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 建武三年(1336)、自身の諱(いみな)である尊治(たかはる)の一字を許した足利尊氏に、天皇の位を取上げられた後醍醐天皇は、朝廷に偽物の三種の神器を渡して奈良の吉野に逃れ、逃れてなお己(おの)れの正統を主張し、その主張するところが自(おの)ずと朝廷となり、尊氏が擁した光明天皇北朝に対して南朝と呼ばれ、両朝が闘争関係にあった鎌倉幕府後の五十余年が南北朝時代である。足利高(尊)氏と新田義貞によって鎌倉幕府は滅んだが、後醍醐天皇の試みた天皇政治は、武家の新しい力を到底ねじ伏せることが出来なかった。が、武士勢力大覚寺統八条院領と持明院統の長講堂領の膨大な荘園を背景に南北両朝に分かれたまま、己(おの)れの力を使い果たすまでその力づくの主張を已(や)めなかった。明徳三年(1392)、尊氏の孫、三代将軍義満に従い、後ろ盾の勢力が衰えた南朝第四代後亀山天皇北朝後小松天皇に譲位することで南北朝時代は終わる。その合一、後亀山天皇後醍醐天皇から受け継いだ真物の三種の神器、鏡玉剣を北朝に譲り渡した場所が嵯峨大覚寺である。吉野から行列して上洛した後亀山天皇はそのまま大覚寺を住まいとし、隠居の身となるが、六年後再び吉野に遁走する。この遁走は、両統が交互に天皇になるという約束を違(たが)えた幕府への抵抗であり、南朝大覚寺統の生き残りはその後も燻(くすぶ)るような反乱を繰り返すのである。足利尊氏は、暦応(りゃくおう)二年(1338)に後醍醐天皇が吉野で亡くなると、自分に討伐の命を下した後醍醐天皇の菩提の弔いに、夢窓疎石の進言で領地を寄進し、中国元に天龍寺船を出して費用を捻出し、大覚寺の西の嵯峨の地に天龍寺を建てる。一時出家を試みた尊氏の、心の揺れがそうさせたのである。その尊氏は明治の末、南朝正統論者によって逆賊として教科書に載るのである。後醍醐天皇が吉野に逃れた同じ建武三年(1336)、足利尊氏の軍に火を放たれ伽藍の大方を失った大覚寺の、大沢池(おおさわのいけ)の畔(ほとり)の老木の下に、石仏が並んでいる。鎌倉期のものであるとされているが、誰が彫り、いつからそこにあるのかは分かっていない。七百年前の目鼻が辛うじて残っているものもあり、丈が一メートル余のひと並びを、胎蔵五仏であると説明する者もいる。塩をしょっぱいと云うように説明すれば、胎蔵五仏は密教世界を表わす両界曼荼羅の一方、胎蔵曼荼羅の中心である。「胎蔵界曼荼羅の中心部を中胎蔵と云ひ、又中台八葉院と称す、八葉の蓮華開敷せる形なり。中台を大日如来とし、四方の四葉に四仏を現じ、四維の四葉に四菩薩(普賢・文殊・観音・弥勒)を現ず、即ち南方開敷華王如来(かいふけおうにょらい)、東方宝幢如来ほうとうにょらい)、北方天鼓雷音如来(てんくらいおんにょらい)、西方無量寿如来(むりょうじゅにょらい)、中台の大日如来と合して五仏なり。」(『佛教大辭典』大倉書店1917年刊)胎蔵曼荼羅は、別の言葉ではこう説明する。「生来煩悩(ぼんのう)にわずらわされず純化しやすい仏性(ぶっしょう)は上昇して光り輝き(遍知院へんちいん)、煩悩に包また鈍重な仏性は、強烈な衝撃(明王みょうおう)の忿怒(ふんぬ)によって目覚め、黒煙を上げて燃え上る(持明院じみょういん)、仏性への目覚めは蓮華の慈悲となり(観音院(蓮華部院))、金剛杵(こんごうしょ)のごとく魔を破壊する勇気ともなり(金剛手院(金剛部院))、仏性の澄明な光をともした者は、智者の導きによって着実に智慧への階梯を上る(漸悟ぜんご)(釈迦院)。一方、度し難い者も、電撃的な閃(ひらめ)きによって悟りへの道へ飛躍する(頓悟とんご)(虚空蔵院こくうぞういん)、菩薩に点火された仏性の光は、さまざまな実践を通して光輝を増し(地蔵院、文殊院、除蓋障院じょがいしょういん、蘇悉地院そしつじいん)、迷える衆生(しゅじょう)に浸透する(最外院さいげいん(外金剛部院))」(『仏教大辞典』岩波書店1987年刊)仏教の言説は目が眩(くら)むほど際限がないのであるが、そのひと抓(つま)みを云えば、塩はしょっぱく、仏教は解脱である。仏像、石仏はその教えを直観として見よ、とするものである。真新しい石仏よりも、朽ち果てた石仏に心が動き、敬意を払う者は、その理由を考える。信心が本物であれば、恐らくそのように濁った見方はしない。朽ち果てた石仏に長い時間の経過を見るのであれば、それは子どもでも分かる。それを見続けることが出来ないことに、人は敬意を払うのではないか。人は七百年見続けることは出来ない。その敬意を払う行為の一つは、この石仏のために、石仏がこうしてあることに、この石仏の傍(かたわ)らで起きた事ごとを思うことである。

「ががの声にじさまは目を覚ましました。じさまの夢は浅く、終始雑夢に漂っているが、覚めるとなにも忘れてしまうのです。しかし、囲炉裡の薪は燠(おき)になりながらも、まだ燃えている。じさまは思わず身震いしました。その薪はたしかにだだが、じさまに風邪を引くなと言ってあの笑顔で火種に足してくれたものです。」(森敦『われ逝くもののごとく』講談社1987年)

 「浪江、避難指示「3月31日」解除、避難区域で最多1万5327人」(平成29年2月28日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)