嵯峨鹿王院(ろくおういん)の拝観受付者が、手元の紙の枡目の中に線を一つ加え、正の字にする。枡は横一列に十枡あり、いま正の字で埋まったのは、上から三列目の半ばである。午後二時を過ぎての拝観者が百数十というのが、多いのか少ないのかは分からない。受付者は、栞を差し出し、足元にお気をつけ下さい、と言葉を添える。山門から続く石畳の参道に戻る手前に、雨の水溜りが出来ている。十一月十四日の予報は、一日中雨である。靴もズボンの裾もすでに濡れている。雨の日には濡れるものだ、と良寛が云っていると、数十年前の電話口である者が云った。が、良寛が云ったのはこうだ。「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候 死ぬる時節には死ぬがよく候 是はこれ災難をのがるゝ妙法にて候」文政十一年(1828)の越後地震の際に、被災した知人に宛てた世に知られる手紙の一節である。良寛は、このような歌も詠んでいる。「秋の雨の日に日に降ればから衣ぬれこそまされ干(ひ)るとはなしに」電話口の者には、この歌が頭にあったのかもしれぬ。が、電話口で云った者もまた、良寛の云いとした誰かの云いを使ったのかもしれぬ。その電話口で云った者は、疾うに行方知れずであるが。鹿王院の参道は、矩形の石の両脇に丸石が敷かれ、その両側に樹木が茂り、その地面を苔が覆っている。そのところどころのモミジ葉が色づいている。参道の西側は保育園で、東は民家の玄関先が生垣の間から覗いている。真っ直ぐな参道は、中門の前で緩くくの字に曲がって、門に至る。その曲がりに、太い黒松が一本立っている。中門の築地塀に沿って溝があり、その底に水はなく、草の上に落葉が溜まっている。中門を入った庫裡の前の庭も苔生(む)し、雨を吸っている。庫裡の玄関の戸が片寄せられてあり、三和土から数段上った板敷間にも、その左手にある、明りの点いた丸テーブルと椅子を置いた応接間のような部屋にも、誰もいない。上がり込んでその応接間の前を通り、狭い廊下を潜るように突き当りまで進み、右に曲がると、客殿の廊下に続き、左手の庭に視界が開ける。客殿に掲げる扁額の鹿王院の字は、足利義満の筆である。義満は、夢のお告げに従い、延命増福のために寺を建てた。鹿苑寺金閣を建てる十八年前のことである。鹿王院は、応仁の乱で焼け残ったその寺の開山堂の名である。左手から奥に築地塀が伸び、庭はその内に仕切られ、右手には舎利殿が建ち、客殿の縁から見た舎利殿は、その姿の半ばを植えられた樹の枝に遮られている。幾本かの樹は、苔の地面に迫り出すように枝を茂らせ、庭全体を見渡すことが出来ない。苔を切る流れのような小径は庭の奥に向い、植えられた樹木はその奥行きを深くあろうとしている。客殿の外廊下の端に赤い座布団が一枚と、飲み干した抹茶茶碗が一つ置いてある。その座布団に座っていた者の視線が、その座布団がある限り、その位置に残ることになる。舎利殿から戻って来た若いカップルが、廊下に並んで腰を下ろすと、男の方が、短く口笛を吹く。その口笛の音は珍妙で、たとえば男の姿を借りて鳴く鳥の声だとすれば、雨の庭に響くその音は、悲哀を帯びて来る。境内の人影は、そのカップルと、本堂の内を巡り出た中年の夫婦らしき男女だけである。客殿と本堂、舎利殿とを繋ぐ廊下の瓦床は、禅寺特有の厳しい黒色をしている。その廊下と庭土の境に、キラキラ光るものが見える。いまは氷の張る季節ではない。近寄れば、セロファンの切れ端であると分かるのであるが、その揺れ光る様は、氷の欠片のように見える。サム・メンデス監督の映画『アメリカン・ビューティー』に、隣同士の家の高校生が、吹き溜まりでクルクル動き回るレジ袋の様を撮ったビデオを見ている場面があった。ビデオを撮った男の高校生は、それを美しいと評した。それは、若者の張ったりのような物言いであるが、風に揺れ動くレジ袋は、醜い様ではない。それは、美しさとも違う。題名のアメリカン・ビューティーは、赤い薔薇の名である。吹き溜まりで舞うレジ袋は、美であることにも、醜であることにも関係しない。その二つに関わらない、関わることを拒否しているところに、そのビデオの値打ちがあった。鹿王院は雨の中である。境内から人の姿が途絶えたのは、その雨のせいである。

 「彼岸をつくづくと眺め、しかも毒につけこまれずに引返すには、旅にでるしかない。」(「飽満の種子」開高健ロマネ・コンティ・一九三五年』文藝春秋1978年)

 「廃炉事業者、半数が違反 福島労働局、原発事故後656件」(平成27年11月21日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)