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 ある物事が、この世ならずと云う時、それは大袈裟であると同時に、そう云い表わす以外に仕様のない驚き、畏敬に圧倒されている。葉を落していた骨のような枝に桜が花をつけ、数日の昼夜を経た後に、その満開を迎える時が来る。花開くことが一年に一度きりであることが、桜に限ることでないことは云うまでもないことであるが、この世ではないところへ道筋をつける花は、他にない。このような桜の樹がある。列になった並木でなく、園に群れ立つように植えられた樹でもない。その桜は一本か二本で、道の辻や畠や山裾に立ち、いつの頃から生えているのか知る者のない老木である。老木であるが、幹は太らず、枝は込み入っておらず、天を目指すより、地と水平に伸びる枝ぶりの山桜かソメイヨシノである。晴れの日ではなく、ぼんやりした色が際立つ曇りの夕時、そのような容子の桜の枝に視線をとどめながら、ゆっくりその樹の回りを廻る。と、中空に浮かぶ枝の花が動きを得て、動かぬ桜が、廻る速さで見る者を向いて動き出す。人の遣う錯覚という言葉は、認識の貧しさから来る言葉である。この動く桜の不気味さに魅入られることを恐れる豊かさをもって、人は桜を、この世ならずと驚いてみせるべきである。南禅寺の桜に寄り集う人の行き交いから外れた塔頭、帰雲院(きうんいん)の築地の下石垣を手で触れていると、カナヘビが石の間から頭を出し、腹を平らな石に当てて身じろぐ様子がない。カナヘビは、福島の方言ではカランキョである。王家衛ウォン・カーウァイ)監督の映画『欲望の翼』の中で、若い男が、サッカー場の売店の娘に、午後三時一分前から三時となった壁の時計を指し、「この一分の間僕は君とここにいた。」と口説くセリフがあった。カランキョは時折り舌を出しながら、一分を超えても石の上から動かない。守宮(ヤモリ)息吸ふはわれ息を吸ふ 橋閒石。守宮の句であるが、事情は目の前のカランキョと重なる。守宮息吸ふはの、は、は守宮とわれを同列に並べて可笑しく、このような柔軟な言葉の遣いは、技巧の発想からは生まれない。

 「考えるとこの手結の手法では、どんな柄をも好むままに自由に出すというわけにゆかない。それ故如何にも制限の厳しい、不自由極まるやり方だと思われ易い。所がそうではなく、却(かえ)って之で人間の身勝手な振舞いが殆(ほとん)ど全く封じられて、その反面に自然の理法が十分自由に働くことになってくる。この自然の自由が、沖縄の手結絣を、どうしても美しさに誘って了(しま)うのである。だから人間の犯す誤謬(ごびゅう)というのが消え去って、絣柄は間違いのない安全な道を通って、美しさに達して了うのである。」(「民藝美の妙義」柳宗悦柳宗悦コレクション3こころ』ちくま学芸文庫2011年)

 「「汚染水水位」基準超える 高温焼却炉建屋、15時間確認せず」(平成28年4月9日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)