聖護院の門内に、数十人の修験者男女が集い、その幾人かは二三の者らと談笑している。修験者は山伏とも呼ばれ、常日頃は山野で修する者らである。一月のこの時期、この修験者らは七日の内に、市中三千五百の信徒の一軒一軒を托鉢して回るという。午後一時一人が、「それでは頑張って行きましよう。」と声を掛けると、修験者らは列を整え、寒中托鉢修行と墨書した幟旗を先頭に、次の者が法螺貝を吹きながら門の表に出て来る。天台宗寺門派の智証大師円珍が開祖の聖護院は、その十代目に後白河天皇皇子静恵法親王が就いて以来の宮門跡であり、文明十三年(1481)には日野富子から逃れた足利義政を受け入れ、天明八年(1788)の内裏炎上後、光格天皇の行在所(てんざいしょ)となり、嘉永七年(1854)の内裏炎上の際には、皇子祐宮(明治天皇)を連れた孝明天皇の仮皇居となっている。七代目開基増誉は、寛治四年(1090)の白河上皇の熊野詣を先達して後、熊野三山検校職、修験道の統轄身分となり、聖護院の前身白川院を創したのが、修験寺聖護院のはじまりである。その第三十八代、伏見宮邦永親王の第一王子道承入道親王の享保年間の大峰入り、熊野詣の様子が、『山城名所寺社物語』に載っている。「今の御門跡は三井寺の智證(ちしよう)大師三十八代目也近き巳のとし御峯入ありぎやうれつのはなやかさ言語(ごんご)にたへたり先一番に御奉行衆それより對(つい)のはさみ箱立がさだに笠ふりたつれば御長刀御笈(おい)大まさかり次に歩行(かち)山伏二行(ぎやう)にならびて數(す)百人順年(じゆんねん)行事は八十二人御先に立つゞいて宮の御輿光りかゞやく高まきゑ内は總金にて唐(から)はふづくり朱の高(かう)らん金と銀との金具(かねがい)三方はもじの上障子(あげしやうじ)扨(さて)六角の勝仙院(せうせんいん)東山若王子播磨の力耶院(かやいん)其外諸國の先達にはさつまの蓮光院武藏の玉藏院奥州伊達の龍光院ひだちの水戸の二海道法印あいずの南學院相模に權現堂かづさの寶鏡院加賀の國にはしづめのぐわんぎやうじ出雲に若宮坊上野(かうづけ)に大光院備前の小島にそんとう院備中に極楽院はりまの南光坊武州において隠れなき今宮坊とてあら行者朱ざやに銀のすじがね打四五寸そつたる大太刀十文字によこたへ六尺ゆたかの大の男くろき馬に打のりて貝をふかせて御供なり扨(さて)又次に御おさへ(最後尾)淺黄じゆすのすりはかまもよぎの長けんかげの馬月をあざむく顔(かほ)ばせ奥州伊達の何がしの一子あいば不動院いまだとしは若けれど此度二度の先立なり都を七月二十五日に御立なりいなりにて御休み宇治にて御とまり三室戸に七日の御逗留那智に四日吉野に五日八月十三日に山上ありおざゝに一日十六日より泥川(どろかわ)九月二日より四日まで本宮新宮なちに七日の御とうりう十五日より六日まで紀州加田(かだ)しだち十七日さかい夫(それ)より大坂へ御出日數七十五日めに都へ御入也。」その挿絵にある山伏は、大小二本の刀を腰に差し、鉞(まさかり)を肩に担ぐ武装集団である。道路に出た托鉢修験者らは、法螺貝吹きを先頭に七八人の集団に分かれてゆく。回る信徒の家の玄関は開いていて、法螺貝を聞きつけて表に出れば、修験者らは白手甲の手を合わせ、般若心経を唱和する。冬空の下、冷えた般若心経と冷気が、信徒の家の中に入り込む。般若心経は聞くものではなく、唱えるものである。浄財を差し出した信徒の耳の鼓膜は、唱える者よりも震えない。般若波羅蜜多心経は、身体は実体がないものとして存在している、と訴える。修験者は聞こえている耳を、それが実体がないものと分かるまで、その耳の鼓膜を震えさせなければならない。己れの唱える般若心経が、己れの耳から聞こえなくなれば、己れの耳、それが備わる身体は実体がないものとして存在していると、身をもって知ることが出来る。しかし、知ることは分かることではない。般若心経の般若は、智慧である。この智慧は、分かることである。修験者は、西に日が没するまで般若心経を唱えて歩く。彼らには智慧の方法が、それしかない。

 「摂津の国は小屋寺の話だそうだ。御堂があり、吹き抜けながら廊もめぐらし、幾棟かの僧房も構えて僧たちを住まわせていた。そこそこの大寺であったらしい。そこへ、ある日、物語であるから、人がやって来る。今の世の物語はいっそ、人は所詮やって来ないというほどの腹の据え方でかかったほうがいさぎよいと思われるが、それはともかく、年は八十ばかりの、汚げな法師がやって来る。」(古井由吉『仮往生伝試文』河出書房新社1989年)

 「原発がれき撤去で付着 南相馬の13年産コメ汚染で京大教授」(平成28年1月18日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)