「こんなものがあっても禅宗とは何のかかわりもない。」こんなもの、とは鹿苑寺舎利殿金閣のことであり、これは昭和二十五年(1950)七月二日午前三時、運び込んだ自分の布団に火を点け、金閣を焼失させた修業学僧林養賢が取り調べを受けた西陣署での言葉である。その五年後、金閣は何事もなかったかの如く寸分違(たが)わぬ姿で再建され、その翌年三月、刑期を終えた林養賢は結核による多量喀血で死亡する。金閣寺と銘打ったプラモデルがあり、それを組み立てた子ども時代の記憶がある。完成した金閣寺は所々にセメダインが汚く付着し、屋根の上の鳳凰は、よく見ると傾いていた。数日机の上に置かれた金閣寺は、テレビの上に移り、仏壇に移り、茶箪笥の上に移り、それからどこへ行ったのか記憶はない。青モミジの真っ直ぐな参道は総門の内まで続き、その突き当たる唐門の左手の築地門を潜り、築地に沿って進み折れると、漸く池の向こうに金閣が姿を現わす。漣(さざなみ)が立つ池を挟んで見るそれは、実物というより、行方知らずになったプラモデルとの再会に近い。その光り輝く金色(こんじき)は、足利義満が撫(な)で摩(さす)った時よりも、純度の高い金色である。あの金色のプラモデルの金閣寺を買い求めた理由は、子ども時代の目にすり替わらなければ分からない。応永元年(1394)義満が、九歳の長男義持に将軍職を譲ると、同時に太政大臣の位を手に入れ、翌年自ら発願創建した臨済宗相国寺で出家し、鎌倉承久の乱の後太政大臣に昇りつめた天皇外戚西園寺公経(きんつね)の別荘西園寺を、執務山荘北山殿に造り変え、その庭に建てた舎利殿金閣である。世の頂点に立った義満は応永十五年(1408)三月、北山殿に鱗を模して敷いた五色の砂の上に金銀の造花を撒(ま)き散らし、義満に太政大臣の位を与えた後小松天皇行幸の列を迎えたという。明(みん)貿易で得た義満の財の前に国中が畏怖した瞬間である。義満はその行幸の僅(わず)か三カ月後に世を去り、その遺言で妻日野庸子の死後、北山殿は相国寺の禅寺鹿苑寺となる。このような知識は、プラモデルを組み立てた子ども時代には持っていない。応仁文明の乱で、境内で唯一戦火を被(こうむ)らなかった金閣は、辺りの様変わりした池の畔(ほとり)に立ち続け、学僧の放った火で焼け落ちる。間近で見る実物の金閣は、華奢(きゃしゃ)である。金箔の金色に釣り合わせたのであろう柱の細さが、次男義嗣を天皇にしたかもしれぬ義満の、金閣に対する繊細な見識である。再建された金閣の写真を見たいかとの主治医の問いに、林養賢は、無意味であると断ったという。林養賢に三島由紀夫のいう美意識があったとすれば、その再建は悪い冗談である。

 「重要なのは、さまざまの言説的実践をその複雑さと厚みのうちにおいて明らかにすることである。語るとはなにかを──考えられたことを表現(エクスプリメー)するのとは別なことを、知っていることを表わすのとは別なことを、また一言語体系の諸構造を働かせるのとは別なことを行なうものであることを、示すことである。」(ミシェル・フーコー 中村雄二郎訳『知の考古学』河出書房新社1970年)

 「被ばく線量減、管理徹底重要 福島で国際シンポジウム」(平成28年7月9日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)