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 芭蕉の『野ざらし紀行』に、梅林と題した「梅白しきのふや鶴を盗まれし」の句がある。童謡の一節と云われれば、口ずさむことに抵抗は起きないが、この句には「京にのぼりて三井秋風が鳴滝の山家をとふ」の前書がある。三井秋風(みついしゆうふう)は、豪商三井三郎左衛門の養子俊寅、六右衛門で、談林俳人であり、洛西御室の西、鳴滝に別荘花林園を持っていた。この句を解釈する者は、芭蕉が秋風を、梅を愛(め)で鶴を飼っていた中国宋の隠士林和靖(りんわせい)になぞらえ、白梅の花の盛りの花林園に鶴がいないのは盗まれたからですね、と軽口を云って挨拶の句としたとする。隠士林和靖の名は、実際に二人の遣り取りの中で出たのかもしれないが、金持ち道楽者の秋風を高名な隠士になぞらえ、大袈裟な詠み振りをしたとして、当時この句は批判されている。鳴滝は、御室川が北の山裾から流れ来る井出口川と交わり下るところにある。切り立った崖の段々を、なだらかに下るような小ぶりの滝水である。青モミジがしな垂れる滝の前後の、住宅を流れる川筋はいまはコンクリートや積み石で固められ、保存された様で景色に情緒はない。嵐電北野線鳴滝駅から御室川鳴滝辺りまでの、緩やかに上る住宅地一帯が「鳴滝」と呼ばれる地区である。昭和十年(1935)前後、山中貞雄ら若い脚本家がこの地に住み、鳴滝組と呼ばれる脚本家集団を作った。彼らが、時代劇のセリフを普通の話し言葉にしたのである。太秦の撮影所は、鳴滝駅から二つ目の帷子ノ辻(かたびらのつじ)駅から数分の場所にあった。眠狂四郎市川雷蔵は、三十八歳で亡くなる昭和四十四年(1969)まで鳴滝音戸山(おんどやま)に住んでいた。山中貞雄は、『人情紙風船』を撮った昭和十二年(1937)八月、前月にはじまった日中戦争に召集され、翌十三年(1938)、黄河の泥水で赤痢に罹り、河南省関封の野戦病院で二十八歳で亡くなる。「梅白しきのふや鶴を盗まれし」への批判に対して、去来は『去来抄』で、「此句、追従に似たりと也。これらは物のこゝろをわきまへざる評なり。」と反論するが、この句が挨拶の句であることは疑わず、「句体の物くるしきは、その比の風なり。」と鶴の比喩にいささか問題があると述べている。芭蕉は、秋風が鶴までは飼っていないのを、盗まれたんですか、とお道化てみせた。この句にあるのは、その時の二人の気分であることに間違いはない。が、俳句は創作物である。読む側はこの気分に留(とど)まる必要はない。果たして鶴は、誰に盗まれたのか。鶴は鶴に盗まれたのである。人間に飼われていた鶴は、空を飛んでやって来た鶴に誘われ、ついて飛んで行った。人間は梅の花の下で、鶴に盗まれた鶴のことを思うである。

 「このつる植物(ナツフジ)は普通、藪の中とか生垣とかに生えるが、庭で栽培されることもある。近くの低木や高木に巻きつき、分枝して密生した枝によって木々の一部を被ってしまう。7・8月の開花期には、木々の梢から垂れさがった総状花序は素晴らしい眺めであり、……日本ではこうした野趣豊かな美しさが珍重され、文化的な手が加えられていない自然の豊かさを、庭にそのまま移すことが好まれるのである。」(シーボルト 大場秀章監修・解説『日本植物誌』ちくま学芸文庫2007年)

 「「定期健診にもっと力を」 甲状腺がん子ども基金・シンポジウム」(平成28年9月18日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)