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 『養生訓』で人間の健康を説いた貝原益軒(篤信)が、京都見物の手引き『京城勝覧』を書いている。その十七日間の物見の第十三日目。「鞍馬山にゆく道をしるす。京より三里あり、貴布禰(きぶね)によれば少し遠し。貴船を見てくらまにゆくも、一日にはたやすき道なり。鞍馬口。もしいまだ上賀茂を見ずば、清蔵口より出て上賀茂に行くべし。あるひはくらま口より出るも、其居所によりてよろしくもしたがふべし。鞍馬町。民家多し。茶屋食店あり、宿をかす。木の目漬並に山椒の皮を売る。山ふかき里なり。坂数町上りて、毘沙門堂にいたる坂なかばに、由岐大明神のやしろあり。源義経兒童のとき、住せられし東光坊旧宅のあとあり。毘沙門堂義経のかぶと弁慶が太刀などゝてあり、寺僧にこふて見るべし。梅さくら多し。堂の東より比叡山西塔相輪堂など見ゆ。僧正が谷。くらまの本堂の西のかたより山をすこし登り、西にゆけば僧正が谷にいたる。壹演僧正住せしゆへに名付。源義経ここにて剣術を学べりといふ。此辺の岩石に刀にてきりたるやうにわれめ多し。此所を俗に天狗の住所なりといふ。貴布禰に下るには、これより南の方の本道にいづる。道けわし。紅葉の時節は坂中よりきぶね山の紅葉を見るべし。はなはだうるはし。貴布禰。僧正が谷の西にあり、これ又深谷の内也。民家あり。鞍馬よりは谷の内せはし。前の社より奥のやしろまで其間六七町あり。奥のやしろ貴布禰の祠(やしろ)なり水神なり。不案内なれば、前のやしろを本社とおもひて拝みてそのまゝ帰る人多し。口のやしろと奥の本社との間、左の方数町おく山のかたはらに、龍王の瀑布(たき)有。貴船の谷のおくに芹生(せれふ)といふ所あり。小原の芹生とは別なり。貴船より京にかへる路西の方に、燧(ひうち)石をふごに入れ山よりおろして売る所あり。これをふごおろしといふ。まづきぶねにゆきてくらまにゆくもよし。貴布禰より鞍馬にこへ、又小原にゆきてその日京に帰る事は、永日にもなりがたし。」貴船神社の「奥のやしろ」奥宮に、船の形に石を積み上げた船形石と呼ばれるものがある。船を人の目に晒さぬために覆ったのだという。その船は、貴船川を神武天皇の母、玉依姫命(たまよりひめのみこと)が乗って来たものだという。「吾は皇母玉依姫命なり。恒に雨風を司り、以て国を潤し土を養う。また黎民の諸願には福建を蒙らしむ。よって吾が船の止まる処に祠(やしろ)を造るべし。」(貴船神社「御鎮座縁起」)玉依姫命が乗って来た黄色い船を見ることは禁忌(タブー)であり、そこにあるものとして、しかもそれは確認することが出来ないものとして、石で覆うという行為を以て神の禁忌(タブー)としたのである。貴船は雪の日がいい、と京都に住まう者が云った。貝原益軒は、紅葉を見よと書いている。そぼ降る雨の中、五月の貴船はどこも濡れていた。料理旅館の客のいない川床の床が濡れ、水に濡らさなければ読むことの出来ない貴船神社の御籤の吉凶の文字も濡れていた。樹に染みる雨は、人にも染みた。玉依姫命の船を覆った石もいまは濡れ、貴船に雪が降れば、その積み石を白い雪が、船の形に覆い尽くすのである。

 「フォンターナ・ヴェッキアには、あまり客もこない。ぶらっと訪ねるにはあまりに遠すぎる。そして氷屋の少年以外ドアをノックするものがないまま何日もすぎていく。」(「フォンターナ・ヴェッキア」トルーマン・カポーティ 小田島雄志訳『犬は吠える』早川書房1977年)

 「準備区域の森林1.07マイクロシーベルト 県線量調査平均」(平成27年5月29日 福島民友ニュース・minyuーnet掲載)