是枝裕和監督の映画『海街diary』は、再々婚の果てに死んだ父親の葬儀で始まり、馴染みの食堂の女店主の葬儀で終わる。その父親は、初婚の妻との間に三人の娘、再婚の相手との間に一人の娘、再々婚の相手との間に一人の幼い息子を残している。映画の主な人物はその三姉妹と、異母妹の四人であり、父の死を機に、父の再々婚の相手の義母の元を離れた中学生の四女が、実母からも見捨てられた三姉妹が住む鎌倉の家で一緒に暮らすことになる。映画は、その四姉妹のごく普通の暮らし振りを、ごく平凡に描いている。あるいは平凡に描こうと努力をしている。四人を平凡に描こうと努力するのには、理由がある。映画は、四人姉妹の父親の死をもって、映画としての話は、冒頭で語り終えている。煩(わずら)わしい話、ストーリーはとっとと片づけ、監督は映画それ自身を身軽にしようと恐らく、しているのである。父親に話、ストーリーを負わせた四人の姉妹は、云わばそれだけ身軽なのである。身軽さを旨とするならば、四人姉妹は平凡であることが賢明なのである。賢明であることは、彼女らの言動にも現われる。彼女らは、父親についてまともには話を交わさない。姉妹の中には、ほとんど記憶がないという者もいる。話を交わさないことにも、それなりの理由がある。一番下の中学生の妹の母親は、三人の娘を捨てた父の再婚相手であるという事実である。そのことを秘かに、負い目に感じているのが中学生の妹である。であれば姉妹が父親を語ることはタブーであり、タブーとして保ち続けることが、四人にとって姉妹の平凡な関係を壊さないことなのである。が、その平凡であることの値打ちを表わすことは、思うほど簡単なことではない。ある事が起こり、それまでの平凡な日常が失われるといった安易な手口では、平凡は云わば一つの理想となってしまい、理想と意識してしまえば本来の姿の平凡は遠退いてしまう。姉妹の住む家の台所の床下に、梅酒が漬けてある。その梅の実は、庭に植えられた梅の木になったものである。四人はその古い梅の木を、家の窓からしばし眺める。咲く梅の花の場面はなく、夏の初めに四人はその梅の実を収穫する。梅の花のように映画に現われない父親を三人の姉から奪った自分の母を、罪悪のように思っている中学生の妹が起こす小さな波が、姉妹の平凡な暮らしに立った唯一の波であり、そのことで長女は、不倫相手からの結婚の誘いを断る。が、そのさざ波はさざ波以上に大きくはならない。映画の旨とする平凡は、そのことで動じることはない。長女が少しでも嘆き悲しむ態度を取れば、画面に陰影が出来たはずである。父親から血を受け継いでいるという陰影である。が、この映画の監督はそのような陰影を嫌った。家族の陰影は、冒頭の父親の死で済んでいるとしたのである。映画は、四人姉妹の暮らしをあくまで平凡に見せるために、家族という陰影を切り捨てたのである。かつて見たテレビドラマに、印象的な家族の陰影があった。父親役の小林稔侍が、半ば捨てたように養護施設に預けた障害のある息子と何十年振りかで再会する。その息子が、出された煎餅を手のひらの上に載せ、不自由なこぶしで割って口に入れる。それは小林稔侍がしていた煎餅の食べ方と同じなのである。府立植物園で、未開紅(みかいこう)と札の下がった紅梅が、数十本の梅に先んじて花をつけていた。『名所都鳥』(元禄三年(1690)刊)に、寺町誓願寺にあった未開紅梅を名木として、その名の故を「いまだ開かざるに、くれなゐなるを謂(いふ)なり。開落ともに都鄙(とひ)の男女むらがりて詩歌を詠してもてあそぶ。」と記している。『海街diary』の四人姉妹は、平凡に過ぎる日常のある日に、庭に咲いた梅の花の匂いをかいだ。優れた映画であれば、その場面がなくとも、梅の匂いをかいだ者としておのずと画面に現われるはずである。

 「(木地屋たちは)小屋は多く流れの近くにもうけた。また家の近くにはミョウガ・クロナなどをつくった。これが重要な副食物になる。小便など野外にたれ流しにしたが、かりに小便壺をおくにしても底をぬいておいたという。小便を夜になると狼がなめにくるからである。小便には塩分があり、野獣はそれをもとめた。イロリには夜間火をたやさなかった。野獣を防ぐためであった。」(宮本常一『山に生きる人びと』河出文庫2011年)

 「「中間貯蔵」本格輸送、新年度から 10月に工事の一部着工へ」(平成28年2月20日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)