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 梶井基次郎は小説「桜の樹の下には」で、桜の花の美しさは、その根元に屍体が埋まっているからである、と得意に語っている。梶井は桜に対する空想を、そのように凡庸と云える美と死あるいは醜を文字通り直接に結びつけ、細工のように成し終えてしまうと、あとは心ゆくまま憂鬱の湯に浸る。いや、梶井の憂鬱は自らの手で組み立てた、小説文中で「憂鬱の完成」とちぐはぐなもの云いで表現された、大切に机の引出しにでも仕舞っておくようなもので、時に気が向けばそれを持ち出し、本屋で重ねた美術書の上に檸檬の「爆弾」を置いて出て行くといった悪戯に耽る。梶井は三高時代京都に住み、三条通麩屋町にあった丸善に出入りしていた。「私」が檸檬を買った果物屋のある寺町通を、梶井は小説「檸檬」で「一体に賑やかな通りで」と表している。寺町通はいまも賑やかな通りである。が、三条通麩屋町丸善は、いまはない。京都には、亡骸を葬り捨てる場所が三箇所あった。東の鳥辺野、北の蓮台野、西の化野である。化野念仏寺は、空海が建てた五智山如来寺がそのもといである。拝観料五百円を払って中に入った。境内のひと処は古庭さながらに蒼く苔生し、モンゴル人のパオのようななりの納骨塔があり、辺りから掘り出されたという夥しい数の石仏石塔が整然と積み重ね並べ置かれた区域があり、檀家が守る墓地があった。石仏石塔のほとんどは、顔もなく弔いの文字も消え、顔も文字も刻まれる前の石塊に見える。が、その一つ一つは死者一人一人のためのものであったはずである。のっぺらぼうとなって積み重ね並べられた石塊は、弔いの衣を剥ぎ取られた無慙な晒しもののようだった。その区域は、西院の河原と名づけられている。墓地の墓石に供えられた盂蘭盆の水塔婆は、皆反っていた。紅葉にまだ間のある樹木の下を、少ない人影がひっそり行き交った。空海は、この地で死屍累々の様を目の当たりにしたという。同じような様を、三年前の東日本大震災の地で目の当たりにした者たちがいたはずである。津波で更地となった場所に植えられる桜がある。植えるのは、梶井基次郎ではない。恐らく、その場所で死屍累々の様を見た者でもない。大覚寺の大沢池の畔で、時代劇の撮影をしていた。出番を待つ町娘に扮した女優が、素足に薄桃色の靴下を履いたり脱いだりしていた。池に浮かべた舟が少しずつ流され、その度に船頭役の男が元の位置に戻した。池のぐるりを、桜並木が取り囲んでいた。京都が紅葉する時、この桜並木も紅葉するのである。主人公と思しき男が、針のない釣り糸を神妙に池に垂らした。水面に、糸の重さのさざ波が立った。

 「それから長い年月が経った。そのあいだに好きな言葉も、そのときどきで変わった。」(「捨身」耕治人耕治人自選作品集』武蔵野書房1983年)

 「「海側井戸」セシウム最高値再び更新、26万4000ベクレル」(平成26年10月19日 福島民友ニュース・minyuーnet掲載)