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 「嵯峨に遊びて、去来が落柿舎(らくししゃ)に至る」ではじまる芭蕉四十八歳、元禄四年(1691)の嵯峨滞在の記『嵯峨日記』に、小督局(こごうのつぼね)の遺跡を尋ねる件(くだり)がある。「松の尾の竹の中に小督屋敷といふ有り。すべて(※どれも)上下(かみしも)の嵯峨に三ところ有り。いづれか確かならむ。かの仲国(なかくに)が駒をとめたる所とて、駒留の橋といふ、このあたりにはべれば、しばらくこれによるべきにや。墓は三軒屋の隣、藪の内に有り。しるしに桜を植ゑたり。かしこくも(※恐れ多くも)錦繍綾羅(きんしうりようら)の上に起き臥しして、つひに藪中(そうちゆう)の塵芥となれり。昭君(※中国漢の美女)村の柳、巫女廟の花の昔も思ひやらる。うきふしや竹の子となる人の果て 嵐山藪の茂りや風の筋。」平清盛の娘、高倉天皇の中宮徳子は、その女房の召使いの、寵愛の女童葵前(あおいのまえ)との別離を余儀なくされ気落ちした高倉天皇のため、「主上(しゆじやう、高倉天皇)の御思ひにしづませ給ふを、中宮の御方(徳子)より、なぐさめまゐらせんとて、「小督殿(こがうどの)と申す女房を参らせらる(※お側に差し上げる)。桜町の中納言成範(しげのり)の卿(きやう)の御むすめ、冷泉(れいぜい)の大納言隆房(たかふさ)卿のいまだ少将なりしとき、見そめたりし女房なり。」(『平家物語』巻第三 葵の女御)そうなれば、その大納言隆房は、「今はまた君(高倉天皇)に召されまゐらせて、せんかたなくかなしくて、あかぬ別れ(※未練の別れ)の涙には、袖しほたれてほしあへず(※袖が濡れて乾く間もない)。……今はこの世にてあひ見んこともかたければ(※逢うことも難しいので)、「生きてひまなくものを思はんより(※小督殿を思い続けるより)、ただ死なん」とのみぞ願はれける。」と思いつめてしまう。「太政入道(平清盛)このよしを伝へ聞き給ひて、御姫(徳子)は中宮にて、内裏へわたらせ給ふ(※宮中に召されていらっしゃる)、冷泉の少将(隆房)の北の方(妻)も同じく御むすめ(※清盛の四女)なり。この小督殿ひとかたならずか様(よう)にありしあひだ(※二人の婿に愛されているので)、太政入道、「いやいや、この小督があらんほどは、この世の中あしかりなんず(※娘夫婦の間が良くならない)。小督を、禁中を召し出(い)ださばや」とぞのたまひける。小督殿、このよしを聞き給ひて、「わが身のことはいかにもありなん、君(高倉天皇)の御ため心ぐるしかるべき」と、内裏をひそかに逃げ出でて、いづくともなく失せ給ひぬ。」その小督局の失せた先が嵯峨である。が、高倉天皇は弾正大弼仲国(だんじやうのだいひつなかくに)に行方を探させる。笛の名手仲国は、琴の名手だった小督局を、その琴の音で探し当て、密かに宮中に連れ戻す。が、これを聞き及んで怒った清盛は、「小督殿をたばかり出(い)だして(※だまして出して)、尼にぞなされける。出家は日ごろより思ひまうけたる(※覚悟していた)道なれども、心ならず尼になされて、年二十三にて、濃き墨染にやつれつつ(※姿を変えて)、嵯峨の辺にぞ住まれける。主上高倉天皇)は、か様の事どもを御心ぐるしうおぼしめされけるより、御悩つかせ給ひて(※ご病気にかかられて)、つひに崩御(※亡く)なりぬ。」小督局が連れ戻され、高倉天皇との間に範子内親王を生んだのが、治承元年(1177)であり、中宮徳子が第一皇子言仁親王安徳天皇)を生んだのが、治承二年(1178)である。『平家物語』は、仁安二年(1168)高倉天皇が即位し、「この君(高倉天皇)の位につかせ給ふは、いよいよ平家の栄華とぞ見えし。……入道相国(にふだうしやうごく、平清盛)かやうに天下をたなごころににぎり給ふあひだ、世のそしりをもはばかり給はず、不思議のこと(※けしからぬこと)をのみし給へり。たとへば、そのころ京中に白拍子の上手、義王(ぎわう、祇王)、義女(ぎによ、祇女)とておととひ(※姉妹)あり。これはとぢといふ白拍子のむすめなり。姉の義王を入道最愛せられければ、妹の義女をも世の人もてなすことかぎりなし。母とぢにもよき家つくりてとらせ、毎月百石百貫をぞおくられける。家のうち富貴にしてたのしきことかぎりなし。」(『平家物語』巻第一 義王)と、その物語をはじめてまもなくに、清盛が寵愛した遊女義王を登場させ、そのけしからぬことをこう語るのである。「宮中にまた白拍子の上手一人出できたり。これは加賀の国の者なり。名を仏(ほとけ)とぞ申しける。」その仏を、清盛の門前払いにもかかわらず、義王が招き入れると、清盛は忽(たちま)ち虜(とりこ)になるが、「(仏御前が)「かやうに召しおかれさぶらひなば、義王御前の思ひ給はんずる心のうちこそ(※義王の心の様を思うと)はづかしうさぶらへ、はやはやいとまを賜はりて出(い)ださせ給へ」と申しけれども、入道「なんでう、その儀あるべき。ただし義王があるをはばかるか。その儀ならば義王をこそ出(い)ださめ」とのたまふ。」義王は清盛の邸を自ら出て行くと、毎月の百石百貫も打ち切られ、悲嘆に沈み暮らした翌春、清盛が、「いかに義王。そののちなにごとかある(※どうしているか)。さては仏御前のあまりにつれづれに(※退屈そうに)見ゆるに、なにかくるしかるべき(※遠慮はいらぬ)、参りて今様をもうたび、舞なんどをも舞うて、仏なぐさめよ」とぞのたまひける。」義王は母刀自(とじ)の説得に従い、清盛と仏御前の前で涙を堪えて舞うが、「かくて都にあるならば、また憂き目をも見んずらん(※辛い目を見るに違いない)。いまは都のうちを出(い)でん」とて、義王二十一にて尼になり、嵯峨の奥なる山里に、柴のいほりをひきむすび、念仏してぞゐたりける。」(『平家物語』巻第一 義王出家)妹義女、母刀自も共に剃髪し、時過ぎてその秋、嵯峨の庵に尼になった仏御前が現われ、義王らを驚かす。「つくづく物を案ずるに、娑婆の栄華は夢のうちの夢、たのしみさかえてもなにかせん。人身(にんじん)は受けがたく、仏教にあひがたし。このたび泥梨(ないり、奈落)に沈みなば、多生曠劫(たしやうくわうごふ、生まれ変わりの長い時)を経(ふ)るとも浮かびがたし。年の若きをたのむべきにもあらず。老少不定(らうせうふぢやう、予測できない寿命)のさかひなり。出(い)づる息の入るをも待つべからず(※死期が来るのにひと呼吸の猶予もない)。かげろふ、いなづまよりもなほかなし。一旦のたのしみにほこりて(※驕って)、後生を知らざらん(※顧みなかった)ことのかなしさに、今朝まぎれ出(い)でて(※こっそり邸を脱け出て)、かくなりて(※尼になって)こそ参りたれ。」義王の没年とされる承安二年(1172)は確かではないが、治承元年(1177)に京に戻った小督局は、その一時を義王らの暮らす庵から一キロ足らずの所に隠れ住んでいたのである。義王らの墓がある往生院祇王寺は、去来の住まいだった落柿舎から数百メートルの場所にあるが、芭蕉は『嵯峨日記』には何も記していない。芭蕉が目にした小督局の墓と称する桜は、その住居跡であるが、渡月橋北詰から大堰川(おおいがわ)をやや上がった引っ込みにあるその住居跡の小督塚は、昭和三十年代に女優の浪花千栄子が設けたものである。塚は塵一つ、雑草の一本も生えてなく清潔だったが、一本の花も供えられていなかった。

 「熊谷直実入道蓮生(くまがいなおざねれんしょう)がしゃにむに上品上生(じょうぼんじょうしょう)をこそと願ったのは、荘厳はなやかな中で極楽往生することが目的ではなく、往生した後、再び極楽から還り来って、娑婆(しゃば)即(すなわ)ち現世の有縁無縁の衆生が極楽へ往生する折の先導役をつとめることに在った。この点に蓮生の特色があり、それは極楽往生を眼目とする法然の専修念仏には欠けていたところではなかったかと私は思う。」(唐木順三『あづま みちのく』中公文庫1978年)

 「福島・富岡の避難解除2月に判断 政府の住民説明会終了」(平成29年1月30日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)