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 九条通は、平安京の碁盤の目の南の端に引かれた通りであるが、その九条通に面して立つ東寺教王護国寺の南門の位置が、延暦十五年(796)の創建以来変わっていないとして、その位置を基準に、明治二十八年(1895)平安遷都千百年の記念に、同じ九条通に面して立っていた羅城門の中心を定め、そこに「羅城門遺趾」と彫った石碑を建てる。正面十丈六尺(約三十二メートル)、奥行二丈六尺(約八メートル)、高さ七十尺(約二十一メートル)、丹楹粉壁(たんえいふんぺき・朱柱白壁蒼瓦)の羅城門は、弘仁七年(816)の大風で倒壊した後再建され、天元三年(980)再び大風で倒れて以降、その立つ姿を見た者はいない。「平安京ハ 桓武天皇其地ヲ相シ之ヲ經營セシメラル延暦十三(794)年ヨリ其事ヲ始メ同十八年(799)ニ至リ全部落成セリ南北壱千七百五十三丈(約五・二キロメートル)東西壱千五百四丈(約四・五キロメートル)周廻六千五百十四丈(約十九・五キロメートル)大内裏其北位ニ在リ南面ス皇宮百司其中ニ在リ街衢(がいく・街路)ノ東西ニ通スルモノ三十八之ヲ九坊ニ分チ一條ヨリ九條ニ至ル同南北ニ通スルモノ三十二朱雀大路ヲ中ニシ左右ヲ分ツ羅城門朱雀ノ正面ニ在リ之ヲ平安城ノ正門トナス。」(京都市編纂部編『京華要誌』明治28年(1895)刊)桓武天皇は、平安奠都(てんと)の前に、政治に食い込んだ仏教勢力と平城京の旧勢力、己れの天智系と異なる天武系を排するため、あるいは経済力を身につけた地方豪族が危うくしつつあった律令制を立て直すため、長岡京遷都を行うのであるが、その僅か十年後、死に追いやった弟の祟りを恐れる余り、それを捨て、新たに平安京を奠(さだめ)るのである。延暦四年(785)長岡京遷都の責任者藤原種継(たねつぐ)が暗殺され、その首謀大伴継人(つぐひと)、竹良(たけら)の血縁者大伴家持(やかもち)が早良(さわら)親王春宮坊(とうぐうぼう)の大夫(たゆう・長官)であったため、早良親王は反桓武の嫌疑を掛けられて皇太子を廃され、幽閉された乙訓寺で食事を拒んだ末に餓死する。翌延暦五年(786)種継の叔父で、桓武天皇の父光仁天皇の側近だった藤原百川(ももかわ)の妻旅子(たびこ)の母諸姉(もろあね)が死亡し、延暦七年(788)旅子が死亡し、延暦八年(789)桓武天皇の母高野新笠(たかののにいがさ)が死亡し、延暦九年(790)皇后乙牟漏(おとむろ)が死亡し、延暦十一年(792)皇太子安殿(あて)親王が重病に罹り、洪水が起こり、流行病が蔓延する。この一連の原因が、早良親王の怨霊とされたのである。一人の男の餓死自殺が、出来立ての都を廃都にし、平安遷都の引き金になったことは、その碁盤の目の通りがある限り、人間の分かり合えぬことで割れた魂として繰り返し思い返さねばならない。羅城門を挟んで東寺と対(つい)の位置にあった西寺は、正暦元年(990)と天福元年(1233)の夜火で焼亡し、荒廃のなすまま、現在西寺児童公園としてその余命を僅かに地面に留めている。土盛りしたその上に立つと、どこからともなく、一陣の風が来る。それは、ないものを見に来た者に限って、立つ風である。

 「デレク・ベイリーはこういった演奏をもの凄い修練を重ねて、即興演奏の中でコントロールできる要素を全部洗い出して、その組み合わせをこういった演奏時にリアルタイムで判断して、前後の音が何かのイディオムを形成してしまわないように慎重に慎重に配置していく。」(菊池成孔大谷能生東京大学アルバート・アイラー』文春文庫2009年)

 「東電と元役員ら不起訴 汚染水漏れ、地検「立証困難」」(平成28年3月30日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)