「邸宅を一個の生物に例えるならば、玄関はその頭部に当り客が先ず入って来る所である。玄関の前庭は如何なる客が入って来ても無礼にならぬ程度の特に引き締った式正の格調を要求される所であった。貴人の玄関前の鋪道は正式には石を四盤、亀甲、網代、乱継等の組様に敷き、両側を一直線に揃え、又その前後の両端は必ず門と玄関に連絡されていた。而(しこう)しこの桂御殿は桂御所そのものが御山荘であり一個の大露地であった。(御輿寄(みこしよせ)の)「中門」は内露地の猿戸に比すべき位置にあった。その為に敷石を飛石で打ったが、只の飛石では(書体の)草体に過ぎ、こゝが玄関であると云う意味が薄らぎ格調に乏しくなる、と云って敷石の両端を門と玄関に連絡しては山荘の雰囲気が破壊される。そこで敷石の両端を門と玄関に直結しない「真の飛石」が案出された。それは三十一尺もある大飛石を独立させ苔の中に浮かび上らせる絶妙の構想であった。中門を入って直ぐの砌(みぎり)を廻らした四個組の敷石は両扉への配慮と、これから渡って行く飛石を前にして佇む一呼吸入れる安定の場所であり、次の「角違い」の「くの字」に打った角飛石は左に向かう延石に対し一応右に行く力を与えたかった為で、「歩み」を乗せぬ視覚上打たれた「飾り」の飛石、或は「よろけ」の飛石であった。延石は加工された一つの大角飛石でもあり、これとの調和の為延石と接する所、及び東西両側には角飛、長石が適当に混用され、「角違い」に打ち継がれ「真の飛石」は完成された。」(久恒秀治『桂御所』新潮社1962年刊)「御殿への昇降口には、古書院の北面に設けられた御輿寄と元御台所のわきに設けた御玄関の二カ所、外部から御殿への入り口になっている。このうち御玄関は現在も御殿への通用入り口に使用されているように、一般の昇降口であった。八条宮家の奉公衆は台所入り口を使用するのが、当日本一般のならいである。御輿寄は、宮家の当主と家族および当主より高位の人、たとえば後水尾上皇の専用入り口であった。」(『桂離宮と茶室』原色日本の美術15小学館1967年刊)御輿寄は、宮家の当主と家族および当主よりも高位の人、たとえば後水尾上皇の専用の入り口であった、この慮(おもんばか)りに、桂離宮の見学の足を止めたのである、いや、足を止めさせられたのである。このような話がある。東京に住むある者が、東北福島のある温泉旅館の朝食に出た納豆が気に入り、月に数度その製造元に注文をし、製造元はその度(たび)に三十個ほどの納豆を段ボールに詰めて送っていた。ある年の四月、その製造元の息子の大学の入学式に出るため、その父親は注文のあった納豆の段ボールを抱えて上京する。上野で待ち合わせた親子二人は、その者の住む蒲田で電車を降り、住所を頼りに見知らぬ土地でどうにかその者の住まいを見つけ、柵の門扉を開け、芝生に並べたセメントの飛石を伝って玄関の呼び鈴を押す。出て来た女の主(あるじ)に、はじめて顔を合わせた父親が名乗ると、女の主は二人に、裏に回れと云う。裏に回ると、塀の勝手口が開いていて、親子二人は勝手の狭い三和土(たたき)に靴を脱いでその家の台所に上り、調味料が載ったテーブルに並んだ鉄パイプの椅子に座らされる。女の主は受け取った納豆の礼を云うが、二人に茶を出すようなことはしない。父親が入学式で来たと云っても、祝うような何事も云わず、椅子に座り、いま持ち合わせがないので代金は後で振り込むと云うと、すぐに立ち上がる。用は済んだのである。親子二人は頭を下げ、台所の床に尻を下ろして自分の靴を履き、表に出て行く。黙って来た道を駅まで戻り、親子二人は乗って来た京浜東北線の中で悪夢から放り出されたように覚束なく立ったまま、揺れればつり革にしがみつく。これは聞いた話ではない。

 「ここでみてきた宮城図や各種の官衙(かんが)図もまた、それと一体となった「あるべき実態」を表現し、それを転写し続けていたのだろうと思われます。それは、現実の実態とは必ずしも同一ではなく、かつてあった状況を含む、「あるべき様相」であったとみられることを再確認しておきたいと思います。」(金田章裕『古地図で見る京都』平凡社2016年)

 「避難指示「4月1日解除」評価 政府、富岡に方針説明」(平成29年1月11日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)