嵐電北野線の始発駅北野白梅町から、帷子ノ辻行に乗る。平日の正午前、単線一両編成の電車の乗客は他に年寄りが二人。降りる駅は二つ目の龍安寺。歩いても造作のない距離である。電車が動き出す。風景が動き出す。行く先が分かっていても、どこかに連れて行かれるという不安と、車両車体に身を委ねる恍惚の二つが初めて乗る電車の心延えである。一分弱で等持院、それから四五十秒で龍安寺に着く。線路の両側のフォームのベンチに簡素な屋根覆いがあるだけの寂びれた無人駅である。参道にうどん屋豆腐屋菓子屋木箱屋などが軒を並べている。曇り空に、ジグザグに渡した色とりどりのビニールの三角旗が、北からの風に時折揺れる。参道商店通りの尽きたところに、龍安寺はなかった。道標に従い、左に道を折れ住宅街を進むと、樹の茂る石畳の参道に出る。この参道を抜けても、前を遮るきぬかけの路を渡らなければ、龍安寺には着かない。信号待ちをしていた、手に同じノートを持った数十人の修学旅行生と一緒に路を渡る。拝観口に着くまで別の旅行生の集団と合流し、入り口にもまた旅行生徒外国の団体観光客がいて、ごったがえしている。引率の教師らしい者が携帯電話で生徒とやり取りしている声が、耳に入る。お腹痛い?今朝ウンチ出た?出ない?このままこのカタマリに呑み込まれるのはかなわないと思い、便所と茶屋土産物屋の間を抜け、駐車場に出る。バス、タクシーが白線の内にずらりと並んでいる。寺の背後の朱山を見上げていると、目の前にタクシーが止まり、同じ制服の中学生が四人次々に降りて来た。バーテンダーのような運転手が彼らを先導していく。今どきはこのように、生徒がタクシーを貸し切りにして運転手をガイド役に寺社巡りをするというのであるが、十五あるという石と白砂のスジ目と傾いた油土塀の方丈庭園を、運転手は何と説明するのであろうか。覆っていた雲が風に割れ、日が射して来る。木蔭に入り、まだ咲いていない山萩の傍らに駐まっているバイクを見て、『禅とオートバイ修理技術』という本を思い出した。が、思い出したのは題名だけで、記憶喪失になった大学教授が家族とバイクで旅をする話だったとしか記憶にない。「禅」という語は、70年代当時のアメリカの流行り語であり、「東洋的無」という味つけをした思索スタイルである。「禅」と謳うからには、語り手の大学教授は道中、それなりに考えを深めていったはずだ。しかしその思索のひと欠片も頭の片隅に残っていない。残っていない現在を記憶の「無」としても、ある時点まで記憶は残っていたかもしれないし、たまたま思い出せないでいるだけで、明日何かのきっかけで思い出すということがあるかもしれない。そうなれば、記憶は「有」るということになる。大乗仏教の「空」は、「有」と「無」の縁起であるという。縁起は、原因と条件の交じり合う現象である。記憶に実体がないとすれば「無」で、記憶を思い出す現象は「有」である。何もないと云う時の「無」は、「空」の半身であり、「禅」を磁石のように引き寄せる。無門慧関の『無門関』の中で、若い僧が師趙州に教示を乞う。趙州は朝飯は済んだのかと訊くと、若い僧は食い終えたと応え、趙州は器を洗っておけと告げる。それを聞いた若い僧は省有り、悟った、とある。電車に乗らず、線路沿いの道を歩いて戻った。龍安寺の門は潜らなかった。拝観口で見かけた外国人は修学旅行生に囲まれながら、枯山水を前に瞑想したのかもしれない。曼珠沙華が柵の内で咲き、住宅の石垣から色づいた石榴の実の枝が伸びていた。生徒らを乗せたタクシーに追い抜かれる。ある日、彼らのひとりが何かのついでに修学旅行の思い出話をする。龍安寺にも行ったな。禅の美とか云われたって分かるわけないだろ。だけど、触れたんだろうな、禅に。

 「ドクトル・カフカはしかし、彼らにはっきりしたことを教えることができなかった。」(グスタフ・ヤノーホ 吉田仙太郎訳『カフカとの対話』筑摩書房1967年)

 「放射線不安も疾患に 健康管理専門家会議で意見」(平成26年9月23日 福島民友ニュース・minyuーnet掲載)