モーリス・メーテルリンクの『青い鳥』は、チルチルとミチルの兄妹が見た夢の物語ということになっている。兄妹がクリスマスの前の夜床に就き、同じ夢を見て、その同じ夢の中の思い出の国や森や墓地や花園や未来の王国を、青い鳥を探して訪ね歩く奇妙な話である。溜まった段ボールの空箱を処分するのに二時間かかった。正確には、回収業者を見つけ出すのに二時間費やしたということであるが。六月、京都市中京区役所に住民票の異動届を出した折、市環境政策局発行の『保存版ごみ減量分別ハンドブック』という冊子を手渡された。その第1ページに、「ごみ量をピーク時の半分に、それが京都市の目標です」と京都市長の言葉が載り、29ページの「古紙類をリサイクルする方法」の項目の下に、①集団回収に参加する②民間の古紙回収業者に依頼する、とあった。訊けば、住む地区での集団回収は行われていない。であれば段ボールを処分する場合は、②を選択することになる。②の選択肢の続きに、「トラックで回っている業者を直接呼び止めるか、電話帳やホームページ等で回収している業者を調べ、依頼してください。」とあり、その傍らの囲みに、「京都市では、なぜ古紙を分別回収しないの?」との疑問に、「京都市では、古くから民間の古紙回収業者による回収が充実していることから、市が直接回収するのではなく、集団回収や民間業者への依頼によるリサイクルを推奨しています。」と回答している。回収業者は普段、同じ音楽を流しながら何台かの軽トラックで町中を移動していた。流している音楽になんとなく聞き覚えがあったが、題名は分からない。前の夜、段ボールの処分を思いながら床に就き、翌日折よく回収業者の音楽が聞こえて来たので慌てて段ボールを紐で縛り、外に出たが、回収のトラックは行って仕舞った後だった。が、音楽は微かに聞こえている。段ボールを自転車のカゴに載せ、手で押さえながら聞こえていた辺りを目指して行ったが、音楽は途中で聞こえなくなり、辺りを探してもトラックは見つからなかった。回収業者は一台ではないはずで、適当にうろうろすればどこかで行き会うだろうと高を括り、森でも墓地でも花園でも王国でもない西大路通の東西南北の住宅街を行きつ戻りつしたのである。チルチルとミチル兄妹に、青い鳥を探すことへの意地があったかどうか思い出せないが、ペダルを漕ぎながら意地になった。が、回収業者とは行き会わず、意地のために二時間費やし、空しく家路に就いた。住む地区まで戻り、通りで北野天満宮の瑞饋祭の神輿行列に行き会った。神輿の屋根の四隅からキンセンカや唐辛子を垂らした瓔珞と呼ばれるものが珍しかった。太鼓を鳴らして道を分け、白法被姿の担ぎ手が心棒に下げた鈴を鳴らし、黒紋付きの老人が厳かな顔で目の前を過ぎて行った。行列を見送り、自転車のペダルに足を掛けた時、近くの露地から回収業者の音楽が聞こえて来た。「万人のあこがれる幸福は、遠いところにさがしても無駄、むしろそれはてんでの日常生活の中にこそさがすべきだというのがこの芝居の教訓になっているわけです。」と、訳者の堀口大學新潮文庫版の『青い鳥』のあとがきに寄せている。『青い鳥』は結果論ではない。チルチルとミチルの兄妹は、堀口大學の言葉を借りれば、日常生活の中にその幸福というものを見出すために、森や墓地や花園や王国を彷徨わなければならなかった。果てなく彷徨わなければ分からないとするのが、空海の『即身成仏義』ではなかったか。回収業者の男に、スピーカーから流している音楽の題名を訊いてみた。音楽は、アメリカの西部劇映画『誇り高き男』のテーマ曲だった。

 「誰もがそれに気づき、口にしていた。奇妙なことに誰もがほとんど同じ言い方でそれを表現した。」(ジョージ・オーウェル 新庄哲夫訳『カタロニア讃歌』ハヤカワ文庫1984年)

 「原発事故後初、浪江で稲刈り 4年ぶり収穫「感無量」」(平成26年10月5日 福島民友ニュース・minyuーnet掲載)