六道珍皇寺の本堂脇の階段を、四十手前の女が履いていた靴を脱いで上がり、板戸に切った格子穴に顔を当てて内を覗いた。その傍らの閻魔堂の戸に空いた二つの格子穴を、五十過ぎの夫婦が別々に覗いていた。夫婦が覗いているのは、小野篁(おののたかむら)と閻魔大王の木像である。女が覗いているのは、小野篁が夜な夜な冥府に通う時に使ったという井戸である。小野篁について、小野篁の詞歌の撰のある『和漢朗詠集』の注釈者川口久雄が、その講談社学術文庫の版に簡明にこう付している。「野。野相公。参議岑守の男。文章生より太宰少弐となる。承和元年(834)遣唐副使に任ぜられたが病と称して出発しなかったため隠岐に流された。七年許されて本位に復し、参議左大弁、従三位にいたる。仁寿二年(852)、五十一歳で没す。」その島流しにされた時に詠んだ歌が、小倉百人一首の「わたのはら八十(やそ)島かけて漕ぎいでぬと人には告げよ海人(あま)のつり舟」である。漕ぎいでぬと、の字余りが京への未練を滲ませている。川口久雄は、『今昔物語集』に現れる、西三条大臣藤原良相小野篁の口添えで地獄から甦ったという、閻魔庁の冥官としてこの世と冥府を往返し、あるいはその死後井戸から往還したという小野篁の語りには触れていない。「篁はゑんま王の化身にて此所より地獄に通ひ給ひし所なりとて庭に方二間程に芝をふせて残せり世の人六道の辻と称し毎年七月九日十日両日此所へ聖霊を向へに詣る人くんじゆせり参詣の人毎に槇を求め帰る事有是は聖霊槇の葉に乗じて来るとて皆求める事にて侍る故に此寺を六道といふ。」(『京内まいり』宝永五年(1708)刊)此寺珍皇寺は、東の葬りの地鳥辺野のとば口にあった。死者はここで引導を渡され、鳥辺野に葬られたのである。極楽往生にとり憑かれた者らの願いは切実だったはずである。どのような者が地獄で裁きを受け、六道の辻に立たされるのか。どのようにすればあの世から還って来ることが出来るのか。小野篁は、それを自ら証明して見せた超人として祀られ、その語り伝えが耳から耳に伝わり、四十手前の女も五十過ぎの夫婦も、格子穴を覗いたのである。井戸のある裏庭の木も砂石も手が入っていたが、本堂の濡れ縁は見窄らしく埃じみていた。鳥辺野はいまはその名が失われ、そのなだらかな傾斜に夥しい数の墓が建っている。その数は一万数千であるという。詣でる墓もなく、墓石の間を巡って歩いた。真新しい供華に匂いがなかった。街中の通りのそちこちでガラス拭きをしていた。ガラスに、師走の雲が映っていた。店の店員は雲を磨いているわけではないが、雲を磨いているのと同じだった。

 「水が地球の表面をどのように循環しているのかという問題についても、いまだ謎めいた部分が残っている。」(アラン・コルバン 福井和美訳『浜辺の誕生』藤原書店1992年)

 「生活変わらず「正月は県外」 南相馬で避難勧奨地点解除」(平成26年12月29日 福島民友ニュース・minyuーnet掲載)