喉頭癌を患い職場を去って行った韓国籍の同僚だった者が、天神川の桜が奇麗であると、遠慮深げに云ったことがある。桜の話をしたのは、恐らく去年か一昨年のいま頃である。それより以前には、その者とは見ず知らずの関係であり、その者の退職は去年の夏である。その遠慮深げだった云いは、桜はどこで見ても桜であり、同じように奇麗であるという物云いに対する、些(いささ)かの異議でもあったが、桜について日本人に物云うことへの、韓国人の遠慮であったかもしれない。その元同僚は、二十歳で来日し、京都生まれの韓国人と結婚して二人の子を儲けた後、その夫と死別した六十余歳の女性である。天神川は、北の鷹峯からはじまり、北野天満宮の辺りまでの流れを紙屋川と呼び、南に下って吉祥院天満宮の西で桂川に注ぐまでを天神川と呼ばれている。元同僚の云う天神川の桜は、その口振りによれば、四条通から五条通の間の辺りを指していた。御池通で御室川と合流してからの天神川は、真っ直ぐな幅二十メートル余の、底の深い、浅い流れの川である。桜並木は、東の縁(ふち)沿いにあった。並んで走る葛野(かどの)中通に挟まれ、枝の下の叢(くさむら)には小径が通っている。川の西側は車の往来のある天神川通である。冷たい風が吹くこの日の空は曇り、日の暮れ様(よう)が緩慢な夕刻、並木の外れに並ぶ三つのベンチの内の二つで、数人の者が缶ビールを呑みながら持参のものを喰っていた。宴を張っているのは、その者らだけである。母子三人が、幾枚か写真を撮って帰り、五条通の方からやって来た中年の夫婦らしき者が、空いていたベンチに座り、ニ三分で腰を上げて行った。葱のはみ出た買い物袋を提げた者が、頭上を見上げながら通って行く。その後ろをやって来た者が、家に帰る途中かもしれぬ足を止めて桜を見上げる。その二人が去ると、人の通りが暫(しばら)く途絶える。日中響いていたかもしれぬ、鳥の声もしない。この桜並木の際の枝は、どれも川の底に向って撓(しな)い、それは何者かによってそうさせられたのではなく、人によって植えられた後は、己(おの)れの意思をもって枝を曲げ伸ばした、桜の身体とでもいうべき様(さま)であり、その並びの一本一本が、自らを花で覆っている様(さま)にも、この桜の身体の強靭な意思を思うのである。桜に限らず、大木(たいぼく)は擬人化され易い。ここの桜は、平凡で愚直な桜である。が、愚直でなければ示すことの出来ない意思を、この桜の幹に触(さわ)れば感じることが出来る。そのように感じなければ、日がとっぷり暮れた薄闇の中で、俄(にわか)にしみじみとした気分に襲われたりはしない。通りを挟んで天神川ホールという葬儀場が、東側にある。桜の咲く時期にこの場所で死者を送った者は皆、この愚直な桜を目にすることになるのである。

 「日毎夜毎(ひごとよごと)を入り乱れて、尽十方(じんじつぽう)に飛び交はす小世界の、普(あま)ねく天涯を行き尽して、しかも尽くる期(き)なしと思はるゝなかに、絹糸の細きを厭(いと)はず植ゑ付けし蚕(かいこ)の卵の並べる如くに、四人の小宇宙は、心なき汽車のうちに行く夜半(よは)を背中合せの知らぬ顔に並べられた。」(夏目漱石虞美人草(ぐびじんそう)』岩波漱石全集第三巻1966年)

 「浪江・請戸の慰霊碑に「氏名」刻まれず 町民以外の津波犠牲者」(平成29年4月16日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)