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 ミヤコワスレはミヤマヨメナの一種であるが、詩仙堂の庭に咲くミヤコワスレは、丈山菊と呼ぶという。左京一乗寺の六六山詩仙堂丈山寺は永平寺末寺であるが、もといは徳川家康の近侍だった石川丈山の住まいである。寛政十年(1798)刊行の『續近世畸人傳』に石川丈山は、希代の隠士として載っている。「丈山(ぢやうざん)名は重之(しげゆき)(後凹(あう)と改め、凸凹窠(あうとつくわ)、頑仙子(ぐわんせんし)、大拙など其詩其の書に記せらるゝものあり)參河(みかわ)國碧海(あをみの)郡泉鄕(いづみのがう)に生れて、若き時は嘉右衛門と稱し、後左兵衛と改む。世々濱松麾下(はままつきか・徳川家康旗下)の士也。源義家第六子左兵衛尉義時石川と稱せしより嗣ぎて氏とす。浪華合戦(大坂夏陣)の時、御麾下(おんはたもと)に從ひ奉り、天王寺口にありけるが、人並々の軍(いくさ)せむも見所あらじと將帥の命をまたず、夜をこめて只一騎營中を忍びいでて敵城に攻めかゝり、櫻の門といふ所にて佐々十左衛門と渡り合ひて、佐々が首をとる。其の郎等(らうとう)其の場をさらず切りかゝりしをも、又鎗(やり)の下に伏せて、土手を走り過ぎ、打取りし首を實檢に備へしに、其の武勇は深く感じ思し召しけれども、軍令に背きたる罪其のまゝに見許しがたく、殊にかねて寵臣のことなれば、依怙(えこ)の御沙汰をも穏(おだやか)ならずとて、惜ませ給ひながら、勘當し給ふ。さてぞ武門を離れて日枝(ひえ・比叡)のふもと、一乗寺むらに世を避け詩仙堂を創し、自から六々山人と號し、山水花月に情を慰む。詩仙堂とは、唐宋諸名家三十六人の詩を一首づゝ自書し、像は探幽法印に畫せしめて梁上に掲げたれば也。本朝の歌仙に准(な)らふるなるべし。こゝに隠れて後は京へ出づる事をせず。後水尾帝其の風流を聞き召して召されしかど、固く辭し奉りて、 渡らじな。世見の小川の、淺くとも、老の波たつ、影は恥かし。 と申し上げれば、憐み思し召し、心に任せよと勅ありしが、殊に此の歌の『波たつ』を『波そふ』と雌黄(しわう・添削)を下し給ひしも忝(かたじけな)し。」丈山は、側近の抜け駆けを禁じる家康の命に背いてまで功名を欲しがったが、敵の首二つ、あるいは三つを得ても、家康は手柄より命令を重んじた。丈山は人を殺した刀鎗を捨てて遁走し、世の矛盾を抱えたままそれ以後を生きることになる。丈山が自ら選んだ、詩仙の間に掲げた三十六の詩の内の陶潜(淵明)の詩「雑詩」は、教科書にも載る「結盧在人境 而無車馬喧 間君何能爾 心遠地自偏 采菊東籬下 悠然見南山 山氣日夕佳 飛鳥相與還 此中有眞意 欲辨已忘言 盧を結びて人境に在り 而(し)かも車馬の喧(かまびす)しきなし 君に問う 何ぞ能(よ)く爾(しか)るやと 心遠ければ地も自のずから偏なり 菊を采(と)る 東籬(とうり)の下(もと) 悠然として南山を見る 山気 日夕(にっせき)に佳(よ)く 飛鳥(ひちょう) 相(あ)い与(とも)に還(かえ)る 此の中(うち)に真意有り 弁ぜんと欲して已(すで)に言を忘る⦅いおりを構えているのは、人里の中。しかもうるさい役人どもの車馬の音はきこえて来ない。よくそんなことがありうるものだね、と人がいう。こせこせした気持でいないから、土地も自然とへんぴになるのさ。東の垣根に菊を折り取っていると、ふと目に入ったのは南の山、廬山の悠揚せまらぬ姿、それをわたしはゆったりと眺めている。山のたたずまいは夕暮の空気の中にこの上なく素晴らしく、鳥たちがうちつれてあの山の塒(ねぐら)へと帰ってゆく。ここにこそ、何ものにもまとわれない人間の真実、それをねがうものの姿が、私にはよみとれる。が、それを言いあらわそうとしたその時には、もう言葉を忘れてしまっていた⦆」(「飲酒、其五」陶淵明 一海知義注『中國詩人選集4』岩波書店1958年)であり、隠者の心境そのものであるが、同じ三十六詩の内の李賀の「雁門太守行」は戦(いくさ)の詩である。「黑雲壓城城欲摧 甲光向日金鱗開 角聲滿天秋色裏 塞上燕脂凝夜紫 半卷紅旗臨易水 霜重鼓聲寒不起 報君黄金臺上意 提攜玉龍爲君死 雁門の太守の行(うた) 黒雲(こくうん) 城を圧し 城摧(くだ)けんと欲す 甲光(こうこう) 日に向い 金鱗(きんりん)開く 角声(かくせい) 天に満つ 秋色(しゅうしょく)の裏 塞上(さいじょう) 臙脂(えんじ) 夜紫(やし)を凝らす 半ば巻ける紅旗 易水に臨み 霜は重く 鼓声 寒くして起らず 君の黄金台上の意に報いて 玉龍を提攜(ていけい)し 君が為に死せん⦅黒雲が城を圧する、城はくだけんばかりだ よろいの光は日にきらめき、金色のうろこが開いたよう つのぶえの音が天に──秋空のなかに──響き渡り 城壁の上の真紅の血潮は、よる、紫に凝固し 半ば巻かれた赤い旗が、易水に向って垂れ 霜が厚く太鼓の音は 寒むざむとして冴えない 黄金台を築いて招いて下さったあなたのおこころざしに報い 玉龍の剣をひっさげ、あなたの為に死ぬのだ⦆」(「雁門太守行」李賀 荒井健注『中國詩人選集14』岩波書店1959年)戸を払った詩仙の間の畳の上から、丈山が作った庭を見渡すことが出来る。庭の左手には滝があり、滝の水は細く曲がりくねって下の池に注いでいる。サンダルを借り、濡縁から庭に下り、庭を巡ることが出来る。フジバカマ、芙蓉、ホトトギス、ミズヒキソウが咲いている。足を止めていると、隅で僧都が鳴る。咲き終えた丈山菊は、目を凝らさなければわからない。大坂夏の陣の後、家康の怒りを恐れ、丈山は妙心寺に逃げ込んだともいわれている。武に挫折した秀才は、学に救いを求めた。秀才は真似ることで、学を身に付ける。詩仙の間の三十六詩仙は、藤原公任三十六歌仙の真似である。丈山は隷書を得意とした。三十六詩の筆使いは、生真面目である。丈山の作った庭は、幾つかの模範を取り合わせたような庭である。後水尾上皇に宛てた断りの歌で丈山は、「老いの波たつ影は恥かし」と詠んだ。恥かしは、遜(へりくだ)りの言葉ではない。丈山は正直に、老いて尚己(おのれ)に答えを持たぬ学の不自由を恥じている。三十六詩仙に選んだ杜甫の詩は、「登岳陽樓」である。「昔聞洞庭水 今上岳陽樓 呉楚東南坼 乾坤日夜浮 親朋無一字 老病有孤舟 戎馬關山北 憑軒涕泗流 昔は聞く 洞庭の水 今は上る 岳陽楼 呉楚は東南に坼(さ)け 乾坤は日夜に浮かぶ 親朋 一字無く 老病 孤舟有り 戎馬(じゅうば) 関山の北 軒に憑(よ)れば涕泗(ていし)流る⦅私はかつて南の地には洞庭湖とよぶおおきな湖水があると聞いてはいた。思いがけなくも今はその湖を岳陽楼に上って眺めわたすことになったのである。ここ国土の東南、呉楚の大地は二つにひき裂けてこの大湖となり、天も地も日に夜にその水の上に浮動しているのだ。親戚朋友からは一字のたよりもなく、老病の身にはたった一そうの小舟があるだけ。関所のおかれた山々の北の地方には今なお戦争がうちつづいていて、故郷に帰ることもできない。身の流離を悲しみ国家の不幸を傷みつつ、高楼のらんかんによりかかっていると涙があふれてくる。⦆」(「登岳陽樓」杜甫 黒川洋一注『中國詩人選集9』岩波書店1957年)

 「雨も降らず、暖かい夜だった。ウェンディーと僕は、パイプベッドを倉庫の外へ持ち出した。ウェンディーは望遠鏡の焦点の合わせ方を教えてくれた。僕はまぶたが重くなるまで、南十字星を巡り歩いた。」(ブルース・チャトウィン 北田絵里子訳『ソングライン』英治出版2009年)

 「沿岸部で特別捜索 東日本大震災から4年7ヵ月」(平成27年10月12日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)