桂川に架かる渡月橋よりも、河原の叢で鳴くウマオイの声が気になった。三条通の車の流れが途切れると、そこらじゅうで鳴いていることがわかる。しかし腰を屈め、道の端から覗いても、一匹もその姿が見つからない。後ろからやって来た二人の御婦人が、何事かと足を止め、同じように叢をちょっと覗いて行く。その二人が覗いた瞬間、鳴き声が已んだような気がしたのは気のせいか。渡月橋が架かっている限り、桂川での集合写真はその位置で撮られる。砂利を踏みしめ前列がしゃがみ、中列は中腰、そして微笑む後列、そして背後に渡月橋。俳句でその土地の風景、産物、人物を詠むことを挨拶と呼ぶ。もし俳句を捻らなければ、渡月橋に立ち、こう云う。コンニチハ。緩やかにSの字をつくり、川幅が急に狭くなるところまで、川沿いの嵐山の裾は大きなうねりを繰り返す。山鳩が鳴いて、ウマオイのことを考える。あの鳴き声をどう表すのか。スイーッチョンでいいのか。山鳩はデッデッーポッポーでいいのか。下流から上って来た舟の中から英語の声が聞こえてくる。前後で船頭が竿を差し、外国人に羅を着た僧侶がひとり混じっている。竿の水音はチャポ、チャポでいいのか。外国語を知ることは、もう一つの魂に触れることだ、とは誰の言葉だったか。スイーッチョンではウマオイの魂に触れていないような気がする。水辺で小さな魚の群れが泳いでいる。舟が戻って来る。乗客は誰も乗っていない。船頭が水に竿を差す。シャポー、シャポー。

 「姉と弟とは朝餉を食べながら、もうかうした身の上になつては、運命の下に項を屈めるより外はないと、けなげにも相談した。」(森鴎外山椒大夫」鴎外選集・岩波書店1979年)

 「県内、政策大転換に賛否、「集団的自衛権閣議決定」(平成26年7月2日 福島民友ニュース・minyuーnet掲載)