昭和二十五年(1950)、二条城の一角がアメリカ進駐軍のテニスコートになった。太平洋戦争終了直後、アメリカ陸軍は、その第六軍司令部を烏丸四条下ルにあった大建ビルに置き、市内の建物施設を次々に接収していった。京都駅前ステーションホテル、司令部宿舎。三条蹴上都ホテル、将校宿舎。河原町御池京都ホテル、将校宿舎。岡崎公園内市勧業館、第六軍本部大隊。吉田近衛町楽友会館、本部第一三五医療隊。久世郡淀町京都競馬場、第四一四工兵隊。太秦三菱工場、第八〇〇憲兵大隊。府立植物園に住宅が建ち、上賀茂神社の森がゴルフ場に変わった。進駐軍は力づくでそうしたのではない。一言でそうすることが出来たのである。二条城のテニスコートで陸軍将校が打ち損じたテニスボールは、外濠に落ち、拾い上げられることもなく水に浮かんで漂った。二条城は、関ヶ原の戦いに勝った徳川家康が、京の宿所として西国の大名らに一言で築かせたものである。大坂の陣で家康はここに本営を構え、後に手を加えた三代将軍家光が、寛永十一年(1634)の上洛で使って以降、尊王攘夷で朝廷が俄かに慌しくなった、文久三年(1863)の十四代将軍家茂の上洛までの二百二十九年の間、二条城は歴代の徳川将軍に使用されることはなかった。安永九年(1780)刊の観光案内『都名所図会』に、二条城の記載はない。その、人の口から忘れられた二百二十九年の間、二条城の留守番役は、狩野探幽の襖絵に叩きを掛け、廊下を磨き、厠に風を通し続けたのである。二の丸御殿車寄せから履物を脱ぎ、順路に従って進めば、主(あるじ)を失って遥か久しい畳の間が次々に現れる。襖も壁も欄間も天井も、権力と財の高度な消費に違いないと誰の目にも映る。薩長藩に追い詰められた十五代将軍慶喜が、大広間の二の間で諸藩の重臣に大政奉還案を諮問し、意見を募った時、手を挙げる者はひとりもいなかった。世の大転換に、心の構えもなく先を見通せなくなった者は、ぼんやり襖絵の松孔雀に目を遣っていたかもしれない。観覧の順路は奥の間白書院で折り返す。順路から外れた白書院北側の廊下は埃で汚れ、罅で剥げかけた壁が、本来の、とでも云うべき深い吐息のような衰えを立入り禁止の札の奥で曝け出していた。府立植物園は、昭和三十二年(1957)進駐軍から返還され、均した土に新しい種を蒔いた。上賀茂神社のゴルフ場は、いまもゴルフ場のままである。

 「もしオイディプスが、自分はだれであるかを発見する誓いをたてなかったら、彼は彼にならなかったでしょう。誓いと情況が与えられて、すべてが始まるのです。」(「宇宙の作り方」ジョン・バース 志村正雄訳『金曜日の本』筑摩書房1989年)

 「第1原発1号機、カバー解体作業開始 飛散防止剤を散布」(平成27年5月16日 福島民友ニュース・minyuーnet掲載)