毎年、年末の晦日か大晦日の日に鎌倉を歩いた。鎌倉駅を外れれば、人のすれ違いも稀なほど、鎌倉はしんとしていた。当てのないぶらぶら歩きを終えて東京に戻る前、その年の見納めに円覚寺の見晴し台に上がり、弁天茶屋で甘酒を飲み、大抵舌の先をやけどした。見晴し台から東慶寺がよく見えた。安井金毘羅宮の位置を云う時、祇園の裏、あるいは建仁寺の裏と云うことはあっても、その逆の云いをすることはまずない。二つある鳥居の傍らにまばらな樹木と連れ込み旅館が建ち並ぶその地理環境は、日本語の云うところの「裏」に当たる。安井金毘羅宮は、縁切り神社ということになっている。自らも、悪縁を切り、良縁を結ぶ神社と大看板に謳っている。入ると、幾重にもうち重なっている無数の短冊を背負った鼻のない象のような物体がある。物体の底には、屈んで人が潜れるほどの穴が開いている。その物体に近寄って見れば、短冊は形代で、一枚一枚に断ち切りたいもの、事柄が具体的に書かれている。夫、女、た雄とさ子の関係、病気、会社、酒、悪癖、この世。縺れると、新聞の三面記事に載りそうな事柄ばかり並んでいる。この祈願の者らは形代に言葉を連ね、「神」に訴える。ゆ彦と縁が切れますように。何々しますように、は、してくれという「神」に対する命令のように見える。人が「神」に対して下手に言葉を使うとこうなるのである。薄い生地の黒ワンピースを身につけた一人の老婆が、ほつれた白髪を目の前に垂らし、台に屈んで携帯電話の画面を睨みながら割り箸のような護摩木に小さな文字を連ねていた。護摩木はすでに五六本、携帯電話の隣に並んでいる。鴨川を渡って戻った、表通りに建つクリーニング屋のアイロン台の上で、店主の連れと思われる女が、首を傾げ、書きものをしていた。「神」を相手に書いている表情ではなかった。東慶寺はかつての縁切り寺である。駆け込めば肉体は寺から拘束を受けるが、精神は夫の拘束から免れ、言葉で表せば自由となった。

 「不幸であり、不遇だったこの人は、小児のたましいをもっていた。」(「セザール・フランククロード・ドビュッシー 平島正郎訳『ドビュッシー音楽論集』岩波文庫1996年)

 「(中間貯蔵施設)建設受け入れ国に伝達 知事、責任ある支援要求」(平成26年9月2日 福島民友ニュース・minyuーnet掲載)