桂離宮を造営した八条宮智仁(としひと)親王は、慶長三年(1598)に兄である後陽成天皇が云い出した譲位が叶っていれば、第百八代天皇となっていた人物である。その譲位が叶わなかったのは、天正十四年(1586)に豊臣秀吉と猶子、養子縁組を結んでいたことがその理由とされ、自ら辞退したからともいわれている。が、反対した徳川家康は、天皇との外戚関係を築くため、弟ではなく、後陽成天皇の皇子政仁(ことひと)親王に関心を寄せていたのである。第百八代天皇にならなかった八条宮智仁親王はまた、豊臣秀吉の思惑のまま猶子になった時、秀吉亡き後の関白を約束された男でもあり、明国征服の暁には、「大唐都への叡慮(※後陽成天皇)うつし申すべく候。日本帝位の儀、若宮・八条殿(※政仁親王(後の後水尾天皇)か八条宮智仁親王)何にても相究めらるべき事。」(豊臣秀吉が関白秀次に与えた「二十五箇条の覚書」)として、天皇になる可能性があった男でもあった。が、天正十七年(1589)淀との間に世継ぎの棄(すて)が生まれると、猶子の関係は解消され、智仁親王は秀吉に八条宮家を創立させられるのである。このような翻弄屈曲を受けた者は、後にも先にもこの男しかいない。智仁親王は、猶子となった時、秀吉から天皇に次ぐ知行と財産を得ていた。その知行の一部丹波船井の土地を近衛家と交換したのが下桂であり、桂離宮の建つ地である。その近衛家近衛前久(さきひさ)の娘前子(さきこ)もまた天正十四年(1586)豊臣秀吉の猶子となって後陽成天皇に入内し、女御となり、その第三皇子が政仁親王後水尾天皇であり、後陽成天皇の四男二宮は前子の兄近衛信尹(のぶただ)の養子に入った後の関白近衛信尋(のぶひろ)であり、信尋は遊女吉野太夫を灰屋紹益と競った男である。八条宮智仁親王が、兄後陽成天皇の女御前子の実家の近衛家から得た下桂の地は、近衛家のものとなる前は、藤原道長の末裔藤原忠通の領地であり、八条宮智仁親王はこの地に、天皇が我が世の春であった平安王朝の名残りを嗅いだのである。藤原の栄華に憧憬を抱く教養を、智仁親王は身につけていたのである。『源氏物語』の「松風」の巻に出る桂殿は、藤原道長の別業、別荘をモデルにしたといわれている。作者紫式部は、道長の長女、一条天皇の中宮藤原彰子に仕えていたのである。「杯がたびたび巡ったあとで川べの逍遥(しょうよう)を危ぶまれながら源氏は桂の院で遊び暮らした。月がはなやかに上ってきたところから音楽の合奏が始まった。絃楽のほうは琵琶、和琴(わごん)などだけで笛の上手が皆選ばれて伴奏をした曲は秋にしっくり合ったもので、感じのよいこの小合奏に川風が吹き混っておもしろかった。月が高く上ったころ、清澄な世界がここに現出したような今夜の桂の院へ、殿上人がまた四、五人連れて来た。」(與謝野晶子訳『源氏物語』角川文庫1971年刊)歴史家中村直勝は桂離宮をこう書いている。「今出川殿(八条宮智仁親王)には相当な財産があることは面倒な事件になるかも知れぬ胚子である。反徳川の大名達が、今出川殿を盟主と仰いで、反江戸の旗を挙げる惧(おそ)れがないとは言えない。今出川殿は恐るべき怪鬼である。それをして、如何ともすべからざる状態に追い込む必要がある。判り易く言えば、今出川殿の財産を消費してしまう方策を案出することである。八條通桂川西の地が相せられた。そこに今出川殿のために別荘を新構することである。桂離宮はかくして出現した。」(『カラー京都の魅力 洛西』淡交社1971年刊)八条宮智仁親王丹波船井の土地と近衛家の下桂の土地を交換したのは慶長十八、九年(1613、4)の頃とされている。智仁親王のかつての養父であった秀吉の豊臣家が滅亡した大坂夏の陣は慶長二十年(1615)である。中村直勝の云いは、智仁親王が徳川の言い成りに、あるいは言い含められ別荘を造らされたということであるが、造ってもらった後に請求書が回って来るような言い成りは不自然であり、説得力が足りない。八条宮智仁親王は、自ら桂別荘に財産を注ぎ込み、大名勢力とは政治関係を持たぬ姿勢を徳川に示したのではないか。そのような頭の使い方を、八条宮智仁親王はしたのである。桂別荘、桂離宮の現在の姿は、智仁親王没後の荒廃を、二代智忠(のりただ)親王が新たに造営したものであるといわれている。智忠親王加賀藩主前田利常の息女富姫(ふうひめ)が嫁し、その前田家の財で智忠親王は父智仁親王の王朝趣味に茶の湯文化を色濃く肉付けし、離宮を避暑や観月、公家や僧や町衆との茶会や歌会や宴の場としたのである。桂離宮の見どころは、桂垣、穂垣、表門、御幸門(みゆきもん)、御幸道(みゆきみち)、御舟屋、住吉の松、中門、坪庭、御輿寄(おこしよせ)、古書院、月見台、中島、中書院、楽器の間、新御殿、月波楼(げっぱろう)、紅葉山、蘇鉄山、外腰掛、滝口、天の橋立、州浜(すはま)、石橋、松琴亭(しょうきんてい)、卍亭、螢谷、賞花亭(しょうかてい)、園林堂(おんりんどう)、笑意軒(しょういけん)、弓場跡、梅の馬場である。が、桂離宮修学院離宮と同じ皇室用財産であり、見学者は、解説者と警護の者に挟まれ、離宮の内を一時間余で脇目も振らず見て廻ることになる。飛石伝いに池を巡りながら、途中いくつかの茶屋の内を軒下から覗き、かの青と白の市松模様の襖を見、日に焼けた畳を見、目まぐるしく変わる庭景色の起伏に大抵の者は足を取られそうになる。離宮の中心、雁行並びの書院御殿はすべて障子を閉ざし、内に立って、あるいは腰を下ろして知り得るようなことは、外の位置からは永遠に知り得ない。見学の最後に、茅葺切妻屋根の中門を潜り、止めてはいけない足が止まる。田の字に組んだ四枚の石と縁(ふち)石の中門の雨落ちは大きく、踏み入れて止めた足の位置から奥に控える御輿寄は、左の生垣が遮り、見ることは出来ない。次の歩は飛石である。正方形の飛石は四枚あり、その二枚はくの字のように左に並び、次の二枚は右に折れて並び、折れたところは三枚が一線に右を向く恰好である。その正方形の石の間は、一枚目と二枚目、二枚目と三枚目、三枚目と四枚目と順に少しづつ幅を広く取ってある。四枚目の石の上に立ち、はじめて御輿寄の表が現われる。次の飛石はそこから左右二手に別れ、左は同じ正方形が一枚、右手はやや小ぶりの自然石が二つ置かれて尽きる。左の一枚は御輿寄の石段まで斜めに続く、モザイク状に真っ直ぐに敷き詰めた延石の先頭の一枚となる。延石を渡り終えると、また正方形の石が二枚斜め左に置かれ、最後の一個の自然石に足を載せれば、次は御輿寄の石段である。門からすぐには奥を見せず、歩みに一種の苦痛を強いるこの空間設計の慮(おもんばか)りは、畏敬の念を抱かせ、心を揺すられる何かである。この飛石は、「(小堀)遠州好み」の「すみちがい」と呼ばれるものである。もう一つ目に残った飛石は、園林堂の足回りの雨落ちを縫うように、猫の歩みのように横切る四角い石の列である。目に残ったものをもう一つ加えれば、書院の障子の白である。

 「一口に吾妻山と呼んでも、これほど茫漠としてつかみどころのない山もあるまい。福島と山形の両県にまたがる大きな山群で、人はよく吾妻山に行ってきたというが、それはたいていこの山群のほんの一部に過ぎない。」(深田久彌『日本百名山』山の文学全集Ⅴ朝日新聞社1974年)

 「福島県沖魚介「基準値超ゼロ」 95%が不検出、放射性物質検査」(平成28年12月30日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)