百万遍の交差点で、三十半ば辺りの女がため息をついた。右手に笹竹を持っている。その小さくもない笹竹にちらと目を遣る。今日は七月四日である。それが七夕のものであることは、誰が見ても分かる。が、ため息の理由は隣からでは分からない。つい先ほどまで台所に立っていたようなその姿は、通りの向こうの京大の関係者とも思われない。車谷長吉に、女のあとを追い、遂にはその女の玄関の呼び鈴を押してしまう話があったが、女は出町柳の駅からぞろぞろやって来た京大生らを避けるように足早に交差点を渡り、すぐの路地に入った。今出川通を西から来て鴨川を渡ると、両側の町のどの通りも路地も途端に曲がる。川の向こうの碁盤の目の生真面目さをあざ笑うようにのたうっている。ここには意思がある。主張があり、異議申し立てがある。都合が通ったのである。曲がる自由が通ったのだ。クリーニング屋の横を入ると、人ひとり分の道幅で蛇の動きのように先が見えぬまま見知らぬ通りに出る。笹竹を持った女は、そんな路地のどこかに入って行った。百万遍に、女のため息は似合うと思った。京都バス出町柳案内所というところがある。その係の男が、柱に沿って真っ直ぐに慎重に時間を掛けて、一枚のポスターを張る。鴨川を望む洋食屋の上空で、ツバメが飛びながら別のツバメに口移しで餌を与える。素晴らしい出来事。

 「その翌日五時頃に起きて、羊は草を沢山l喰って居るから荷物を背負わせ自分の分も荷を背負うことにして向こうの砂原を見るとどうやら水がありそうに見えて居る。」(河口慧海チベット旅行記』講談社学術文庫1978年)

 「ため池の濃度把握、効果的除染へ 新技術で底土を測定」(平成26年7月4日 福島民友ニュース・minyu-net)