探梅という季語は、芭蕉が冬の季に定めたとされている。高濱虚子編集の『新歳時記』では、「冬、早咲の梅を探ねて山野に出掛けるのをいふ。小春の日南に青いしもと(若枝)を上げ、青い萼をひらいて綻びてゐる白梅の一輪を見出すなどはまことに風趣が深い。」として、阿波野青畝の、探梅やみささぎどころたもとほり、を掲げている。梅を探して天皇陵の辺りををぶらぶら歩き回っている。たもとほり(徘徊り)は、探るを補った説明に過ぎないが、その大袈裟な語感が探梅という硬い表現とも、みささぎという墓所とも響き合っている。二月二日に吉田神社追儺式(鬼やらい)があった。京都大学を貫く東一条通沿いに食い物屋の屋台が連なり、途切れない人の通りが突き当りの鳥居の奥まで続いていた。吉田神社追儺式は、宮中行事の様を保っているという。式の登場者は、青鬼、赤鬼、黄鬼、方相氏(大儺)、小儺童子、殿上人である。陰陽師の祭文を合図に、人間の怒りや悲しみや苦しみを背負わされ、暴れる鬼を四つ目の仮面を被った方相氏と小儺が追い詰め、殿上人が矢を放って門の外に追い払う。追儺式三十分のあらましはこうであるが、人垣から見えたのは、鬼の頭頂と振り回す金棒の先と、夜の宙に飛び去った四本の葦の矢だけだった。姿が見えないこと、隠(おに)が、鬼のそもそもの意味であれば、見物客は目に見えないはずのものを見ようとしたのである。式が終われば人垣は忽ち崩れ、一袋二百円のくじ付き福豆を買うのに列を作った。冷えた鴨川を渡り、御所に立ち寄った。苑の外れの薄暗がりに、蝋梅が花をつけていた。葉のない枝にぼそっとした花が満開だった。匂いで探り当てることが出来るほど蝋梅は匂わないが、鼻を近づければ、薄闇に花の黄色が失せていても、春と分かる匂いだった。

 「もし固くなった大福にお眼にかかれば、占めたものである。私はそれを餅網にのせて、たんねんに裏表から火を通し、プーッと湯気を吹いて、大福が噴火するまで待っている。外側の餅は熱いが、中身のあんは冷たい時もある。これを、口の中で噛み合わせる味は、上戸の私としても、他に比べる物がない位である。」(「餅を焼くこと」永井龍男『灰皿抄』講談社1969年)

 「「中間貯蔵交付金」国、風評緩和など幅広い使途約束」(平成27年2月10日 福島民友ニュース・minyuーnet掲載)