リチャード・ブローティガンの小説『アメリカの鱒釣り』は、例えば子供の服の背中に〈アメリカの鱒釣り〉と悪戯書きされた一つの言葉である。あるいは「パイの皮を一緒に食べながら、〈アメリカの鱒釣り〉はマリア・カラスに微笑みかける。」(藤本和子訳 晶文社刊)。朝の鬱陶しい雲が切れた正午、祇園にいた。日に晒されている茶屋料亭は、例外なく玄関戸を堅く閉ざしている。どこからも声もしないし、物音も聞こえて来ない。建物と建物の間も、表の施し、千本格子や駒寄せや犬矢来や軒簾や石畳にすら隙がなく、その同じ軒の連なりは、まるで木造の要塞のように油断がない。この街は隔絶を極めることだけに心血を注いできたのである。ほんの少しでも油断をすれば、忽ち日の光に土足で踏み込まれてしまうからである。待っていれば、いずれ日は自ら傾いていく。住人が動き始める。稽古三味線の音が二階から漏れて来る。隣と挨拶を交わし、玄関先を打ち水で濡らす。しかしこの間も、その所作は外に隙を見せない。葉ものを刻む俎板包丁の音、水を使う音、器の触れる音。鰹節昆布の匂いが辺りに漂い出す。日が落ち、内と外に灯りが点る。そして、後ろ姿の客が玄関の引き戸を開ける一瞬と、赤ら顔の客を送り出す瞬間にだけ、この花街に隙が生まれる。隔絶がなければ、この隙に如何ほどの値打ちも生まれはしない。日はまだ中天にあり、突き当たった建仁寺築地塀に沿って曲がり、縄手通を上がったところで、買い物帰りの舞妓とすれ違った。浴衣姿に髪を結い上げ、手にコンビニエンスストアのレジ袋を提げ、白川南通外れの置屋の玄関戸を引き、中に入っていった。午にも祗園に一瞬隙が出来た。祗園から鴨川沿いに南に下がるともう一つの花街、宮川町がある。細い宮川町通の左右に祗園に比べ日の浅い茶屋が並んでいる。腰の曲がった老婆が軒先で打ち水をしていた。宮川町歌舞練場の表に健康測定車と書かれたレントゲン車が止まっていた。入り口の掲示に、今日の稽古とあり、今藤先生長唄教室、清元先生一階奥の間、と出ていた。帰りに足を止めた、京都文化博物館で開催中の漫画宇宙兄弟展には寄らなかった。部屋に戻り、足裏を洗って、素足でいられず、靴下を履いた。今日一度も蝉の声を耳にしなかった。渡った鴨川のほとりで、蜻蛉が何度も行きつ戻りつしていた。

 「初心者である私にとって、アタリの微妙な感触をつかむのは容易ではなかった。」(「ふたつの高遠蕎麦と、ふたつの毛バリ釣り」安田祥子『別冊つり人渓流夏号』つり人社2014年)

 「業者、不正認識か 伊達市24路線で除染漏れの可能性」(平成26年8月30日 福島民友ニュース・minyuーnet掲載)