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 大学も葵祭のきのふけふ 田中裕明。田中裕明は当時、京都大学の学生であったが、学生が行列のアルバイトをするようなことがあるとしても、京都大学葵祭に直接の関係はなく、葵祭の昨日あるいは今日大学敷地を歩いても、行き交う学生にも校内にも葵祭の気分は微塵もない。大学の門を出た町中(まちなか)ですら、葵祭は、当日の交通規制の告知以外にその文字を目にすることはない。田中裕明が学生だった昭和五十年代の様子も、学生が入れ替わってもそうであったであろうと想像予想はつくのである。理由は葵祭のそれにある。六世紀、風雨の災害を走り馬の神事で鎮まったことから、朝廷が直接に関(かか)わる神事として勅使とその警護に当たる検非違使の一行が御幣を携えて賀茂社まで行列歩きしたのがその始まりであり、後に、祭事に奉仕する未婚の皇女を斎王として齋院に置き、その斎王一行の行列もまた祭行事として加わるのである。行列は神聖であり、庶民が関わることはない。祭の行列は、朝廷の権力が衰えた文亀二年(1503)から元禄六年(1693)までの間中断し、復活して後明治に入り再び中断し、明治十六年(1883)公家の実力者岩倉具視の「賀茂祭旧儀再興」の建議が通り、再興する。祭行列の復興は、京都を去って東京に居を移した皇族を通じての賀茂社の希望であった。賀茂祭は、元禄の復興の頃より葵祭と呼ばれるようになる。葵は、徳川の家紋であり、徳川幕府の在地は京ではなく、江戸であった。復活した朝廷の行列が双葉葵の葉を付けて、京の町を歩き出したのである。現在、住民は総じて葵祭に冷ややかである。であればこの、葵祭のきのふけふという表現は、大袈裟な表現といえる。上の句の、大学も、はその大袈裟振りを無関係である大学に纏(まと)わせ、不意に口をついて出た独り言のような言い回しが、そこにさしたる内容がないにも関わらず、それがゆえに皮肉を込めたユーモアを醸(かも)し出している。田中裕明のこの句は、やや鼻につく若者の達観したような物言いであり、田中には若者らしくない大人の余裕があった。葵祭の行列は、その長さが一キロに及ぶ。その行列に加わる牛や馬の落す糞を、水干姿の者らが熊手で拾い集めていく。沿道の大抵は、彼らの姿を目に残す。

 「日常のリズムから身を引き剥がすためにうたわれる歌を、紙に書き記すことによってまず身体から追い出し、さらにそれを「録音」という行為によって、また異なった距離の中に置き直すこと。このような録音による世界からの二重の身の引き剥がし行為のあいだには、例えば「話し言葉」と「書き言葉」による世界把握の違いにも相当するような、大きな認識的転換のきっかけが含まれてくるように思う。」(大谷龍生『貧しい音楽』月曜社2007年)

 「12市町村の将来像・工程表示す 楢葉で「フォローアップ会議」」(平成28年5月19日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)