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 カメラを首からぶら下げた男が、一枚のプレートを読んでいる。プレートは、京都四条病院の救急口の横にあり、病院の場所は、堀川四条の交差点のそばである。男は恐らく、遠くから来た者である。近くの者は、男のようにプレートの前で足を止めたりはしない。男は読んで、プレートの写真を撮る。後ろに下がりもう一枚病院を撮って、信号が変わった堀川通を西に渡って行く。男が読んだプレートにはこう書いてある。「SUS OBRAS HABLAN 二十六聖人発祥の地 ここから西百メートル妙滿寺町に一五九四年フランシスコ会のペトロ・バプティスタ神父により聖マリア教会病院学校スペイン使節館が建てられた 一五九七年二月五日に長崎で殉教した二十六聖人は同神父をはじめ五名のフランシスコ会士と三名の日本人イエズス会士および十七名の日本人信者で殆どここで活動した人であった ここに建設された聖アンナおよび聖ヨセフ病院は京都最初の西洋式のもので貧しい人が多数収容された ここに二十六聖人を顕彰するとともに救貧救病の社会事業が行われたことを記念して銘板を掲げる 一九七九年駐スペイン大使館カトリック京都司教区」天正十八年(1590)伊達政宗を降伏させ天下統一をなした豊臣秀吉は、朝鮮に派兵した文禄元年(1592)、防備が手薄だったマニラのエスパニャ政庁に対して服属を迫り、使節として国書を携え来て自ら人質となったフランシスコ会宣教師ペトロ・バプティスタに知行、土地を与えた。天正十五年(1587)のバテレン追放令でポルトガルイエズス会は表立った布教を禁止されていたが、フランシスコ会はこれを承認と解し、大っぴらに布教活動を始めるのである。その七月に畿内京坂を大地震が襲った慶長元年(1596)の九月、土佐浦戸に台風で破損した商船サン・フェリペ号が漂着する。エスパニャの貿易商人といわれるアビラ・ヒロンは『日本王国記』に、「九十六年、日本王国ではただならぬことどもが起こる。日本最初の司教到着。ガレホン船サン・フェリーペ号土佐へ漂着」の題の章を設け、その詳細を書いている。「この王国の奉行らが、あの船で運んで来た巨額の財宝を見て、すぐにこれを奪って、自分たちと国王のものにしようと提案した。」「長曽我部(元親)、増田(長盛)、石田(三成)の三人は、彼〔秀吉〕に「それらの財産と生命は海で失われるはずのものであった。地震や朝鮮の役の損失を回復するために、天がそれを日本にもたらしたものである。海で失うべき生命を、我が国が救助したから、エスパニャに不条理をなすことにはならないし、生命を与えるという大きな恩恵を与えたのである」といった。」(アビラ・ヒロンと同時期に日本に滞在していたイエズス会宣教師パードレ・ペドロ・モレホンの原書注釈)「パードレ〔神父〕たちは使節という肩書をおびてルソンからやって来たのにも拘らず、国王〔秀吉〕によって明示されたあらゆる禁令に反して、しかもその王国内で、国王がさきに厳重に禁じた教えを説き、教えているのだとして、パードレらが日本の諸法令や、神と仏の教理の破壊者だとして、告発されるような方策を何とかしてとろうというのであった。それについで、彼らパードレは、わが王国の海岸にうちあげられ、わが役人たちによって保管されているあの財宝が、彼らの国王の臣下だと称しているエスパニャ人のもとに戻るようにと努めていると非難したのであった。太閤様は自国内に己が法令を破る不届者がいるということを聞き及んで大いに怒り、即刻、全パードレと、彼らをマニラから連れて来たという科(とが)で、太閤自ら彼らを預けた法眼殿〔長谷川宗仁〕も、彼らもろとも捕えて殺すように命じたのである。」宣教師モレホンは、「右衛門尉〔増田長盛〕は、船の財物を押さえたのち、航海図を取って航海士(ピロート)ランディーアムに、エスパニャはどういう方法で、フィリピナス〔フィリピン〕、モルーカス、ヌエバ・エスパニャ〔メキシコ〕、ペルーなどを奪ったのか、と訊ねた。航海士は彼に恐怖心を起こさせようと考えて、われわれは世界中と取引しようとしている。もしわれわれを好遇すれば味方となり、虐待すれば、領土を奪う、といった。右衛門尉は、これを聞いて喜んでいった。「そのためにまず修道士(フライレ)が来なければならないだろう」彼〔航海士〕がそうであると答えると、右衛門尉はこの言葉を大坂の太閤様に報告した。そして彼は財物を取上げるため、何か良い口実をひたすらさがし求めていたので、エスパニャ人修道士の大虐殺をおこなった。」と注釈している。(アビラ・ヒロン 佐久間正他訳『日本王国記』大航海時代叢書Ⅺ・岩波書店1979年刊)取り調べたキリシタン宗徒名簿には、三千を超える殉教を望む者の名が連なったという。その中から殉教者を選んだのは、京都奉行石田三成である。殉教者は一条戻橋西詰で耳たぶを削がれ、伏見まで車で引き廻される。その先頭の札にはこう書かれていた。「宣告 これらの使節の称号を帯びて、ルソンより我国へ渡事せし者どもは、余が去(い)んぬる年月すでに厳(おごそか)に禁令を下したるキリシタンの信仰を説き、これを講じて当地に留まりたる故をもちて、先に陳(の)ぶる科(とが)によりて長崎へ送られ、彼処において、改宗せる日本人らもろともに磔(はりつけ)の極刑に処するものなり。しかして総数二十四人の者どもは十字架にかけたるままにさし置くものなれど、他の者どもの見せしめにせんがためなるをもって、何人といえども、この者どもを十字架より降ろすことを許さず。しかして、ここに改めて、何人も今日より以後、敢(あえ)てこの信仰を説くことはもとより、共犯者たることも厳に余は禁ずるものなり、これを犯すにおいては、この法令を破る者ただ一人たりとも、血族一同とともに死罪に処すべきことくだんのごとし。」長崎までの道中、付き添いの信徒二名が殉教者の馬の列に加えられる。長崎西坂の丘での刑の執行は、慶長元年十二月十九日(西暦1597年2月5日)である。殉教者は、刑の執行者に両脇腹を槍で突き刺されたのである。二十六名の内、二十名が日本人である。その職業は、織職、菜種商、医師、僧侶、樋屋、弓矢師、刀研師、大工、左官手伝い、料理方、門番他である。十歳、あるいは十二歳の日本人の少年ルドビコは、丘に連れて来られた時、自分の十字架はどこにあるのかと尋ね、子どもの背丈のそれを見つけて走り寄った、とイエズス会ルイス・フロイスは『日本二十六聖人殉教記』に書いている。フロイスは、日本人イルマン・パウロ三木の十字架の上の説教を書き留める。「ここにおいでになるすべての人々は、私の言うことをお聴き下さい。私はルソンからの者ではなく、れっきとした日本人であってイエズス会のイルマンである。私は何の罪も犯さなかったが、ただ私が主イエス・キリストの教えを説いたから死ぬのである。私はこの理由で死ぬことを喜び、これは神が私に授け給うた大いなる御恵みだと思う。今、この時を前にして貴方達を欺(あざむ)こうとは思わないので、人間の救いのために、キリシタンの道以外に他はないと断言する。キリシタンの教えが敵及び自分に害を加えた人々を許すように教えている故、私は国王〔秀吉〕とこの私の死刑に関わったすべての人々を許す。王に対して憎しみはなく、むしろ彼とすべての日本人がキリスト信者になることを切望する。」(ルイス・フロイス 結城了悟訳『日本二十六聖人殉教記』聖母の騎士社1997年刊)長崎西坂の丘に、日本二十六聖人記念館が建っている。その建物の前に、彫刻家舟越保武の二十六聖人の彫刻像がある。その最も小さい像がルドビコである。舟越保武は日本人殉教者フランシスコ・吉の像を作っている時、その顔に不義理のあった父親を見た、と随筆に書いている。その父親カトリック信者で、少年保武の手術で変形した脛の傷口に教会から貰ったという聖水を垂らしたのを見て怒鳴り拒否すると、父親は改めてクレゾールで傷口を消毒し、その聖水は保武の目の前で捨てたという。「フランシスコ・キチの顔をわたくしの父に似せて作ったのではない。そんなことは許されることではない。」(『舟越保武全随筆集 巨岩と花びらほか』求龍堂2012年刊)

 「ふたりをつなぐものは昔話しかない。お糸さんは娘と孫三人とで暮らしているから、喋ろうと思えば喋ることもあるが、菊蔵にはなんにもないのである。菊蔵には友達というものがない。幼い時の友だち、小学校の友だち、長じていっしょに遊びまわった友だちと、友だちにはその時その時でいろいろあったが、菊蔵はその時が終ると友だちと別れてきた。これはだれだって同じことだ。そして今、七十幾歳かになって、菊蔵はもう友だちが要らない。」(「立切れ」富岡多恵子『当世凡人伝』講談社1977年)

 「福島第1原発・20キロ圏内の海底がれき撤去着手 福島漁連」(平成28年9月27日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)