大文字山の盆送り火の火床は、三百四十メートルの斜面にあり、立てば、京都市中を隅々まで見渡すことが出来る。洛中のどこからでも大文字の火を見ることが出来たという云いは、どこからでも見ることが出来る場所が選ばれたとする推測を裏付ける云いであり、山に立てば、その選ばれた場所を実感するのである。大の字のヨコ第一画の長さは四十五間(けん)、左ハライ第二画の長さは八十八間、右ハライ第三画の長さは六十八間あり、その字の書者には諸説あるのであるが、大文字送り火足利義政が息子義尚の早世を悼んで始めたとする説がある。義政自身は、義尚の死の翌年に亡くなるのであるが。大文字山に登る道は、幾筋かある。慈照寺参道を慈照寺門前で左に折れ、突き当たる八神社を右に進めば、行者の森大文字山参道と刻まれた石の前に出る。軽トラックの通(ゆ)き幅の坂道を登った行き止まりから、傍らを流れる川に架かる橋を渡れば、丸太を組んだ土階段で、土階段は中途で尽き、岩の露出した小道が、足取りの気安い接触を拒む。躓けば、山肌を掴むことになる。顔のない地蔵が並ぶ千人塚を過ぎ、現れる石段を百四十余登りきれば、大の字画の交わる金尾(かなわ)火床に着く。火床は二の字に組んだ大谷石で出来ている。石の間に今年の送り火の黒い燃えかすが残っている。その燃え残りを包んで戸口に吊ると、疫病除け盗難除けになるという。先を登っていた男が、その残りかすを拾って、リュックに仕舞う。下から這い上る風が、斜面に生えたボロギクの綿毛を吹雪のように舞い上がらせる。地べたに腰を下ろした男が、腕時計に目を遣る。十二時である。男はリュックから弁当を取り出し、京都市中を眼下に白飯を口に運ぶ。鳥取砂丘を歩いた帰り、鳥取駅で、罪人の護送に乗り合わせたことがある。係の一人が売り子から弁当とお茶を三つ買い、三人は暫く膝の上に載せていた。罪人の隣の係の者が何度か腕時計の針を見た。十二時になったのを確かめると、隣の係が罪人の手錠を外し、三人は無言で弁当を食い始めた。男が白飯に付いた何かを箸を持った指で抓む。飛び交っているボロギクの綿毛である。山登りには、下る喜びがある。それは家に近づく喜びである。

 「空があんたまっ青にすんでいましょうが、パーッとこう西の山に日があたってだんだん下の方までさして来る。和さんの家にもあたる。前の田圃にもあたる。和さんの家のまわりの草の露にもあたる。「なんともええもんじゃないか」といいますと、和さんも「ほんに、あれがわが家でありますか」としばらくは声もでません。そうしてあんた「わしは自分の家をこのようにして見たことはいままでなかった。何とよいもんでありましょう。」(「名倉談義」宮本常一『忘れられた日本人』岩波文庫1984年)

 「「アユ」1点基準値超110ベクレル 福島・阿武隈川で採取」(平成27年9月6日 福島民友ニュース・minyuーnet掲載)