園(しょうせいえん)である。舟を浮かべたという池があり、池の中に点々と小島があり、小流れがあり、水辺や築山に茶室があり、持仏堂があり、楼閣のような左右に登り階段がある四畳半の花見の二階部屋があり、燈籠(とうろう)が立ち、梅林があり、松が生え、大広間の亭の前に広々とした芝地がある。が、いま印月池(いんげつち)と名づけられている池には、水が一滴もない。侵雪橋(しんせつきょう)と呼ばれている反橋(そりばし)の工事のため、水を抜いているのである。池に水がなければ、趣(おもむき)は変わる。あるいは趣は損(そこ)なわれ、あるいは茫然と失われる。乾いて罅(ひび)の入った泥の池は、池ではない。その故(ゆえ)に中に下り、底に立って辺りの写真を撮る者がいる。その様(さま)は夢でなく、水のある景色の方がいまは夢である。水辺に建つ建物は火事に遭い、すべて再建されたものである。臨池亭(りんちてい)、滴翠軒(てきすいけん)、閬風亭(ろうふうてい)にはガラス戸が嵌(は)まり、水のない渉成園をそのように映している。露地を設けた二階建て二間の茶室蘆菴(ろあん)は、昭和三十二年(1957)の再建である。二階四畳半の肘掛窓から外を眺め、ここで点(た)てて喫む茶は煎茶である。窓にいい風が通る。昭和三十二年の窓に吹き込むのは、昭和三十二年の風である。昭和三十二年は、南極越冬予備隊の、南極大陸初上陸の年であり、茨城県東海村の原子炉が、初めて臨界に達した年である。その火は、数を増やし点(とも)り続けたのであるが、六年前の大津波に飲み込まれ、ひとたまりもなかったのである。掲示によれば、下の池に水が戻るのは、十一月である。

 「秋雨のそぼふる夕暮の京都はいかにもよい。よいと思ふだけ、自分は東京がやはりなつかしい。上田君に半日、ワツトーの画、ダヌンチオ、春水なぞ、つまり人種固有の特徴から出た特種の文藝と云ふやうな事を語つた。京都の生活の内面は到底他の土地の人の覗(うかが)ふべからざる処らしく感じられる。」(「斷腸亭尺牘(だんちょうていせきとく)」永井荷風荷風全集 第二十五巻』岩波書店1965年)

 「「放射線量」立体で可視化 小型カメラ開発、JAEA実用化へ」(平成29年9月12日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 「己未年の春二月(つちのとのひつじのとしのはるきさらぎ)の壬辰(みづのえたつ)の朔辛亥(ついたちかのとのゐのひ)に、諸将(いくさのきみたち)に命(みことおほ)せて士卒(いくさのひとども)を練(えら)ぶ。是(こ)の時に、層富縣(そほのあがた)の波哆丘岬(はたのをかさき)に、新城戸畔(にひきとべ)といふ者有り。丘岬、此をば塢介佐棄(をかさき)と云ふ。又和珥(わに)の坂下(さかもと)に、居勢祝(こせのはふり)といふ者有り。坂下、此をば瑳伽梅苔(さかもと)と云ふ。臍見(ほそみ)の長柄丘岬(ながらのをかさき)に、猪祝(ゐのはふり)といふ者有り。此三処(みところ)の土蜘蛛(つちぐも)、並(ならび)に、其(そ)の勇力(たけきこと)を恃(たの)みて、来庭(まう)き肯(か)へにす(※帰順しない)。天皇(※神日本磐余彦天皇(かむやまといはれびこのすめらみこと))乃(すなは)ち偏師(かたいくさ ※一部の軍)を分け遣(つかは)して、皆誅(ころ)さしめたまふ。又高尾張邑(たかをはりのむら)に、土蜘蛛(つちぐも)有り、其(そ)の為人(ひととなり)、身短(むくろみじか)くして手足長し。侏儒(ひきひと ※小人)と相類(あひに)たり。皇軍(みいくさ)、葛(かづら)の網を結(す)きて、掩襲(おそ)ひ殺しつ。因(よ)りて改めて其(そ)の邑(むら)を号(なづ)けて葛城(かづらぎ)と曰(い)ふ。」(『日本書紀』巻第三 神日本磐余彦天皇 神武天皇)土蜘蛛は、大和朝廷服従しなかった辺境の地の首長、民の蔑称(べっしょう)で、風土記には土雲、都知久母とも記されているのであるが、例えば『平家物語』では、蔑称であった言葉が具体的な蜘蛛の化物(ばけもの)として源頼光(みなもとのよりみつ)の前に現われ、頼光に、源家に伝わる二つの剣の内の一つである「膝丸(ひざまる)」を振り下ろされる。「また頼光、そのころ瘧病(ぎやへい ※熱病)わづらはる。なかばさめたるをりふしに、空より変化(へんげ)のものくだり、頼光を綱にて巻かんとす。枕なる膝丸抜きあはせ、「切る」と思はれしかば、血こぼれて、北野の塚穴のうちへぞつなぎける。掘りてみれば、蜘蛛にてあり。鉄の串にさしてぞ、さらされける。それより膝丸を「蜘蛛切」とぞ申しける。」(『平家物語』巻第十一 剣の巻下)『拾遺都名所図会』は、この「北野の塚」を、蜘蛛塚として載せている。「蜘蛛塚、七本松通り一条の北西側、圃(はたけ)の中に一丈ばかりの塚あり、これをいふ。古(いにし)へこのところに大いなる土蜘蛛棲みしとなり。『太野記(※『源平盛衰記』)』に「北野のうしろ」とあり。後考あるべし。一名山伏塚といふ。」この塚は、明治二十年代に宅地にされていまはない。が、蜘蛛塚と呼ばれる塚がもう一つある。「源頼光塚、舟岡山の南田の中に有。又の説に蓮台寺のうち、真言院の後檀の上にある所也。」(『名所都鳥』巻第六)千本通鞍馬口上ル紫野十二坊町の上品蓮台寺(じょうぼんれんだいじ)の塔頭真言院の墓地に「源頼光朝臣塚」の石碑がある。が、この石碑は、昭和初期に鞍馬口通千本西入ル紫野郷ノ上町にあった同じ蓮台寺の塔頭宝泉院の西裏の土饅頭にあったものを移したものであるという。源頼光は、藤原道長の側近であり、その父は、鎮守府将軍源満仲(みなもとのみつなか)であり、満仲の父は、清和源氏の祖、六孫王源経基(みなもとのつねもと)であり、経基は清和天皇の第六皇子貞純親王である。頼光は伊予、美濃、摂津などの国司を歴任して財を成し、道長の住まい土御門殿の再建に、その家具調度の一切を自腹で揃えたという。一条天皇の「摂津国大江山夷賊追討の勅命」を受け、四天王、渡辺綱(わたなべのつな)、坂田金時(さかたのきんとき)、碓井貞光(うすいさだみつ)、卜部季武(うらべのすえたけ)を率いて「酒呑童子(しゅてんどうじ)」を征伐したのが頼光である。その頼光が高熱で臥(ふ)せっているところを、土蜘蛛の化物が襲いかかり、化物は返り討ちに遭って「北野の塚穴」に逃げ込んだ。北野は、菅原道真を祀る北野天満宮である。その頼光が退治した蜘蛛塚と称するものが、二つ存在していたのである。『源平盛衰記』の土蜘蛛は、七尺の法師に化けて頼光の前に現われ、能の『土蜘蛛』は、その僧形が、病む頼光に無数の紙の糸を擲(なげう)つのである。源頼光は実在し、蜘蛛塚と称するものも二つこの世にあった。が、土蜘蛛の化物はどうか。この話が説話であれば、権力に盾突く、土に籠(こも)る、土蜘蛛と呼ばれた者は悪とは言い切れない。土蜘蛛の法師は、頼光に向って「苦しめ、苦しめ、乱世が欲しい」と言ったというのである。あるいは頼光は財を成して、怨みを買ったかもしれぬ。二つの蜘蛛塚は、作り話の証拠としてあったのではない。怨みの重さと殺された者への畏敬の念の深さが、恐らく二つの塚を生んだのである。退治された者への哀れさの共鳴が、二つなのである。この蜘蛛塚と称するものがなければ、頼光の話は何ほどの面白味もない。上品蓮台寺にある、「源頼光朝臣塚」の石碑の傍らの楠(くす)の大木に、蟬の抜け殻が幾つもしがみついていた。蟬の幼虫の形(なり)は、土の中で何年も過ごすための形である。

 「スペインから流れてきたテージョ河は、大西洋に注ぎだす前に、リスボン付近で湾のような大河になる。地図にはその大河を横断する航路が点線で記されていた。どうやら、コメルシオ広場の先にあるテレイロ・ド・パソという駅からフェリーが出ているようだ。私は、不意にそのフェリーに乗りたくなってきた。」(沢木耕太郎『一号線を北上せよ』講談社2003年)

 「セシウム検出限界値下回る 二本松で「早場米」全量全袋検査」(平成29年8月27日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 ひらいたひらいた なんのはながひらいた れんげのはながひらいた ひらいたとおもったら いつのまにかつぼんだ。手を繋(つな)ぎ、輪になってする「ひらいたひらいた」の遊戯で、ひらいていた輪がつぼんだことを、いつのまにかと思うのは、輪の中で目を閉じてしゃがむ幼児である。目を開け、輪の動きを見ていれば、いつのまにかの云いは成り立たない。目を開けている幼児がいれば、目を閉じるように先生から注意を受けるのである。このように子どもでも分かる言葉として、いつの間に、は使われるが、輪の中で目を開けていれば、つぼんだことが、いつの間にではないことが分かる。その幼児だけは、輪がせばまってゆく情報を知ることが出来るのである。蓮華(れんげ)、蓮の寺法金剛院は、JR嵯峨野線花園駅の前にある。法金剛院は明治30年(1897)、国鉄に譲る前の京都鉄道が線路を敷設し、その南半分の敷地を失い、昭和43年(1968)線路に並ぶ丸太町通の拡張で、再びその拡張分の地面を失い、削られることに甘んじたことを歴史とする寺であり、削られたことで、埋もれていた平安時代の庭の復活を見た寺である。その元(もとい)は、桓武天皇より四代の朝廷に仕えた清原真人夏野(きよはらのまひとなつの)の狩場の別荘地であり、その死後双丘寺、天安寺となり、死後怨霊となって恐れられた崇徳天皇の母、鳥羽天皇中宮待賢門院(たいけんもんいん)が、養父白河法皇の追善に法金剛院としたものであり、その待賢門院は、皇后の高陽院、美福門院に己(おの)れの居場所を奪われ、この寺で落飾、尼となり、鳥羽天皇の第二皇女上西門院(じょうさいもんいん)も母待賢門院の死後、引き継いだこの寺で落飾している。上西門院は、神護寺を再興した文覚が、北面の武士として仕えていた、後白河天皇の姉であり准母である。阿弥陀堂を三つ並べた、法金剛院のその苑池は、浄土の如くであったというのであるが、時経って荒廃し、落葉に埋もれ、土に埋もれ、九百年後に身を削られた代償でその浄土の一部が発掘され、再び日の目を見たのである。蓮は浄土の池を埋めて花開き、浄土の径も鉢植えの蓮が埋め、誂(あつら)えたような昨日降った雨の粒が、葉の上で揺らいでいる。が、いまここに浄土を見る者は恐らくいない。目に見える極楽浄土は、その教えもろ共土に埋もれるほどに衰え、誰もそれを思わなくなった。そのことを、いつの間にかとは、歴史家であれば認めない。時間に対する無責任な甘えは、言うまでもなく歴史家にはない。

 「──新石町はうまくいってます、ええ、由太夫という人をご存じですか、その人がね、あなたの代りに、新石町の稽古所で、冲也ぶしを教えているそうです。」(山本周五郎『虚空遍歴』山本周五郎全集15新潮社1982年)

 「5年後に年20ミリシーベルト未満 宅地・農地除染後の追加被ばく」(平成29年7月29日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)