例えば、地下鉄烏丸御池駅から京都駅までは六分であり、京都駅から宇治駅までは奈良線快速で十九分、普通で二十七分であり、この電車の所要時間が平安時代に貴族の別業〔別荘〕があった宇治までの現在の距離である。宇治川に架かる宇治橋は、宇治駅から三分ほど歩けば西詰で、川向うの京阪宇治線宇治駅の改札からは真ん前に見え、橋から眺める上流の山の重なる景色は、その距離を思えば何事かであり、市中から直接来なければその何事かは、恐らく実感しない。橋の東詰にある通圓(つうえん)茶屋の露台に座り、いずれも六十半ばの年恰好の四人の男が、抹茶ソフトクリームを舐めている。傍らの四台の自転車は、彼らのもののようである。通圓茶屋は、広辞苑に「茶人通円が宇治橋の東詰で茶を売っていたという店。」と載る茶店である。その通円の二項目に「狂言の一。通円という茶坊主の亡霊が現われて、旅僧に弔いを頼み、宇治橋供養で茶を点死(たてじに)にしたことを語り舞う。」とある。「通円」は、近衛天皇を悩ませた鵺を射落とし、高倉の宮以仁王を擁して平家討伐を企てて敗れた源頼政の最期を描く謡曲頼政」をもじった狂言である。「去程(さるほど)に源平の兵(つはもの)、宇治河の南北の岸にうち臨み、鬨(とき)の声叫びの音、波にたぐへて夥(おびただ)し、橋の行桁(ゆきげた)を隔て戦ふ、味方には筒井の浄妙、「一来法師(いちらいほっし)、敵味方の目を驚かす、角(かく)て平家の大勢、橋は引いたり水は高し、さすが難所の大なれば、「左右(さう)なふ渡すべき様(やう)もなかつし処に、田原の又太郎忠綱と名乗つて、「宇治河の先陣我なりと、名乗もあへず三百余騎。銜(くつばみ)を揃へ川水に、少もためらはず、群居るー群鳥の翅を並ぶる、羽音もかくやと白浪に、ざつざつと打入て浮ぬ沈みぬ渡しけり 忠綱ー兵を下知〔命令〕して曰(いは)く、水の逆巻く所をば、岩ありと知るべし。弱き馬をば下手に立てて、強きに水を防がせよ、流(ながれ)む武者には弓(ゆ)筈(はず)を取らせ、互ひに力を合すべしと、唯一人の下知によつて、さばかりの大河なれども、一騎も流れずこなたの岸に、喚(おめ)いて上がれば味方の勢は、我ながら踏(ふみ)もためず、半町計(ばかり)覚えず退(しさ)つて、切先を揃へて爰(ここ)を最後と戦ふたり。さる程に入り乱れ、われもわれもと戦へば、頼政が頼みつる兄弟の者〔頼政の子・仲綱兼綱〕も討れければ、今は何をか期(ご)すべきと唯一筋に老武者の是(これ)までと思ひて、是までと思ひて 平等院の庭の面、これなる芝の上に、扇うち敷き、鎧脱ぎ捨て坐を組みて、刀を抜きながら、さすが名を得し其身とて。埋木(うもれぎ)の、花咲く事もなかりしに、身のなる果ては、哀(あはれ)なりけり。跡弔(と)ひ給へ御僧よ、かりそめながらこれとても、他生の種の縁に今、扇の芝の草の陰に、帰るとて失せにけり、立帰るとて失せにけり。」(「頼政新日本古典文学大系57『謡曲岩波書店1998年刊)「さても宇治橋の供養、今を半ばと見えしところに、都道者〔都の巡礼〕とおぼしくて、通円が茶を飲み尽さんと、名のりもあえず三百人、名のりもあえず三百人、口わき〔左右〕を拡げ、茶を飲まんと、群れ居る旅人に、大茶(おおじや)を点(た)てんと、茶杓(さしやく)をおっ取り簸屑(ひくず)ども〔茶を箕でふるって残った屑〕、チャッチャッと打入れて、浮きぬ沈みぬ点てかけたり。通円下部を下知していわく、水の逆巻く所をば、砂ありと知るべし。弱き者には柄杓を持たせ、強きに水を擔(にな)わせよ。流れん者には茶筌(ちゃせん)を持たせ、たがいに力を合わすべしと、ただ一人の下知によって、さばかりの大場なれども、一騎も残らず点てかけ、点てかけ、穂先を揃えて ここを最期と点てかけたり。さるほどに入れ乱れ、我も我もと飲むほどに、通円が茶飲みつる、茶碗・柄杓を打ち割れば、これまでと思いて、これまでと思いて、平等院の縁の下、これなる砂の上に、団扇(うちわ)をうち敷き、衣脱ぎ捨て座を組みて、茶筌を持ちながら、さすが名を得し通円が。埋(うづ)み火の、燃え立つことのなかりせば、湯の無き時は泡も点てられず。跡弔(と)い給え、御聖、かりそめながら、これとても、茶生(ちヤしヨう)の種の縁に今、団扇の砂の草かげに、茶(ちヤ)ち隠れ失せにけり、跡茶ち隠れ失せにけり。」(「通円」日本古典文学大系43『狂言・下』岩波書店1961年刊)頼政の自害の場所が、川を西に渡った平等院の東門を入った左手に、扇の芝と名づけ囲ってある。先ほど見かけた通圓茶屋の男四人が、門を潜り、扇の芝は素通りして、藤棚越しに見える鳳凰堂に歩いて行く。門から鳳凰堂までの距離は短い。平等院鳳凰堂は、西方極楽浄土の言葉をもって語られる。「道長から頼通のころにあっては、仏教思想に二つの特色がある。その一つは阿弥陀信仰であり、その二つは末法思想である。仏教信者が礼拝すべき仏菩薩の種類にも時代々々の流行がある。平安末期は西方極楽の主宰者たる阿弥陀如来を至心信拝し、死後は弥陀の西方極楽に往生せんことを希ったのであった。それ故に阿弥陀堂を建立することが、この時代の風流であった。もう一つは、釈迦入滅後二千年にして釈迦の法は消滅し、爾後五十六億七千万年にして出現する弥勒菩薩の時までは、往生者は救済される事がない、という思想である。後冷泉天皇の永承七年(1052)が正に入滅後二千年目になる。その年に鳳凰堂は建立されておる。それはその年までに造寺または造仏の功を積んだものだけは救済されるからである。……西方十万億土にあるべき阿弥陀如来の浄土は、かかるものであれかしと想う念慮から、努めて西方浄土の現出に心を配った。鳳凰堂はその随一である。」(「宇治の浄環」中村直勝『新・京の魅力』淡交社1963年刊)鳳凰堂の屋根は新しく葺き替えられ、柱の朱色も鮮やかであり、阿字池の水際も当時の如き形状であるという。堂内の阿弥陀如来も光背の精緻な透彫(すかしぼり)も天蓋も金色を十分に留めているが、三面の板扉の九品来迎図も丸柱も色を失い、江戸期に荒廃した頃の落書の跡が残っている。長押(なげし)の上の白壁の五十二体の雲中供養菩薩にも当時の色はまったくない。鳳凰堂の謂(い)われは、屋根の上のニ体の鳳凰によるのであるが、その伽藍に、翼を広げた鳥の姿を見てとったともいわれている。であれば、それは阿弥陀如来を内に乗せ、西方浄土から降り立ったか、あるいはこれから浄土に戻るための羽ばたきの一瞬である。しかし、贅(ぜい)の限り、美の限りを尽くした当時の姿を心に描いただけでは、末法思想による浄土往生は、甘いものを口に入れ甘いと感じるようには、理解はそこには近づかない。関白藤原頼通が、父道長から譲り受けた宇治の別業に極楽浄土を願う阿弥陀堂を造った。最も多くの財を手にした者が、使える限りの財を使って十万億土の彼方(かなた)から強引に、この世に極楽浄土を引き寄せたのである。浄土に行きたい一心で、あるいは浄土に行けない恐怖に打ち勝つために。極楽往生は願いではなく、死ぬことの恐れの裏返しである。チェルノブイリ原子力発電所の石棺は、死の恐怖に蓋をしたものである。東京電力福島第一原子力発電所の、止まらぬ蛇口を素手で押さえているような汚染水タンクと錯綜するパイプの現場は、死ぬ恐怖への必死の祈りである。平等院鳳凰堂の甘さは、爆発事故を起こした東京電力福島第一原子力発電所の辛さと同じである。通圓茶屋の四人の男が、その男たちだけが阿字池を挟んでしゃがみ、ソフトクリームを舐めた口を閉じ、阿弥陀堂に向って手を合わせている。しゃがんだ高さが、格子戸に開いた丸窓の奥にある阿弥陀如来の目の高さなのである。

 「「沙漠」という言葉は我々がシナから得たものである。これに相応する日本語は存しない。「すなはら」は沙漠ではない。厳密な意味において日本人は沙漠を知らなかった。しからばシナ語としての「沙漠」は何を意味するのであろうか。」(和辻哲郎『風土』岩波書店1963年)

 「東日本大震災から「5年7カ月」 沿岸部で不明者手掛かり捜索」(平成28年10月12日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)