後水尾(ごみずのお)天皇は、第百七代後陽成天皇の第三皇子、政仁(ことひと)親王であり、後陽成天皇は慶長三年(1598)、弟八条宮智仁(としひと)親王に譲位し院政の復活を夢見るが、徳川家康らの反対でその夢は一旦挫折する。が、慶長十六年(1611)、政仁親王への譲位が叶い、後陽成天皇は太上(だじょう)天皇、後陽成上皇となり、政仁親王後水尾天皇となる。慶長八年(1603)に征夷大将軍となった徳川家康は、二代将軍秀忠の娘和子(かずこ、まさこ)の後水尾天皇への入内(じゅだい)を企み、行く後は曾孫が天皇となり、己れが天皇外戚となることを思い描いたが、見届けぬまま死に、その四年後の元和六年(1620)、延期となっていた和子は、女官およつとの間に皇子皇女を儲けていた後水尾天皇の元に入内する。中宮となった和子は二人の皇子と五人の皇女を生み、その第二皇子となる高仁親王は二歳、第三皇子となる若宮は生まれた年に死亡し、寛永七年(1630)後水尾天皇は七歳の第二皇女である興子(おきこ)内親王に譲位して後水尾上皇となり、興子内親王明正天皇となる。この予告なしの後水尾天皇の突然の譲位は、これ以上言いなりにならないという、父後陽成天皇とも確執があった徳川幕府に対する「ザマア見ろ」であった。徳川幕府は元和元年(1615)、歴史に前例のない「禁中幷(ならびに)公家中諸法度」を定め、天皇、公家から絶対の権威と政治権力を奪い、行事儀礼の務めと学問の研鑚をその存在理由としたのである。法令に背けば天皇も流罪となるのである。後水尾天皇後陽成天皇の三宮で、一宮良仁(かたひと)親王と二宮幸勝親王仁和寺に入室させられている。兄二人を押しのけるような恰好で就いた天皇の地位を、後水尾天皇は自ら望んだわけではない。させられてそうなったのである。後水尾天皇は譲位を、玉体である天皇は身体に灸を据えることは出来ず、己れの身体に出来た腫物を灸で治療することを理由にし、徳川幕府に有無を云わせなかった。譲位した後水尾上皇は、皇族の系譜『本朝皇胤紹運録』によれば東福門院となった和子の二人を含め、五人の局らに三十人の皇子と皇女を産ませ、その内三人の皇子は、後光明天皇後西天皇霊元天皇となるが、徳川の血は流れていない。徳川和子との間の子の明正天皇は、結婚を許されない女帝であり、二十一歳で後光明天皇に譲位した後、出家して徳川家の血は絶える。後水尾上皇は心の中で「ザマア見やがれ」と呟いたのである。天皇の地位を捨てて身軽になった身を、後水尾上皇はそれ以上に身軽にするため、慶安四年(1651)落飾、仏道に入り、後水尾法皇となる。後水尾法皇にとっての仏道は、自由の味である。その四年後の明暦元年(1655)から、東福門院和子の実家である徳川家から金を出させて造営し、万治二年(1659)に完成したのが洛北の修学院離宮である。仏道に入ることが心の自由であれば、仙洞御所に閉じ込められている肉体に自由を得るのがこの別荘、離宮である。「御持病さまざまの事候へども、もと御うつき(鬱気)の一症よりおこり候由、医者ども申し、御自分にもその通りにおぼしめし候、針灸薬にては養生なりがたく候まゝ、内々仰せ出され候ごとく、山水の風景などご覧なられ候て、御気を点ぜられたくおぼしめし候。」(大老酒井讃岐守忠勝に宛てた後水尾法皇の覚書)「御自分にも」「ご覧なられ候」などと独特に己れを言い表わす後水尾法皇は、幕府の言いつけ通り諸藩とも政治にも一切関わらず学問、歌道やら書道やら茶道やら立花に精魂を傾けて来たが、定めに従ったせいで、身体の不調が一向に改善しないので、気晴らしをする場所、遊び場が欲しいと訴えたのである。修学院離宮は、その造営の始まる当時、後水尾法皇の第五皇子尊敬(そんきょう)法親王天台座主となっていた比叡山の西麓にある。総面積五十四万㎡の八割は三つの離宮、御茶屋であり、残りの二割は田圃と畠である。「離宮は御茶屋と称し、上中下の三所にありて、高低相属し、鼎立の状を為す。下ノ御茶屋には寿月観、蔵六庵の亭榭あり、頗(すこぶ)る瀟洒(しょうしゃ)たり。庭園幽邃(ゆうすい)にして青苔滑かなり。中ノ御茶屋には緋宮の化粧殿あり。張附杉戸等に具慶の名画を存す。側に楽只軒(らくしけん)の茗席あり。頗る佳致に富む。上ノ御茶屋は背面深山にして、大池前面にあり、之を浴龍池と号(なづ)く。懸泉漲りて之に注ぐ。島嶼に屋橋を架す。之を千歳橋と名く。橋の砌(みぎり)には奇石怪岩畳む。隣雲亭、洗詩台あり。共に眺望最も佳なり。北に窮邃亭(きゅうすいてい)あり。閑雅なる茗席なり。築庭の方法自然を存し、悠揚として人工の址を認めず。実に天下の名園たり。」(『京都坊目誌』)このような知識を携え、離宮の門を潜っても、宮内庁が管理する皇室用財産であれば、限られた時間を限られた人数で見て回ることになり、後尾に警護の者が控え、寄り道も足を留めることも許されない。列に従い歩く気分は、子ども時代の遠足を思い起させるようで、畠に植わる大根や白菜や葱を目にしていた目を比叡山まで向けると、ここはどこで、どうしてこのような場所を歩いているのかと、後水尾法皇離宮に来ている、あるいは離宮の中であるという思いから一瞬遠ざかる。穭(ひつじ)の出た田圃の通い道から、技巧を極めた中離宮、中の御茶屋の庭に入っても、田舎の隣近所の軒先を抜けるような気分に一瞬襲われる。上離宮、上の御茶屋に向かう通い道は、丈を低くされた松の並木が穏やかに田圃を隔て、待ち受ける門の先の石段の刈り込みは完全に左右の視界を塞ぎ、登りつめた隣雲亭に来てはじめて、ここが世を隔てた離宮であると思い至る。島の浮かぶ目を見張る曲線の大池と、その遥か向こうの洛中の街景色は、後水尾法皇己れが見たかった景色に違いないのであろうが、誰かに見てもらいたいと思わなかったであろうか。後水尾法皇が皇子尊敬法親王に宛てた置文(遺書)がある。「修学院山庄の事。内々思ひまうけ候子細も候へども、御所望候程に、愚老一世の後には譲与申し候べく候。此所は嵯峨の大覚寺に後宇多院皇居の御跡を残され候事、うらやましきやうに覚へ候ほどに、禁裏へゆづりまいらせ候て、つゐには門室をもとりたてられ候て、寺になさせおはしまし候へ。御一代の内に事行き候はずば、次々へゆづりをかれ候て、いつにても時節到来を期せられ候やうに思給ひ候。其の間は荒しはて候はぬやうに、誰にても修理職の者などに下知をくはへ候へと仰せ候てたび候やうにと申し置き候はんと思給ひ候つる事候。根本叡山の境内にて候へば、愚意の本懐相叶ふ事候条、若(もし)又成就ならざる時は、其方一世の後には禁裏へかへしまいらせられ候て給ふべく候。禁裏へも其のとをり申置候事候。相かまへてかまへて右の旨趣たがひ候はぬやうに御はからひ憑(たのみ)存ずばかりに候也。」後水尾法皇は、天台座主の息子尊敬法親王修学院離宮門跡寺院にせよと云った。この時後水尾法皇は、息子の目でこの景色を見、あるいはその先の、生まれるであろう親王の目で景色を見、もっと後の、誰とも知らぬ者の目になってこの景色を見たに違いない。後水尾法皇はそのような男であり、離宮にある田圃や畠は、誰でもない誰かを常に立ち入らせる開かれた余地なのである。

 「けれど私は、今回は新しい植樹の決心がつかなかった。私は、一生のあいだにかなりたくさんの木を植えてきた。この一本がそれほど重要なわけではなかった。そしてまたここでこのたびも、この循環を更新すること、生命の車輪を新たに始動させて、貪欲な死のためにひとつの新しい獲物を育成することに対して、私の心の中で何かが抵抗した。私はそれを望まなかった。この場所は空けたままにしておこう。」(ヘルマン・ヘッセ 岡田朝雄訳『庭仕事の愉しみ』草思社1996年)

 「年内の廃棄物搬入断念 「処分計画」環境省、楢葉と協定結べず」(平成28年12月17日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)