樹木の植わっている域のほかの、京都御苑の地面には砂利が敷かれている。その砂利の地面に、烏丸通の蛤御門から寺町通の清和院御門の間を繋ぐ筋が、一本通っている。筋は二十センチ程度の幅で砂利が払われ、時に緩やかに蛇行し、筋が途切れることはない。筋の蛇行は、門を入ってすぐの車止めの木の柵を避け、マンホールの鉄の蓋を避け、地面の僅かな起伏を敏感に感じ取って曲がり、両の門の間を最短で結んでいるわけではない。筋の上を通るのは、自転車である。その筋道をつけたのは、前に通った自転車である。歩く者が、その筋の上を選んで行くことはない。自転車が筋を外れるのは、筋の上でお互いが行き会った時である。そのすれ違いを除けば、自転車乗りは、筋を離れて砂利の地面を行く自由を選ばない。フェデリコ・フェリーニの映画『道』の、粗暴な大道芸人ザンパノに母親から売られたジェルソミーナは、ザンパノの暴力から逃げて捕まった後、再び逃げる機会が二度あった。ザンパノがサーカスの綱渡り男をナイフで脅し、警察に留置された時が一度、宿を借りた修道院で尼に誘われた時のニ度である。しかしジェルソミーナはザンパノを警察の前で待ち、修道院に留まることを断った。ザンパノは再会した綱渡り男を殴り殺し、そのことで抜け殻になって地べたに伏せるジェルソミーナを置き去りにする。映画の終わり、ジェルソミーナがラッパで吹いていた聞き覚えのあるメロディを辿り、村の女からジェルソミーナの死を知ったザンパノは、泣き崩れる。『道』の哀しみは、ジェルソミーナの死ではなく、ジェルソミーナがザンパノを見捨てなかったことである。怪力男ザンパノが泣き崩れたのは、夜の海の砂浜だった。一条通と交差して道幅が広くなる大宮通で、じゃんけん遊びをやっていた。勝ったグーでグリコ、チョキでチヨコレイト、パーでパイナツプル。階段でない、アスファルトの上でのその遊びは、景色がちぐはぐだった。飛び跳ねる歩幅がばらばらなのである。しかし子どもらは、道の上に目盛りを付けたりはしない。チョキでパーに勝てば、その者の歩幅で躊躇いなく六つ進むのである。出したかたちが見えなくなれば、そのかたちを、口に出して云うのである。

 「彼は誠実さに安らぎを覚える。きわめて稀な例だ。」(アルベール・カミュ 大久保敏彦訳『カミュの手帖』新潮社1992年)

 「原発廃炉2企業進出へ 大熊・大川原地区に事業所」(平成27年7月5日 福島民友ニュース・minyuーnet掲載)