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 昭和六年(1931)、京都市五区に右京区伏見区の二区が加わり、百万に手の届く人口となって京都日日新聞が、京都の中心場所を当てるクイズを出した。『京都の精神』と大上段に構えた梅棹忠夫がその論で、「日本にはめずらしいことだが、京都のひとの心のなかには、ぬきがたい中華思想がひそんでいる。中華思想というのは、文字どおり、自己の文化を基準にして世界をかんがえるという発想である。」と書いている。このような大雑把な捉えをする梅棹も京都西陣の出であるが、その京都市民が己れの住む所の中心位置のクイズに興味を持ったかどうかは分からない。が、二条城の西、千本通沿いの出世稲荷神社がその位置に当たると認定され、<大京都中心塔>が建てられた。その塔は、コンクリートの団子を重ねたような形であったというが、戦後忘れ去られたまま取り壊されていまはない。地理的中心位置は、地球のそこかしこにあり、中心、真ん中という言葉を人は手放さない。俳人河東碧梧桐(かわひがしへきごとう)の「無中心論」は、自然そのものに中心、テーマなるものはないとして、俳句権威者高濱虚子の手を加えた写生主義を批判し、見えたままの俳句、「五月の水の飯粒の流れ」「炭がこぼれそうな炭斗(すみとり)と別な八つ手だ」「柿の落る音の柿が掃きよせてある朝朝」などと詠んだが、行き詰まり、自滅する。同じように五七五の定型俳句に背を向けた「うしろすがたのしぐれてゆくか」の種田山頭火も、「いれものがない両手でうける」の尾崎放哉も中心から外れた者として、放浪を拠りどころとせざるを得なかった。その後京都市には新たな地区が加わり、京都市の中心とされた出世稲荷神社は、平成二十四年(2012)その中心を手放し、大原の旅館の跡地に移転する。かくして京都の中心は誰のものでもなくなり、彷徨(さまよ)う如く正体を失ったのであるが、京の都(みやこ)には、その遥か以前より都(みやこ)のへそとされていた石が、あるにはあるのである。その六角形の形をしたへそ石は、六角通東洞院西入ルの六角堂紫雲山頂法寺にあり、『都名所図会』(安永九年(1780)刊)の六角堂の図に、その門前の通りの半ばにその石が描かれている。「遷都の時造宮使申(まうし)て云(いは)く。丈尺を以て小路を打さだめんとするに、六角の小堂道の中心にあたれり。これ聖徳太子作り給へる六堂の小堂也。宣旨に云(いは)く、他所へ渡すへ(べ)し。爰(ここ)に勅使祈請して云(いは)く。此所に住(すま)んと思召(おぼしめさ)は(ば)南北の間に少し入給へと申すに、空俄(にわか)に暮(くれ)ふたか(が)りて、五丈は(ば)かり北へ引入にけり。さて六角の小路を通しつつ云云。」(『京都坊目誌』大正四年(1915)刊)聖徳太子四天王寺建立用の木材を探して、森だったこの地に分け入り、沐浴の間に傍らに置いた如意輪観音がその場から動かなくなり、六角堂を建てて祀ったのが聖徳太子の六堂であるという。その六角堂が、平安京の碁盤の目の通りを造る際、祈願すると自ら十五メートル北に動いたというのである。へそ石は動いた堂の礎石の一つであるという。明治十年(1877)、六角堂境内に移されるまで、道の半ばにあった石を誰も動かさなかった。その石に、物語りが与えられていたからである。石は、道の半ばに在り続けねばならなかったが故(ゆえ)に、物語る必要があった。物語りは、事実である必要はない。物語る必要があったという事実が重要なのである。昭和六年の京都の中心に、物語りはなかった。六角堂のへそ石の窪んだ水の中に、一円玉や五円玉が重なり沈んでいた。

 「そこで、われわれはこの上なく途方に暮れ、こうして浜辺で海を眺めていたって始まらないとて、島のなかに進んで行くと、そのうち数本の果樹と水の流れを見つけた。それでわれわれは、もはや誰しもとうてい逃れられぬと思われた死を、まあできるだけ延ばそうと、少しくそこで休んで、元気をつけることができた。」(「船乗りシンドバードの物語」佐藤正彰訳『千一夜物語ちくま文庫1988年)

 「南相馬市の一部、7月12日に避難指示解除 政府が発表」(平成28年5月27日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)