浄土宗の開祖法然法然源空の幼名は勢至丸(せいしまる)という。勢至は勢至菩薩の勢至であり、勢至菩薩智慧をもってすべての生きものを救い導く、阿弥陀如来の脇侍であり、阿弥陀如来のもう一方の脇侍は慈悲をもって救う観音菩薩である。法然は建永二年(1207)、七十五歳で後鳥羽上皇から流罪を申し渡される。「後鳥羽院御宇(ぎよう)法然聖人他力本願念仏宗ヲ興行す 于時(ときに)興福寺僧侶敵奏之上御弟子中狼藉子細あるよし 無実風聞によりて罪科に処せらるゝ人数事 一、法然聖人幷(ならびに)御弟子七人流罪 又御弟子四人死罪にをこなはるゝなり 聖人は土佐国番田といふ所へ流罪 罪名藤井元彦男云々生年七十六歳なり 親鸞越後国 罪名藤井善信云々生年三十五歳なり。」(『歎異抄』)旧仏教に成り下がった興福寺法然の教えを目の敵にし、弟子の振る舞いに罪をでっち上げ、法然は藤井元彦と改名させられ島流しにされたと親鸞は云い残した。極楽往生に修行も金もいらない、口に出して念仏を唱えるだけでよい。この法然の教えを止めるのに旧仏教は己(おの)れの教えではなく、上皇の命令を必要とした。それほどに法然の言葉には説得力があり、人が死後にしか希望が抱けない生き世だったのである。法然は五年後京に戻ることを許され、東山大谷に居所(いどころ)を与えられるが、その二か月後に世を去る。その居所だったところが、知恩院の奥まった山裾にある勢至堂である。この堂の上の崖に建つ御廟に登る石段脇に勢至丸の銅像が建っていた。数年前にその写真を撮った記憶があり、そのデジタルデータを探したが、ない。その像を見に行く前に目にしたはずの、その顔を撮ったモノクロ写真が載っていた本も、探せども見つからない。写真を撮ったのが肌寒い曇りの日で、勢至堂に登る石段の白塀の内に柚子のような実がなっていたことも、質の粗い写真のページの紙の手触りも覚えているのに、である。頭の中の記憶は薄れ、あるいは入れ替わるということはある。インターネットで調べれば、知恩院の勢至丸の銅像は二枚出て来る。が、どちらもその背景が違っている。一枚は背後の傍らが坂道になっており、もう一枚はガラス張りの建物で、御廟に登る石段ではない。然(しか)らばと先日、記憶の真偽を確かめるべく勢至堂に至る石段を登った。途中、記憶の通り柚子のような実を幾つもつけた木の枝が白塀から撓んでいる。が、登りきった門の内の勢至堂に、勢至丸の銅像は見当たらなかった。御廟に登る石段の左手に、法然が死の床で書いたという「一枚起請文」が掲げてあるのは記憶の通りである。が、その右手にあったはずの銅像はない。石段を戻り、巡回をしていた警備の者に銅像のありかを訊くと、私は分からない売店ででも訊いてくれ、と応える。そうであれば知恩院の直接の者に訊けば、直ちに「正解」を知ることは出来るのであろう、がこの際は警備の者がそう云うのであればその云いに従い、御影堂の前の売店に入り年配の女店員に訊けば、勢至丸様は和順会館の前に建っていると云う。それはインターネットで見た一枚がその建物の写真であり、境内にはないかといま一度訊いても、ない、幼稚園の中にも勢至丸様はいはりますが、と応える。境内にあったことは一度もないかともう一度訊くと、ありまへん、ときっぱり云うのである。和順会館は山門を出た向かいに建つ、知恩院が経営する宿泊施設である。<せいし丸さま>と台座の正面に刻まれた勢至丸の銅像は、その入り口の横にあった。記憶では、長い髪の先を後ろで束ねた勢至丸はもう少し凛々(りり)しい顔立ちをしていたのであるが、この像はやや思いつめた、思いに沈んでいるような顔をしている。が、この銅像はインターネットで見たもう一枚の写真の銅像と瓜二つであり、台座の<せいし丸さま>の文字も同じである。同じものが境内に二つないとすれば、女店員は記憶違いをしているか、女店員が売店に勤める前に、この銅像は境内の坂の傍らにあったかもしれないということである。その「動かし」がその通りであれば、その「動かし」た理由はともかく、その前に勢至堂からも「動かし」があった可能性がないとは云えないのであるが。法然は九歳の時、父親を殺されているという。法然の母親は、法然が生まれる前に剃刀を呑む夢を見たともいわれている。「抑々(そもそも)上人は、美作国久米の南條稲岡庄の人なり。父は久米の押領使、漆の時国、母は秦氏なり。子なきを嘆て夫婦心をひとつにして佛神に祈申すに、秦氏夢に剃刀を呑むと見てすなはち懐妊す。時国が曰く、「汝がはらめるところ、さだめてこれ男子にして一朝の戒師たるべし」と。秦氏そのこころ柔和にして身に苦痛なし、かたく酒肉五辛をたちて、三宝に帰する心深かりけり。つゐに宗徳院の御宇、長承二年四月七日午の正中に、秦氏なやむ事なくして男子をうむ。」(『法然上人行状絵図』)この『法然上人行状絵図』よりも前に書かれた『源空上人私日記』は、父親の殺害の前後までのことを簡潔に記している。「夫(そ)れ以(おもんみ)れば、俗姓は美作国庁の官の漆間時国の息なり。同国の久米南條稲岡庄は誕生の地なり。長承二年癸丑聖人始めて胎内を出づる時、両幡天より降る。奇異の瑞相なり。権化の再誕なり。見る者は掌を合はせ、聞く者は耳を驚かす云々。保延七年辛酉春比(ころ)、慈父は夜打のために殺害せられ畢(おわ)んぬ。聖人は生年九歳なり。彼は矮の小箭を以て凶敵の目前を射る。件(くだん)の疵を以てその敵を知る。即ちその庄の預所の明石源内武者なり。ここに因(よ)りて迯(に)げ隠れ畢(おわ)んぬ。その時聖人は同国の菩提寺院の観覚得業の弟子となり給ふ。天養二年乙丑に初めて登山の時、得業観覚の状に云ふ。「大聖文殊像一躰を進上す、観覚、西塔北谷持法房禅下」と。得業の消息を見給ひ奇(あやし)み給ふに小児来たる。聖人は十三歳なり。然(しか)る後十七歳、天台六十巻これを読み始む。久安六年庚午十八歳にして始めて師匠に暇を乞請して遁世す。」法然の死の百年の後に書かれた『法然上人行状絵図』の「秦氏なやむ事なくして男子をうむ。」の続きはこうである。「時にあたりて紫雲天にそびへ、館のうち家の西に、もとふたまたにして、すゑしげく、たかき椋の木あり。白幡二流とびきたりて、その木ずゑにかゝれり。鈴鐸天にひゞき、文彩日にかゞやく。七日を経て天にのぼりてさりぬ。見聞の輩奇異のおもひをなさずといふことなし。これより彼木を、両幡の椋となづく。星霜かさなりて、かたぶきたふれにたれど、異香つねに薫じ、奇瑞たゆることなし。人これをあがめて、佛閣をたてゝ誕生寺と号す。影堂をつくりて念佛を修せしむ。昔応神天皇御誕生の時、八の幡くだる。正見正語の人正道に往したまふしるしなりといへり。いま上人出胎の瑞、ことの儀あひおなじ。さだめてふかきこゝろあるべし。所生の小児、字を勢至丸と号す。竹馬に鞭をあぐるよはひより、その性かしこくして成人のごとし。やゝもすれば、にしの壁にむかひゐるくせあり。天台大師童稚の行状にたがはずなん侍りけり。かの時国は先祖をたづぬるに、仁明天皇の御後西三条右大臣(光公)の後胤、式部大郎源年(みなもとのみのる)、陽明門にして蔵人兼髙を殺す。其科によりて美作国に配流せらる。こゝに当国久米の押領使神戸の太夫漆の元国がむすめに嫁して男子をむましむ。元国男子なかりければ、かの外孫をもちて子として、その跡をつかしむるとき、源の姓をあらためて漆の盛行と号す。盛行が子重俊、重俊が子国弘、国弘が子時国なり。これによりて、かの時国聊本性に慢ずる心ありて、当庄(稲岡)の預所明石の源内武者定明(伯耆守源長明が嫡男堀河院御在位の時の滝口なり)をあなづりて、執務にしたがはず、面謁せざりければ、定明ふかく遺恨し、保延七年の春時国を夜討にす。この子ときに九歳也。にげかくれてもののひまより見給ふに、定明庭にありて、箭をはぎてたてたりければ、小矢をもちてこれをいる。定明が目のあひだにたちてけり。この疵かくれなくて、事あらはれぬべかりければ、時国が親類のあたを報ぜん事をおそれて定明逐電して、ながく当庄にいらず。それよりこれを小児矢となづく。見聞の諸人感歎せずといふことなし。時国ふかき疵をかうぶりて死門にのぞむとき、九歳の小児にむかいていはく。汝さらに会稽の耻を思ひ、敵人をうらむ事なかれ。これ偏に先世の宿業也。もし遺恨をむすばゞ、そのあだ世々につきがたかるべし。しかじはやく俗をのがれ家を出て我菩提をとぶらひみづからの解脱を求めんにはといひて端座して西にむかひ、合掌して佛を念じ眠がごとくして息絶えにけり。」法然の父時国は、息を引き取る前に、自分がこうなったのは前世の報いで、お前がこの復讐をすれば復讐が復讐を呼ぶことになる。お前は仏門に入り、私の菩提を弔い、煩悩を逃れ解脱せよと告げたといい、法然はこの事件を機に九歳で菩提寺に預けられ、十五歳で比叡山に登ったというのである。が、最も早い時期に書かれた法然の高弟勢観房源智の筆になると思われている『法然上人伝記』は、法然の父時国の死は法然が十五歳の時であるとしている。「別伝記に云はく、法然上人は美作州の人なり。姓は漆間氏なり。本国の本師は智鏡房(本は山僧なり) 上人十五歳に師云はく、直人(ただのひと)にあらずと。山に登らんと欲するに、上人の慈父云はく、我に敵あり、登山の後に敵に打たると聞かば後世を訪ふべし云々。即ち十五歳にして登山す。黒谷の慈眼房を師と為して出家受戒す。然(しか)る間に、慈父は敵に打たれ畢(おわ)んぬと云ふ。上人はこの由を聞きて、師に暇(いとま)を乞ひて遁世せむとするに、云はく、遁世の人も無智なるは悪く候なりと。これに依りて談義を三所に始む。謂く、玄義一所、文句一所、止観一所なり。毎日に三所に遇(あ)ふ。これに依りて三ヶ年に六十巻に亘り畢(おわ)んぬ。その後、黒谷の経藏に籠居して一切経を披見す。」法然の父時国は、十五歳で比叡山に登る法然に、自分には敵があって、もし殺されたら弔ってくれと云い、その言葉通りになり、法然は衝撃を受けて比叡山から下りようとするが、師から無智のままの遁世は止めよと断じられ、仏学に励んだというのである。伝記の法然は二人いる。父親を殺されて出家した法然と、当時仏教最上の比叡山に登って間もなく父親を殺され、仏門を捨てて遁世しようとした法然である。和順会館の勢至丸は九歳で父親を殺され、思いつめたような陰りのある顔つきをしている。記憶にある勢至堂にあったはずの勢至丸は、膝を折り合掌をする同じ姿であるが、凛々(りり)しかったのである。が、その前後で撮った写真は残っているにもかかわらず、勢至丸の銅像だけはないのである。記憶と別のところに「正解」はある。が、記憶の中のあの勢至丸の銅像を再び目にすることは、恐らくない。女店員の云った幼稚園は、知恩院が運営する華頂短期大学附属幼稚園で、勢至丸の銅像には記憶にない光背があり、園児はその前を通る行き帰りに、必ず挨拶をしてゆくのだという。

 「一枚起請文。源空述。もろこし我がてうに、もろもろの智者達のさたし申さるゝ、観念の念ニモ非ズ。又学文をして念の心を悟リテ申念仏ニモ非ズ。たゞ往生極楽のためニハ、南無阿弥陀仏と申て、疑なく往生スルゾト思とりテ、申外ニハ別ノ子さい候ハず。但三心四修と申事ノ候ハ、皆決定して南無阿弥陀仏にて往生スルゾト思フ内ニ籠リ候也。此外ニをくふかき事を存ぜバ、二尊ノあハれみニハヅレ、本願ニもれ候べし。念仏ヲ信ゼン人ハ、たとひ一代ノ法ヲ能々(よくよく)学ストモ、一文不知ノ愚とんの身ニナシテ、尼入道ノ無ちノともがらニ同(おなじう)しテ、ちしやノふるまいヲせずして、只一かうに念仏すべし。為記以両手印。浄土宗ノ安心起行、此一紙ニ至極せリ。源空が所存、此外ニ全別義を存ゼズ。滅後ノ邪義ヲふせがんが為メニ、所存を記し畢(おわんぬ)。建暦二年正月二十三日 源空。」

 「福島第2原発廃炉に「44年」 東京電力、燃料取り出し22年目」(令和2年1月23日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 川端茅舎(かわばたぼうしゃ)に、都府楼趾(とふろうし)菜殻焼く灰の降ることよ、の句がある。この都府楼趾は筑紫大宰府の趾のことであるが、その都府楼趾とはだだっ広い叢(くさむら)に礎石の散らばるばかりのところである。京都の南を流れる木津川沿いの加茂甕原(みかのはら)に、かつて恭仁京(くにのみや)があった。第四十五代聖武天皇は大養徳守(やまとのかみ)から大宰少弐に左遷した藤原広嗣に、天平十二年(740)召喚の詔勅を出す。天災・疫病の流行の原因が、右大臣橘諸兄(たちばなのもろえ)が重用する吉備真備・僧玄昉にあるとして朝廷からの追放を訴えた広嗣の上表を、橘諸兄が謀反と断じたからである。橘諸兄は、天平九年(737)天然痘に罹って死んだ藤原四子に代わって権力の座に就いた皇族である。四子の一人藤原宇合(うまかい)は広嗣の父である。その四子、武智麻呂(むちまろ)、房前(ふささき)、宇合、麻呂の父親藤原不比等(ふひと)は、天皇をその頂点に置いた律令国家を揺るがぬものとした豪族であり、その女(むすめ)宮子は文武天皇に嫁した聖武天皇の母親であり、宮子の異母妹光明子聖武天皇の夫人を経た皇后である。従兄弟であり、義理の兄弟でもあった広嗣は、聖武天皇の召喚に従うことなく九月三日北九州で兵を挙げる。聖武天皇は直ちに軍を差し向けるが、「朕(われ)意(おも)ふ所有るに縁(よ)りて、今月(このつき)の末暫(しまら)く関東(せきのひむかし)に往かむ。その時に非ずと雖(いへど)も、事已(や)むこと能(あた)はず。将軍これを知るとも、驚き怪しむべからず。」と言葉を残し、奈良平城を出、反乱に背を向けるが如くに居場所を次々と移し、十一月反乱は鎮圧され広嗣は殺されるが、聖武天皇は関東を巡って恭仁に留まり、翌天平十三年(741)、ここを大養徳恭仁大宮(やまとのくにのおおみや)とし、新京とするのである。「現神吾(あきつかみわご)大君の、天の下八洲(やしま)の中(うち)に、国はしも多くあれども、里はしもさはにあれども、山並みの宣(よろ)しき国と、川並みの立ち合ふ里と、山城の鹿脊山(かせやま)の間に、宮柱太敷(ふとし)き立てて、高知らず布当(ふたぎ)ノ宮は、川近み瀬の音(と)ぞ清き。山近み鳥が音(ね)とよむ。秋されば、山も轟(とど)ろに、さ雄鹿は妻呼びとよめ、春されば、岡べも茂(しじ)に、巌には花咲きををり、あなともし。布当(ふたぎ)ノ原。いと尊(たふと)。大宮処。宣(うべ)しこそ、我(わご)大君は、神のまに聞(きこ)し給(たま)ひて、刺竹(さすたけ)の大宮ここと奠(さだ)めけらしも。」(『万葉集』巻第六、久邇(くに)の新しき宮を讃(ほ)むる歌)地勢に富んだ山城の鹿脊に御所の柱を据えた、そこでは川の瀬音がし、鳥が鳴き交い、雄鹿が雌鹿を呼び、花が咲く神の御心の通りに定めた尊い内裏である、と万葉集に詠まれた新都恭仁京であるが、聖武天皇は翌天平十四年(742)には近江紫香楽(しがらき)に、二年後には摂津難波に、再び紫香楽にと居所を移し、これらの居所は都として建設を進めたにもかかわらず、天平十七年(745)平城京にまた戻ってしまう。この間の『続日本紀(しょくにほんぎ)』の記載はこうである。「天平十二年(740)八月癸未(二十九日)、大宰少弐従五位下藤原朝臣広嗣、表(へう)を上(たてまつ)りて時政(じせい)の得失を指(しめ)し、天地の災異を陳(の)ぶ。因(より)て僧正玄昉法師、右衛士督(うゑじのかみ)従五位上下道(しもつみち)朝臣真備を除くを以て言(こと)とす。九月丁亥(三日)、広嗣遂に兵(いくさ)を起して反く。十月己卯(二十六日)、大将軍大野朝臣東人らに勅(みことのり)して曰(のたま)はく、「朕(われ)意(おも)ふ所有るに縁(よ)りて、今月(このつき)の末暫(しまら)く関東(せきのひむかし)に往かむ。その時に非ずと雖(いへど)も、事已(ことや)むこと能(あた)はず。将軍これを知るとも、驚き怪しむべからず。」とのたまふ。壬午(二十九日)、伊勢国行幸(みゆき)したまふ。是(こ)の日、山辺(やまのへ)郡竹豁(つけ)村堀越に到りて頓(とど)まり宿る。癸未(三十日)、車駕(きよが、天皇及び天皇の乗る車)、伊勢国名張郡に到りたまふ。十一月甲申の朔(一日)、伊賀郡安保頓宮(あほのかりみや)に到りて宿る。乙酉(二日)、伊勢国壱志郡河口頓宮に到る。これを関宮(せきのみや)と謂ふ。車駕(きよが)、関宮に停りて御(おは)しますこと十箇日。是の月、大将軍東人ら言(まう)さく、「進士(しんじ)无(無)位安倍朝臣黒麻呂、今月廿三丙子(二十三日)を以て逆賊広嗣を肥前国松浦(ひのみちのくちまつら)郡値嘉嶋長野(ちかのしまながの)村に捕獲へき」とまうす。詔(みことのり)して報(こた)へて曰(のたま)はく、「今、十月廿九日の奏(そう)を覧て、逆賊広嗣を捕へ得たることを知りぬ。その罪顕露(あらは)にして疑ふべきに在らじ。法に依りて処決し、然(しか)して後に奏聞すべし」とのたまふ。丁亥(四日)、和遅野(わちの)に遊猲(みかり)したまふ。丁酉(十四日)、進みて鈴鹿郡赤坂頓宮に到る。丙午(二十三日)、赤坂より発ちて朝明(あさけ)郡に到る。戊申(二十五日)、桑名郡石占(いしうら)に至りて頓まり宿る。己酉(二十六日)、美濃国当伎(たぎ)郡に到る。十二月癸丑の朔(一日)、不破郡不破頓宮に到る。甲寅(二日)、官処寺(みやこでら)と曳常泉(ひきつねのいづみ)とに幸(みゆき)したまふ。丙辰(四日)、騎兵司(きひやうし)を解きて京に還し入らしむ。戊午(六日)、不破より発ちて坂田郡横川に至りて頓まり宿る。是の日、右大臣橘宿禰諸兄、在前(さき)に発ち、山背国相楽(さがらか)郡恭仁郷を経略す。遷都を擬(はか)ることを以ての故なり。己未(七日)、横川より発ちて犬上に到りて頓まる。辛酉(九日)、犬上より発ちて蒲生(がもう)郡に到りて宿る。壬戌(十日)、蒲生より発ちて野洲(やす)に到りて頓まり宿る。癸亥(十一日)、野洲より発ちて志賀郡禾津(あはつ)に到りて頓る。乙丑(十三日)、志賀山寺に幸して仏を礼(をろが)みたまふ。丙寅(十四日)、禾津より発ちて山背国相楽郡玉井に到りて頓まり宿る。丁卯(十五日)、皇帝在前(さき)に恭仁宮に幸したまふ。始めて京都(みやこ)を作る。太上天皇・皇后、在後(あと)に至りたまふ。十三年(741)春正月癸未の朔(一日)、天皇(すめらみこと)始めて恭仁宮に御(おは)しまして朝(でう、元日朝賀の儀)を受けたまる。宮の垣就(な)らず、繞(めぐら)すに帷帳(ゐちやう)を以てす。癸巳(十一日)、使(つかひ)を伊勢大神宮と七道の諸社とに遣(つかは)して幣(みてぐら)を奉らしめて、新京(あらたしきみやこ)に遷(うつ)れる状を告す。丁酉(十五日)、故太政大臣藤原朝臣不比等)の家、食封五千戸を返し上(たてまつ)る。三月乙巳(二十四日)、詔(みことのり)して曰(いは)く、「朕(われ)、薄徳を以て忝(かたじけな)くも重き任を承(う)けたまはる。政化(せいくわ)弘まらず、寤寐(ごび、寝ても覚めても)多く慙(は)づ。古(いにしへ)の明主(めいしゆ)は、皆光業(くわうげふ)を能(よ)くしき。国泰(やす)く人楽しび、災除(わざはひのぞこ)り福(さきはい)至りき。何(いか)なる政化を脩(をさ)めてか、能(よ)くこの道に臻(いた)らむ。頃者(このころ)、年穀(ねんこく)豊かならず、疫癘(えきれい)頻(しき)りに至る。慙懼(ざんく)交(こもごも)集りて、唯労(いたつ)きて己(おのれ)を罪(つみな)へり。是を以て、広く蒼生の為に遍(あまね)く景福(けいふく)を求めむ。故に、前年(さきのとし)、に使(つかひ)を馳(は)せて、天下(あめのした)の神宮(かみのみや)を増し飾りき。去歳(こぞ)は普(あまね)く天下(あめのした)をして、釈迦牟尼仏尊像の高さ一丈六尺なる各々(おのおの)一鋪(いちほ)を造らしめ、并(あは)せて大般若経各々(おのおの)一部を写さしめたり。今春(このはる)より已来(このかた)、秋稼(あきのみのり)に至るまで、風雨順序(をりにしたが)ひ、五穀豊かに穣(みの)らむ。此れ乃(すなは)ち、誠を徴(あらは)して願を啓(ひら)くこと、霊貺(れいくゐやう)答ふるが如し。載(すなは)ち惶(おそ)れ載(すなは)ち懼(お)ぢて、自ら寧(やす)きこと無し。恭敬供養し、流通(るつう)せむときには、我ら四王(四天王)、常に来りて擁護(おうご)せむ。一切の災障も皆消殄(せうてん)せしめむ。憂愁・疾疫をも亦(また)除差せしめむ。所願心に遂げて、恒に歓喜を生ぜしめむ」といへり。天下(あめのした)の諸国をして各々(おのおの)七重塔一区を敬ひ造らしめ、并(あは)せて金光明最勝王経・妙法蓮華経一部を写さしむべし。朕(われ)また別に擬(はか)りて、金字の金光明最勝王経を写し、塔毎(たふごと)に各々(おのおの)一部を置かしめむ。冀(ねが)はくは、聖法(しやうほふ、仏法)の盛(さかり)、天地(あめつち)と与(とも)に永く流(つたは)り、擁護の恩(めぐみ)、幽明(いうみやう、来世と現世)を被(かがふ)りて恒に満たむことを。その造塔の寺は、兼ねて国華(こくくゑ)とせむ。必ず好き処を択(えら)ひて、実(まこと)に久しく長かるべし。人に近くは、薫臭の及ぶ所を欲せず。人に遠くは、衆(もろもろ)を労(わづら)はして帰集することを欲(ねが)はず。国司等(ども)、各々(おのおの)務めて厳飾を存(たも)ち、兼ねて潔清を尽くすべし。近く諸天(しよてん、仏法を擁護する神々)に感(かま)け、臨護を庶幾(ねが)ふ。遐邇(かじ、遠近)に布(ふ)れ告げて、朕(わ)が意(こころ)を知らしめよ。また毎国(くにごと)の僧寺(ほふしでら)に封五十戸、水田一十町施せ。尼寺には水田十町。僧寺(ほふしでら)は、必ず廿(二十)僧有らしめよ。その寺の名は、金光明四天王護国之寺とせよ。尼寺は一十尼。その名は法華滅罪之寺とせよ。両寺(ふたつのてら)は相去りて(離れて)、教戒を受くべし。若(も)し闕(か)くること有らば、即ち補ひ満つべし。その僧尼、毎月(つきごと)の八日、に必ず最勝王経を転読すべし。月の半ばに至る毎に戒羯磨(かいかつま、菩提戒羯磨文一巻)を誦(じゅ)せよ。毎月(つきごと)の六歳日(ろくさいにち)には、公私ともに漁猟殺生すること得ざれ。国司等(ども)、恒に検校(けんけう、寺社の監督職)を加ふべし」とのたまふ。七月戊午(十日)、太上天皇(元正)、新京(あらたしきみや)に移り御(おは)します。天皇(すめらみこと)河頭(かはぎし)に迎へ奉る。八月丙午(二十八日)、平城の二市を恭仁京(くにのみやこ)に遷(うつ)す。九月己未(十二日)、賀世山(鹿脊山)の西の路より東を左京とし、西を右京とす。丁丑(三十日)、宇治と山科とに行幸(みゆき)したまふ。冬十月己卯(二日)、車駕(きよが)、宮に還(かへ)りたまふ。十一月戊辰(二十一日)、右大臣橘宿禰諸兄奏(まう)さく、「此間(ここ)の朝廷(みかど)、何(いか)なる名号(な)を以てか万代(よろづよ)に伝へむ」とまうす。天皇(すめらみこと)勅(みことのり)して曰(のたま)はく、「号(なづ)けて、大養徳恭仁大宮(やまとくにのおほみや)とす」とのたまふ。十四年(742)八月癸未(十一日)、詔(みことのり)して曰(のたま)はく、「朕(われ)、近江(ちかつあふみ)国甲賀(かふか)郡紫香楽(しがらき)村に行幸(みゆき)せむ」とのたまふ。即(すなは)ち、造宮卿(ざうぐきやう)正四位下智努王(ちののおほきみ)、輔外従五位下高岡連河内(かふち)ら四人を造離宮司とす。甲申(十二日)、車駕(きよが)、石原宮に幸(みゆき)したまふ。己亥(二十七日)、紫香楽宮行幸(みゆき)したまふ。九月壬寅の朔(一日)、刺松原(さすのまつばら)に幸(みゆき)したまふ。乙巳(四日)、車駕(きよが)、恭仁宮に還(かへ)りたまふ。癸丑(十二日)、大風ふき雨ふる。宮中(うち)の屋墻(やかき)と百姓の廬舎(いほや)とを壊(こぼ)つ。十二月丁亥(十六日)、地震(なゐ)ふる。庚子(二十九日)、紫香楽宮行幸(みゆき)したまふ。十五年(743)春正月辛丑の朔、右大臣橘宿禰諸兄を遣(つかは)して在前(さき)に恭仁宮に還(かへ)らしむ。壬寅(一日)、車駕(きよが)、紫香楽より至りたまふ。夏四月壬甲(三日)、紫香楽行幸(みゆき)したまふ。乙酉(十六日)、車駕(きよが)、宮に還(かへ)りたまふ。五月乙丑(二十七日)、詔(みことのり)して曰(のたま)はく、「如聞(きくな)らく、「墾田(こんでん)は養老七年の格(きやく)に依り、限満つる後は例(ためし)に依りて収受す。是に由(よ)りて農夫怠り倦(う)みて地を開きし後荒(すさ)みぬ」ときく。今より以後(のち)、任(ほしきまにまに)私(わたくし)の財(たから)として、三世一身を論(あげつら)ふこと無く、咸悉(ことごと)く永年に取ること莫(なか)れ。親王の一品と一位とには五百町、二品と二位とには四百町、三品・四品と三位とには三百町、四位には二百町、五位には百町、六位已下八位上には五十町、初已下庶人に至るまでには十町。但し郡司は大領・少領に三十町、主政・主帳に十町。若(も)し先より給(たま)ひし地茲(ちこ)の限に過多すること有らば、便即(すなはち)公に還(かへ)し、姧昨(けんさ)隠欺(おむこ)は罪を科(おほ)すこと法(のり)の如し。国司任に在る日は、墾田一(もは)ら前(さき)に格(きやく)に依れ」とのたまふ。七月癸亥(二十六日)、紫香楽宮行幸(みゆき)したまふ。冬十月辛巳(十五日)、詔(みことのり)して曰(のたま)はく、「朕(われ)薄徳を以て恭(ゐやゐや)しく大位(たいゐ、天皇の位)を承(う)け、志兼済に存して勤めて人物を撫(な)づ。率土(そつと)の浜已(すで)に仁恕(じんしよ)に霑(うるほ)ふと雖(いへど)も、普天の下法恩洽(あまね)くあらず。誠に三宝の威霊に頼りて乾坤相ひ泰(ゆた)かにし、万代(ばんだい)の福業を脩(おさ)めて動植咸(ことごと)く栄むとす。粤(ここ)に天平十五年歳(ほし)癸未に次(やど)る十月十五日を以て菩薩の大願を発(おこ)して、盧舎那仏の金銅像一軀(たい)を造り奉る。国の銅(あかがね)を尽して象(かたち)を鎔(い)、大山を削りて堂を構へ、広く法界に及(およぼ)して朕(わ)が智識とす。遂に同じく利益(りやく)を蒙(かがふ)りて共に菩提致さしめむ。夫(そ)れ、天下(あめのした)の富を有(たも)つは朕(われ)なり。天下(あめのした)の勢を有(たも)つは朕(われ)なり。この富と勢とを以てこの尊き像を造らしむ。事成り易(やす)く、心至り難し。但(ただ)恐るらくは、徒(ただ)に人を労すことのみ有りて能(よ)く聖に感(かま)くること無く、或(ある)は誹謗(ひぼう)を生(おこ)して反(かへ)りて罪辜(ざいこ)に堕(おと)さむことを。是(こ)の故に智識に預かる者(ひと)は懇(ねもころ)に至れる誠を発(おこ)し、各(おのおの)介(おほき)なる福(さきはひ)を招きて、日毎(ひごと)に三たび盧舎那仏を拝むべし。自ら念(おもひ)を存して各(おのおの)盧舎那仏を造るべし。如(も)し更(さら)に人有りて一枝の草一把の土(ひぢ)を持ちて像を助け造らむと情(こころ)に願はば、恣(ほしきまにま)に聴(ゆる)せ。国郡の司、この事に因(よ)りて百姓を侵し擾(みだ)し、強(し)ひて収(をさ)め斂(あつ)めしむること莫(なか)れ。遐邇(かじ、遠近、国の至る所)に布(ふ)れ告(つ)げて朕(わ)が意(こころ)を知らしめよ」とのたまふ。乙酉(十九日)、皇帝紫香楽宮に御(おは)しまして、盧舎那仏の仏像を造り奉らむが為に始めて寺の地を開きたまふ。是(ここ)に行基法師、弟子等を率ゐて衆庶(もろもろ)を勧め誘(みちび)く。十一月丁酉(二日)、天皇(すめらみこと)、恭仁宮に還りたまふ。車駕(きよが)紫香楽宮に留連すること凡(おほよ)そ四月なり。十二月己丑(二十四日)、始めて平城(なら)の器仗(きぢやう、武器)を運びて、恭仁宮に収め置く。辛卯(二十六日)、初めて平城の大極殿を并(あは)せて歩廊を壊(こほ)ちて恭仁宮に遷(うつ)し造ること四年にして、茲(ここ)にその功(わざ)纔(わづ)かに畢(をは)りぬ。用度の費(つひや)さるること勝(あ)げて計(かぞ)ふべからず。是(ここ)に至りて更に紫香楽宮を造る。仍(より)て恭仁宮の造作を停(とど)む。十六年閏正月乙丑の朔(一日)詔(みことのり)して百官を朝堂に喚(め)し会(つど)へ、問ひて曰(のたま)はく、「恭仁・難波の二京、何(いづれ)をか定めて都とせむ。各(おのおの)その志を言(まう)せ」とのたまふ。是(ここ)に、恭仁宮の便宜を陳(のぶ)る者(ひと)、五位已(い)上廿(二十)四人、六位已下百五十七人なり。難波宮の便宜を陳ぶる者(ひと)、五位已上廿三人、六位已下一百卅(さんじゅう)人なり。戊辰(四日)、従三位巨勢朝臣奈弓麻呂(なでまろ)、従四位上藤原朝臣仲麻呂を遣(つかは)し、市(いち)に就きて京を定むる事を問はしむ。市の人皆恭仁京を都とせむことを願ふ。但し、難波を願ふ者(ひと)一人、平城(なら)を願ふ者(ひと)一人有り。乙亥(十一日)、天皇(すめらみこと)、難波宮行幸(みゆき)したまふ。是(こ)の日、安積親王(あさかのみこ、聖武天皇の皇子、母県犬養広刀自)、脚の病に縁(よ)りて桜井頓宮(さくらゐのかりみや)より還(かへ)る。丁丑(十三日)、薨(こう)しぬ。時に年十七。二月乙未(朔日、一日)、少納言従五位上茨田王(まむたのおほきみ)を恭仁宮に遣して、駅鈴(やくりやう)・内外(ないぐゑ)の印(おして)を取らしむ。また諸司と朝集使(でうじふし)らとを難波宮に遣る。丙申(二日)、中納言従三位巨勢朝臣奈弓麻呂、留守(るしゆ)の官(つかさ)に給(たま)へる鈴・印(おして)を持ちて難波宮に詣(いた)る。甲辰(十日)、和泉宮に幸(みゆき)したまふ。丁未(十三日)、車駕(きよが)、和泉宮より至りたまふ。甲寅(二十日)、恭仁宮の高御座(たかみくら)并(あは)せて大楯を難波宮に運ぶ。また使(つかひ)を遣(つかは)して水路を取りて兵庫(武器庫)の器仗(きぢやう)を運び漕がしむ。乙卯(二十一日)、恭仁京の百姓(はくせい)の難波宮に遷(うつ)らむと情(こころ)に願ふ者(ひと)は恣(ほしきまにま)に聴(ゆる)す。丙辰(二十二日)、安曇江に幸(みゆき)して、松林を遊覧したまふ。戊午(二十四日)、三嶋路を取りて紫香楽宮行幸(みゆき)したまふ。太上天皇(元正)と左大臣宿禰諸兄とは留まりて難波宮に在り。庚申(二十六日)、左大臣勅(みことのり)を宣(の)りて云(のたま)はく、「今、難波宮を以て皇都(みやこ)とす。この状を知りて京戸(きょうこ)の百姓意(こころ)の任(まま)に往来すべし」とのたまふ。三月甲戌(十一日)、石上・榎井の二氏、大き楯・槍(ほこ)を難波宮の中と外との門(みかど)に樹(た)つ。丁丑(十四日)、金光明寺大般若経を運びて紫香楽宮に致す。夏四月丙午(十三日)、紫香楽宮の西北の山に火あり。城下の男女数千餘人皆趣(おもぶ)き山を伐(う)つ。然(しか)して後に火滅(き)えぬ。天皇(すめらみこと)これを嘉(よみ)して布を賜(たま)ふこと人ごとに一端。己已(八日)、車駕(きよが)、難波宮に還りたまふ。十一月壬申(十三日)、甲賀寺に始めて盧舎那仏の像の体骨柱を建つ。天皇(すめらみこと)、親(みづか)ら臨(のぞ)みて手(てづか)らその縄を引きたまふ。十七年春正月己未の朔(一日)、朝(朝賀の儀)を廃(や)む。乍(たちま)ちに新京(あらたしきみやこ、紫香楽宮)に還り、山を伐り地を開きて、以て宮室(きうしつ)を造る。垣墻(みかき)未だ成(な)らず、繞(めぐら)すに帷帳(ゐちやう)を以てす。兵部卿従四位上大伴宿禰牛養、衛門督従四位下佐伯宿禰常人をして大きなる楯・槍を樹(た)てしむ。己卯(二十一日)、詔(みことのり)ありて、行基法師を大僧正としたまふ。夏四月戊子の朔(一日)、市の西の山に火あり。庚寅(三日)、寺(甲賀寺)の東の山に火あり。乙未(八日)、伊賀国真木山に火あり。三四日滅(き)えずして、延び焼くこと数百餘町。即ち、山背(やましろ)・伊賀・近江(ちかつあふみ)等の国に仰せてこれを撲(う)ち滅(け)たしむ。戊戌(十一日)、宮城の東の山に火あり。連日(ひつづ)きて滅(き)えず。是(ここ)に、都下(みやこ)の男女、競ひ往きて川に臨みて物を埋(う)む。天皇(すめらみこと)、駕(が)を備(まう)けて大丘野の幸(みゆき)したまはむとす。庚子(二十三日)、夜、微雨(こさめ)ふりて火乃(すなは)ち滅(き)え止む。甲寅(二十七日)、是(こ)の日、通夜(よもすがら)、地震(なゐ)ふる。五月戊午の朔(一日)、地震(なゐ)ふる。已未(二日)、地震(なゐ)ふる。是(こ)の日、太政官、諸司の官人等(くわんにんども)を召して、何(いづれ)の処(ところ)を以て京とすべきか問ふ。皆言(まう)さく、「平城(なら)に都すべし」とまうす。庚申(三日)地震(なゐ)ふる。造宮輔従四位下秦嶋麻呂を遣(つかは)して恭仁宮を掃除(はらひきよ)めしむ。辛酉(四日)、地震(なゐ)ふる。大膳大夫正四位下栗栖王を平城(なら)の薬師寺に遣(つかは)して、四大寺(大安・薬師・元興・興福)の衆僧を請(こ)ひ集(つど)へしめ、何(いづれ)の処(ところ)を以て京(みやこ)とすべきかを問はしむ。僉(みな)曰(まう)さく、「平城(なら)を以て都とすべし」とまうす。壬戌(五日)、地震(なゐ)ふる。日夜止まず。是(こ)の日、車駕(きよが)、恭仁宮に還りたまふ。癸亥(六日)、地震(なゐ)ふる。車駕(きよが)、恭仁宮の泉橋に到りたまふ。時に百姓、遥かに車駕(きよが)を望みて、道の左に拝謁(をが)み、共に万歳を称(とな)ふ。是(こ)の日、恭仁宮に到りたまふ。甲子(七日)、地震(なゐ)ふる。右大弁従四位下朝臣飯麻呂を遣(つかは)して、平城宮(ならのみや)を掃除(はらひきよ)めしむ。乙丑(八日)、地震(なゐ)ふる。四月より雨ふらず。種藝(ううるわざ)を得ず、因(より)て幣(みてぐら)を諸国の神社(かむやしろ)に奉(たてまつ)りて雨を祈(こ)ふ。丙寅(九日)、地震(なゐ)ふる。近江(ちかつあふみ)の国民(くにのたみ)一千人を発(いだ)して、甲賀宮の辺の山の火を滅(け)たしむ。丁卯(十日)、地震(なゐ)ふる。大般若経平城宮(ならのみや)に読ましむ。是(こ)の日、恭仁京の市人、平城(なら)に徒(うつ)る。暁夜(あかときよ)も争ひ行き、相接(あひつ)ぎて絶ゆること无(な、無)し。戊辰(十一日)、幣帛(みてぐら)を諸(もろもろ)の陵(みささぎ)に奉(たてまつ)る。是(こ)の時に甲賀宮(かふかのみや、紫香楽宮)空しくして人无(な)し。盗賊充ち斥(み)ちて、火も亦(また)滅(き)えず。仍(より)て諸司と衛門の衛士らとを遣(つかは)して、官物(くわんもち)を収めしむ。是(こ)の日、平城(なら)へ行幸(みゆき)したまひ、中宮院を御在所とす。旧(もと)の皇后(おほきさき)のを宮寺(みやてら)とす。癸酉(十六日)、地震(なゐ)ふる。乙亥(十八日)、地震(なゐ)ふる。是(こ)の月、地震(なゐ)ふること、常に異なり。往往(しばしば)坼(ひら)き裂けて水泉(いづみ)湧き出づ。六月庚子(十四日)、是(こ)の日、宮門(きうもん、平城宮の門)の大楯(おほきたて)を樹(た)つ。秋七月庚申(五日)、使(つかひ)を遣(つかは)して雨を祈(こ)はしむ。壬申(十七日)、地震(なゐ)ふる。癸酉(十八日)、地震(なゐ)ふる。八月己酉(二十四日)、地震(なゐ)ふる。癸丑(二十八日)、難波宮行幸(みゆき)したまふ。甲寅(二十九日)、地震(なゐ)ふる。九月丙辰(二日)、地震(なゐ)ふる。己已(十五日)、三年の内、天下(あめのした)に一切の宍(しし、生獣)を殺すことを禁断す。辛未(十七日)、勅(みことのり)したまはく、「朕(われ)、頃者(このころ)、枕席(しむせき、体調)安からず、稍(やや)く旬日に延(ひ)く。以為(おもひみ)るに、治道失有りて、民多く罪に罹(かか)るにあらむ。天下(あめのした)に大赦(たいしや)すべし。常赦の免(ゆる)さぬ所も咸(ことごと)く赦除(ゆる)せ。その年八十以上と、鰥寡惸独(くわんくわけいどく、妻夫父子の無い者)と并(あは)せて疹疾(しんしつ)の徒(ともがら)との自存(じぞん)すること能(あた)はぬ者(ひと)には、量(はか)りて賑恤(しんじゆつ、困窮者の金品支援)を加へよ」とのたまふ。癸酉(十九日)、天皇(すめらみこと)、不豫(みやまひ、病気)したまふ。平城(なら)・恭仁の留守に勅(みことのり)ありて、宮中(みやのうち)を固く守らしめたまふ。悉(ことごと)く孫王等(そんわうたち、天武ないし天智の孫王)を追(め)して難波宮に詣(いた)らしむ。使を遣(つかは)して、平城宮(ならのみや)の鈴・印(おして)を取らしむ。また、京師・畿内の諸寺と諸(もろもろ)の名山・浄処とをして薬師悔過の法を行はしむ。幣(みてぐら)を奉(たてまつ)りて賀茂・松尾(まつのを)等の神社(かむやしろ)を祈(ね)ぎ禱(の)む。諸国をして有(も)てる鷹・鵜を並(ならび)に放ち去らしむ。三千八百人を度して出家せしむ。己卯(二十五日)、車駕(きよが)、平城(なら)に還りたまふ。是(こ)の夕、宮池駅(みやいけのうまや)に宿(やど)りたまふ。庚辰(二十六日)、平城宮(ならのみや)に至りたまふ。十二月戊戌(十五日)、恭仁宮の兵器(つはもの)を平城(なら)に運ぶ。」僅(わず)か五年の内に都を三度奠(さだ)め、そのどれも形が整わぬまま打ち捨ててしまったことに理由がないわけがない、が『続日本紀』にその理由は一言も記されていない。聖武天皇が首(おびと)の名だった七歳の時、父の第四十二代文武天皇が死去する。位を継いだのは、第三十八代天智天皇の皇女であり、天智天皇の弟第四十代天武天皇とその次を継いだ第四十一代持統天皇との間に生まれた草壁皇子に嫁して文武天皇を産んだ元明天皇であり、その次を継いだのは文武天皇の姉の元正天皇であり、皇太子首(おびと)ではなかった。「因(より)てこの神器を皇太子に譲らむとすれども、年歯(よはい)幼く稚(わか)くして未だ深宮を離れず、庶務多端にして一日に万機あり。一品氷髙内親王(ひたかのひめのみこ、文武天皇の姉)は、早く祥符(しやうふ、天の授けるよいしるし)に叶ひ、夙(つと)に徳音(とくいむ、よい評判)を彰(あらは)せり。天の縦(ゆる)せる寛仁、沈静婉變(ちむせいゑんれん、もの静かで美しい)にして、華夏載せ佇(とま)り、謳訟(おうしよう)帰(おもむ)く(国中が推載し徳をたたえる)ところを知る。今、皇帝の位を内親王に伝ふ。公卿・百寮、悉(ことごと)く祇(つつし)みて、朕(わ)が意(こころ)に称(かな)ふべし。」(『続日本紀』巻第六)この時十五歳だった首(おびと)皇太子は、まだその位に値する人物ではないと判断されたのである。首(おびと)皇太子が第四十五代聖武天皇となるのは神亀元年(724)、二十四歳の時である。神亀四年(727)九月二十九日、藤原安宿媛(あすかべひめ、光明子)との間に皇子基王が生まれるが、翌神亀五年(728)九月十三日、満一歳の日を待たずに亡くなってしまう。「天平元年(729)二月辛未(十日)、左京の人従七位下漆部(ぬりべ)造君足、無位中臣宮処連東人ら密(ひそかこと)を告げて称(まう)さく、「左大臣正二位長屋王(ながやのおほきみ)私(ひそ)かに左道を学びて国家を傾けむと欲(す)」とまうす。━━長屋王の宅(いへ)に就きてその罪を窮問せしむ。癸酉(十二日)、王をして自ら尽(し)なしむ。」(『続日本紀』巻第十)天智天皇の孫に当たる左大臣長屋王が、国家体制に反する思想を持ち、その思想を以て皇子基王を呪い殺したとされ、長屋王は自害し、聖武天皇に以後皇子が生まれなければ次の皇太子天皇の可能性のあった長屋王の子らも自害する。「天平元年(729)八月戊辰(十日)、詔(みことのり)して正三位藤原夫人を立てて皇后としたまふ。」(『続日本紀』巻第十)「天平六年(734)戊申(十七日)、詔(みことのり)して曰(のたま)はく、「地震(なゐ)ふる災は、恐るらくは政事(まつりごと)に闕(か)けたること有るに由(よ)らむ。凡(おほよ)そ厥(そ)の庶(もろもろ)の寮(つかさ)、勉めて職(しき)を理(をさ)め事を理(をさ)めよ。今より以後(のち)、若(も)し改め励まずば、その状迹(ありさま)に随ひて必ず貶黜(しりぞ)けむ」とのたまふ。」(『続日本紀』巻十一)「天平七年(735)、是(こ)の歳、年(今年の穀物)頗(すこぶ)る稔らず。夏より冬に至るまで、天下(あめのした)、豌豆瘡(わんとうさう、天然痘)俗に裳瘡(もがき)と曰ふ、を患(や)む。夭(わか)くして死ぬる者(ひと)多し。」(『続日本紀』巻第十二)天平九年(737)、この天然痘に罹(かか)って藤原四子が死亡し、この年の詰まった十二月丙寅(二十七日)、不可思議な奇跡が起こる。「丙寅(二十七日)、大倭(やまと)国を改めて、大養徳(やまと)国とす。是(こ)の日、皇太夫人(くわうたいぶにん)藤原氏(宮子、聖武天皇の母)、皇后宮に就きて、僧正玄昉法師を見る。天皇(すめらみこと)も亦(また)、皇后宮に幸(みゆき)したまふ。皇太夫人、幽憂に沈み久しく人事を廃(や)むるが為に、天皇(すめらみこと)を誕(あ)れましてより曾(かつ)て相見(あひまみ)えず。法師一たび看(み)て慧然(けいぜん)として開晤(かいご、精神が正常に戻る)す。是(ここ)に至りて適(たまたま)天皇(すめらみこと)と相見(あひまみ)えたり。天下(あめのした)、慶(よろこ)び賀(ことほ)がぬは莫(な)し。」(『続日本紀』巻十二)皇子首(おびと)を産んでから精神を病み、三十七年間会うことがなかった母藤原宮子が、玄昉の祈禱を受けると忽(たちま)ちに覚醒し聖武天皇との対面を果たしたというのである。が、この話には裏があるという。「文武天皇元年(697)、八月癸未(二十日)、藤原朝臣宮子娘(みやこのいらつめ)を夫人(ぶにん)とし、紀朝臣竈門娘(かまどのいらつめ)・石川朝臣刀子娘(とねのいらつめ)を妃(ひ)とす。」(『続日本紀』巻第一)この藤原朝臣宮子、藤原不比等の娘が、云われているところの賀茂比売(かものひめ)が母ではなく、紀州九海士の浦の海人(あま)の娘を不比等が養子にした上で、文武天皇に嫁したとするのが梅原猛の云いで、藤原四子の死で宮子の「禁」が解け対面が叶ったというのである。皇統でない藤原不比等の娘は法律の上で皇后になることは出来ない。が、たとえ養子であっても子を嫁がせて天皇と関係をつけなければならないというのが不比等の思いであり、県犬養三千代との間の実子安宿媛(あすかべひめ、光明子)を文武天皇の皇子聖武天皇夫人としたのは、なりふり構わぬ不比等の執着である。が、己(おの)れの母も夫人である光明子も皇統でないことに、不比等による雁字搦(がんじがら)めに聖武天皇が思うところが何もなかったとは思えない。「朕(われ)意(おも)ふ所有るに縁(よ)りて、今月(このつき)の末、暫(しまら)く関東(せきのひむかし)に往(ゆ)かむ。その時に非ずと雖(いへど)も、事已(や)むこと能(あた)はず。将軍これを知るとも、驚き怪しむべからず。」(『続日本紀』巻第十三)藤原広嗣の反乱に決着のつく前に、聖武天皇は関の東の伊勢神宮に向かう。この道筋が天智天皇の子大友皇子天皇の座を争った壬申の乱天智天皇の弟大海人皇子聖武天皇の曽祖父、天武天皇)の通った道筋とも重なるといい、恭仁の地が、紫香楽に建てることになる盧舎那仏のための資材荷揚げの中継地の役割りがあったのであれば、熱心な仏教信者であった聖武天皇は大仏を、国の命あるいは己(おの)れの力財力ではなく、知識と呼ばれた民衆信徒の意思で建てるという志を以て、その布教活動をかつては法で弾圧していた僧行基(ぎょうき)を招き入れ、その任に当たらせ、紫香楽により近い恭仁に都を移したとことは、自らも知識という信徒の一人であるという証(あかし)を示し、後のちの紫香楽京への筋の通し方であり、このことはそのまま藤原家支配の平城京から一刻も早く抜け出したいという意思、「意(おも)ふ所」にほかならない。が、「天平十五年(743)十二月辛卯(二十六日)、初めて平城(なら)の大極殿并(あは)せて歩廊(ふろう)を壊(こぼ)ちて恭仁宮に遷(うつ)し造ること四年にして、茲(ここ)にその功(わざ)纔(わづ)かに畢(をは)りぬ。用度の費(つひや)さるること勝(あ)げて計(かぞ)ふべからず。是(ここ)に至りて更に紫香楽宮を造る。仍(より)て恭仁宮の造作を停(とど)む。」(『続日本紀』巻第十五)と筋が至り、「天平十六年(744)閏正月乙丑の朔(ついたち)、詔(みことのり)して百官を朝堂に喚(め)し会(つど)へ、問ひて曰(のたま)はく、「恭仁・難波の二京、何(いづれ)をか定めて都とせむ。各(おのおの)その志を言(まう)せ」とのたまふ。」(『続日本紀』巻十五)と、その先の聖武天皇が思い描いていたであろう道筋が歩みを止める。自ら止めたのではなく、恐らくはその道筋を心良く思わぬ者らが止めさせたのである。が、聖武天皇は平城へは戻らず、反対勢力に逆らうが如くに難波に京を遷(うつ)し、その翌年には新京紫香楽に遷(うつ)っていく。が、その紫香楽で火災が相次ぐ。この火災を放火と疑えば、聖武天皇の心はいよいよ尋常であるはずはなく、「天平十七年(745)五月己未(二日)、太政官、諸司の官人等(ども)を召(め)して、何(いづれ)の処を以て京(みやこ)とすべきかを問ふ。皆言(まう)さく、「平城(なら)に都すべし」とまうす。」と朝廷の役人らにその意思を示されれば、聖武天皇は思い描いた雁字搦めの平城京脱出から紫香楽での大仏建立までの筋書きを事ここに至って終えざるを得なかったのである。が、大仏は建った。東大寺盧舎那仏である。この寺の元(もと)いは、聖武天皇光明子との間に生まれ、一歳足らずで亡くなった唯一の皇子基王菩提寺若草山の麓にあった金鍾寺(こんしゅうじ)である。『続日本紀』の巻第二十二にこのような記述がある。「天平宝字四年(760)六月乙丑(七日)、天平応真仁正皇太后(てんひやうおうしんにんしやうくわうたいごう、光明皇太后)崩(かむあが)りましぬ。姓は藤原氏。近江朝(あふみのみかど、天智の朝廷)の大織冠内大臣鎌足の孫、平城朝(ならのみかど)の贈(ぞう)正一位太政大臣不比等の女(むすめ)なり。母を贈(ぞう)正一位県犬養橘(あがたいぬかひのたちばな)宿禰三千代と曰(い)ふ。皇太后、幼くして聡慧にして、早く声誉(せいよ)を播(し)けり。勝宝感神聖武皇帝儲弐(ちよじ)とありし日、納(い)れて妃(ひ)としたまふ。時に年十六。衆御(しゆうぎょ、多くの人)を接引(せふいん)して、皆、その歓(よろこび)を尽し、雅(まさ)しく礼訓に閑(なら)ひ、敦(あつ)く仏道を崇(あが)む。神亀元年聖武皇帝位に即(つ)きたまひて、正一位を授(さづ)け、大夫人(だいぶにん)としたまふ。高野天皇(たかののすめらみこと、孝謙)と皇太子を生む。その皇太子は、誕(うま)れて三月にして、立ちて皇太子と為る。神亀五年、夭(いのちみじか)くして薨(こう)しき。時に年二。天平元年、大夫人(たいぶにん)を尊びて皇后とす。湯沐(たうもく、食封)の外、更に別封一千戸と、高野天皇(たかののすめらみこと)の東宮に封一千戸とを加ふ。太后、仁慈にして、志、物を救ふに在り。東大寺と天下(あめのした)の国分寺とを創建するは、本(もと)、太后の勧めし所なり。また悲田・施薬の両院を設けて、天下(あめのした)の飢ゑ病める徒(ともがら)を療(いや)し養(ひた)す。」東大寺の大仏と国分寺の創建のそもそもの発想は光明子であったという。そうであれば聖武天皇はこの大仏建立を己(おの)れの信心からではなく、平城京出の理由に仕立て上げたのかもしれぬということである。「天平十八年(746)九月戊寅(二十九日)、恭仁宮の大極殿国分寺に施入す。」(『続日本紀』巻十六)木津川市加茂に恭仁宮跡並びに山城国分寺跡の碑が立つ場所がある。恭仁小学校裏の石垣の上の原っぱが大極殿、金堂の跡であり、その東側の広い原っぱにある幾つかの礎石が国分寺七重塔の跡である。そのぐるりは景観保存のために田圃や畑のままにしてある。三方は山である。「天平十七年(745)五月丁卯(十日)、是(こ)の日、恭仁宮の市人、平城(なら)に徒(うつ)る。暁夜(あかときよ)も争ひ行き、相接ぎて絶ゆること无(無)し。」京(みやこ)が平城に戻ることが決まると、東西の市の住人は夜が明けるのも待たずに、先を争うように恭仁宮から出て行った。翌年ここを国分寺としても、人が住み栄える場所にはならなかった。聖武天皇は四十八歳で長女の孝謙天皇に譲位し、孝謙天皇天武天皇の孫である淳仁天皇に譲位した後、天皇にふさわしくないとして位から下ろし、再び称徳天皇として位に就き、己(おの)れの病を治した僧弓削道鏡を法王とし、天皇の位を譲るまでの思いに至るのであるが、その思いは潰(つい)え、孝謙天皇の異母妹井上内親王を妻とした天智天皇の孫の光仁天皇が後を継ぎ、第五十代桓武天皇平安京に遷(うつ)した頃は、すでに恭仁京は忘れられた都であったに違いない。桓武天皇が奈良仏教と決別するために平城京を見捨て遷(うつ)った平安京は、千二百年天皇の住む都であり続けた。血が継がれゆく天皇に統治能力があるとは限らない。藤原不比等はそれを不問に己(おの)れ一族で維持する権力体制を築き上げた。聖武天皇は藤原一族の傍らで生まれ育ち、夫人光明子は幼馴染である。藤原不比等の意思が反映されているともいわれている『日本書紀』は、天皇はこの世を作った神々の裔(すえ)であるとされているが、この世で息する者として己(おの)れの立場を改めて思わざるを得なくなった時、聖武天皇は、「朕(われ)意(おも)ふ所有るに縁(よ)りて、今月(このつき)の末、暫(しまら)く関東(せきのひむかし)に往かむ。その時に非(あら)ずと雖(いへど)も、事已(や)むこと能(あた)はず。将軍これを知るとも、驚き怪しむべからず。」と言葉を吐き、その「暫く」は五年に及んだ。疫病の流行や広嗣の反乱に惧(おそ)れをなしたのであれば、それが沈静すれば戻ればいいのであるが、伊勢神宮参拝の後も戻らず、国の悪状況を変えるため都を遷(うつ)し、あるいは紫香楽を仏都にする考えを持っていたのであれば、あらかじめ理由を明らかにしないのは不可思議である。都を遷(うつ)すには莫大な金がかかる。そのための綿密な計画がいる。聖武天皇の思い描いた筋書が遷都にあったとしても、資金に詰まり打ち切ったことを思えば 天皇の「意(おも)ふ所」の本心は、遷(うつ)った先の都にあったのではない。相楽郡恭仁の目と鼻の先の玉井に橘諸兄の別荘があった。天皇が常住の宮を出て他所に泊することが行幸であり、仮にその場所に留まり続けることとなれば常住の宮は天皇不在となり、それが長引くほど宮のある京は都としての体をなさなくなる。恭仁京は、新しい計画の元で都となったのではなく、聖武天皇が暫く住むこととしたため京としたのである。聖武天皇の描いた筋書は遷都という理由で平城京から出ることにあった。聖武天皇の新都宣言は、行幸の延長の方便であり、それが通じなくなれば、元に戻るより仕方がないのである。方便を使ってでも平城京を出たかったのが聖武天皇の已(や)むに已(や)まれぬ本心であり、その「意(おも)ふ所」とは、天皇とは何かということであり、天皇である己(おの)れについてである。「天平四年(732)七月丙午(五日)、春従(よ)り亢旱(かうかん)して、夏に至るまで雨ふらず。百川(はくせん)水を減(へ)し、五穀稍(やや)彫(しぼ)めり。実(まこと)に朕(わ)が不徳を以て致す所なり。」(『続日本紀』巻第十一)「朕が不徳を以て致す所なり」が、詔(みことのり)を発する時の形式的な言い回しであるとしても、聖武天皇にとっては本音であったに違いない。その座に就くまでに学び諭されたであろう天皇についての教えは、藤原一族の囲いがあっての教えであった。が、その囲いは藤原四子の死で綻(ほころ)び、教えへの信頼は天皇の内より損(そこ)なわれてゆく。綻(ほころ)びはきっかけとなり得る。聖武天皇は意(おも)ふ、いまこそ天皇について自ら考えるきっかけとしなければならぬ、と。

 「木下は大きな鯉を手元に引寄せる方法を知つてゐると言つた。鯉を釣りに行くときは、破れ傘で結構だが雨傘を持つて行く。先づ大きな魚が来た手応へがあると、半ば閉じた傘を向側に向けて破れ目に糸の手元を挟み、傘が鯉を呑込んで行くやうにして糸をたぐり寄せる。鯉は暴れやうがないのである。」(『荻窪風土記井伏鱒二 新潮社1982年)

 「31年末まで「燃料搬出」明記 福島第1原発廃炉工程表改定案」(令和元年12月3日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 つげ義春の漫画『無能の人』に、石を売る話がある。多摩川の河原にボロ布で小屋を掛け、棚や足元に赤ん坊の頭ほどの石を並べ、中で身を縮めるようにして男が店番をしている。男は己(おの)れの描く漫画に行き詰まった漫画家である。小屋を通りがかった者が男に、この石の出どころを訊くと、男はこの河原で拾ったものだと応える。ただで拾った石にお金を出して買うヤツはいない、と通りがかりの男が云う。漫画家の男もそう思っている。が、売り物である石は、河原に転がる無数の石から「選ばれた石である」と称することは出来る。選んだのはこの男である。丸みを帯びた形や表面の模様を、面白いと思う者がこの世にいないとは限らない。黄色い模様が星の形に見え、白い線の上下を引繰り返せば山奥に瀧が現れて来る。ある者が石一つを部屋に残してある日失踪する。その黒茶色の石はどこか猫が蹲(うずくま)っているように見えなくもない。その者の失踪の理由は借金かもしれないし、人間関係の縺(もつ)れかもしれないが、回りにいた者らにはその理由が分からない。住人が消えてガランとした六畳間に、その猫のような石が置いてあった。ある者が、その石は失踪した男がある男から貰ったもので、その男も行方不明になっていると云う。いやその男は刑務所に入っているだけだ、人殺しで。その刑務所に入っているという男は、その石をどうして持っていたのか、同じように誰かから貰ったのか、それともどこかで拾ったのか。その男も貰ったんだ、と別の男が云う。そんな話を聞いたことがある。それが恩のある者で、捨てるに捨てられなかったそうだ。その恩のある者はどうしてその石を持っていたのかは、その男は聞いていたのか。その嫁の父親から貰ったんだ、結婚の祝いに。たとえば一つの石には、このような謂(いわ)れがあるかもしれず、ある石を手に入れた者がそのことが理由で幸福の階段を上がり、それを手離した瞬間に不幸の坂を転げ落ちる。あるいはその逆の語り話も、この世には星の数ほどある。神社や寺の境内にあるものの一切は持ち帰ってはならないという言い伝えを子ども時代に聞いたことがある。草花、木の枝、木の実、木の葉、砂の一粒でも黙って持って帰るとバチが当たるというのである。が、融仙院良岳寿感禅定門の戒名を刻んだ石川五右衛門の墓石は削り取られ、持ち去られるという。削り取った者はバチが当たることを覚悟してでもそのご利益の夢に縋(すが)るのである。嵯峨車折神社(くるまざきじんじゃ)は、持ち帰り用の小石を売っている。手に入れた者はその小石を身から離してはならず、その日常を金で買った神の分身と共に過ごすのである。それから幾日か幾十日か幾百日の後、その者の願いが叶ったならば、身の回りに石がなければ河原から石を一つ拾い、その石に神への言葉を書いて報告する。車折神社の本殿の前にはその言葉を記された石が積み重なり、小山となっている。ことは、祇園の茶屋の女将が売掛け金の回収を願ったことにはじまるという。願い事はどうてもいい。ここに願い事を聞き入れてくれる神がいるということを、その女将は石ころをもって目に見えるように証明したのである。

 「新宿の歩道の上で、こぶしほどの石塊(いしころ)がのろのろ這つて歩いてゐるのを見たのだ。石が這つて歩いてゐるな。ただそう思うてゐた。しかし、その石塊(いしころ)は彼のまへを歩いてゐる薄汚い子供が、糸で結んで引摺つてゐるのだということが直ぐに判つた。子供に欺かれたのが淋しいのではない。そんな天變地異も平気で受け入れ得た彼自身の自棄(やけ)が淋しかつたのだ。」(「葉」(『晩年』)太宰治太宰治全集 第一巻』筑摩書房1955年)

 「「台風19号」福島県内7人死亡 25河川氾濫、中・浜通り浸水多数」(令和元年10月14日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 刈稲を置く音聞きに来よといふ 飯島晴子。田圃に実る稲穂の実物を、見ることも触ることもないまま一生を終える者はいるかもしれない。海から大網を引き上げる時の漁船の揺れや、屠殺場の豚の悲鳴を知らない者はそれ以上にいる。変わった句である。刈った稲を置く音を聞きに来い、と云っているのは農家である。この農家は作者に対して、新米を食べに来いとも、稲刈りを手伝ってくれとも云っていない。風が吹いて揺れ撓っている時にも、稲は音を立てる。が、水を抜いて乾いた田圃で、根元から鎌で刈り取って地に置いた稲束の立てる音を、農家の者は聞きに来いと云うのである。機械が袋詰めまでする今日の田圃で、この稲の音はしない。この稲の音は機械化される前の音か、機械が入ることの出来ない不便な田圃の音である。一年に一度きりの、農家には耳慣れた音であり、収穫に思うところがあるのは当たり前のことであろうが、腰を屈め黙々と刈ってゆく農家の者は、その稲の重みが立てる音にいちいち耳を傾け、手を休めることはしない。仮にその音に、他所者(よそもの)に対して説明がつく思いがあったとしても、総じて農家の口は重い。いつであっても農家にとっての重要事は刈稲の地に置く音ではなく、それは天候でありここに至るまでの技術のはずである。それらの説明は音では出来ない。稲を寝かせた音で説明をつけようとする者が俳人である。ある日稲刈りを見た作者の飯島晴子は、その稲の音が耳に残った。それがどうして耳に残ったのかは、その時には分からなくても後のち思いつくかもしれない。その後のちの考えの手立てとして、飯島晴子は農家の口を借り、その口が聞きに来よと云ったとしたのである。飯島晴子は、京都の人である。子ども時代に御室仁和寺(おむろにんなじ)のそばに住み、家の裏は田圃であったという。仁和寺前の一条通を西に向かえば、広沢池(ひろさわのいけ)に出る。広沢池の西側、北嵯峨の田圃で稲刈りが始まっていた。烟は籾殻を燃やしているのである。飯島晴子は、七十九歳で自死している。稲刈り機の響く田圃に立って、稲束の地に置く音が聞こえるとすれば、それは飯島晴子の耳を通った音である。

 「雨戸の隙間からさし入った光が障子をほんのりと明るくしている。船溜りに漁師どもの声がする。しのびやかな櫓の音もする。帆を上げるためにきりきりと滑車を滑らせる綱の音もきこえる。おっつけ夜は白むであろう。けさも川は霧でとざされているだろうか。夜具にくるまり、目をつむっている私に川が見えてくる。名前のない川である。」(「諫早菖蒲日記」野呂邦暢野呂邦暢作品集』文藝春秋1995年)

 「福島県の高校生が六ケ所村訪問 核燃料の課題向き合う」(令和元年9月23日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 アーユージャパニーズ。目が合って一方的に話を始めたその者はその前に、あの氷のようなものは何を意味しているのか、とひとり言のようなものいいで云った。首に身分証をぶら下げた七十前後の痩せた小柄な女である。その氷のようなものは、山門の石段に伸びる参道の傍らにあった。ここはツクツクボウシの鳴きしきる東山法然院である。女は、山門の内の石段を下りてゆく恐らくは夫婦であろうどちらも白髪の白人ふたりに英語で声を掛ける。白人夫婦は、その氷のようなものを足を止めて見ていた。その氷のような柱は、杉の根方や苔と石の間に幾本か傾いて立ち、白砂の中にもその欠片(かけら)のようなものが幾つか転がっている。身分証をぶら下げた女は、ステンレスのプレートを見落としたのかもしれない。それには、「つながる、西中千人」と書いてある。あるいはそれを読んだ上で、何を意味しているのか分からないということなのか。身分証にミチコとあるのを見れば、女も恐らく日本人であるのであろう。それでも日本人が日本人に、その氷のようなものの意味を問うているのである。質問に質問で返すというのは、行儀のいいことではない。例えば、あなたはどう思うのか、あるいはあなたも日本人ではないのか。女は正直なのかもしれない。「つながる」と題されても、その氷のようなものからは何も頭に浮かんで来ないし、そうであれば案内をしている白人夫婦の質問に応えることが出来ない。が、同じ日本人であるあなたなら、もしかしたら知って説明が出来るのではないか、これを作った者も同じ日本人なのであるから。が、ミチコという身分証をぶら下げた女が云った、あなたは日本人かという問いは、苔や白砂の上に氷のような柱が立ち並ぶのを前にして、一瞬身を怯(ひる)ませる。その一瞬は女には長く、女は続けてもう一つの質問を口にする。山門の内の石段を下りた細い参道の石畳の両側に、巨大な豆腐か蒟蒻を置いたような砂の山があり、白沙壇(はくさだん)というらしいが、これは何であるのか。それには型通りの答えがある。上に筋目をつけた平らな砂山は水を表わし、その間を通ることで身を浄めるというのである。そのことは知っていると、ミチコという女は応える。が、その説明ではもの足りないという口振りをこの女はするのである。人間が水で身を浄めるということは、どの宗教にもある。インドでも日本でも、神に触れる前に川の水に浸る。が、それはやがて手を濡らし、口を漱ぐだけに省略される。神というものを、恐らくは軽んじはじめたからである。仏の前でも当然人は俗に塗(まみ)れ、慾に塗れ、汚(けが)れている。であれば手を合わせる前に人は水で身を浄め、己(おの)れが汚れていることを認めなければならない。法然院の水は、砂である。庭に敷いた砂は、水に見立てられる。故(ゆえ)に砂山は水なのである。この砂、水の山の間を通ることで身を浄めるということは、人が認めたのではない。仏がそれを良しとしたのである。そう日本人は考えるのである。日本という国で生まれ、日本語でものを考える者は、アーユージャパニーズと訊かれれば、イエスと取り合えずは応える。が、なぜ砂は水なのか、あるいはなぜ水は砂であるのか。あの参道に立つ氷のような柱は、溶かしたガラス瓶で出来ているのであるが、ガラスはガラスであり、それが「つながる」と題されても、ミチコという身分証をぶら下げた女が何も思い浮かばないとしたら、それは紛れもなく日本人であるからに違いない。日本人の直観は奥ゆかしく、分からぬ己(おの)れ自身を疑うかもしれない。がその直観の見定めは、砂を水と思うことであり、ガラスをガラスと思いなすことである。

 「私の家のテラスのみかげ石の柱のところに一本の丈髙いバラの木が伸びている。今年の花はとうにおわり、その根元にモントブレチアの低いこんもりとした繁みと、いくらか老化しすぎたクルマユリが生えている。これはおそらく一週間後には最初の花をつけるだろう。このユリの葉かげから、私は強い日光で目がくらんでいたが、何か黒いものが音もなく、影のようにふわっと舞い上るのを見た。それは小鳥ではなかった。蝶であった。」(『蝶』ヘルマン・ヘッセ 岡田朝雄訳 岩波書店1992年)

 「「東電強制起訴」19日判決 東京地裁、大津波予見可能性焦点」(令和元年9月18日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 太秦蜂岡の広隆寺に国宝弥勒菩薩半跏思惟像(みろくぼさつはんかしいぞう)がある。「十一月(しもつき)の己亥(つちのとのゐ)の朔(ついたちのひ)に、皇太子(ひつぎのみこ、厩戸豐聰皇子(うまやとのとよとみみのみこ)、聖徳太子)諸(もろもろ)の大夫(まへつきみたち)に謂(かた)りて曰(のたま)はく、「我(われ)、尊(たふと)き佛像(ほとけのみかた)有(たも)てり。誰(たれ)か是(こ)の像(みかた)を得て恭拜(ゐやびまつ)らむ」とのたまふ。時に、秦造河勝(はたのみやつこかはかつ)進みて曰(い)はく、「臣(やつかれ)、拜(をが)みまつらむ」といふ。便(すで)に佛像(ほとけのみかた)を受(う)く。因(よ)りて蜂岡寺(はちのをかでら)を造る。」(『日本書紀』巻第二十二、豐御食炊屋姫天皇(とよみけかしきやひめのすめらみこと) 推古天皇十一年(603)十一月)妃の橘大郎女(たちばなのおおいらつめ)が聖徳太子を悼(いた)んで作らせた「天寿国繍帳(てんじゅこくしゅうちょう)に聖徳太子の言葉が残されている。「世間虚仮、唯仏是真(せけんこけ、ゆいぶつぜしん)」仏は仏法であり、仏法は海の向こうより渡って来た教えであり、欽明天皇は国としてこれを受け入れ、聖徳太子推古天皇の元でこれを国の元(もとい)の一つとした。聖徳太子の手許に一体の仏像があった。それは日本で作られたものではなく、海の向こうから送られて来たものともいわれている。その仏像を聖徳太子は、海の向こうからやって来て、灌漑土木養蚕の技術で後に平安京となる地を開拓した秦一族の秦河勝に譲った。秦河勝聖徳太子の側近であったが、仏像を太子から譲り受けた者は他にはいない。その仏像が、当時は金色に塗られていた弥勒菩薩半跏思惟像であるという。聖徳太子秦河勝もこの世にどっぷり浸かっていた者である。聖徳太子と共に推古天皇の元で政(まつりごと)を仕切っていた蘇我馬子(そがのうまこ)は、世の病いを仏の祟りとして惧れ尊ぶ崇仏者として、病いを仏そのものの所為(せい)だとする排仏者の物部守屋(もののべのもりや)を滅ぼし、用明天皇の異母弟の穴穂部皇子(あなほべのみこ)を殺害し、崇峻天皇を殺害させた。この馬子の傍らにいた聖徳太子はこう云うのである。「この世は虚しく、仏法だけが正しい」呪法に熱心な仏教信者が、それを排除しようとする者を殺しても、その教えそのものは真理として揺るがない。七仏通戒偈(しちぶつつうかいげ)という教えがある。「諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教(しょあくまくさ しゅぜんぶぎょう じじょうごい ぜしょぶっきょう)」どのような悪もなさず、あらゆる善を行い、自分自身の心を浄めることが諸仏の教えである。教えを守って祈れば良いことがある。あるいは念仏を唱えるだけで浄土に行くことが出来る。あるいはその教えるところの境地、悟りのためには修行が不可欠であり、その修行の後色即是空空即是色の意味するところを教え伝える者となるのである。あるいは修行の果てに悟りが待っているのではなく、修行することが、修行の継続の状態が悟っているということである、とするのである。あるいは三時(さんじ)という考えがる。三時とは、正法(しょうぼう)、像法(ぞうぼう)、末法(まっぽう)であり、正法は釈迦入滅後の五百年あるいは千年の間「教え」があり、それを実践し悟りを開く者がいる期間であり、像法はその後の、「教え」と修行者はいても悟る者の現れない千年の期間であり、末法は像法の後の、「教え」だけがあって、修行そのものが衰え、悟ることが不可能となる時である。聖徳太子のいう仏の「教え」だけが真理であるが、この世の行きつく先にはその「教え」は省みる者の誰もいない「教え」としてしか残らないのである。その「教え」るところに、弥勒菩薩が出て来る。弥勒菩薩は釈迦入滅の五十六億七千万年の後この世に現れ、救済されずにいる仏を乞(こ)う者のすべてを救う未来仏であるという。三時の教えを採(と)れば、五十六億七千万年先、仏法は衰えている。そして弥勒菩薩はやって来る。が、真理であるところの仏法を身につけた者はこの世にいない。七月十八日、京都伏見の京都アニメーションのスタジオが、一人の男によって撒かれたガソリンに火を点けられて全焼し、働いていた三十五人が死亡し、三十四人が負傷した。容疑者の四十一才の男は下着泥棒、コンビニエンスストア強盗の前科があり、強盗で懲役三年六カ月の判決を受け、三年服役している。就いた仕事は、埼玉県庁文書課の仕分け、新聞配達、コンビニ店員、郵便配達などである。この男はアニメーションにする話を書いていたという。そして男はアニメーションの会社に火を放った。この男の住んでいたアパートのドアの内には、「電気、クーラー消す」と書いた紙が貼ってあった。広隆寺弥勒菩薩聖徳太子の元にあったものであれば、聖徳太子は日日(にちにち)この仏像を拝み、弥勒菩薩はその薄く開いた両目で聖徳太子を見たのであろう。弥勒菩薩は、「教え」によって作られた仏であろうか。そうであるならば弥勒菩薩が教え救うということは、人がこの世でそう思いそう為すということである。弥勒菩薩が「教え」によって作られた仏でないのであれば、人は真理であるところの「教え」を金輪際手放さず、ひたすら弥勒菩薩を待たねばならない。

 「私は三時間ほど釣りをして、二度川のなかに落ち、とうとう、小魚を一匹釣りあげた。お前は釣りを知らないね、と、インディアンは言った。どこがまちがってるの、と、私は言った。どこもここもまちがってる、と、彼は言った。釣りをしたことがあるのかい。ないよ、と、私は言った。俺もそう思った、と、彼は言った。どこがまちがってるの、と、私は言った。そうだな、と、彼は言った。とくにまちがっているというところはない。ただ、お前は自動車を運転するスピードで釣りをしているんだ。」(『わが名はアラム』ウィリアム・サロイヤン 清水俊二訳 晶文社1980年)

 「第1原発「処理水」見えぬ着地点 タンク960基115万トン保管」(令和元年8月10日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 蛇いちご魂二三箇色づきぬ 河原枇杷男。昭和四十八年(1973)青木八束は小説「蛇いちごの周囲」で第三十六回文學界新人賞を受賞し、その年の第六十九回芥川賞の候補になるが受賞しなかった。青木八束は、脚本家田村孟の筆名である。昭和四十四年(1969)三十六歳だった田村孟は連続ドラマポーラ名作劇場『サヨナラ三角』の脚本を途中で投げ出し、以後テレビドラマの脚本は書かないと宣言する。『サヨナラ三角』の演出者の交代に、あるいは交代で起こる演出のムラに抗議し、その抗議が通らず降りたのである。田村孟は昭和三十年(1955)東京大学文学部国文学科を卒業し、松竹大船撮影所に入り、昭和三十六年(1961)一期上にいた大島渚らと松竹を退社して創造社を作る。創造社は大島渚らが理想とする映画を造るための会社であった。が、金が思うように集まらず、田村孟は生活のため会社が取って来たテレビドラマの脚本を書かなければならなかった。田村孟が書いたのは、テレビが日本の茶の間に普及しはじめた頃のドラマである。創造社が造った映画は評価され、田村孟が書いた脚本は、昭和四十三年(1968)『絞死刑』(共作、監督大島渚)、昭和四十四年(1969)『少年』(監督大島渚)、昭和四十六年(1971)『儀式』(共作、監督大島渚)がキネマ旬報脚本賞を受賞する。が、田村孟文學界新人賞を取った年、創造社は解散する。テレビ業界に別れを告げ、大島渚と袂を分かつことになった田村孟が書いた小説が、「蛇いちごの周囲」なのである。田村孟の出身である群馬の、戦後間もない田舎に住む少年の前に東京から若い女がやって来る。戦時中その若い女の姉が、少年の家の分家の長男に嫁ぎ、その長男である夫は戦死し、その後その姉も自殺をしている。話は、少年が東京から来た若い女を「あなた」と語り、若い女が姉の遺品である回転椅子を高校受験を控えた少年に遣るため、リヤカーで姉の嫁ぎ先である少年の家の分家の製材所に取りに行くところから始まる。その分家には、若い女の姉の夫だった長男の両親と知的障害の次男と養女が一人いる。若い女は生前の姉と手紙の遣り取りをしていて、姉とその義父の間に男女の関係があった、あるいは出来たことで姉が自殺をした、あるいは義父に殺されたのではないか、と義父に問う。が、義父ははなから相手にせず、家の跡継ぎのため若い女に知的障害の次男との結婚を迫ったりするのである。事実はどうなのかという疑問に応えるようには、話は展開しない。事実はさして重要ではないとでもいうように、若い女が抱いていた憶測はあっさり否定され、若い女には確たる証拠もなく、それ以上に反論は出来ない。少年は遣り交わす二人の前で、ある女のことを思い出す。その女は田圃の畦道で、防空頭巾に蛇いちごを摘んでいたのである。少年の云いに従って蛇いちごを捨てたその女は、若い女の姉であったかもしれないと思うのであるが、若い女はその太っていた姉を本当は愚鈍な女と思っていて、姉の夫の回りには姉よりも素敵な女が何人もいたと云うのである。少年は若い女が姉の夫のことを云う口ぶりから、その姉の夫を好きだったのではないかと考える。小説は、少年と若い女が曳いて来たリヤカーに乗って坂を下る遊びをするところで終わる。小説の中の人物の関係性は古く、少年が若い女のことを「あなた」として語ることで若い女の物怖(お)じしない青春性や、少年の若い女を思う気持ちにこの小説で狙ったであろう鮮味が醸し出されたことは確かであるが、他の人物は横溝正史の小説から借り出されて来た者たちの如きであった。若い女と他の人物との関係性を濃くすれば、徹底した意地汚い遣り取りをしてしまえば、若い女の青春性はひとたまりもないと考え、恐らく田村孟は他の人物を距離を縮めて来ない気味の悪い存在として置かざるを得なかった。それはしたたかな人物の造形に定評がある脚本家田村孟の小説家としての限界であった。田村孟はその後数篇の小説を発表したのみで、再びテレビドラマの脚本書きに戻ることになるのである。昭和五十一年(1976)『青春の殺人者』(監督長谷川和彦)のキネマ旬報脚本賞受賞で小説の挫折を乗り越えた田村孟は、再び長谷川和彦と組んだ映画『連合赤軍』で長いトンネルに入って仕舞う。昭和五十四年(1979)から取り掛かった『連合赤軍』の第一稿が出来上がったのは、九年後の昭和六十三年(1988)であった。田村孟学生運動を支持する側として見守るような立場にいた。そのことが脚本を書く上で意味を見出す前に自問の末にブレーキを掛けなかったとは云い切れない。結局『連合赤軍』は決定稿に至らず、映画化されなかった。が、そのトンネルのさ中でも咲いた花はあった。昭和五十九年(1984)公開の『瀬戸内少年野球団』(監督篠田正浩)の脚本である。田村孟は、映画の話よりも小説の話をする時に顔がほころんだ。この違いが恐らくは映画と小説に対する田村孟の思いの差である。が、フォークナーを全部読みなさいと云った時その表情は改まった。いや、車谷長吉の『鹽壺の匙』を褒めた時はほころんでいた。洛北西賀茂に正伝寺がある。かつてデビッド・ボウイが自ら焼酎のCМ場所に選んだという寺である。本堂の手前に鐘楼の立つ空地があり、蛇いちごの実が幾つか生っていた。山裾の上にある方丈の庭の眺望は清々(すがすが)しく、瓦を葺いた低い築地塀越しに東の比叡山の姿が見える。一面白砂を敷いた奥、塀に沿って島のようなサツキや山茶花のこんもりと丸い刈込みがあり、花が咲いて仕舞えばそれは凡庸な風情であるが、雪の積もる写真を見れば、誰が見ても静寂な庭である。覆われて見えないものに抱く畏れは、想像が働くことであり、庭一面に蛇いちごの実を生らせるのも想像を働かせることである。蛇いちごが一面を覆った光景はどぎついかもしれないが、手を加えず放っておけば、すぐ前の叢に生えている蛇いちごが易々(やすやす)と塀を越え庭を覆って仕舞うことはいつでもあり得るのである。「蛇いちごについてありとあらゆることをたて続けに喋った、かわいげに見えるその一粒一粒の中に蛇の卵が一個ずつはいっている、だから食べれば腹の中が蛇だらけになる、それを知っているから仔山羊だって絶対にくわない」(「蛇いちごの周囲」田村孟田村孟全小説集』航思社2012年刊)「「そうですか。苦しい人ですね。」「苦しい?」「いや、死んだ卵で生きるというのは。」(『赤目四十八瀧心中未遂車谷長吉 文藝春秋社1998年刊)田村孟は『連合赤軍』以外にも幾つかの映画にならなかった脚本を残したまま、平成九年(1997)六十四歳で亡くなった。「石膏詰め子殺し事件を題材とする映画、神坂次郎『元禄御畳奉行の日記』を原作とする映画、ゾルゲ事件を題材とする映画」(『田村孟全小説集』年譜)死卵を産んだ脚本家が苦しくないはずはなく、その顔がほころぶはずもないのである。

 「この地上では誰であれ、信念にかかわって二つのことが問われる。一つは、この人生の信じるに足るかどうかについて。いま一つは、自分の目的の信じるに足るかどうかについて。二つの問いとも、誰もが生きているという事実を通して、すぐさま断乎として肯定でもって答えるので、問いが正しく理解されたのかどうか怪しくなるほどだ。ともあれ人はいまや、この自分自身の基本の肯定に向けて、あらためて努めなくてはならない。」(「八つ折りノートH」フランツ・カフカ 池内紀訳『カフカ小説全集⑥掟の問題ほか』白水社2002年)

 「復興情報などまとめた地図 葛尾で「福島アトラス04」完成報告」(令和元年6月30日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)