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 「高瀬舟は京都の高瀬川を上下する小舟である。」ではじまる森鷗外の短編「高瀬舟」は、神澤杜口(貞幹)の『翁草』(安永五(1776)年刊)の「流人の話」を元にしていると、「高瀬舟」に附した「高瀬舟縁起」で鷗外は述べているが、その「高瀬舟縁起」には、その「流人の話」の筋と、そこから読み取った二つの問題を、それを面白いとして「高瀬舟」を書いた動機として述べてもいる。その二つの問題は、財産という観念と、安楽死であるという。その「流人の話」とは、こうである。「流人を大阪へ渡さるに、高瀬より船にて、町奉行の同心之を守護して下る事なり、凡(およそ)流人は前にも記す如く、賊の類は希(まれ)にして、多くは親妻子もてる平人の辜(つみ)に遇(あへ)るなり、罪科決して島へ遣はさるゝ節、牢屋敷に於て、親戚の者を出呼し引合せて、暇乞をさせらるゝ定法なり、故に親戚長別して舊里を出る道途(かどで)をば、己(おの)がどち、船中にて夜と俱に越方行末の事を悔て愁涙悲歎して、かきくどき、守護の同心終夜聞につけ、哀傷起り、心を痛ましむる事なるに、或時一人の流人、公命を承ると否、世に嬉しげに、船へ乘てもいさゝか愁へる色不見、守護の同心是を見て、卑賊の者ながらよく覺悟せりと感心して、船中にて彼者に對して稱嘆(しょうたん)するに、彼云く常に僅の營に、渇々粥を啜りて、露命をつなぎしに、此御吟味に逢候てより、久々在牢の内、結構なる御養ひを戴き、いたづらに遊び暮し冥加なき上に、剩(あまつさへ)此度鳥目二百文を下され(※流人に鳥目(銭)二百文銅づゝ賜事古来より条例なり)て、島へ遣はさる事、如何なる果報にて如此(かくのごとき)なりや、是迄二百文の錢をかため持たる事、生涯に覺え申さず、加程(かほど)過分の元手有之候へば、たとへ鬼有島なりとも、一つ身の凌(しの)ぎはいか様にも出来可申候、素より妻子親類とてもなく、苦しき世をわたり兼(かね)候へば、都に名殘は更になく候とて、悦ぶ事限りなし、此者西陣高機(たかはた)の空引に傭(やとわ)れありきし者なるが、其罪蹟(ざいせき)は、兄弟の者、同く其日を過し兼ね、貧困に迫りて自害をしかゝり、死兼居けるを、此者見付て、迚(とて)も助かるまじき體(てい)なれば、苦痛をさせんよりはと、手傳ひて殺しぬる其科に仍(よ)り、島へ遣はさるゝなりけらし、其所行もとも惡心なく、下愚の者の辨(わきま)へなき仕業なる事、吟味の上にて、明白なりしまゝ死罪を宥め(なだ)められし者なりとぞ、彼守護同心の物語なり。」鷗外は、「高瀬舟」でこの同心に羽田庄兵衛、罪人に喜助と名をつけ、二人の語りを物語りとした。二人の語りは、この「流人の話」の筋に沿い、逸脱して語ることはない。鷗外はその原文を丁寧に、問題の理解を容易にする肉付けをしたというべきかもしれない。事の発端は、剃刀で喉を刺してなお死にきれずにいた弟の意に従って、兄がその剃刀を引き抜いたことである。或る夜、その罪人喜助と護送の同心庄兵衛は、高瀬川を下る高瀬舟に乗り込むこととなる。庄兵衛は、島送りを悲しむ様子も苦しむ様子も見せない喜助に、その心境を問う。喜助は、牢の食事も二百文の鳥目(銭)も有難いと応え、庄兵衛はその応えに自分の意識との隔たりを思う。そして喜助のような心持にはなれないと感じ、「只漠然と、人の一生というような事を思って見た。人は身に病があると、この病がなかったらと思う。その日その日の食がないと、食って行かれたらと思う。万一の時に備える蓄(たくわえ)がないと、少しでも蓄があったらと思う。蓄があっても、又その蓄がもっと多かったらと思う。かくの如くに先から先へと考て見れば、人はどこまで往って踏み止まることが出来るものやら分からない。それを今目の前で踏み止まって見せてくれるのがこの喜助だと、庄兵衛は気が附いた。」と、前のめりのような結論を導き出す。そして続けて弟をあやめた理由を喜助に問えば、「どうせなおりそうにもない病気だから、早く死んで少しでも兄きに楽がさせたいと思ったのだ。刃を抜いてくれたら己は死ねるだろう。手を貸してくれ。」と云う弟の云いに、夢中で従ったと応え、喜助がその様を詳しく語れば、庄兵衛は、「これが果して弟殺しと云うものだろうか、人殺しと云うものだろうかと云う疑が、話を半分聞いた時から起って来て、聞いてしまっても、その疑を解くことが出来なかった。弟は剃刀を抜いてくれたら死なれるだろうから、抜いてくれと云った。それを抜いて遣って死なせたのだ、殺したのだとは云われる。しかしそのままにして置いても、どうせ死ななくてはならぬ弟であったらしい。それが早く死にたいと云ったのは、苦しさに耐えなかったからである。喜助はその苦を見ているに忍びなかった。苦から救って遣ろうと思って命を絶った。それが罪であろうか。殺したのは罪に相違ない、しかしそれが苦から救うためであったと思うと、そこに疑が生じて、どうしても解けぬのである。」と考える。鷗外は、高瀬舟の罪人が、医学社会で云うユウタナジイ(安楽死)という場合にいたように思われ、そのことがひどく面白いと書き、僅かの財で踏み止まる生き方を面白いと書く。が、『翁草』の「流人の話」は、「迚も助かるまじき體なれば、苦痛をさせんよりはと、手傳ひて殺し」たことは、弟と自分、云わば身内の事として罪の判断を自らには下さず、それまでの「渇々粥を啜りて、露命をつな」ぐ生活が、弟を殺したとされたことで「牢の内、結構なる御養ひ」に変わり、二百文の銭を「悦ぶ事限りなし」とする者の在り様が、愚かで恐ろしく、小説としてリアルであり、財あるいは欲の観念や安楽死という問題ではなく、この者の成り行き在り様そのことこそが面白いと思うのである。高瀬川は、豪商角倉了以が物資輸送に開墾した運河であるが、その役目を終えて久しい現在、川幅も川底も狭められ、運河であった時の面影はない。鴨川二条から引き入れられた流れは、三条四条通の間は繁華に染まり、五条通を下る川沿いの旧遊郭五条楽園は人の通りもなくうら寂しく、九条通を下れば、両岸に草の茂る空き地が歯抜けたように打ち捨てられている。鷗外が「高瀬舟」を書いた大正五年(1916)、高瀬川高瀬舟は行き交っていた。高瀬川が運河の役目を終えるのは大正九年(1920)である。

 「そうだ、しかし誰がぼくらの音たてぬ火を癒してくれるだろうか。」(フリオ・コルターサル 土岐恒二訳 ラテンアメリカの文学8『石蹴り遊び』集英社1984年)

 「震災4年9カ月、手掛かり求め「特別捜索」 沿岸部で福島県警」(平成27年12月12日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)