円山公園を背に、飲み食いや雑貨の店が立つ繁華なねねの道を南に下(さが)ると、左の塀が途切れて、石段が現れる。上(のぼ)った先には高台寺(こうだいじ)があり、石段は台所坂と呼ばれている。物売りに目も止めずやって来た白人の、リュックサックを背負った親子と思しき四人が、坂の前で立ち止まる。子どもは五、六歳と三、四歳の男の子どもで、セーター姿の父親が手に持っていた一枚の地図を丁寧に広げ、ジャンパーを着た母親に何か云う。母親は石段を見上げて、何も応えない。が、父親は地図を畳んで石段を上って行くと、三人も黙って後ろに従う。台所坂は平べったい石が緩く頂上まで続いていて、その両端を黒い小石を散らしたセメントで固めてある。頭上の、枝に残っている紅葉に足を止め、母親が携帯電話を向けて写真を撮る。子ども二人が親に遅れて頂上の山門を潜ると、右手にある駐車場の方へ駆け出し、掘立小屋のような茶店のアイスクリームの幟(のぼり)に目を止め、母親を振り返る。が、母親はいい顔をしない。高台寺は山門の左手にあるのであるが、子どもらが次に見つけたのは、巨大な白い観音像である。その霊山観音は胸の辺りまで駐車場から見え、父親と母親は子どもの後ろに立って、暫(しばら)く眺める。そして父親が携帯電話をいじったのは、その白い観音について何事か調べたのかもしれない。観世音菩薩は、自ら悟りを求めながら、己(おの)れの名を唱(とな)える者をその求めに応じて救済する、と父親は隣りの母親に教える。が、子どもの興味は移ろいやすい。上の子どもは、今度は観音が顔を向けている駐車場の西の端まで走って行き、生垣で見ずらい下の景色を、生えている桜の曲がった幹に攀(よ)じ登って見る。それほど高くもないその場所から見えるのは、祇園の二階三階建ての屋根瓦の並ぶ、変のない景色である。生垣で見えない下の子どもが、父親に抱き上げられ、兄の見ている景色を見る。が、父親も母親も上の子どもほどそれを長くは見ていない。父親は下の子どもを下ろして踵を返し、母親が上の子どもに、木から下りるように促す。親子四人は、車の疎(まば)らな駐車場を横切り、高台寺の庫裡の前まで一旦は行って、そのまま引き返して来る。四人は追い返されたのではなく、躊躇した上で入ることを止めたのである。料金がかかることを知らなかったとも思えないが、そのことが理由なのかもしれないし、他に理由があるのかもしれないが、外国からやって来たこの者らは、わざわざ石段を上って来て思い直し、父親と母親はそれぞれ子どもと手をつなぎながら、もと来た石段を下りて行く。石段を下りきった所に、がらんとした公園がある。先ほど桜の幹に攀(よ)じ登って目にしていたかもしれない上の子どもが、ねねの道の観光客のぞろぞろ歩きから逃れるように公園に入って行く。いまその親子四人は、公園の中にいて、父親と母親はリュックサックを背負ったままベンチに腰を下ろし、二人の子どもは赤い落葉を拾ったりしている。暫(しばら)くそうしている間に、四人の頭上にある日は西に傾き出している。ねねの道の先には一年坂があり、一年坂を辿れば二年坂に出、二年坂を辿れば産寧坂に出、その先が清水寺である。親子四人がこれから先、どこへ行くのかは分からない。子どもは退屈しない術(すべ)を知っているが、子どもの親は腰を上げるのがその時でもあるように、子どもが退屈してくれるのをじっと待っている。「太閤薨後(こうご)、北政所大坂ヨリ京都ニ移リ、落飾シテ高台院ト称シ、慶長十年(1605)ニ及ビ、更ニ一寺ヲ建立シ、太閤ノ冥福ヲ祈リ、且ツ其終焉ノ地ト為(なさ)ン事ヲ欲ス。於是(これにより)、徳川氏今ノ地ヲ卜(ぼく)シ、酒井忠世土井利勝ヲ以テ、其御用掛ト為シ、所司代板倉勝重ヲ普請奉行トシ、堀監物ヲ普請掛リトシ、大(おおい)ニ伽藍造営ス。」(『高台寺誌稿』)大坂城にあった豊臣秀吉の子秀頼と側室淀は、慶長二十年(1615)の夏の陣で徳川家康に攻め込まれて自害し、正室北政所ねねは、家康の援助で建てた高台寺寛永元年(1624)まで生きた。ねねには秀吉との間に子どもがなかった。子どもが退屈するのを待つこともなく年老いたねねは、日が暮れるのを、日が暮れれば床に就くだけの日々(にちにち)を幾日も過ごしたのに違いない。

 「インディアンの狩猟民がパイソンを生活の糧にしていたので、白人たちは彼らインディアンを殺すために、パイソンを大量に殺した。それでも南北戦争当時にはまだ六〇〇〇万頭がいると見られていた。ヘプワート・ディクスンはこう書いている。「毛深い黒い獣たちは、数頭が集まり、群れをなし、集団となり、隊列を組んで、ひっきりなしに地響きを立ててわれわれの前を通り過ぎていった。四〇時間にわたって休みなく彼らは続いた。何百万頭、何千万頭という野生動物の大群が。その間は、永遠にインディアンたちの小屋を潤すに足ると思えるほどであった。」」(『世界動物発見史』ヘルベルト・ヴェント 小原秀雄・羽田節子・大羽更明訳 平凡社1988年)

 「東電強制起訴…3月12日に最終弁論 遺族側「禁錮5年求める」」(平成30年12月28日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 紅葉が終われば、末枯(うらが)れが目につくようになる。街中の寺の庭先でも、町家の失せた空地でも、鴨川の河原でも、東山三十六峰の山の端でも生えていた草木は、自(みずか)らの意思とも違うただならぬ変化を己(おの)れに齎(もたら)し、雨風に砕け、冬ともなればその大方は地面の上から消え失せる。が、見えぬように消え失せても、草木の意思とも違う何者は根に潜み、約束とも違う仕方で、再びあるいは幾たびも草木として土の上に姿を現す。末枯のひたすらなるを羨(とも)しめり 三橋鷹女。これは草木の枯れてゆく様が羨ましいのではなく、枯れても再び芽吹くことが羨ましいのである。ひたすら枯れることは、芽吹くためのひたすらなのであろうと、作者の鷹女は思わずにはいられないのである。久保田万太郎の小説「末枯」には、三人の男が出て来る。二人の落語家(はなしか)扇朝とせん枝と、一人の支援者タニマチの鈴むらがその三人である。「全体扇朝といふ男は、二代目の梅橋の弟子で、十二三の時分にすでにもう別ビラの真打だつた。器用でもあつたのだらうが、人間が親孝行だといふので、ことのほか梅橋に目をかけられた。十四のとき、両親にわかれ、それからずつと梅橋の手許(てもと)に引取られて、ゆくゆくは三代目梅橋にもなる位なつもりで修行をしてゐるうち、十六のとき、根津の菊岡の楽屋で、平常(ふだん)から仲のよくなかつた兄弟子に喧嘩をうられ、腹の立つたまぎれそこにあつた煙草盆を叩きつけて、相手に怪我をさせた。扇朝にしてみると、(その時分にはまだ扇朝とはいはなかつたが)自分はたゞうられた喧嘩を買つたまでのこと、怪我はさせても、自分にはなんにも悪いところはない位に思つてゐたが、それが師匠の梅橋の耳にはいると、以ての外のことと散々小言をいはれた。━━扇朝はまた腹が立つた。師匠のまるで自分に好意を持つてくれないのにたまらなく腹が立つた。━━勝手にしろとばかり、梅橋のところを飛びだして、そのまゝ東京の土地を離れた。明治二年の秋だつた。」(「末枯」久保田万太郎『筑摩現代文学大系22 里見弴・久保田万太郎集』筑摩書房1978年刊)扇朝はそれから女義太夫の一行に加わり、興行で行った千葉東金の網主の娘と所帯を持つが、三年で網主の元を飛び出して旅芸人に身を落とし、女役者とドサ回りをして暮らしながら、いたたまれぬ寂しさに襲われ、離れて十年の後再び東京に戻って来る。が、元の師匠はこの世にいず、新たに弟子入りした師匠にも程なく死なれると、浪花節の一座に身を落とし、元師匠の代の替わり目に三度(みたび)落語家となるのであるが、落語家扇朝はもはや時代遅れとして客もつかず、四代目梅橋に打ってもらった会に上がって寄席(よせ)を退(ひ)き、昔馴染みでいまは大真打の落語家に最後の独演会を仕切ってもらうが、扇朝がその礼を云わなかったことで、もう一人の落語家せん枝は、義理を欠いたと腹を立て、稽古をつけていた扇朝の出入りを止める。ある日酒の席でタニマチの鈴むらは扇朝を庇い、これ以上の同情をその大真打にさせたくない、されたくないという屈折した扇朝の胸の内を察したように云い、扇朝の噺は当代名人といわれている柳生よりもうまいと、酒の入った口を滑らせてしまう。それはその場にいたせん枝と同門の三橘が、鈴むらに持っていた盃を投げつけるほどの発言だった。鈴むらは、かつては日本橋の大店(おおだな)の若旦那でせん枝、三橘にも目を掛けていたのではあるが、兜町の相場で親から受けた財産を失い、蕩尽し囲っていた吉原の芸妓とも別れ、いまは浅草今戸で夫婦二人の侘しい暮らしをしている身なのである。せん枝は、鈴むらが落ちぶれた丁度その頃両の目が不自由になり、寄席に出ることも出来なくなって妻と二人、母親と同居していた弟の厄介になっていたのあるが、そのせん枝の妻が母親と弟のどちらとも折り合いが悪く、思い余った弟から、目の見えない兄の面倒はみてもその嫁の面倒まではみることは出来ないと云われ、せん枝夫婦は弟の家を出る。目の上の閊(つか)えのとれたせん枝の弟は、箍が(たが)外れたように芸妓遊びで家の金を使い果たし、借金を重ね、ついには兄のせん枝に借金の保証請判を頼みに来る。が、再び高座に上がれるようになっていたせん枝は、頭を下げに来た母親にも、今までの不義理を洗いざらいいいたてて断る。扇朝のことで三橘と悶着があってから暫くの後、せん枝は知り合いの者から鈴むらの噂を聞く。鈴むらは女房の実家からの店を出すための金の援助の申し出を断り、世間に強情を張って、今日も扇朝らと発句の運座を開いて遊んでいると。自分の足元を省みない鈴むらの境涯を、一旦は批難する感情が沸いた目の見えないせん枝は、その夜、本当に見えないのは鈴むらと変わるところがない自分を省みることの出来ない心の目であることに思い至って涙を流し、翌日請判の承諾を女房に云いつける。このような人情話をいまはもてはやす者はいない。このような筋の話は、言葉にすることの出来る、言葉にした話として易々(やすやす)と誰にでも通じてしまうからである。が、易々と分かってしまうことが軽んじられる理由ではなく、易々と分かってしまう自分自身を軽んじられたくないがために、恐らくはその易々と分かる人情を敢(あ)えて遠ざけてしまうのである。鬼ごとの鬼は寂しや末枯るゝ 日野草城。

 「予期したわけではないのに頭が首元に落ち、よく見つめないから気づかないのだが、すべてが静かに停止するのは、おそらく昼夜のあいだのこのようなちょっとした、とびきりやすらかな空白の時なのだろう。それは消えていくものだ。わたしたちはからだを曲げてひっそりと佇んでいる。まわりを見廻すが、もはや何も見えない、空気の抵抗すらも感じず、心の中では記憶にしがみついている。少し向こうに家々が並び、屋根あれば、幸いにも角ばった煙突もついていて、煙突を通って暗闇が家々に流れこみ、屋根裏から、ほかのいろんな部屋へとひろがっていくはずなのだ。明日にはまた一日があり、たとえ信じ難いことながら、すべてをまた目にできるとは、幸せなことなのだ。」(<ある戦いの記録A稿>フランツ・カフカ 池内紀訳『カフカ小説全集5 万里の長城ほか』白水社2001年)

 「中間貯蔵施設へ1400万立方メートル 汚染土壌など輸送量試算」(平成30年12月18日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 そのどちらもその木の名前を知らないようだった。硬い緑の葉の繁る枝に黄色い実が幾つも生(な)っている。蜜柑の一種のような実である。これは食べられへんのどすか、と初老の男が手押し車で身体を支えている老婆に訊く。昔もろてジャム拵(こしら)へましたえ。ジャムどすか。二人はその前に、親しい間柄とも違う天気の挨拶を交わしている。場所は西陣、浄土宗浄福寺の南門の前である。木は日の当たる門の築地塀の上からのぞいている。そやない、ジャムは別の実おした、浄福さんのやおへん。老婆がそう続けて云うと、男は、戸惑う素振りを瞬時に止め、開きかけた口を向こう向きに閉じ、どこか役割りを終えたような顔つきになる。目の前の実の話は宙に浮いたまま、ひと呼吸あり、他人同士のように頭を下げ、老婆は門の中に入り、初老の男はいま一度その実を見上げる。門を潜った老婆は本堂の前の参道で一瞬足を止め、地面に落ちている実にちらと顔を向ける。塀の内にもう一本植わっている同じ木から落ちた実である。実は、湿った地面に四つ五つ落ちている。この様は、恐らく初老の男の目にも入っていたはずである。男は先ほどから、境内の参道を何度か行きつ戻りつをしていたのである。朱塗りの東門から真っ直ぐに伸びる参道は、両側を築地塀に挟まれ、百メートルほど平らな石を敷き並べてある。その上を男は、両腕を宙に真っ直ぐに伸ばし、足をゆっくり動かしながら歩いていた。参道は本堂に突き当たると、二股に分かれ、一方は本堂の正面に回り込み、もう一方は菩提樹の植わる小庭を抜けて庫裏玄関に導く。男はその二股まで来ると、上げていた腕を今度は左右水平に伸ばし、そのまま本堂の前まで歩いてその恰好を暫く続け、目を閉じ、両腕を下ろして踵(きびす)を返すと、西の地蔵堂の前に歩を進め、片膝を上げてそのまま数秒留め、下ろしてもう一方を同じように持ち上げる。何度かそれを終え、両腕を大きく振りながら南門まで歩いて行ったところで、男は老婆に出くわしたのである。老婆は本堂に手を合わせ、参道を手押し車を押しながら東門から出て行った。初老の男は、両腕を振って地蔵堂まで戻り、片膝立ちのポーズをまた始める。規則正しく繰り返す男の動作は、体操のようでもあり、ここが宗教施設であれば、この者は厳(おごそ)かにも見えるその動作に己(おの)れの祈りを込めていないとは限らない。片膝立ちを終えて参道を戻る時、男は落ちている例の実を目で見る。十一月末の昼下がりの浄福寺は、かような振る舞いが許される閑寂な場所である。が、西に立つマンションの壁に卒塔婆が風でカタカタ鳴り響く墓地であり、門を出れば辺りに、古き良き京都の懐かしく、かつよそ者を寄せつけぬ風情の町家の軒がぽつぽつと残る町中であり、田舎の日向臭い長閑(のどか)さをいう鄙(ひな)びはない。時代を七、八十年遡(さかのぼ)れば、西を通る千本通からこの一帯は西陣京極と呼ばれた芝居小屋、映画館が立ち並ぶ繁華な場所であったのであるが、いまは一筋道の飲み屋街があるばかりで、昼のその通りは人影もなくうら寂しく、数多の人の出入る緊張を経た後の落ち着き払った町の空気を浄福寺も息していれば、その閑寂さはこの空気を吸って吐く閑寂さなのである。境内の大ケヤキは黄ばんだ葉を半ば落とし、庭には見せる紅葉も無く、紅葉見物の観光客が迷い込むこともない。初老の男の体操あるいは祈りは、この町の空気そのものに許されているのである。エドワード・ヤンの台湾映画『牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件』を二十六年振りに観た。日本の公開は、一九九二年である。約四時間の映画である。四時間あれば途方もない時間も出来事もぶち込まれ、題の通り殺人事件が起きる。家族も学校も不良仲間も住む街も、少年にとっては絶えず息苦しい。その息苦しさを、少年は向こう側に原因があると思っていたのであるが、自分自身にあるのではないかと気づかされたところで事件は起き、映画も終わる。二十六年前に心揺さぶられた記憶は、幾つかの場面を覚えていたのであるが、二十六年後に見直すと、大方の場面は記憶に無い。浄福寺の境内をゆっくり歩きながら、昨夜観た『牯嶺街少年殺人事件』を思い出そうとしても、そのすべてを思い浮かべることは出来ない。が、そのように思い出そうと気持ちが動く、あるいは敬意を払うためにも思い出さなければならないとこの映画は思わせて来るのである。手押し車の老婆は、ジャムを拵(こしら)えた実は浄福寺に生(な)っているものとは違うと云ったが、そのジャムの味は思い出していたのであろうか。それは話の流れからは逸れてしまう味であったが。

 「……私は、戦後復学した中学での、眼鏡をかけた教師が熱っぽくしゃべりつづけた社会科の授業を思ってみた。話し合い。個人主義。自由と平等。人間は対等である。多数決。私は、自分があのころから、これらが人間への、一つの絶望からうまれた手つづきなのを知っていたと思う。しかし、その絶望は、結局は私にとり、一つのあこがれにすぎなかった。幻影であり理想でしかなかった。げんにこの私は、いま、目からウロコが落ちたように、それとはちがう絶望、ただ一つの、本当の自分のそれにもどっている。力。殺意にしか、他人との本当の関係のしかたはないのだということを。私はもはやそれ以外のなんの幻影も信じはしないだろう。祖父と同じ。おれは九十歳の日本人だ。」(「海岸公園」山川方夫山川方夫全集第3巻』筑摩書房2000年)

 「「除染土」21年度までに搬入完了 中間貯蔵、帰還困難区域除き」(平成30年12月7日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 「此世は自分をさがしに來たところ 此世は自分を見に來たところ」あるいは「物買つて來る 自分買つて來る」「おどろいて居る自分に おどろいて居る自分」これらは陶芸家河井寛次郎(かわいかんじろう)が書き残した言葉である。(『いのちの窓』東方出版2007年刊)河井寛次郎文化勲章人間国宝を断った職工精神を曲げなかった者であるが、これらの言葉は紛れもなく芸術家の口から出た言葉であり、芸術家がこのような言葉を云うことはこの世において許される。許されるということは、甘やかされているということである。たとえば魚屋の店先で「此世は自分さがしに來たところ」という言葉を店主から聞くことはない。あるいは仮にそういう考えを持ったとしても、そう考える者ほど公に口に出したりはしない。「物買つて來る 自分買つて來る」と河井寛次郎は云う。物を買うという行為に己(おの)れの意思が反映しているのは、云うまでもなくその通りであり、その意思の表わしにはそうするだけの理由があり、その理由の元(もとい)は己(おの)れ自身に他ならないということである。なぜそれを欲しいと思うのか、あるいはどうしてそれを選んだのか。たとえばこれから家を買う、あるいは家を建てる。そのためには、あるまとまった額の金が必要となる。その金は自分の稼いだものからか、あるいは人から貰ったものかもしれないもので支払うことになる。たとえば銀行から金を借りるにせよ、その金が自分で稼いだもので返すのであれば、その者は一定の仕事に就いているということであり、その仕事で得る収入というものは、天と地ほどの差がこの世にはある。その者がいま就いている仕事は、その者の希望に叶ったものではなく、かといって嫌々就いているというわけでもないかもしれないが、別の仕事を選んでいれば、違った収入を得ることが出来たかもしれないと思うことはあるかもしれない。そう思うその者は自分を顧(かえり)みる。顧(かえり)みる己(おの)れは、世間にとってどの程度の者なのか。どこそこの学校を出て、どこそこの生まれで、どのような家族がいて、どのような趣味があって、あるいは何の趣味もなくて、どのような人付き合いをしてきたのか。家を買う段になって、その者はそのような己(おの)れにまつわる事柄を次々に思い浮かべ、と同時に何ほどかのこれからの身の振り方についても思うかもしれない。家に庭は欲しいだろうか。その庭に草花を植えるのなら、その草花の選びにはまたその者の意思の反映があるのであり、その意思は過去の何がしかの思いにまつわることから来ているのかもしれない。その者は新しい棚に食器を買い揃える。百円で買うことが出来る茶碗をその者が選ばなければ、その者はまた茶碗に対して何ほどかの思いがあるということであり、百円の茶碗を選ぶこともその者の意思の反映であれば、その意思はその者が思うよりずっと深く、ずっと遠いところからやって来ていないと断定することは出来ない。その者の新居の生活は、新しく買い揃えたものや、前の住まいから持ってきたものに取り囲まれている。そのどの一つも己(おの)れの意思の反映されていないものはなく、貰い物すらも、その贈り手には己(おの)れの意思が反映されているはずであり、それらのもののどの一つからでも自分の元(もとい)を遡(さかのぼ)る入り口となる。その入り口を入れば、次々と己(おの)れの過去が現れ、様々な己(おの)れの意思を見ることになる。が、その様々に現れ出る意思は目先のことに処した意思であり、そう思いつつもその者は目先の己(おの)れを捲(めく)り続けなければならない。茶碗を目の前に置いて、己(おの)れとは何かと己(おの)れを捲(めく)ってゆく。が、それは結局は玉葱の皮を剥(む)いていくことであることに思い至る、あるいはそうであることを思い出す。行きつく先は、その者の父親と母親の精子卵子の結合であり、原子分子の塊(かたまり)にすぎないと思い、あるいはそう思った己(おの)れを思い出すのである。そうであれば己(おの)れの意思は、あるいは精神は細胞の反応にすぎない。細胞の反応に過ぎないと思うことは空しい。が、そのことはきっかけに過ぎないのであり、その反応から生まれた意思はそのきっかけを空しくさせないてはならないと思う己(れ)となるのである。河井寛次郎は、昭和十二年(1937)四十七歳で自ら設計した自宅を持った。建築を請け負ったのは、大工であった寛次郎の兄である。その建物は河井寛次郎記念館として、坂になる手前の五条通りから逸れた路地にある。母屋は、吹き抜けになった囲炉裏のある板間と畳の間が階上と階下にあり、河井寛次郎と家族の生活の品々がそのままに置かれている。その品々は、柳宗悦(やなぎむねよし)らと起こした民芸運動で「自分を見に來たところ」のものである。朝日文庫『京ものがたり』(2015年刊)に次の話が載っている。「筑紫(哲也)が記念館を最後に訪れたのは、2008年2月の夕暮れ。毛糸の正ちゃん帽をかぶってふらりと姿を見せたのを、寛次郎の親族は記憶している。再発した肺がんの治療中。亡くなる8カ月前のことだ。柱時計の音が響く、囲炉裏のある居間。40年来の定位置の椅子に腰掛け、いつものように、無言で1時間ほど過ごしていたという。」筑紫哲也は年に数回、ここに訪れていたという。ここには、筑紫哲也の家にはないものがあった。それは、己(おの)れを空しさまで思い行きつく手前の、筑紫哲也が生きて買って来なかった、選ばなかった別の己(おの)れを思う姿である。

 「いまぼくが空を飛べるとして、何か父のためにしてやれるだろうか。遠くから救急車のサイレンの音が近付いてくる。できれば父には、死んでも透明なままでいてほしいものだ。空を見上げる。多少小降りになってきた。駅前に引き返した。あの蹴飛ばした仔犬はどうなったかな? もし無事でいてくれたら、ぜひとも連れて帰ってやりたいと思った。」(「さまざまな父」安倍公房『飛ぶ男』新潮社1994年)

 「「木戸川の水」ボトル販売開始 国内最高水準の放射性物質検査」(平成30年11月3日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 洛西小倉山にある二尊院のニ尊は、その本尊である釈迦と阿弥陀のことである。中国唐の善導の『散善義』に、「二河白道喩(にがびゃくどうゆ)」という喩(たと)え話がある。「人が西に向かって行くと、忽然として二つの河に出会う。火の河は南、水の河は北にありそれぞれ河幅は百歩、深くて底無く、南北には無限に続く。両河の中間に広さ4,5寸の白い道があって、両側から水と火とが絶えず押し寄せている。曠野(こうや)に頼るべき人もなくひとりぼっちで、しかも群賊悪獣が後ろから迫っている。引き返しても、立ち止まっても、前に進んでも死を免れない。そこで河にはさまれた白道を進んで行こうと決意すると、たちまち東岸に声があって、「汝、ただ決定(けつじょう)してこの道を尋ね行け。必ず死の災難はなからん。もしとどまれば即ち死なん」と勧め、また西岸の対岸から、「汝、一心正念して直ちに来たれ。我れ、汝を護らん」と呼ぶ者がある。東岸の群賊たちは、この道は嶮悪で死ぬに間違いないから我れ我れの所へ戻れと誘う。しかし、その誘いに一顧だもすることなく、一心に白道を直進し、西岸に達して安楽の世界に至り、諸難を離れ、善友とともに喜び楽しむことができたという。」(『岩波仏教辞典』第二版2002年刊)この東岸の声の主が釈迦で、西岸の声が阿弥陀である。フランツ・カフカに「掟の門前で」という掌篇がある。このような話である。「掟の門前に、ひとりの門番が立っている。この門番のところへ、ひとりの男が田舎からやって来て、掟のなかに入れてくれと頼む。けれども門番は、いまは いれてやるわけにはいかぬと言う。男はよく考えた上で、それでは のちほど入れてもらえるのかと、尋ねる。「それは ありうる」と、門番がいう、「しかし、いまは だめだ」 掟にいたる門は いつも開いているし、門番は脇に退いたので、男は身をかがめて、門越しになかを見ようとする。門番はそれに気づいて、笑いながら言う、「そんなに見たいなら、やってみるがいいさ、入るなという わしの禁を破ってでもな。ただし言っとくが、わしは強いぞ。でも、わしは いちばん下っぱの門番にすぎん。ところが、広間から広間に入るごとに いくらでも門番がいてな、つぎつぎに強くなるのだ。三番目のは見ただけでも、わしでさえ とても耐えきれん」 こんなに厄介なことだとは、田舎から来た男は 夢にも思ってはいなかった。掟は、いつでも誰でも 入っていいもののはずじゃないか、彼はそう考えたが、いま、毛皮のマントを着た門番を、彼の大きなとんがり鼻を、長くて 薄くて 黒い韃靼(だったん)のひげを、仔細に見ると、この様子では、入れてやるという許可をもらうまで 待つほうがいいと、決心をする。門番は彼に、床几を与え、門の脇のところに坐らせる。そこに彼は、何日も、何年も坐っている。入れてもらおうと、いろんなことを試みる。そして嘆願を繰り返しては、門番を疲れさせる。門番はしょっちゅう彼に ちょっとした訊問をし、故郷のこと、その他あれこれのことを 根掘り葉掘り尋ねる。しかしそれは、お偉方がするのとおなじ 気乗りのしない質問である。そして決まって最後には、まだ入れるわけにはいかぬと繰り返す。男は今度の旅のために、充分な支度をしてきたのだが、門番に掴ませるためには どんな高価なものでも、なにもかも使い切ってしまう。門番のほうは、なんでも受け取るのだが、受け取りながらこう言うのだ、「わしがもらっておくのは、お前さんのほうでなにか し残したことでもないかと 後悔してはいけないという、それだけのことだ」 何年もの間、男は門番を、ほとんど絶え間なく観察している。他の門番のことは忘れてしまい、この最初の門番が、掟に入るための唯一の障害だと 思われてくる。彼は、不運なめぐり合わせを呪う。最初の数年は、あたりかまわず大声で、のちに年老いてくると、もう誰に言うともなく、ぶつぶつ つぶやいているだけである。彼は子供じみてくる。永年 門番を研究しているうちに、彼のマントのなかの蚤とも知り合いになって、蚤にまで自分を助けてくれ、門番の気持ちを変えさせてくれと頼む始末。おしまいには視力が弱まって、自分のまわりが実際に暗くなったのか、それとも単なる目の錯覚なのかが分からない。それでも彼はいま、闇のなかに一条の輝きが、確乎として掟の扉から差してくるのを見分けている。もう、彼の命も永くはない。死の間際に 彼の頭のなかでは、門前で過ごした永年のあらゆる体験が、これまで番人に まだ一度もしたことのなかった一つの質問に凝集する。彼は門番に、手招きをする。硬直してくる身体を、もう起こすことができないのだ。身の丈の差が、男にとって非常に不利なふうに 変わってしまったものだから、門番は深く彼のほうに 身をかがめなくてはならない。「この期に及んで、まだなにを知りたいのかね?」と、門番は尋ねる、「強欲な奴だ」「みんな、掟を手に入れたいと懸命じゃないか」と、男、「永年の間、わたしのほかに 誰も入れてくれと言って来なかったのは、どうしたことなんだ?」 門番は、男がすでに臨終であることを知り、かすんでゆく聴覚に なんとか届かせようと、大声でわめく、「ここでは誰も、ほかに許可をもらった者はいない。この入り口は、お前さんだけのために 定められていたんだからな。さあ、閉めてくるとするか」(「掟の門前で」フランツ・カフカ 吉田仙太郎訳『カフカ自撰小品集Ⅱ』高科書店1993年刊)法然は、善導の『観経疏』に称名念仏という言葉を見出し、「南無阿弥陀仏」という念仏言葉を唱えるでけで誰をも悟らせ、浄土往生が叶(かな)うとし、その弟子親鸞は、『歎異抄』にこう語る。「弥陀の誓願不思議にたすけられまひらせて、往生をばとぐるなりと信じて、念仏まうさんとおもひたつこゝろのをこるとき、すなはち摂取不捨の利益(りやく)にあづけしめたまふなり。」あるいは、「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを世のひとつねにいはく、悪人なを往生す、いかにいはんや善人をやと。この条、一旦そのいはれあるににたれども、本願他力の意趣にそむけり。そのゆへは、自力作善のひとは、ひとへに他力をたのむこゝろかけたるあひだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこゝろをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死(しやうじ)をはなるゝことあるべからざるをあはれみたまひて、願ををこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もとも往生の正因なり。よて善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、おほせさふらひき。」あらゆる煩悩苦悩から結局逃れることが出来ない凡人衆生を憐み、成仏させることが阿弥陀仏の本願であり、自分の力のみを信じ、善行を誇る者はその自立の意思を捨てない限り、救いの対象とはならない、と親鸞は云うのである。カフカの小説は寓話であるとして、読む者はその喩えが何の喩えなのかと思う誘惑にかられ、それを読み解くという言葉に置き換え、そういい換えた者が得ようとするのは、その答えである。喩え話である「ニ河白道喩」は、答えは皆の手元に用意されている。「東岸は娑婆世界、西岸は浄土、群賊は衆生の六根(※煩悩を起こす眼・耳・鼻・舌・身・意)・六塵(※執着の対象として心を汚す色・声・香・味・触・法)・五陰(※五縕ごうん、人をつくる元。色縕・受縕・想縕・行縕・識縕)・四大(※地・水・火・風)、火の河は衆生の瞋憎、水の河は衆生の貪愛、白道は浄土往生を願う清浄の心。───現世では釈迦の教法に帰依し、死後は阿弥陀仏誓願を頼みとせよ。」(『岩波仏教辞典』)「ニ河白道喩」の者は追いつめられ、追いつめられるということは、この世に生きて生活を送っているということであるが、南無阿弥陀仏を唱えることで浄土へ往くことが出来た。衆生、生きているすべての者は、自力で死を思い、考えようとする。が、恐らく免れ得ないという答えのほかは思いつかない。考えることは煩悩である。それ以上死を思うな、死のことは阿弥陀仏に委ねよ、と浄土教は説くのである。委ねるという行為も厳密には自力であるが、これは生きよ、生きていよという強い意思を通じてのことにほかならない。カフカの「掟の門前で」は寓話ではない。田圃の畦道に咲く曼珠沙華曼珠沙華という花であることのほかに何も意味しないように、「掟の門前で」の掟は掟であり、門番は門番であり、田舎者の男は田舎者の男である。この男が阿弥陀に己(おの)れの死を委ねたかどうかは分からない。ただこの男の死によって、掟の門は閉ざされたのである。二尊院の墓地は小倉山の中腹にあり、市街を見渡すことが出来る高さにある。墓地には阪東妻三郎が眠っている。生活する地べたよりも高い所にある墓は、身軽になった死の構えのように心地よく目に映る。

 「九十ニ歳になる父は四国の伊予西条の生まれである 幼いころ千葉の伯父の養子にもらわれた それ以来千葉を動かない 最初わたしはわたしの血の半分をはぐくんだ土地をあるいてみたいと思った 四国を好きになったら 自分を肯定できるだろう 四国を嫌いになったら 自分を嫌いになるだろう わたしはわたしを歩くことになるだろうと思っていたが 歩くほどに わたしは父を歩くことになった 四国の子だった父を───こんなに青い風土と別れねばならなかった父の幼年の 代参をしなければならないと思ったのだ 父には関係のない話だが」(「父の国」高橋順子『お遍路』書肆山田2009年)

 「処理水の再浄化「必要なし」 規制委員長、科学的安全性踏まえ」(平成30年10月6日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載) 

 白河夜船(しらかわよふね)という言葉がある。この言葉は四つの漢字から成り立っており、それぞれの漢字にも、その漢字を組み合わせた言葉にもそれぞれの意味を持ち、しらかわよふねといま読めば、白い河と夜の船あるいは白い河に浮かぶ夜の船という意味であるが、眠り込んでいた間のことをまったく知らない、覚えていないという意味であると、世にある辞書は紐解く者に教える。この言葉の場合意味があるというよりも、意味が込められているということであり、水位七メートルという数字が、ある川ではその七という数字に氾濫の危険を及ぼすという意味が込められていることと同じである。その者がある者に、京に行ってあちこち見て廻ったと云うと、ある者は京のしらかわはどうだった、どんなところだったと訊き返し、その者は、船で夜通っただけだから見ていない、分からないと応える。辞書の云いは、その者は京都に行ったことはなく、ある者に訊かれたしらかわを川だと思い、夜船で通ったと嘘の言い訳をしたというのである。岩波広辞苑は、この遣り取りの元を俳諧指南書『毛吹草(けふきぐさ)』によるとしている。その『毛吹草』(岩波文庫1971年刊)の巻第二にある「世話(※俚諺りげん、ことわざ)古語」にはこうある。「しら川よぶね 見ぬ京物がたり」二つの言葉は隣り合わせに置かれ、それぞれの意味の説明はなく、この言葉の前後には、次のようなことわざが並んでいる。「三がいにかきなし 六だうにほとりなし をんなに家なし 壁に耳 垣に目口 岩も物いふ 君は舟臣は水 いぼあひもち げすない上臈(しやうらう)はならす たのむ木(こ)のもとに雨もる かひかふ虫に手をくはるゝ まごかはんよりゑのこかへ おなしあなのきつね すまひもたつかた 兵庫のものは御免ある 一樹(じゆ)のかげ一河(が)のながれ 一むらさめのあまやどり 袖のふりあはせも他生(たしやう)の縁 燈台もとくらし 遠目はかりの箒木(はゝきゞ) 秘事(ひじ)はまつげのごとし すきにあかゑぼし たでくふむし めんめんのやうきひ きによりてほうをとけ あはぬふたあれはあふふた有 すつる神あれは引(ひき)あぐる神有 こせうまるのみ しら川よぶね 見ぬ京物がたり 国にぬす人 家にねすみ 僧に法(ほう)あり 狸ねいり 鼠のそらじに 船頭のそらいそぎ」よくある話として、行ったことのない者がさも見て来たように京の都を語ることが「見ぬ京物がたり」であり、「しら川よぶね」は、その見ぬ京物がたりの一つであると、ここでは知識をつけ足している。「白川は江州(こうしゅう ※近江国)との国さかいの山中村の奥に源を発して、京都盆地に流れこむが、いまは鴨東の山ぞいに静かなながれをはこんでいる。そのながれにそって、白川の地名は、その流域全体を指していたのだ。そのなかでさらに三条の北で一部が賀茂川流入するまでを北白川、それよりさき南へのながれを南白川とも称していた。しかし地名としては源に近い白川村に、北白川の名が与えられて、白川は白河と書かれて、今の岡崎のあたりをさすようになったのだ。白河の地は、藤原頼通の伝領した別業の地であったが、「天狗などむつかしきわたり」といううわさはあったが、ふかい緑の森のなかをその名も白川の清らかな水を見出した貴族たちが、その邸館や社寺をつぎつぎに立てて行ったことも無理ではなかった。京のたてこんでくる町をのがれて、白河に移り住む人も出てきたのである。このような新しい白河の位置を決定的にしたのは、白河院にはじまる院政政権の院庁が、この付近に定められたことであろう。そしてその付近には、法勝寺をはじめとする六勝寺など、かずかずの寺々が建てられた。おそらく当時の人々は、商業の町の発達とともに政治の都は白河に移ったとも考えたであろう。京・白河という並称が行われはじめたことでも、そのことが察せられる。」(『京都』林屋辰三郎 岩波新書1962年刊)白川とは、川の名であり、またその流域の地名でもある。見たこともない京の都であっても、白川という地が白川という川の流域の一部を指しているということを知っていれば、訊かれたしらかわがそのどちらであっても、夜船で眠っていて見ていないという言い訳は成り立ち、知らないと応えたことが、必ずしも行っていないとする理由にはならなくなる。改めて広辞苑の云いを書き写せばこうである。「(「毛吹草」によれば、京を見たふりをするものが、京の白川のことを問われ、川の名と思って、夜船で通ったから知らぬと答えたことからという)熟睡して前後を知らぬこと。」白河夜船に込められている、熟睡して前後を知らぬことという意味は、実際に京に行った者が夜船で寝過ごし、白川という川も土地も見なかったので知らないと云ったとしてもあり得ることである。京において、しらかわを川だと思うことは誤りではない。が、行ったことのない理由とされるのはどうしてなのか。『京都の地名』(平凡社1979年刊)にはこうある。「承応二年(1653)の新改洛陽並洛外之図によると白川本流が廃絶しており、それに代わって白川の支流であった小川(こがわ)が新たに白川として登場している。従って現在、平安神宮(現左京区)前の慶流橋から疎水と分れて南へ流れ、知恩院古門前(現東山区)を西に流れて四条通の北で鴨川運河に合流する川も白川とよぶが、これは昔の小川であり、かつての白川本流ではない。」この新改洛陽並洛外之図の図面情報を信じれば、白川の流れが消えてなくなった時期があるということになる。そうであれば、しらかわを川だと思って夜船で寝ていて分からないという云いが嘘であるとして、「白河夜船」が京を見たふりをした者の話として言葉が出来たということはあり得ないことではない。元禄三年(1690)刊行の『名所都鳥』は、白川をこう記している。「白川 愛宕郡。水上は、北しら川南禅寺の奥より出て、寺の門前より西へながれて粟田白川橋の下、知恩院古門前より大和橋へながれ三条と四条の間へ出たり。又白川といへる所、きよくしづかにして、仙客(せんかく ※仙人、鶴)も遊びつべき気色也。まことに和朝の桃源ともいふべし。むかし此所に兵乱おこる時は、宇治の里人妻子をかくす所なり。そこへ行に坂ひとつ有。道きはめてほそく、一人此路をふせぐ時は、たとへたけきものゝふもたやすく入きたる事なし。今は土民の家もちかくかまへて、卯月頃の茶つみいと興有。又白川の名みちのく、筑前の奥にもあり。今爰(ここ)にいふは京の白川也。」ここでいっている白川は、小川が変じた白川のことであり、加えて宇治にも白川という名の地があるといい、その白川の地はいまも白川の地名で茶畑として残っている。その者は、しらかわを川だと思った。白川はその名の通り、水の澄んだ涼しげな川なのだろう。そのような川を夜船に乗って、一杯ひっかけて、うとうとしてそのまま横になったら、どんなにか心地良いことだろう。京にはそのような川があるに違いない。知恩院古門の手前の白川に、一本橋と呼ばれる石の橋が架かっている。二枚組の御影石を六枚渡した幅六十七センチの橋である。比叡山千日回峰行を了(お)えた修行者が、粟田口尊勝院にその報告のため入洛の時、はじめて渡る橋であるという。一本橋の長さは十一・七メートルあり、組になった石はわずかにくの字に内に傾いている。すぐ傍らには車の通ることの出来る橋が架かっており、一本橋は日常生活に欠かせないという存在ではなく、その意味では無くしても差し支えない橋である。が、この橋が何度か架け替えられて残るのは、橋そのものより、いまも水底薄く流れ続けている白川に対する周りの者の執着の思いがあるからに違いない。一本橋を渡る足元はまことに心細い。これは千日修行を経た者こそが、改めて思い知るべき心細さなのかもしれない。

 「なぜそうしたかと云うと、アメリカの海事法で、漂流している船に会った時は人を救助したあと、船体をその場で燃やしてしまうことになっている。もしそのまま放っておくと、あとで他の船が見つけた時、空船だということを知らずに自分の走っているコースから離れて救助に来るから、それだけ大きな迷惑をかけることになる。それで乗組員だけ救けて、船は火をつけて海上で燃やしてしまうのです。」(『浮き燈台』庄野潤三 新潮日本文学55「庄野潤三集」新潮社1972年)

 「津波に備え第1原発「防潮堤」増設検討 北海道東部沖地震想定」(平成30年9月15日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 緑蔭をよろこびの影すぎしのみ 飯田龍太。緑蔭は単なる木蔭ではなく、空間としての広がりを持ち、太陽が位置を変えても、その空間の大方は保たれ、緑蔭を乞うのは夏であるから、緑蔭を通して見る外の世界は燦たる日光に個々の輪郭を失い、緑蔭が深ければ、内側にある輪郭もまた明瞭ではなくなる。緑蔭にいると、よろこぶ様子の人影が傍らを通り過ぎて行った。人影がひとりとは限らない。よろこびの様子は、その表情だけとは限らない。暑さを逃れ来た者が、その涼しさへの安堵にあってよろこび事を口にする。が、その者らは緑蔭に留まっていたのではない。あるいは留まっていたのかもしれないが、やがて出て行ってしまう。そのことを、すぎしのみ、と飯田龍太はいう。ただよろこぶ人影だけが過ぎて行ったという、そう断じただけの龍太の心の様(さま)は、このように言葉をなぞっただけではいつまでも立ち現われて来ない。木立ちの中にテニスコートがあった。それがどこであったのか、いまは思い出すことが出来ない。そのようなテニスコートなど、どこにでもありそうな気がする。コートの片側には、海岸が迫っていたかもしれない。その片側の木立ちが濃い緑蔭をなしていて、小径が一筋蛇のように曲がりくねっている。その小径は、はじめからそのように通したのではなく、海岸への近道というのでもなく、ある者が気まぐれに通ったところが、後のちそのまま通り道になってしまったような草いきれのする小径だった。その小径を辿ったところにテニスコートが現れたことを思い出したのは、テニスボールを打つ音が雑木林の向こうからしているからである。この日の気温が三十九度を超えるさ中、人影のない妙心寺の境内の白築地を辿って、塔頭桂春院の門を潜ったのであるが、通された書院は思いの外蒸し暑く、苔の生えた狭い庭の向こう側で何人かの者らがテニスボールを打ち返す音が響いている。雑木林は、書院の庭と地続きにあるのではなく、すぐ下にあるもう一つの庭の境に繁り、下までの傾斜は植込みで仕切られ、濡れ縁から下の庭の様子は見ることが出来ず、目の前の雑木は途中の高さにある枝葉であり、そのようにいまいるところの高さを意識させる庭から見れば、やや低い位置に見えないテニスコートはあることになる。テニスコートからは、ボールの音のほかに、若い人声もしている。耳に入って来るのはそれだけではなく、クマゼミがそちこちで頻(しき)りに鳴いている。木の葉を揺らすような風はいくら待っても来ず、隅の畳の上に置いてある蚊取り線香の煙が、軒先まで上って消えてゆくのが見える。隣りの棟の方丈に移っても、纏(まと)わりつくような蒸し暑さは変わらないが、テニスボールを打つ音からは遠ざかる。桂春院は、京都に己(おの)れの寺を持ちはじめた武将に混じって、旗本だった石川貞政が持った寺であり、寺は京都の滞在先でもあり、庭はその時の慰めである。その頃にはまだ、緑蔭という言葉は使われていない。方丈の濡れ縁から見える下の庭の樹木の並びは、緑蔭ではなく、木下闇(こしたやみ)であり、闇は涼しいとは限らない。たとえば、よろこびの影すぎしのみといった飯田龍太がいた緑蔭を過ぎたのは、生臭い人間ではなく、一匹の蝶々である。龍太はその蝶の様(さま)に、いままで味わったことのない心の動きを感じる。蝶も、緑蔭で憩うということがあるかもしれない。その翅を使う様が、悦びのように龍太の目に映る。そのように目に映り、心が動いた様がよろこびの影すぎしのみ、という境地なのではないか。可憐ではかなげな蝶と緑蔭の涼しさを悦びとして共に持ったことに疑いがないこととして、恐らく龍太はすぎしのみ、と心に留め置こうとしたのである。あの時緑蔭の小径を辿って行きついたテニスコートに、ひとりの人の姿もなかった。木々の間からはボールを打つ音が小気味よく聞こえていたのであるが。

 「曇天。窓は閉まっている。食堂の、彼のいる側からは、庭は見えない。彼女のほうからは見渡せて、彼女は庭を眺めている。彼女のテーブルは、窓の縁にくっついている。光線がまぶしいため、彼女は、目に皺をよせている。彼女の視線は往ったり来たりする。ほかの客たちも、彼には見えないテニスのゲームを眺めている。彼は、テーブルを変えてほしいと申し出はしなかった。彼女は、見られていることを知らない。今朝五時頃、雨が降った。今日は、ボールを叩く音が蒸暑く、鬱陶(うっとう)しい天候を縫って響く。彼女は夏服を着ている。」(マルグリット・デュラス 田中倫郎訳 『破壊しに、と彼女は言う』河出書房新社1978年)

 「溶融燃料取り出し…1~3号機ごと「工程表」 第1原発廃炉へ」(平成30年8月8日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)