「花柳の巷と六道の辻の間にあるのが建仁寺、昼下りにはこどもらの遊園となる」と言葉を添えたモノクロ写真には、滑り台で遊ぶ子どもらと、傍らの乳母車の赤ん坊をあやす子どもの背後に、仏殿がぽつんと写っている。この写真の掲載は、昭和三十七年(1962)刊の岩波新書、林屋辰三郎の『京都』の建仁禅寺の頁である。平成二十六年(2014)十一月二十九日の京都新聞に、青絵の具を垂らし流して描いたような新作襖絵の前で、その作者と建仁寺管長、京都市長が並んだカラー写真が載っている。平成十四年(2002)、仏殿から法堂(はっとう)と名称を変えた堂の天井に日本画小泉淳作が描いた「双龍図」がNHKの番組・日曜美術館で取り上げられ、あるいは平成十九年(2007)同じNHKの番組・プロフェッショナル仕事の流儀が小書院の庭・潮音庭の作庭の様子を取り上げている。方丈の前庭・大雄苑は昭和十五年(1940)の作であり、もう一つの小庭・◯△▢乃庭は平成十八年(2006)の作である。その方丈は、慶長四年(1599)に安芸国安国寺から移築された室町期のものであり、昭和九年(1934)の室戸台風で倒壊し、昭和十五年(1940)に再建されている。山門、仏殿は江戸宝暦年間(1751~1764)のものであるとされ、三門は静岡浜松の安寧寺より大正十二年(1922)に、仏殿は明和二年(1765)東福寺より移築されたものである。放生池を挟んだ三門の南に建つ勅使門は、平重盛あるいは教盛の六波羅邸のもの、あるいは室町期のいづこかの遺構であるとされ、方丈の裏にある茶室・東陽坊は、豊臣秀吉天正十五年(1587)に催した北野天満大茶会の長盛茶室を移し建てたものである。建仁寺の境内は斯(か)くの如く、それぞれのものの別々の時間が持ち込まれ、それが幸福な出会いであるという印象を必ずしも受けない。加えれば、元は右京鳴滝の末寺妙光寺のものであった国宝、俵屋宗達の「風神雷神図屏風」はその複製が庫裡の玄関奥に飾られ、方丈の襖絵の数々、海北友松の「雲龍図」「花鳥図」「竹林七賢図」「琴棋書画図」「山水図」もすべて複製であり、これらには時間というものはなく、方丈とも境内の他の建物とも庭とも時間が交わり流れることはない。建仁寺は、栄西(ようさい、えいさい)が鎌倉の寿福寺に次いで建仁二年(1202)に建てた臨済宗の禅寺である。元を逃れた宋の臨済渡来僧あるいは留学僧は中国に明るく、貿易を重要視した次の室町幕府は、栄西臨済宗禅寺を官寺五山とするのである。権力者の後ろに立った宗教は、例外なく堕落する。学んだ宋から帰国し、建仁寺に身を寄せた道元は、著書『典座教訓(てんぞきょうくん)』で建仁寺の典座(食事・供膳職)の無知を嘆き、学僧だった一休宗純は、同じ学僧の俗物ぶりを軽蔑し、無名の僧・謙翁の弟子となる。しかし栄西が中国から茶を齎(もたら)したことで禅宗は生き延び、茶は武士と商人を結びつけ、禅寺は宿泊施設となり、その拠りどころとなるのである。が、徳川幕府に寄った寺々は明治維新で土地を奪われ、それぞれに荒廃し、建仁寺は子どもの遊び場子守の場となるのである。『フランケンシュタイン』はイギリスの小説家メアリー・シェリーの小説で、映画にもなり、見た者はあの怪物をフランケンシュタインと記憶してしまうが、フランケンシュタインは人間の死体を繋ぎ合わせてあの怪物を作った学者の名前である。理想の人間となるはずであったそれは、利口で力もあったが、姿が醜く、孤独に陥り絶望する。その怪物の皮膚の縫合あとを、建仁寺の境内に張られている錆びた有刺鉄線を見て思い出したのである。映画の中で、女の子がその怪物を恐れもせず、摘(つ)んだ花を手渡すシーンがある。建仁寺の庭では、梔子(クチナシ)の白い花がそちこちで咲き、至るところでその匂いがしていた。

 「南の国の遠い町に住んでいる男がいて、畑仕事をしていた。男はけして豊かとはいえなかったが、地所はオアシスの縁にあった。午後の間中彼は溝を掘り、一日が終わると庭の端まで行って水門を開き、止めてあった水を引き込んだ。すると水はたちまち溝を走り、大麦や柘榴(ザクロ)の木の苗床へ流れた。空は一面の紅だった。男は自分の庭が宝石を散りばめたように美しく映えているのを知って、石のうえに腰を下ろし、それを眺めた。眺めているうちに、庭はますます紅に染まった。」(「庭」ポール・ボウルズ 四方田犬彦訳『優雅な獲物』新潮社1989年)

 「葛尾、「避難指示」解除 4市町村目、川内は14日、全域解消」(平成28年6月12日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)