豆腐屋のコンクリートの床が濡れていて、誰もいない。奥の上った居間のようなところにも、飯台の上に畳んだ新聞と折り込みチラシが置いてあるだけで、人の気配がない。店の正面の木の棚に油揚げが並び、左手の水槽に豆腐の四角い塊が沈んでいる。朝の作業が終われば、翌日の仕込みがある。枡で量った大豆を大笊に入れ、日向で混じっている石粒やゴミをひとつ残らず取り除き、それが終われば、笊ごと水に浸けて丁寧に洗い、仕舞いに洗った大豆を十余度の井戸水に浸けて半日寝かせる。この豆腐屋の話ではないが、この豆腐屋もそうかもしれない。京都御苑の椎の木蔭のベンチで昼飯を食った。天に綿を敷き延べた曇りで蒸し暑く、日は射さなかったが、木蔭には違いなかった。目の前を影のない人が通って行く。近づいて来ることは、正面を向いていても、御所をぐるりと囲む築地塀に響く砂利を踏む音や、だんだんに聞こえてくる話し声で分かる。革鞄を下げた長袖ワイシャツのサラリーマン、サングラスをした外国人のカップル。中年を過ぎた夫婦が、していた話を止める。夫の後ろを行く妻が、少しずつ遅れはじめる。御苑に足を踏み入れた者は、まず歩く。とにかく歩かなければと思う。御所を一回りするだけでは足らず、隅から隅まで歩こうとする。しかし御苑は広大で、砂利道は思う以上に歩きにくい。右に築地塀、左に松林榎の林。眺めは単調である。そして暑さから逃れることは出来ない。次第に足が速くなる。仕舞いには行軍のようになってくる。門を出て、漸く我に返る。例外はいる。黒松の根元でひとり太極拳をしている男、林の草の上で弁当を広げている母親と子どもの一団、蛤御門の前まで来て、入らず引き返す男。維新後、建っていた屋敷がすべて空き家となり、この地は見捨てられたという。政変の結果京都では一時的に公武合体体制が成立しました、云々の解説札が立つ、堺町御門の左右の門番所の戸が外してあった。風を通すためであろう。土間の乾いた土に靴底の跡があり、畳のない朽ちた分厚い剥き出しの床板にベージュのスリッパが脱ぎ捨ててあった。人影が見当たらないことは同じでも、豆腐屋と違い、ここには死の匂いがいまもあった。

 「單に可笑しいといふばかりではない。理屈にも議論にもならぬ馬鹿々々しい處に、よく考へて見ると一種物哀れなやうな妙な心持のする處があるからである。」(永井荷風「日和下駄」『荷風全集第十三巻』岩波書店 1963年)

 「毎時0.23マイクロシーベルト目標否定 環境省除染新方針」(平成26年8月2日 福島民友ニュース・minyuーnet掲載)