江戸の絵師鈴木春信に、「夜の梅」と題する錦絵がある。暗い夜に手摺りのある張り出しの上に細い目の振袖姿の娘が立ち、振り向く様で頭上に伸びる白梅の枝に手燭をかざしている。あるいは「風流四季哥仙、二月、水辺梅」は、若い男が神社の朱い柵の上に登りながら白梅の枝に片手を掛け、その傍らで顔かたちが男とそっくりな若い娘が石灯籠の上にその灯りを遮るように振袖を垂らしながら片肘をつき、男の様子を見守っている。この画も夜である。あるいは「梅の枝折り」では、道に草履を脱ぎ捨てた振袖姿の娘が、両手を塀について腰を曲げ躰を支えている侍女の背に乗り、塀の屋根に片手をつきながらその外に突き出た白梅の枝を折ろうとしている。あるいは「臥龍梅」と札の立つ柵の前で、袋から刻み煙草を煙管(キセル)に詰めた若い女が、下駄をぶら下げ、風呂敷荷物を首に巻いた子どもの侍者を従えた若い男の煙管から火を貰おうとしている。この二人の顔もほぼ同じである。永井荷風は『江戸芸術論』の「鈴木春信の錦絵」で、このように述べている。「浮世絵版画は元禄享保の丹絵(たんえ)漆絵(うるしえ)より寛保宝暦の紅絵(べにえ)となり、明和年間に及び鈴木春信によりてここに始めて精巧なる彩色板刻の技術を完成し、その佳麗なるが故を以て吾妻錦絵の名を得るに至れり。春信出でて後、錦絵は天明寛政に至り絢爛(けんらん)の極に達し、文化以後に及びて忽(たちま)ち衰頽(すいたい)を醸(かも)すに至れり。今これら浮世絵各時代の制作品を把(と)つてこれらを通覧するに、余は鈴木春信の板画によりて最も深き印象を与へられたり。」「鈴木春信は可憐なる年少の男女相思の図と合せて、また単に婦人が坐臥(ざが)平常の姿態を描き巧(たくみ)に室内の光景と花卉(かき)とを配合せり。彼が描く処の室内の光景及び庭上階下窓外の草木は人物と同じく極めて単純にしてまた極めて写生に遠ざかりたるものなり。」「春信が女はいづれも名残惜しき昼の夢より覚めしが如き目容(まなざし)して或(ある)ものは脛(はぎ)あらはに裾敷き乱しつつ悄然(しょうぜん)として障子に依りて雨斜に降る池の水草を眺めたる、あるひは炬燵(こたつ)にうづくまりて絵本読みふけりたる、あるひは帯しどけなき襦袢の襟を開きて円(まろ)き乳房を見せたる肌に伽羅(きやら)焚きしめたる、いづれも唯美し艶(なまめか)しといはんよりはあたかも入相(いりあい)の鐘に賤心(しずこころ)なく散る花を見る如き一味(いちみ)の淡き哀愁を感ずべし。余は春信の女において『古今集』の恋歌(こいか)に味(あじわ)ふ如き単純なる美に対する煙の如き哀愁を感じて止まざるなり。人形の如き生気なきその形骸と、纏(まと)へる衣服のつかれたる線と、造花の如く堅く動かざる植物との装飾画的配合は、今日(こんにち)の審美論を以てしては果していくばくの価値あるや否や。これ余の多く知る処にあらざる也。余は唯此(かく)の如き配合、此の如き布局よりして、実に他国の美術の有せざる日本的音楽を聴き得ることを喜ぶなり。この音楽は決して何らの神秘をも哲理をも暗示するものにあらず。唯吾人(ごじん)が日常秋雨の夜の聞く虫の音、木枯の夕(ゆうべ)に聞く落葉の声、または女の裾の絹摺(きぬず)れする響等によりて、時に触れ物に応じて唯何がなしに物の哀れを覚えしむる単調なるメロデーに過ぎず。浮世絵はその描ける美女の姿態とその褪(さ)めたる色彩とによりて、いづれも能(よ)くこの果敢(はか)なきメロデーを奏するが中(なか)に、余は殊(こと)に鈴木春信の板画によりて最もよくこれを聴き得べしと信ずるなり。」(永井荷風『江戸芸術論』岩波文庫2000年刊)荷風の云う「時に触れ物に応じて唯何がなしに物の哀れを覚えしむる単調なるメロデー」に耳を傾けるならば、若い男の朱い柵の上に足を掛けて梅の枝を折る画からも、娘が侍女の背中を借りて梅を盗む画からも、梅の香りに乗ってその者らの話し声が聞こえて来るようである。臥龍梅の前で火を借りる娘の、煙管(キセル)を吸う口元からも果敢(はか)ない音は聞こえて来る。春信の代表作である、黒頭巾に黒い着物姿の男と白頭巾に白い着物姿の女が、双方の片手で一本の傘の柄を握る「雪中相合傘」からは、後ろの柳の枝や傘の上に降る雪の音や、傘の中に籠る男女の息遣いが聞こえて来る。「夕立」では、上空の雲から直接吹きつけている風雨の中、洗い物を取り込もうと竿を握り飛び出て来た娘の片方の下駄が後ろに脱げ、激しい雨音の中にその脱げた下駄の音が響いている。「六玉川(むたまがわ)、井出の玉川」は、若い娘が裸足の二人の侍女にそれぞれ片手と手繰(たぐ)った振袖を取ってもらいながら駒下駄を履いたまま川を渡っていて、浅い水の流れの音がしている。「風俗四季哥仙、五月雨」では、手に手拭を持ち、肩にも手拭を掛けた風呂屋帰りの相合傘の二人の女の内のひとりがすれ違いざま、傘を窄(すぼ)めている同じように肩に手拭を掛けた少女に何か話し掛けている。「風俗四季哥仙、十二月」では、家の庭で雪で作った犬の目を筆で赤く塗っている幼い弟を傍らでその姉が口に手を当てながら笑い、その二人の様子を窓の内から厚着をした母親が見ていて、「座鋪(ざしき)八景、台子(だいす)の夜雨」では、湧く茶釜の前で居眠りをしている母親の後ろから、細長い紙切れを垂らした簪(かんざし)を髪に差そうと悪戯をしている弟の後ろで姉が微笑み、「五常、智」では、習字の筆を持つ末の妹の手を後ろから姉が握って教え、姉妹の中の娘が机の横に座ってその筆先をじっと見つめていて、これらの画からは家族の囁き、笑い声、賑やかな話し声が聞こえて来る。「三十六哥仙、三條院女蔵人左近」では、寺の外階段の上に座り着物の中で足を組んで文を読む娘を、立ったまま後ろから若い男がその様子を見つめ、「井筒の男女(見立筒井筒)」では、風に揺れる柳の下の釣瓶のない井筒に少年が頬杖をつきながらその中を指さし、その前に立つ振袖の少女が片手を縁に置いてその中を覗き込んでいて、「三味線を弾く男女」では、川の袂に置いた縁台に若い男女が凭(もた)れ合うように腰を下ろし、女が撥(ばち)を持ち、男が三味線の竿の弦を押さえている。この三枚の画からは、若い男女の青臭い、あるいは濃厚な息遣いが旋律として鳴っている。あるいは「風俗四季哥仙、仲秋」では、萩の咲く小川の岸辺に置いた縁台に腰を下ろして月を眺める娘が持つ団扇の扇ぐ音があり、その横でもう一人の娘が片肘をついて寝そべり、香を焚いていて、「見立三夕(さんせき)、西行法師、鴫(しぎ)立つ沢」では、読み飽きた『徒然草』を足元に投げ出し、開けた窓に肘をついて外を眺める娘の耳に、空を渡る鴫の声が響いている。「縁先美人図」では、障子戸の内で芸者が三味線を弾き、太鼓を叩く宴のさ中をそっと抜け出した遊女が、縁先で山吹の花が撓(しな)垂れかかる手水鉢を思いに耽るように見つめていて、この遊女が聞いているドンチャン騒ぎは画を見る側の耳にも聞こえている。この画には、「無間の鐘」という故事を織り込んだ歌舞伎「ひらがな盛衰記」が元(もとい)にあり、その故事によれば、鐘を突けば現世では財宝が手に入るが、来世では無間地獄に落ちるというもので、歌舞伎「ひらがな盛衰記」とは、その相手に父の恩を返すため源平合戦で先陣争いに負けた梶原家の惣領息子源太が勘当され、源太を養うため廓(くるわ)に身を沈めた愛人千鳥が、会いに来る源太の揚げ代を工面するため源太が母親から手渡されていた産衣(うぶぎぬ)の鎧を質に入れて仕舞う。が折りしも一の谷で合戦が起こると、源太はそうと知らずに遊女千鳥の元に鎧を取りに来る。善かれと思ってやったことで追い詰められた千鳥は、小夜の中山の無間の鐘の故事を思い出し、手水鉢を鐘に見立て柄杓で打とうすると、客に化けて二階にいた源太の母親が、鎧の質受けに必要な三百両を千鳥の頭上から雨のように降らせる話であり、この画に描かれている山吹の花は、遊女がこの話を思い浮かべている三百両の見立てであるという。荷風の云う果敢(はか)ないメロデーはこの「縁先美人図」では、地獄に落ちてもかまわぬ思いで手水鉢を叩こうとして金を得た物語の女を思い浮かべている遊女の心の内で鳴っている。あるいは荷風の云う「日常秋雨の夜に聞く虫の音、木枯らしの夕に聞く落葉の声、または女の裾の絹摺れする響等」は、身近な物音であり、画に現れる大方の人物も身近にいる若い男女、遊女、子どもと家族であり、その恋愛や愛情にうつろう心の様(さま)を写す顔つきやその指先や裾から出る素足の指の動きもまた果敢(はか)ないメロデーであり、春信の描くその果敢(はか)なさに見る者は懐かしさを覚え、懐かしさを催した心はそのどれもが身近であるが故に果敢(はか)ないと思うのであり、それが春信の眼差しでもあると思えば、見る者の心はこの江戸の絵師とひと筋で繋(つな)がることになる。が、面白可笑しい春画も描いた春信の眼差しは、この果敢(はか)なさだけに留(とど)まってはいない。「見立芦葉達磨(ろようだるま)」という画がある。川の流れに浮かぶ芦の一茎の上に、頭に紅い被衣(かづき)を被った紅い麻の葉の柄の着物姿の女が素足で、風を受けながら立っている。背景はその川面と右奥の芦の生えた岸と、薄鼠色につぶした空である。菩提達磨は天竺から中国梁の武帝に迎えられ、仏教の功徳を問われると、「何も無い」と応え、その定義も無であり、何者かと問われた己(おの)れ自身もまた「不識」と応え、理解の及ばない武帝の元を離れ、揚子江を北上して洛陽北魏に入り、崇山少林寺で面壁九年の坐禅を通したとされ、その揚子江を渡る時に用いたのが芦葉であるといい、春信の画はこの話を元(もとい)にしている。「見立芦葉達磨」の女は涼し気に微かに笑みを浮かべているようにも見え、達磨の面壁九年を超す遊女の「苦界十年」を経た元遊女は、赤ん坊の産衣と同じ麻の葉の柄の着物を身に着け、自由の身となって再びこの世に己(おの)れを晒したのであり、それが「見立芦葉達磨」の意味するところであり、身近の果敢(はか)なさから跳躍した絵師春信の到着地である。東山大豊神社(おおとよじんじゃ)の本殿に、樹齢二百五十年といわれている枝垂れ紅梅がある。その太からぬ幹もどの枝も屈曲を繰り返しながら天の高みを求めつつ、枝先の最後の細枝を悉(ことごと)く垂らして花をつけるその姿には、大木にはないただならぬ気配がある。いまより二百五十年前は明和年間(1764~1772)に当たる。鈴木春信が錦絵を花開かせた時である。

 「浮世絵はその木板摺の紙質と顔料との結果によりて得たる特殊の色調と、その極めて狭少なる規模とによりて、寔(まこと)に顕著なる特徴を有する美術たり。浮世絵は概して奉書または西之内に印刷せられ、その色彩は皆褪(さ)めたる如く淡くして光沢なし、試みにこれを活気ある油画の色と比較せば、一ツは赫々(かくかく)たる烈日の光を望むが如く、一ツは暗澹(あんたn)たる行燈(あんどん)の火影(ほかげ)を見るの思ひあり。油画の色には強き意味あり主張ありて能(よ)く制作者の精神を示せり。これに反して、もし木板摺の眠気(ねむげ)なる色彩中に製作者の精神ありとせば、そは全く専制時代の萎微(いび)したる人心(じんしん)の反映のみ。余はかかる暗黒時代の恐怖と悲哀と疲労とを暗示せらるる点において、あたかも娼婦が啜(すす)り泣きする忍び音を聞く如き、この裏悲しく頼りなき色調を忘るる事能(あた)はざるなり。余は現代の社会に接触して、常に強者の横暴を極むる事を見て義憤する時、翻(ひるがえ)つてこの頼りなき色彩の美を思ひその中(うち)に潜める哀訴の旋律(メロデー)によりて、暗黒なる過去を再現せしむれば、忽(たちま)ち東洋固有の専制的精神の何たるかを知ると共に、深く正義を云々するの愚なることを悟らずんばあらず。希臘(ギリシヤ)の美術はアポロンを神となしたる国土に発生し、浮世絵は虫けら同然なる町人の手によりて、日当り悪しき横町の借家に制作せられぬ。今や時代は全く変革せられたりと称すれども、要するにそは外観のみ。一度(ひとたび)合理の眼(まなこ)を以てその外皮を看破(かんぱ)せば武断政治の精神は毫(ごう)百年以前と異ることなし。江戸木板画の悲しき色彩が、全く時間の懸隔(けんかく)なく深くわが胸底(きょうてい)に浸み入りて常に親密なる囁きを伝ふる所以(ゆえん)けだし偶然にあらざるべし。余は何が故か近来主張を有する強き西洋の芸術に対しては、宛(さなが)ら山嶽(さんがく)を望むが如く唯茫然としてこれを仰ぎ見るの傾きあるに反し、一度(ひとたび)その眼(め)を転じて、個性に乏しく単調にして疲労せる江戸の文学美術に対すれば、忽(たちま)ち精神的並(ならび)に肉体的に麻痺の慰安を感ぜざるを得ず。」(「浮世絵の鑑賞」永井荷風『江戸芸術論』岩波文庫2000年)

 「大熊の2地区、4月10日「避難解除」 町と県、政府が合意」(平成31年3月27日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 繁華な市街、高辻通室町西入ル繁昌町に繁昌神社がある。朱の板囲いの立つ、大人が並んで五六人も詣でれば動きが取れなくなるような境内である。その高辻通に面して立つ鳥居の傍らに、京都市が書いた駒札が立っている。「繁昌社(はんじょうしゃ)。繁昌社の祭神は宗像三女神田心姫命(たごりひめのみこと)、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)、湍津姫命(たぎつひめのみこと)である。三女神は、海上交通の神で、商品流通の守護から「市の神」として信仰されている。江戸時代には、功徳院(くどくいん)と号し、真言宗の僧によって管理されていが、明治の神仏分離により神社だけが残った。当社はもと「班女(はんにょ)ノ社」とも称し、牛頭天王(ごづてんのう)の妃針才女(はりさいじょ)を祀り、それが転訛して班女になったと伝える。また、「宇治拾遺物語」巻三の中に、「長門前司(ながとのぜんじ)の娘が亡くなった後、遺骸を運び出そうとしたが動かず、塚になった」と記す。この塚が、社の北西方向(仏光通に抜ける小路の中ほど)に現在も残っている「班女塚」だと伝える。後世の書物に、「班女」と繁昌は同音の為、男女参拝し子孫繁栄を祈願すると書かれ、縁結びの神として詣でられている他、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)は仏教の「弁財天」と解されることから、商売繁盛、諸芸上達の利益があるという。」その繁昌神社が配っている「繁昌神社の由来」には、「伝説では、清和天皇の代(八五八~八七六年)、藤原繁成と言う人の邸宅の庭に功徳池と言う大きな池があったそうです。延喜年間(九〇一~九二二)、その中島に市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)、田心姫命(たごりひめのみこと)、湍津姫命(たぎつひめのみこと)の三女神(市杵島姫命は、仏教で言う弁財)を勧請したのが、当社の始まりです。」とある。整理をつければ、この場所に藤原繁成という者の屋敷があり、その池の中島に祀っていたのが田心姫命(たごりひめのみこと)、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)、湍津姫命(たぎつひめのみこと)で、もう一つの説として、あるいはそれ以前にこの社に祀っていた牛頭天王の妃の針才女で、その針才女が時が経ち人の口が班女と云うようになり、社も「班女ノ社」と呼ばれ、今度は班女が、繁昌と人の口が変え、社も「繁昌社」となったのであり、この同じ場所を舞台にした話が『宇治拾遺物語』にあり、ここには長門国の元の国司の屋敷があり、亡くなった娘の遺骸がその屋敷から動かず、運び出すことが出来なかったため、この場所に埋めてそのまま塚とし、その塚は班女塚と呼ばれ、この班女が、恐らくはその塚に祀った牛頭天王の妃針才女の転訛であり、後のち「班女ノ社」と呼ばれる社となったということである。この場所には、あるいは時を違(たが)えたかもしれぬが藤原繁成と、長門前司の屋敷があり、藤原繁成の庭の池には三女神が、長門前司の娘の塚には針才女が祀られていたということになり、判然としないのは、この藤原繁成と名の分からぬ長門前司という者との関係である。『宇治拾遺物語』巻三にある「長門前司(ながとのぜんじ)の女(むすめ)、葬送のとき本所(もとのとこころ)に帰る事」はこうである。「今は昔、長門前司(ながとのぜんじ)といひける人の、女(むすめ)二人ありけるが、姉は人の妻にてありける。妹は、いと若くて宮仕(つか)へぞしけるが、後には、家にゐたりけり。わざとありつきたる男もなくて、ただ時々通ふ人なぞありける。高辻室町わたりにぞ、家はありける。父母もなくなりて、奥の方には、姉ぞゐたりける。南の表の、西の方なる妻戸口にぞ、常に人に逢ひ、ものなどいふ所なりける。二十七八ばかりなりける年、いみじくわづらひて、失せにけり。奥はところせしとて、その妻戸口にぞ、やがて臥したりける。さてあるべきことならねば、姉などしたてて、鳥部野へ率(ゐ)て去ぬ。さて、例の作法にとかくせんとて、車より取りおろすに、櫃(ひつ)かろがろとして、蓋いささかあきたり。あやしくて、あけて見るに、いかにもいかにも、つゆ物なかりけり。道などにて、落ちなどすべきことにもあらぬに、いかなることにかと心得ず、あさまし。すべき方もなくて、さりとてあらんやはとて、人々走り帰りて、道におのづからやと見れども、あるべきならねば、家へ帰りぬ。「もしや」と見れば、この妻戸口に、もとのやうに候ひて、うち臥したり。いとあさましくも恐ろしくて、親しき人々集まりて、「いかがすべき」と言ひあはせ騒ぐほどに、夜もいたく更けぬれば、「いかがせん」とて、夜明けて、また櫃に入れて、このたびはよくまことにしたためて、夜さりいかにもなど思ひてあるほどに、夕つかた見るほどに、この櫃の蓋、細めにあきたりけり。いみじく恐ろしく、ずちなけれど、親しき人々、「近くてよく見ん」とて、寄りて見れば、棺より出でて、また、妻戸口に臥したり。「いとどあさましきわざかな」とて、また、かき入れんとて、よろづにすれど、さらにさらにゆるがず。土よりおひたる大木などを、引きゆるがさんやうなれば、すべき方なくて、ただ、ここにあらんとてか思ひて、おとなしき人、寄りて言ふ、「ただ、ここにあらんとおぼすか。さらば、やがてここにも置き奉らん、かくては、いと見苦しかりなん」とて、妻戸口の板敷をこぼちて、そこに下さんとしければ、いとかろやかに下されたれば、すべなくて、その妻戸口一間を、板敷など取りのけこぼちて、そこに埋みて、高々と塚にてあり。家の人々も、さてあひゐてあらん、ものむつかしくおぼえて、みなほかへ渡りにけり。さて、年月経にければ、寝殿もみなこぼれ失せにけり。いかなることにか、この塚の傍近くは、下種(げす)などもえゐつかず、むつかしきことことありと見伝へて、おほかた、人もえゐつかねば、そこはただその塚一つぞある。高辻よりは北、室町よりは西、高辻表に六七間ばかりが程は、小家もなくて、その塚一つぞ高々としてありける。いかにしたることにか、塚の上に、神の社をぞ、一ついはひ据ゑてあなる。このごろも、今にありとなん。」長門の前の国司だったという者に娘が二人いて、ふた親を亡くし、姉は結婚して屋敷の奥の部屋か、あるいは屋敷の奥の別棟に住み、若い時分に宮仕えした妹は、結婚して一緒に住む男もなく、屋敷の妻戸口の室にいて、時々通って来る者とつき合いをしていたのであるが、二十七八の歳で重い病に罹(かか)って亡くなり、姉が近親の者らと野辺送りの鳥部野に着いてみると、棺の中に妹の遺体はなく、まさかと探しながら道を戻ると、なんと安置していた妻戸口の室の中に妹の遺体は横たわっていたのである。参列した者らは恐ろしく思いながら夜を明かし、翌日夜の野辺送りの前にいま一度遺体を棺の中に移し、今度はしっかり蓋を閉めたのであるが、夕方になると妹は棺から出て、また室の床に横たわってしまったのである。集まった者らはまたも恐ろしい思いで遺体を棺に戻そうとするのだが、妹の遺体は土に生えた大木のようにビクともせず、皆は困り果て、妹はここから動きたくはないのではないかと思いを巡らすが、そうであったとしてもこのままにしておけず、室の床板を剥(は)がし、床下に下ろそうと持ち上げると、遺体は軽々と持ち上がり、そうして妹は生まれ育った屋敷の床下に埋葬されたのである。が、姉ら身内の者らは気味の悪い思いを拭えず、屋敷から出て行くと、住む者もないまま屋敷は朽ち果て、浮浪者の様な者も寄りつかず、近隣の者らも気味悪がって越して行き、妹の塚だけがぽつんとこの場所に残り、後にはその上に社が建ち、その塚も社もいまもその場所にあるということである。『宇治拾遺物語』の文中に、「班女塚」という言葉は出て来ない。いまこの目で見ることが出来る赤紫色に染まった岩は、班女塚として祀られていて、高辻通室町にあるこの岩がこの話の通りのものであるならば、後のち何者かがそう名づけたのには違いない。班倢伃(はんしょうよ)という女が中国前漢にいた。成帝の側室として仕えていたが、新たな後宮趙飛燕に成帝の気が移り、班倢伃は身を退かざるを得なくなる。班王况の娘で、倢伃、側室という身分だったこの女のあわれを詩人王維が「班倢伃」と題して詠んでいる。「玉窗(ソウ まど)螢影たり 金殿人声絶ゆ 秋夜羅幃(ライ、薄絹のとばり)を守る 孤燈耿(コウ)として明滅 宮殿に秋草は生じ 君王の恩幸は疏(ソ)なり なんぞ風吹聞くを堪えん 門外に金輿(キンコ、こし)たり 怪しむらくは妝閣(ショウカク、化粧部屋)の閉ずるを 朝より下りて相迎えず 総(スベ)て向かう春園の裏 花間に笑語の声」王の寵愛を失ったような失意の女を、この班倢伃のような女として班女と呼ばれ、あるいは失意の扇を持って舞う謡曲「班女」の知識が、この長門前司の娘を祀った班女塚と呼ばれる元(もとい)の知識である。八坂法観寺に次のような古文書が残っている。「寄進申地ノ事。一所 高辻室町ヨリ北西ノツラ口南北三丈四尺奥東西十五丈四尺。一所 同所口南北五丈奥東西十五丈。右ノ地ハ藤原氏の女。相傳ノ地也。志サシ有ニ依テ。八坂ノ寺法観寺ヘ。永ク寄進申所也。丁圓圓心房ノ時ヨリ。深ク頼ミ申候程ニ。同ク後世菩提ノ爲ニカ子(ネ)テ寄進申候上ハ。イツレノ子ドモナリトモ。違亂ヲ申候ハハ。不ケウノ子タルヘキ也。依テ寄進状如件。貞和二年(1346)七月十八日 藤原氏女 判。常曉 判。」『宇治拾遺物語』の成立は、建保元年(1213)~正久三年(1221)の間とされている。法観寺の文書(もんじょ)の通りであれば、この場所は貞和二年(1346)まで代々藤原家の所有地であったということであり、藤原繁成という者の血筋から下った者である可能性は高いということになる。そうであれば、長門前司も藤原姓の者である可能性は高いのであるが、藤原繁成と同一者であると証明するものは何も残っていない。京都市の駒札書は慎重であり、藤原繁成には一切触れず、繁昌社として祀っている宗像三女神と「班女ノ社」あるいは「半女ノ社」との関係もうやむやのまま放り出している。が、事実はある。法観寺に残る藤原氏の女の寄進状と、四角い石の囲みの上に載る赤紫の岩である。物語はこうである。昔、長門の前国司の藤原何某(なにがし)という者に二人の娘があり、その妹は十代の頃宮仕えをしていたのであるが、恋愛の失意に宮中を辞し、言い寄る者とのつき合いはあっても結婚に至るまでの男が現れぬまま、二十七八の歳に伝染病を患い、悲観して屋敷の井戸に身投げをした。一緒に同じ屋敷に住んでいた姉は外聞を気にし、感染を恐れて一旦引き上げた妹の遺体をまた井戸に戻してそのまま埋め、形だけの空の棺で野辺送りをして、水の使えなくなった屋敷と妹を見捨てるように去って行った。後に前漢の班倢伃を知る者によって、その塚は班女の塚と呼ばれるようになり、藤原何某の末裔がその妹を祀る社を築いた時、八坂神社の祭神である牛頭天王(ごづてんのう)の妃である針才女という珍しい神を勧請した。これも恐らくは知識のある者が、班女から針才女を導き出したのである。その後この社は法観寺に寄進され、下って江戸時代には真言宗功徳院が神宮寺となり、繁華な町中にあって社は妹の無念の籠った「班女ノ社」から「繁昌社」に改名され、新たに田心姫命(たごりひめのみこと)、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)、湍津姫命(たぎつひめのみこと)を勧請したのである。マンションの谷間の小路の奥に捨て置かれたような班女塚の謂(いわ)れがもしこの通りであれば、長門前司の妹の絶望は、長い年月を経て、商売繁盛、家内安全、諸芸上達、良縁成就に変じたのである。それは、人は神を頼りに絶望しないということである。

 「インディオたちは無言で円陣を組み、座りつづけた。学者たちはどうすればよいかわからなくなり、ついにはあきらめた。日程はとっくに過ぎていた。そのとき━二日過ぎていた━突然、インディオたちはいっせいに立ち上がり、荷物をまた担ぐと、賃金の値上げも要求せず、命令もなしに、予定されていた道をまた歩きだした。学者たちはこの奇妙な行動がさっぱり理解できなかった。インディオたちは口をつぐみ、説明しようとしなかった。ずいぶん日にちがたってから、白人の幾人かとインディオのあいだに、ある種の信頼関係ができたとき、はじめて強力の一人が次のように答えた。「早く歩きすぎた」とインディオは話した。「だから、われわれの魂が追いつくまで、待たなければならなかった」」(「考えさせられる答え」ミヒャエル・エンデ 田村都志夫訳『エンデのメモ箱』岩波書店1996年)

 「堆積物…外部「取り出せる」 第1原発、溶融燃料初の接触調査」(平成31年2月14日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 阿呆と煙は高いところを好む、あるいは高いところへ行きたがるという時の煙は、火によって燃えたものが二酸化炭素まで変じなかった炭素の姿であり、その火によって出来た上昇気流に押し上げられ、高いところを好むと云い表せば、生きもののようにも目に映り、死の床にあった尾崎放哉の句、春の山のうしろから烟(けむり)が出だした、の烟は、焼かれた己(おの)れの身体から湧き出た烟であり、己(おの)れの魂がその中に入り混じっているか、烟に変じた魂が高いところへ行きたがっている。阿呆が高いところを好むというもの云いが、煽(おだ)てに乗って云われるままに危険な高い木の枝の柿の実を取ることもそうであるのであれば、そう仕向ける者は阿呆者よりも賢いということになる。子ども時代に読んだ話の、阿呆者が柿の実を捥(も)いだ後の展開は、その阿呆者が枝の上から見る目の前の景色であり、高いところに登らなければその景色を見ることが出来ないということは、子どもにも分かるのである。下の利口者は、その景色を我が目で見ているように知りたいのであるが、阿呆者の云いは阿呆者であるが故(ゆえ)に覚束(おぼつか)ないのである。ソ連が1957年に打ち上げたスプートニク2号に、一匹の雌犬が乗せられた。犬を乗せたのは賢い科学者である。雌犬だったのは、排泄の姿勢の都合だったからである。この犬は高いところに行くほど心拍数が上がることを、地上の利口者に教えたのであるが、無重力の軌道で半日も生命は持たなかった。1958年に完成した東京タワーの、その工事途中の鉄筋の上で命綱も付けずに笑っている鳶職人のモノクロ写真がある。この者らは金という煽(おだ)てに乗った阿呆者であるのであろうが、鳶職人が見せたその笑いを、理屈で説明をつけたとしても利口者には金輪際真似ることは出来ない。利口者の科学者に押し込められたライカ犬は、鳶職人が笑っている中空のその遥か先で、身動きが取れぬまま命を縮めていた。東山華頂山は二百十メートル余の高さがあり、その頂上に将軍塚がある。東京タワーの三分のニの高さである。「「昔より代々の帝王、国々、所々、おほくの都を建てられしかども、かくのごとく勝(すぐ)れたる地はなし」とて、桓武天皇ことに執(しつ)しおぼしめす。大臣、公卿、諸道の才人に仰せて、「長久なるべき様に」とて、土にて八尺の人形を作り、鉄(くろがね)の鎧、兜を着せ、同じく鉄の弓矢を持たせて、東山の峰に西向きに立ててうづめられけり。「末代この京を他国へ遷(うつ)すことあらじ。守護神となるべし」とぞ御約束ありける。されば天下に大事出で来(こ)んとては、この塚かならず鳴り動(どう)す。「将軍塚」とて今にあり。」(『平家物語』巻五「都遷し」)桓武天皇は、官僚和気清麻呂(わけのきよまろ)に誘(いざな)われ、自ら山頂まで足を運んで己(おの)れの目で新たに都とする土地を見たという。命(めい)を受けて山に登った和気清麻呂の言葉は、地上で待つ桓武天皇の胸に響いたのであり、将軍塚は、まだ見ぬ平安京の青写真を桓武天皇がその頭に描いた場所なのである。桓武天皇が登ったかもしれぬ登山道(とざんみち)の途中で、根こそぎに倒れている樹が二本、別々に道を塞(ふさ)いでいた。恐らくは昨年九月の台風で倒れたものである。樹は枝を鋸で払われていて、攀(よ)じ登れば通ることが出来る。が、後ろから駆け上がって来た耳の垂れた犬は、樹の前で足踏みをしながらうろつき、遅れてやって来た主(あるじ)に抱き上げられ、安堵の顔を見せながら主の如くに丸太を越えて行った。華頂山の頂上はあっけなく平らで、山の東側にくねったアスファルトの車道を垂らしていた。将軍塚は芝を植えた盛り土を円く積み石で囲まれ、いまは粟田口青蓮院の敷地の内にあり、頂上のもう一方は駐車場のある公園になっている。青蓮院がここに護摩堂青龍殿を建て、斜面に迫(せ)り出した大舞台と称する展望場(てんぼうば)を設けたのは、平成二十六年である。阿呆者は高いところに立つと、顔が綻(ほころ)ぶ。頂上公園のセメントのステージのような展望台からでも、青龍殿の大舞台からでも文字通り京都市街が一望出来る。京都タワーを指さし、御所や船岡山や鴨川や五山の大文字を知る者は、そう口に出して連れに云う、恰(あたか)も高村光太郎の「智恵子抄」の詩の如くに。あれが阿多多羅山(あだたらやま)、あの光るのが阿武隈川。阿呆者は笑う。利口者に軽蔑されても、高いところに登って笑うのである。都が千年を超えて続いたことを思えば、この山の頂上で桓武天皇も笑ったのである。

 「ペチャもジジも年をとると毎日あがってきた三階の私の部屋にこなくなった。一日中一階の居間にいて、夜中に階段をのぼって二階にくるだけ。もうペチャやジジの頭の中には三階がなくなったのかと思っていると、ある日突然三階にあがっていった。ジジは最後の夏は、昼前から日没すぎまで、しばらく三階で寝ては次に二階で寝、二階でしばらく寝るとまた三階で寝るのを繰り返した。猫の記憶はどうなっているのか。それは記憶でなく空間ということなのか。」(保坂和志カフカ式練習帳』文藝春秋社2012年)

 「富岡から郡山…「避難」訓練 原子力災害想定、町民ら300人参加」(平成31年1月27日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 元日に届いたある者の賀状に、謹賀新年まだ京都ですか、とあった。含みのある言葉である。もしかするとこの宛先の主は住まいが変わっているかもしれないと、賀状をしたためながらこの者の頭を掠(かす)める。平成三十年の賀状は確かに京都の住所から届いているが、この宛先の主とは賀状の遣り取りのほかにつき合いはないのである。京都への転居の理由も知らず、その前に住んでいた東京でも幾度か転居を繰り返し、一度生まれ故郷の福島に戻ったことがあるということも思い出したかもしれない。住まいを転々する者は、仕事を転々する者である。そのような者は総じて貧乏者である。そのような者には、年に一度の賀状に、元気ですかとでも書けば無難である。が、この者は、まだ京都ですか、と書いた。そのような者の内に棲む正体の知れない虫がまた動き出したのではないか、と思いを巡らしたのである。思いを巡らすということは、遠くにいてその者をそのように想像しているということである。正月五日の京都は曇り日で、東福寺塔頭芬陀院(ふんだいん)もそのような空の下にあって、障子を半ば開け座布団を並べた縁は、じっと庭を見るには薄ら寒い。方丈の南にある庭は、雪舟等楊が作ったものであるという。軒下から敷かれた筋目の入った白砂が緩く斜めに庭の半分を区切り、残りは一面苔むしている。庭の左手にある盛り土と石で組んだ亀島と、向かい合わせに折り鶴の様(さま)に石を組んだ鶴島がこの庭の見所であるという。庭の奥は常緑樹や竹が鬱蒼と茂り、あるいは丸や四角に刈り込まれた躑躅(つつじ)が垣の如くに並び立ち、視界は庭を見ることのほかは遮られれている。右手の山茶花の陰に据えた手水鉢は、長く荒れたまま放っておかれていたこの庭を復元した昭和の作庭家重森三玲が置いたものである。鶴島と亀島は、長生きを願う庭の約束事であり、常緑樹も紅葉や裸木となって庭の姿印象を変えぬため、変じない生命の保ちを葉の緑に込めているという。庭の出来た応仁の時期を思えば、変わらないもの、不変なるものに心傾くということは、人情として分かりやすく、不変なるものは単純に見えるが故(ゆえ)に、生死をもって変わらざる得ぬ者は、自ら思いを深める必要があるのである。小一時間の間に、方丈の縁を五組の者らの行き来があった。内訳は中年の夫婦者と若いカップル、ほか三名はいずれも六十前後の連れのいない男である。三人の男は手持ちのカメラで鶴島と亀島を撮り、角を曲がって重森三玲が新たに作った東の庭を見、円窓のある四畳半の茶室を一通り眺めると、互いにすれ違っても挨拶を交わすわけでもなく、座布団に座って長居をすることもなく、仕舞いの顔で出て行った。この三人の者らは名前はもちろん、生まれた場所も生きて来た道すじもまったく違うはずであるのであろうが、新年の五日の同じ時に京都の小寺にわざわざ足を運んで来たことを思うのである。男らは淡々と現れ、何ごとも起こらず一人づつ姿を消し、縁に敷かれた座布団は一ミリもその位置がずれていない。が、その男らが去ってほどなく、覆っていた雲が取れ、俄(にわ)かに庭に日が注いで来たのである。様(さま)を変えないはずの庭は、たちどころに様子を変え、光を得た鶴島亀島は、朧(おぼろ)げに目出度い様子なのである。いま誰も座っていない座布団の上に、あの三人の男が並ぶことを想像すれば、目出度さはより明瞭になるのに違いないと思ったのである。東福寺塔頭芬陀院の芬陀は、芬陀利華(プンダリーカ、ふんだりか)の芬陀であり、芬陀利華とは白蓮華のことである。浄土三部経観無量寿経』にこうある。「もし仏(ほとけ)を念ぜば、まさに知るべし、この人、これ人中の分陀利華なり。」

 「磯辺の松に葉がくれて沖のかたへと入る月の、と云う琴唄の歌い出しの文句が頻りに口に乗った。気がついて見ると又同じ文句と節を繰り返している。その前は何をしていたかよく解らない。自分は立て膝を抱いて、居眠りをしていたかも知れないが、いつ目が覚めたとも気がつかなかった。開けひろげた座敷に、夏の真昼のすがすがしい風が吹き抜けている。風に乗った様な気持で口の中の節を追って行くと、さっきの所まで来るのに大分ひまがかかる。それから先へ節を変えて進む気もしない。何となくぼんやりしている内に、いつの間にか又初めに戻っていた。」(「柳検校の小閑」内田百閒『サラサーテの盤』福武文庫1990年)

 「海岸を一斉捜索 東日本大震災から7年10ヵ月、相馬署」(平成31年1月11日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 円山公園を背に、飲み食いや雑貨の店が立つ繁華なねねの道を南に下(さが)ると、左の塀が途切れて、石段が現れる。上(のぼ)った先には高台寺(こうだいじ)があり、石段は台所坂と呼ばれている。物売りに目も止めずやって来た白人の、リュックサックを背負った親子と思しき四人が、坂の前で立ち止まる。子どもは五、六歳と三、四歳の男の子どもで、セーター姿の父親が手に持っていた一枚の地図を丁寧に広げ、ジャンパーを着た母親に何か云う。母親は石段を見上げて、何も応えない。が、父親は地図を畳んで石段を上って行くと、三人も黙って後ろに従う。台所坂は平べったい石が緩く頂上まで続いていて、その両端を黒い小石を散らしたセメントで固めてある。頭上の、枝に残っている紅葉に足を止め、母親が携帯電話を向けて写真を撮る。子ども二人が親に遅れて頂上の山門を潜ると、右手にある駐車場の方へ駆け出し、掘立小屋のような茶店のアイスクリームの幟(のぼり)に目を止め、母親を振り返る。が、母親はいい顔をしない。高台寺は山門の左手にあるのであるが、子どもらが次に見つけたのは、巨大な白い観音像である。その霊山観音は胸の辺りまで駐車場から見え、父親と母親は子どもの後ろに立って、暫(しばら)く眺める。そして父親が携帯電話をいじったのは、その白い観音について何事か調べたのかもしれない。観世音菩薩は、自ら悟りを求めながら、己(おの)れの名を唱(とな)える者をその求めに応じて救済する、と父親は隣りの母親に教える。が、子どもの興味は移ろいやすい。上の子どもは、今度は観音が顔を向けている駐車場の西の端まで走って行き、生垣で見ずらい下の景色を、生えている桜の曲がった幹に攀(よ)じ登って見る。それほど高くもないその場所から見えるのは、祇園の二階三階建ての屋根瓦の並ぶ、変のない景色である。生垣で見えない下の子どもが、父親に抱き上げられ、兄の見ている景色を見る。が、父親も母親も上の子どもほどそれを長くは見ていない。父親は下の子どもを下ろして踵を返し、母親が上の子どもに、木から下りるように促す。親子四人は、車の疎(まば)らな駐車場を横切り、高台寺の庫裡の前まで一旦は行って、そのまま引き返して来る。四人は追い返されたのではなく、躊躇した上で入ることを止めたのである。料金がかかることを知らなかったとも思えないが、そのことが理由なのかもしれないし、他に理由があるのかもしれないが、外国からやって来たこの者らは、わざわざ石段を上って来て思い直し、父親と母親はそれぞれ子どもと手をつなぎながら、もと来た石段を下りて行く。石段を下りきった所に、がらんとした公園がある。先ほど桜の幹に攀(よ)じ登って目にしていたかもしれない上の子どもが、ねねの道の観光客のぞろぞろ歩きから逃れるように公園に入って行く。いまその親子四人は、公園の中にいて、父親と母親はリュックサックを背負ったままベンチに腰を下ろし、二人の子どもは赤い落葉を拾ったりしている。暫(しばら)くそうしている間に、四人の頭上にある日は西に傾き出している。ねねの道の先には一年坂があり、一年坂を辿れば二年坂に出、二年坂を辿れば産寧坂に出、その先が清水寺である。親子四人がこれから先、どこへ行くのかは分からない。子どもは退屈しない術(すべ)を知っているが、子どもの親は腰を上げるのがその時でもあるように、子どもが退屈してくれるのをじっと待っている。「太閤薨後(こうご)、北政所大坂ヨリ京都ニ移リ、落飾シテ高台院ト称シ、慶長十年(1605)ニ及ビ、更ニ一寺ヲ建立シ、太閤ノ冥福ヲ祈リ、且ツ其終焉ノ地ト為(なさ)ン事ヲ欲ス。於是(これにより)、徳川氏今ノ地ヲ卜(ぼく)シ、酒井忠世土井利勝ヲ以テ、其御用掛ト為シ、所司代板倉勝重ヲ普請奉行トシ、堀監物ヲ普請掛リトシ、大(おおい)ニ伽藍造営ス。」(『高台寺誌稿』)大坂城にあった豊臣秀吉の子秀頼と側室淀は、慶長二十年(1615)の夏の陣で徳川家康に攻め込まれて自害し、正室北政所ねねは、家康の援助で建てた高台寺寛永元年(1624)まで生きた。ねねには秀吉との間に子どもがなかった。子どもが退屈するのを待つこともなく年老いたねねは、日が暮れるのを、日が暮れれば床に就くだけの日々(にちにち)を幾日も過ごしたのに違いない。

 「インディアンの狩猟民がパイソンを生活の糧にしていたので、白人たちは彼らインディアンを殺すために、パイソンを大量に殺した。それでも南北戦争当時にはまだ六〇〇〇万頭がいると見られていた。ヘプワート・ディクスンはこう書いている。「毛深い黒い獣たちは、数頭が集まり、群れをなし、集団となり、隊列を組んで、ひっきりなしに地響きを立ててわれわれの前を通り過ぎていった。四〇時間にわたって休みなく彼らは続いた。何百万頭、何千万頭という野生動物の大群が。その間は、永遠にインディアンたちの小屋を潤すに足ると思えるほどであった。」」(『世界動物発見史』ヘルベルト・ヴェント 小原秀雄・羽田節子・大羽更明訳 平凡社1988年)

 「東電強制起訴…3月12日に最終弁論 遺族側「禁錮5年求める」」(平成30年12月28日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 紅葉が終われば、末枯(うらが)れが目につくようになる。街中の寺の庭先でも、町家の失せた空地でも、鴨川の河原でも、東山三十六峰の山の端でも生えていた草木は、自(みずか)らの意思とも違うただならぬ変化を己(おの)れに齎(もたら)し、雨風に砕け、冬ともなればその大方は地面の上から消え失せる。が、見えぬように消え失せても、草木の意思とも違う何者は根に潜み、約束とも違う仕方で、再びあるいは幾たびも草木として土の上に姿を現す。末枯のひたすらなるを羨(とも)しめり 三橋鷹女。これは草木の枯れてゆく様が羨ましいのではなく、枯れても再び芽吹くことが羨ましいのである。ひたすら枯れることは、芽吹くためのひたすらなのであろうと、作者の鷹女は思わずにはいられないのである。久保田万太郎の小説「末枯」には、三人の男が出て来る。二人の落語家(はなしか)扇朝とせん枝と、一人の支援者タニマチの鈴むらがその三人である。「全体扇朝といふ男は、二代目の梅橋の弟子で、十二三の時分にすでにもう別ビラの真打だつた。器用でもあつたのだらうが、人間が親孝行だといふので、ことのほか梅橋に目をかけられた。十四のとき、両親にわかれ、それからずつと梅橋の手許(てもと)に引取られて、ゆくゆくは三代目梅橋にもなる位なつもりで修行をしてゐるうち、十六のとき、根津の菊岡の楽屋で、平常(ふだん)から仲のよくなかつた兄弟子に喧嘩をうられ、腹の立つたまぎれそこにあつた煙草盆を叩きつけて、相手に怪我をさせた。扇朝にしてみると、(その時分にはまだ扇朝とはいはなかつたが)自分はたゞうられた喧嘩を買つたまでのこと、怪我はさせても、自分にはなんにも悪いところはない位に思つてゐたが、それが師匠の梅橋の耳にはいると、以ての外のことと散々小言をいはれた。━━扇朝はまた腹が立つた。師匠のまるで自分に好意を持つてくれないのにたまらなく腹が立つた。━━勝手にしろとばかり、梅橋のところを飛びだして、そのまゝ東京の土地を離れた。明治二年の秋だつた。」(「末枯」久保田万太郎『筑摩現代文学大系22 里見弴・久保田万太郎集』筑摩書房1978年刊)扇朝はそれから女義太夫の一行に加わり、興行で行った千葉東金の網主の娘と所帯を持つが、三年で網主の元を飛び出して旅芸人に身を落とし、女役者とドサ回りをして暮らしながら、いたたまれぬ寂しさに襲われ、離れて十年の後再び東京に戻って来る。が、元の師匠はこの世にいず、新たに弟子入りした師匠にも程なく死なれると、浪花節の一座に身を落とし、元師匠の代の替わり目に三度(みたび)落語家となるのであるが、落語家扇朝はもはや時代遅れとして客もつかず、四代目梅橋に打ってもらった会に上がって寄席(よせ)を退(ひ)き、昔馴染みでいまは大真打の落語家に最後の独演会を仕切ってもらうが、扇朝がその礼を云わなかったことで、もう一人の落語家せん枝は、義理を欠いたと腹を立て、稽古をつけていた扇朝の出入りを止める。ある日酒の席でタニマチの鈴むらは扇朝を庇い、これ以上の同情をその大真打にさせたくない、されたくないという屈折した扇朝の胸の内を察したように云い、扇朝の噺は当代名人といわれている柳生よりもうまいと、酒の入った口を滑らせてしまう。それはその場にいたせん枝と同門の三橘が、鈴むらに持っていた盃を投げつけるほどの発言だった。鈴むらは、かつては日本橋の大店(おおだな)の若旦那でせん枝、三橘にも目を掛けていたのではあるが、兜町の相場で親から受けた財産を失い、蕩尽し囲っていた吉原の芸妓とも別れ、いまは浅草今戸で夫婦二人の侘しい暮らしをしている身なのである。せん枝は、鈴むらが落ちぶれた丁度その頃両の目が不自由になり、寄席に出ることも出来なくなって妻と二人、母親と同居していた弟の厄介になっていたのあるが、そのせん枝の妻が母親と弟のどちらとも折り合いが悪く、思い余った弟から、目の見えない兄の面倒はみてもその嫁の面倒まではみることは出来ないと云われ、せん枝夫婦は弟の家を出る。目の上の閊(つか)えのとれたせん枝の弟は、箍が(たが)外れたように芸妓遊びで家の金を使い果たし、借金を重ね、ついには兄のせん枝に借金の保証請判を頼みに来る。が、再び高座に上がれるようになっていたせん枝は、頭を下げに来た母親にも、今までの不義理を洗いざらいいいたてて断る。扇朝のことで三橘と悶着があってから暫くの後、せん枝は知り合いの者から鈴むらの噂を聞く。鈴むらは女房の実家からの店を出すための金の援助の申し出を断り、世間に強情を張って、今日も扇朝らと発句の運座を開いて遊んでいると。自分の足元を省みない鈴むらの境涯を、一旦は批難する感情が沸いた目の見えないせん枝は、その夜、本当に見えないのは鈴むらと変わるところがない自分を省みることの出来ない心の目であることに思い至って涙を流し、翌日請判の承諾を女房に云いつける。このような人情話をいまはもてはやす者はいない。このような筋の話は、言葉にすることの出来る、言葉にした話として易々(やすやす)と誰にでも通じてしまうからである。が、易々と分かってしまうことが軽んじられる理由ではなく、易々と分かってしまう自分自身を軽んじられたくないがために、恐らくはその易々と分かる人情を敢(あ)えて遠ざけてしまうのである。鬼ごとの鬼は寂しや末枯るゝ 日野草城。

 「予期したわけではないのに頭が首元に落ち、よく見つめないから気づかないのだが、すべてが静かに停止するのは、おそらく昼夜のあいだのこのようなちょっとした、とびきりやすらかな空白の時なのだろう。それは消えていくものだ。わたしたちはからだを曲げてひっそりと佇んでいる。まわりを見廻すが、もはや何も見えない、空気の抵抗すらも感じず、心の中では記憶にしがみついている。少し向こうに家々が並び、屋根あれば、幸いにも角ばった煙突もついていて、煙突を通って暗闇が家々に流れこみ、屋根裏から、ほかのいろんな部屋へとひろがっていくはずなのだ。明日にはまた一日があり、たとえ信じ難いことながら、すべてをまた目にできるとは、幸せなことなのだ。」(<ある戦いの記録A稿>フランツ・カフカ 池内紀訳『カフカ小説全集5 万里の長城ほか』白水社2001年)

 「中間貯蔵施設へ1400万立方メートル 汚染土壌など輸送量試算」(平成30年12月18日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 そのどちらもその木の名前を知らないようだった。硬い緑の葉の繁る枝に黄色い実が幾つも生(な)っている。蜜柑の一種のような実である。これは食べられへんのどすか、と初老の男が手押し車で身体を支えている老婆に訊く。昔もろてジャム拵(こしら)へましたえ。ジャムどすか。二人はその前に、親しい間柄とも違う天気の挨拶を交わしている。場所は西陣、浄土宗浄福寺の南門の前である。木は日の当たる門の築地塀の上からのぞいている。そやない、ジャムは別の実おした、浄福さんのやおへん。老婆がそう続けて云うと、男は、戸惑う素振りを瞬時に止め、開きかけた口を向こう向きに閉じ、どこか役割りを終えたような顔つきになる。目の前の実の話は宙に浮いたまま、ひと呼吸あり、他人同士のように頭を下げ、老婆は門の中に入り、初老の男はいま一度その実を見上げる。門を潜った老婆は本堂の前の参道で一瞬足を止め、地面に落ちている実にちらと顔を向ける。塀の内にもう一本植わっている同じ木から落ちた実である。実は、湿った地面に四つ五つ落ちている。この様は、恐らく初老の男の目にも入っていたはずである。男は先ほどから、境内の参道を何度か行きつ戻りつをしていたのである。朱塗りの東門から真っ直ぐに伸びる参道は、両側を築地塀に挟まれ、百メートルほど平らな石を敷き並べてある。その上を男は、両腕を宙に真っ直ぐに伸ばし、足をゆっくり動かしながら歩いていた。参道は本堂に突き当たると、二股に分かれ、一方は本堂の正面に回り込み、もう一方は菩提樹の植わる小庭を抜けて庫裏玄関に導く。男はその二股まで来ると、上げていた腕を今度は左右水平に伸ばし、そのまま本堂の前まで歩いてその恰好を暫く続け、目を閉じ、両腕を下ろして踵(きびす)を返すと、西の地蔵堂の前に歩を進め、片膝を上げてそのまま数秒留め、下ろしてもう一方を同じように持ち上げる。何度かそれを終え、両腕を大きく振りながら南門まで歩いて行ったところで、男は老婆に出くわしたのである。老婆は本堂に手を合わせ、参道を手押し車を押しながら東門から出て行った。初老の男は、両腕を振って地蔵堂まで戻り、片膝立ちのポーズをまた始める。規則正しく繰り返す男の動作は、体操のようでもあり、ここが宗教施設であれば、この者は厳(おごそ)かにも見えるその動作に己(おの)れの祈りを込めていないとは限らない。片膝立ちを終えて参道を戻る時、男は落ちている例の実を目で見る。十一月末の昼下がりの浄福寺は、かような振る舞いが許される閑寂な場所である。が、西に立つマンションの壁に卒塔婆が風でカタカタ鳴り響く墓地であり、門を出れば辺りに、古き良き京都の懐かしく、かつよそ者を寄せつけぬ風情の町家の軒がぽつぽつと残る町中であり、田舎の日向臭い長閑(のどか)さをいう鄙(ひな)びはない。時代を七、八十年遡(さかのぼ)れば、西を通る千本通からこの一帯は西陣京極と呼ばれた芝居小屋、映画館が立ち並ぶ繁華な場所であったのであるが、いまは一筋道の飲み屋街があるばかりで、昼のその通りは人影もなくうら寂しく、数多の人の出入る緊張を経た後の落ち着き払った町の空気を浄福寺も息していれば、その閑寂さはこの空気を吸って吐く閑寂さなのである。境内の大ケヤキは黄ばんだ葉を半ば落とし、庭には見せる紅葉も無く、紅葉見物の観光客が迷い込むこともない。初老の男の体操あるいは祈りは、この町の空気そのものに許されているのである。エドワード・ヤンの台湾映画『牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件』を二十六年振りに観た。日本の公開は、一九九二年である。約四時間の映画である。四時間あれば途方もない時間も出来事もぶち込まれ、題の通り殺人事件が起きる。家族も学校も不良仲間も住む街も、少年にとっては絶えず息苦しい。その息苦しさを、少年は向こう側に原因があると思っていたのであるが、自分自身にあるのではないかと気づかされたところで事件は起き、映画も終わる。二十六年前に心揺さぶられた記憶は、幾つかの場面を覚えていたのであるが、二十六年後に見直すと、大方の場面は記憶に無い。浄福寺の境内をゆっくり歩きながら、昨夜観た『牯嶺街少年殺人事件』を思い出そうとしても、そのすべてを思い浮かべることは出来ない。が、そのように思い出そうと気持ちが動く、あるいは敬意を払うためにも思い出さなければならないとこの映画は思わせて来るのである。手押し車の老婆は、ジャムを拵(こしら)えた実は浄福寺に生(な)っているものとは違うと云ったが、そのジャムの味は思い出していたのであろうか。それは話の流れからは逸れてしまう味であったが。

 「……私は、戦後復学した中学での、眼鏡をかけた教師が熱っぽくしゃべりつづけた社会科の授業を思ってみた。話し合い。個人主義。自由と平等。人間は対等である。多数決。私は、自分があのころから、これらが人間への、一つの絶望からうまれた手つづきなのを知っていたと思う。しかし、その絶望は、結局は私にとり、一つのあこがれにすぎなかった。幻影であり理想でしかなかった。げんにこの私は、いま、目からウロコが落ちたように、それとはちがう絶望、ただ一つの、本当の自分のそれにもどっている。力。殺意にしか、他人との本当の関係のしかたはないのだということを。私はもはやそれ以外のなんの幻影も信じはしないだろう。祖父と同じ。おれは九十歳の日本人だ。」(「海岸公園」山川方夫山川方夫全集第3巻』筑摩書房2000年)

 「「除染土」21年度までに搬入完了 中間貯蔵、帰還困難区域除き」(平成30年12月7日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)