昭和二十八年(1953)版の公認野球規則の守備に関する規則のその一、ピッチング部のその一には次のような規則が置かれている。「正式な投手の投球。二つの正式の投球姿勢がある。(一)ワインドアップ・ポジション。(二)セット・ポジション。どちらも随時用いることが出来る。(A)ワインドアップ・ポジション。投手は打者に面して、軸足を投手板上にのせるか、あるいは投手板の前面に接触するかして他の足を自由において立たなければならない。この姿勢から打者への投球に関する自然の動作を起こした場合中断や変更をしないで投球を完了しなければならない。投手は打者に実際の投球をなす時以外はいずれの足も地面からあげてはならない。但し実際に打者に投球する場合は軸足でない方の足を一歩後方に引いてそして更に前方に一足踏み出すことは差支えない。(B)セット・ポジションとは、投手が打者に面して軸足を完全に投手板の上またはその前面に置き、投手板の端から離れないように接触させ、他の足を投手板の前に置いて球を両手で身体の前に保持し、、少くとも一秒間完全に動作を静止する姿勢である。この姿勢から投手は打者に投球しても、塁に送球しても、投手板から軸足を後方へはずしてもよい。セット・ポジションをとる前に、投手は所謂(いわゆる)「背伸び」として知られている腕を頭上に拳(あ)げまたは前方に伸ばす自然動作を行うことが出来る。しかしもし投手がそのような予備動作をしたならば、打者に投球する前にセット・ポジションに戻らなければならない。セット・ポジションをとつた後に、打者への投球に関する自然の動作を起したならば中断しないで、投球を完了しなければならない。」このおおよその主語は投球姿勢であるが、その投球姿勢を取るのは投手であり、投手もまたおおよその主語である。野球規則にある他の主語は、競技場であり、道具であり、打者であり、走者であり、審判員である。これらのおおよその主語は規則として定義され、その定義はそのまま野球という世界の成り立ちを表わしている。「打者が正規の位置を占めるためには、両足をバッター・ボックス(打者席)の内におかなければならない。」「打者は刺殺されるか、あるいは走者となつた時に正式に打撃時間を完了する。」「走者はアウトとされる以前に、塁に触れることによつて、未(ま)だ誰も占有していないその塁を占有する権利を得る。走者は刺殺されるか、次の塁を占有するか、または規則上次の走者に塁を明け渡さなくてはならなくなるまで、そこに止まることが出来る。」「BASE「ベース」とは、正当な進塁によつて本塁に達し、得点する為に走者が触れ、または占有する四個の物体の中の一個である。」二月十一日、上賀茂神社の白砂の上で、奉納蹴鞠をやっていた。眼の興味の惹くところは、蹴り上げられてゆく鞠の行方よりも、その派手な色使いの烏帽子水干袴の装束の方であるが、その始まりに、鞠を摺り足で捧げ持った時、白砂の四隅に竹を挿しただけの空間は、見慣れぬ古典として厳かに眼に映る。その動作の作法は、蹴鞠の書「遊庭秘抄」にこう記されている。「(上鞠〔蹴り始め〕の事、)その勤仕のやうは、以上八人立そろひて、尊者〔その場の位の高い者〕の御目〔意向〕にしたがひてすゝむ。かねてより此役はふれ仰られ侍れど、当座にかさねて御目にしたがふ事本儀也。主人左の方にましませば、まづ右の足より踏よりて、左の膝をつきて蹲居して、右の手にて鞠をとり<取革をとるべし>左の手にて鞠をかゝへ<鞠のいたゞきを上へなすべし>右の足より立て、左の足一しりぞけ、又右の足一しりぞけて、今度は左の足一。右の足おなじ座敷に踏うごかして<今度はしりぞくべからず>左のかたに立人より右の腋に立人まで見廻して主人のかたへ向て、右の足一踏より、左の足一ふみて、則(すなはち)之を蹴。高からず蹴あげておとす。木の枝にかく〔掛ける〕べからず。鞠を人に蹴あつべからず。鞠のたかさ目より下と云説侍れど、それよりはたかかるべき歟(や)。さて左廻すべし。又二足の上まりと申も此作法にて、同立所にて二足蹴也。三足の上まり是おなじ。又上鞠をしかるべき普代〔代々〕堪能の人にゆづる事あり。其作法、左右に立人を見めぐらして、譲べき人に対して揖(ゆう)すれば〔ゆずれば〕、うけとるべき人かた袖を上になし、かた袖を下になして<上鞠の人の上首下﨟〔身分の上下〕にしたがひて、袖を左右の間かたかたうへになす也>答揖する時蹴かくれば、請取人声を出して之を上て、一足之を蹴ておとす也。是を二足の上鞠とふ説もあり。又上﨟の人けかけて、一足あげ鞠の人けておとす。是を三足の上鞠といふこともあり。一人して二足あげ侍上まり常の事也。それはゆゝしき大事也。」蹴鞠が始まれば、鞠を追う蹴鞠保存会の者らの所作動作は優美さからは遠く、鞠は沓の先に届かず、平安絵巻の世界から幾度も世間の下に落ちて転がる。見物人の失笑は、奉納を受ける神の失笑であるかもしれない。作法に適った優美さよりも、冬の昼時に神と笑うことは、何事かであるのかもしれない。「試合開始時刻には審判員は「プレー」を宣する。投手は打者に投球しなければならない。打者は選択して望むままに球を打つてもよく、打たなくてもよい。攻撃側チームの目的はその打者を走者とし、その走者を進塁させることである。守備側チームの目的は攻撃側チームのプレーヤーを出塁させないようにし、また進塁を阻止することである。打者が走者となり、正規にすべての塁に触塁した場合、走者はそのチームのために一点を記録したことになる。三人の攻撃側プレーヤーが正規にアウトになつた時、そのチームは守備につき、相手チームは攻撃側となる。審判員が「プレー」を宣した後はボールは生きていて、インプレーである。そして正当な理由によるか、審判員が「タイム」を宣してプレーを停止させ試合停止球(デッド・ボール)になるまでボールは生きていてインプレーである。」野球規則のもう一つの、おおよその主語はボールである。生きている間のボールは、野球の世界で意味を持って振る舞う。「球を打つか、あるいはバントした後に、故意に再び球を打つか、投げたバットが当るか、または塁に走る間に如何なる方法にもせよ球の進路を逸らした時、試合停止球となり、走者は進塁を認められない。もし打者がバットを落して球が転げて当つた場合に、審判員の判断で打者に球の進路を妨げる意図がないと認めた場合にはボールは生きていてインプレーである。」ボールは生きていて、と表わす文体は、野球の成り立ち、有様の文体である。蹴鞠は、鞠に魂が宿るように、蹴る時「ヤカ」「アリ」「オウ」と掛け声を出す。「ヤカ」「アリ」「オウ」は、蹴鞠の聖人藤原成通の前に現われた鞠の精「春楊花(しゅんようか)」「夏安林(げあんりん)」「秋園(しゅうえん)」の名であるという。鞠を蹴る者のその掛け声は、さほど大きくはない。その鞠の精、鞠の神には小さな声でなければ届かぬのかもしれない。

 「要するに、筋にこれという変ったこともなければ、歌の文句が、ことさらすぐれているわけでもない。その芸が、みんなの讃嘆を博したのは、一に女の声にかかっている。それにしても、門付けが去ったあともずっと、声はまだ耳もとに残っているように思われる──一種霊妙な甘美さと悲哀がわたしのうちに呼びおこされ、その不思議な声の秘密を、わたしは解き明かそうとせずにはいられなかった。」(「門付け」小泉八雲 上田和夫訳『小泉八雲集』新潮文庫1995年)

 「【復興の道標・賠償の不条理】裁判では取り戻せず 奪われた生きがい」(平成28年3月6日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)