上七軒の交差点から七本松通を上がれば老松町で、日野草城の、猫の恋老松町も更けにけり、が思い浮かぶ。春の灯や女は持たぬのどぼとけ。ものの種にぎればいのちひしめける。見えぬ目の方の眼鏡の玉も拭く。日野草城は、三高京大を経て、大正十三年、大阪の大阪海上火災保険の職に就く。老松町の句は、昭和七年発行の第二句集『青芝』に収められている。『青芝』は、昭和二年から昭和五年にかけて発表した句を収録していて、すべての句は京大卒業後の作ということになる。昭和六年に結婚した日野草城は、同じ年新居を大阪市北区富田町に構える、と沖積舎版『日野草城全句集』の年譜にある。それ以前の住所の記載は年譜にない。北区富田町は現在、北区西天満と地名を変え、その西天満には、富田町と同じ北区にあった老松町も含まれている。結婚前の住所は不明であるが、日野草城は大学卒業後、大阪市北区にあった老松町が視界に入る場所に住んでいたかもしれない。老松町は現在、横浜市西区、平塚市岐阜市豊橋市津島市倉敷市北九州市門司区にもあり、かつては名古屋市中区にもあり、台湾、満州にもあった。世阿弥作の能「老松」は、上七軒を上った北野天満宮から話が始まり、菅原道真の飛梅追松伝説の追松が、老松となって客人(まれびと)に長寿の祝福が齎される。七本松通老松町は、北野天満宮末社老松社に名を由来するという。酒屋、美容院、病院、薬局、織物会社、和裁、銭湯が並ぶ露地を入れば、西陣の外れの機織り機の音が、軒の奥から聞こえて来る。日野草城の学生時代、西陣は隆盛を極めていた。老松町の夜が更け、どの軒からもしていた機音がしなくなる。その土地々々の老松町は、日に一度いまの時間の夜が更け、いまはなき老松町は、過去の時間の夜が更ける。その両の夜更けを、発情した猫の奇声が刺し貫いていまを響かす。日野草城は、猫の奇声などではびくともしない夜の厚みを知っている。七本松通老松町は、千本釈迦堂の前で終わる。千本釈迦堂大報恩寺の釈迦堂は国宝の指定を受けている。いつかどこかで嗅いだ匂いがした。作業着の老人が、境内の庭先で青いヒノキの葉を燃やしていた。燻し煙の先が釈迦堂のなだらかな檜皮葺の屋根の縁まで漂った。観光バスが一台後ろ向きに入って来て、乗客を降ろした運転手が便所に駆け込み、戻って来ると、その燃えさしで煙草に火を点けて吸った。ヒノキの葉の燃えさしは、それを最後に火が絶えた。

 「私の故郷では、嘘をつくと尻から松が生えるという。」(「葉山雑記」西東三鬼『神戸・続神戸・俳愚伝』出帆社1975年)

 「南相馬・勧奨地点の避難解除先送り 相次ぐ住民の反発で」(平成26年10月25日 福島民友ニュース・minyuーnet掲載)