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 油小路通(あぶらのこうじどおり)は、その西の堀川通と東の西洞院通(にしのとういんどおり)の間を南北に走り、東西に走る六角通から五条通までの堀川通の間は、醒ケ井通(さめがいどおり)が挟まり、北の紫明通(しめいどおり)から錦小路通西洞院通の間には小川通が挟まり、錦小路通から途切れ、仏光寺通から塩小路通までの油小路通西洞院通の間に挟まれた小川通は、天使突抜通あるいは東中筋通と呼ばれている。平安京造営で引かれた、油小路通の名前の謂(いわ)れは分からない。小川通が終わる紫明通の一筋南の寺之内通油小路通も一旦途切れ、通りは尭天山報恩寺に突き当たる。報恩寺には、「撞かずの鐘」と呼ばれる鐘がある。夕に鳴る鐘の数で口論となった機屋の十三歳の織子(おへこ)が、相手の十五歳の丁稚(でっち)に言い含められ寺男が一つ減らしてその日の夕に鐘を撞いたため、悔しさに鐘楼に掛けた帯で首を吊って以来、除夜にしか撞かないという鐘である。南の方を下(さが)ル、北の方を上(あが)ルという京都の云いで、鄙(ひな)びた報恩寺から油小路通を下(さが)ッて最初に交差する今出川上ルには、平清盛らを率いた弟後白河天皇と朝廷の実権を争った保元の乱で破れ、讃岐に流された崇徳上皇(すとくじょうこう)を祀る白峯神宮と、徳川家康に洛北鷹峯の地を貰うまで住んでいた本阿弥光悦の屋敷跡がある。崇徳上皇は自分の血で経を写し、爪や髪を伸ばし続けて天皇家を呪い、死後その怨霊が京洛を襲ったとされ、前の孝明天皇が果たせず、明治天皇白峯神宮を造り、名誉の回復のため、その霊を讃岐から京に慶応四年(1868)帰還させたのである。次に交わる元誓願寺通を下ッた油小路頭町(あぶらのこうじかしらちょう)には、慶長ヤソ会天主堂教会跡の駒札が立っている。建物は美しかったが、教会がこの地にあったのは、慶長十七年(1612)の徳川幕府の弾圧までの十年足らずの間であった、と駒札は記している。次の一条通を下ルと、茶道千家十職(せんけじっそく)の一つ、茶碗師樂吉左衛門家の樂焼美術館がある。その謳(うた)い文句は、「手のひらの中の宇宙 楽焼」である。次の中立売通西入ルには、壁にヴィーナスやライオンの頭のレリーフがある逓信技師岩元祿が設計した重要文化財、大正十年(1921)竣工の旧京都中央電話局西陣分局の建物がある。その灰色の壁の色は、取り残された最先端の身の竦(すく)みである。下立売通を下ッた人形店に、桃の節句雛人形が飾ってある。「お内裏様とお雛様ふたり並んですまし顔」のその顔が見ているのは、宇宙の何事かである。二条通を下ッた、二条城を前に並んだホテルの一つ、昭和四十四年(1969)学生運動の最中、二十歳で鉄道自殺した立命館大学学生、日記『二十歳の原点』を残した高野悦子がアルバイトをしていた京都国際ホテルは、いまは解体され、囲みの内では、新しいホテルの工事が始まっている。彼女の自殺の現場は、その下宿先から毎日目にしていた、まだ高架になっていない国鉄山陰線円町駅の手前の踏切である。油小路通蛸薬師には、織田信長が自害し果てた本能寺跡の碑、空也が念仏を広めた道場、空也紫雲山光勝寺がある。錦小路下ル、仏光寺下ルには織物問屋染物屋の間(あい)に京都有形文化財の町家野口家住宅、商家秦家住宅が建っている。秦家の向いは、祇園祭太子山の会所である。その山車(だし)に乗る太子像は、四天王寺建立の材を探して山城の森に入った若き聖徳太子である。五条上ル西には、山本亡羊(やまもとぼうよう)読書室舊跡の碑がある。山本亡羊は安永七年(1778)に生れ、安政元年(1859)に没した本草学者であり、読書室は私塾である。平成二十六年(2014)、この土蔵から維新時に岩倉具視が使った暗号表が見つかっている。仏壇仏具屋が軒を連ねる珠数屋町(じゅずやちょう)の正面通を西へ進めば、堀川通の向うに西本願寺がある。正面通東入ルの煉瓦造りの洋館は、西本願寺伝道院である。七条通を越し、木津屋橋上ルにある本光寺の前に、「伊東甲子太郎(いとうかしたろう)外数名殉難の地」と記した駒札が立っている。「伊東甲子太郎常陸茨城県)の出身で、学問もでき、剣は北辰一刀流の名手であった。元治三年(1864)に門弟ら七人を率いて新撰組に入隊し、参謀として重視された。しかし、尊王派であった伊東は次第に隊長近藤勇と相反するようになり、慶応三年(1867)三月に同士十五人とともに新撰組を離脱して御陵衛士となり、高台寺月真院を屯所とした。その後薩摩藩の援助を受け、盛んに討幕を説いた。しかし新撰組との対立は深く、同年十一月近藤勇は、伊東を招いて酒をふるまい、酔った伊東をその帰路この地で刺殺した。この知らせを聞いた伊東一派は直ちに駆け付けたが、待ち伏せていた新撰組数十名の隊士に襲われ、三名が斬られた。世にこれを油小路七条の変という。京都市油小路通は、京都駅の線路を潜ると、堀川通と合流し、道幅は格段に広くなるが、その南の先には然(さ)したる歴史は刻まれていない。やり羽子(やりばね、羽子つき)や油のやうな京言葉 高濱虚子。 

 「こうした不幸者たちのいくらかは、おそらく自分自身から何かが滲み出るのを漠然と感じるからであろう。まるでそうした神秘的な発散物が外へ出ないようにするかのごとく、あらゆる出口を閉ざして、みずからも緊張した固い表情をつくる。それとも、彼らが仮面を前にしてそうした凍ったような死の表情をつくるのは、模倣の精神や暗示の結果であろう──彼らもやはりとても影響を受けやすく、感じやすいのだ。」(ナタリー・サロート 三輪秀彦訳『見知らぬ男の肖像』河出海外小説選1977年)

 「第1原発事故「最大値」…2号機・格納容器内530シーベルト」(平成29年2月3日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)