昭和三十四年(1959)の京都新聞の連載企画「古都再見」に、物理学者湯川秀樹は、「大仏殿石垣」の題で文を寄せ、二、三十年前のこととして、「博物館から豊国神社・方広寺の鐘のあたりまで、以前よく散歩したことがある。このあたり一帯の閑寂というより、むしろうらぶれた感じにひかれたからである。」と述べている。中間子理論「素粒子の相互作用について」は、昭和十年(1935)の発表である。陽子と中性子の間に中間子を予想した湯川秀樹の脳は、その予想予言に至るさ中に、うらぶれた場所へ湯川秀樹を連れて行ったである。かつて京都に、奈良東大寺の大仏を凌(しの)ぐ大きさの大仏があった。造ったのは豊臣秀吉である。文禄四年(1595)完成の木造漆膠(しっこう)の大仏は、二年後の地震で大破し、秀吉の死後、子の秀頼が金銅で再建中失火焼失し、慶長十七年(1612)三たび再建し、同時に造った梵鐘の銘文「国家安康 君臣豊楽」によって、豊臣家は徳川家康に滅ぼされる。大仏は寛文二年(1662)の地震で大破した後銅銭にされ、新たに幕府の手で木像で再建されるが、寛政十年(1789)落雷により焼失し、天保十四年(1843)尾張国の篤信者らが上半身の木製大仏を方広寺に寄進し、それも昭和四十八年(1973)の失火で焼失する。湯川秀樹が歩いた当時、最後の大仏はまだ秀吉が築いた巨大な石垣の上の方広寺仮本堂にあった。元の大仏殿跡に建つ豊国神社は、徳川幕府に取り潰された秀吉を祀った豊国社を、秀吉を顕彰する明治元年(1868)の明治天皇の御沙汰によって再建した神社である。「豊太閤側微二起リ、一臂(いっぴ)ヲ攘テ天下之難ヲ定メ、上古列聖之御偉業ヲ継述シ奉リ、皇威ヲ海外二宣へ数百年之後、猶彼(※朝鮮)ヲシテ寒心セシム。其国家二大勲労アル今古二超越スル者ト可申。云々」社殿の費用を京都府が出し、明治十三年(1881)に豊国神社は再建される。豊国神社の門前を走る大和大路通を渡り、正面通を下ってすぐの所に耳塚がある。昭和三年(1928)京都市が編纂発行した『京都名勝誌』には、「文禄慶長征韓の役(1592~93、1597~98)に、我が軍朝鮮の各地に戦勝し、敵の首級を獲ること幾萬なるを知らず。而(しか)も之を内地に送りて實檢に供ふることは容易の業にあらず。されば敵の鼻を切取り、之を鹽(しお)漬にして秀吉に獻(けん)ず。秀吉命じて悉(ことごと)く之を大佛方廣寺門前の地に埋めしむ。世人呼んで耳塚といふ。塚の高さ三間ばかり、上に高さ二丈餘の五輪の大石塔を置く。秀吉が己の建立せし方廣寺の門前に之を埋めしは、これその菩提を弔はんとの意なるべし。云々」とある。ここに云う日本軍の戦勝は部分的であり、苦戦休戦の末、秀吉の死を以て日本軍は撤退し、その戦功を競って切り取られた鼻、あるいは耳は兵だけでなく、一般市民の鼻も切り取られたのである。耳塚の隣に耳塚公園があり、その隅に「明治天皇御小休所 下京第廿七區小学校趾 明治五年五月三十日 御小休」と彫られた石碑が立っている。明治天皇が参議西郷隆盛らを伴った明治五年(1872)の九州西国巡幸の途中に、方広寺の大仏と耳塚に立ち寄った証の碑である。この時明治天皇は二十歳である。翌明治六年(1873)、征韓派の西郷隆盛は、大久保利通らの遣韓反対を受け、参議を辞職し下野する。湯川秀樹は、「大仏殿石垣」の文中で耳塚に触れてはいないが、付近のさびれは、ゆかりの人物豊臣秀吉にあるのではないかと書く。豊国神社門前の大和大路通正面通の、その門前で極端に道幅が広がり、大仏殿の名残りであるその石垣の石の大きさは、使い途のない、持て余されたものであり、持て余された物寂しい景色である。その一角にある耳塚、塩漬にされ埋められた朝鮮人の鼻は、この界隈が賑やかになることを許さなかったのである。大和大路通の、石垣の向う側の歩道に沿って百日紅サルスベリ)が植わっている。紅色でない百日紅の白い花を見た時、驚いた記憶がある。この通りには、紅、白の他に、薄紫、薄桃色、微かな桃色が混じる白色の花が咲いている。明治天皇は慶応四年(1868)、鳥羽伏見の戦いの後の大阪行幸で、天保山から新政府軍となった諸藩の軍艦の訓練を見、その時初めて海を見たという。薄紫の百日紅は、初めて見る者には驚きの色である。

 「鬱蒼たる熱帯林や渺茫(びょうぼう)たる南太平洋の眺望をもつ斯(こ)うした土地に、自分の力で一つ一つ生活の礎石を築いて行くのは、スティヴンスンにとって、子供の時の箱庭遊に似た純粋な歓びであった。自分の生活が自分の手によって最も直接に支えられていることの意識──その敷地に自分が一杙(くい)打込んだ家に住み、自分が鋸をもって其(そ)の製造の手伝をした椅子に掛け、自分が鍬を入れた畠の野菜や果物を何時(いつ)も喰べていること──之(これ)は、幼時はじめて自力で作上げた手工品を卓子の上に置いて眺めた時の、新鮮な自尊心を蘇らせて呉れる。」(「光と風と夢」中島敦中島敦全集1』ちくま文庫1993年)

 「「町に戻り通学すべきか」 楢葉避難指示解除…揺れ動く親子」(平成28年9月3日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)