藤原公任(ふじわらのきんとう)が娘の結婚相手藤原教通(ふじわらののりみち)への引出物に用意したという『和漢朗詠集』の巻上の秋に、大中臣能宣(おおなかとみのよしのぶ)の、もみぢせぬときはの山にすん(む)鹿はおのれなきてや秋をしるらん、の歌が載っている。自分の鳴く声で求愛の季節、秋を知るという知の勝(まさ)った、技巧が鼻につくような歌である。鶴鳴くやわが身のこゑと思ふまで 鍵和田秞子(かぎわだゆうこ)。この鶴の声は、自分への問いである。自分の声は、果たして自分の声であるのか、他人の声、他人の考えではないのか。自分の声を自分の声と思うための、そもそもその自分とは何者なのか。何者でもなければ、何者であろうとしているのか。びいと啼く尻声悲し夜の鹿 芭蕉。この句の値打ちは、夜である。例えば、旅先で敷き延べた床に就こうとしている時に鹿の声を耳にする、という映像を想像すれば、通俗を免れないが、その実際の鹿の声は、通俗と関わりなく聞く者の胸の奥にまで届くはずである。転生を信ずるなれば鹿などよし 斎藤空華(さいとうくうげ)。芭蕉の句と並べれば、空華の句の成熟度は歴然としている。三十二歳で世を去った空華は、若い時には微塵も思わなかったに違いない転生というものを、遠くない死を前にして、仮定として考えることは構わないと思う。転生を想像すれば、気分が変わるかもしれない。が、この仮定は、願いではない。空華はまだ、転生を信じるほど追いつめらていない。だから鹿などよし、なのである。洛西栂尾(とがのお)にある高山寺に、一対の鹿の木像がある。いまは重要文化財に指定され、京都国立博物館の倉庫に眠っている、その神鹿と呼ばれている牝の写真が、『京都再見』(鹿島出版会1966年刊)に載っている。鹿は博物館のガラスケースの中ではなく、高山寺石水院の広縁に置かれている。背後は霞んだ秋の山である。鹿は床に腹をつけて臥せ、細い前肢を弓のように軽く曲げ、持ち上げた首を伸ばし、口を開き、目は中空に向かって見開かれ、その表情は哀切極まりない。施(ほどこ)された色は殆(ほとん)ど剥がれ落ち、顔や耳や胴や肢の継ぎ目が露わになっている。この牡牝の神鹿は、後鳥羽上皇の命で華厳道場高山寺を開いた明恵(みょうえ)が、その鎮守とした春日・住吉明神の拝檀に置いたものであるという。明恵は、己(おの)れの前を歩んでいた法然の専修念仏を、菩提心を撥去(はっきょ)する過失、と非難した者である。阿弥陀仏を信じ、念えるだけで救われるという法然の革新の教えは、明恵の眼には、根本の求めるべき悟りを骨抜きにしていると映ったのである。「片輪者にならずば、猶(なお)も人の崇敬に妖(ばか)されて、思はざる外に心弱き身なれば、出世もしつべし。左様にては、おぼろげの方便をからずは、一定(いちぢやう)損とりぬべし。片輪者とて、人も目も懸けず、身も憚(はばか)りて指し出でずんば、自(おのづか)らよかりぬべしと思ひて、志を堅くして、仏眼如来(ぶつげん)の御前にして、念誦の次(つい)でに、自ら剃刀を取りて右の耳を切る。」(「栂尾明恵上人伝記」)この耳切りは求道、悟りを求めるための強烈な明恵の姿であり、そうせざるを得なかった明恵のもろさである。あるいは、このような生の声を残した明恵の決意である。「我が朝に、鑑真和尚唐土より渡り給ひて、専(もっぱ)ら此の波羅提木叉を弘め給ひしかば、其の比、頭(かうべ)をそ(剃)れる類、是(これ)を守らずと云ふ事なし。面々、其の上に宗々をも学しけれども、今は年を遂(お)ひ日に随ひて廃(すた)れはてて、袈裟、衣より始めて、跡形もなく成れり。適(たまたま)諸宗を学する者あれども、戒をしれる輩はなし。況(いはん)や又受持(じゅじ)する類なし。何を以てか人身(にんじん)を失はざる要路とせん。今は婬酒を犯さざる法師も希(まれ)に、五辛(ごしん)・非時食を断てる僧も無し。此の如く、不当不善の振舞ひを以て法理を極めたりと云ふとも、魔道に入りなば、人天の益もなく自身の苦をも免(まぬが)れずして、多劫の間、徒(いたず)らに送らん事、返す返すも損なるべし。如何にしてか古(いにしへ)のままに戒門を興行すべき方便を廻(めぐ)らさん。」(「栂尾明恵上人伝記」)明恵は、「印度ハ仏国也、恋募之思ヒ抑ヘ難キニ依リ遊意ノ為ニ之ヲ計リ、哀々マイラハヤ」との釈迦への一途さだけではなく、遁世したはずの身の回りを悩ませる俗世からの脱出も理由にあったといわれているが、天竺行きを二度志し、「神のお告げ」を受けて二度とも断念した後、俗界の外れ栂尾に高山寺を構えるのである。「人は阿留辺幾夜宇和(あるべきやうわ)と云ふ七文字を持つべきなり。僧は僧のあるべき様、俗は俗のあるべき様なり。乃至(ないし)、帝王は帝王のあるべき様、臣下は臣下のあるべき様なり。此のあるべき様を背く故に、一切悪(わろ)きなり。我は後世(ごせ)たすからんと云ふ者に非ず。たゞ現世に、先づあるべきやうにてあらんと云ふ者なり。仏法修行は、けきたなき心在るまじきなり。武士なんどは、けきたなき振舞ひしては、生きても何かせん、仏法もかくなめくりて、人に随ひて、尋常(よのつね)の義共にて足りなんと思ふべからず。叶はぬまでも、仏智の如く底を究めて、知らんと励むべし。」(「栂尾明恵上人遺訓」)明恵にとってのあるべきやうわ、一日の規律はこうである。「一酉(午後六時)礼(拝)時 唯心観行式。一戌(午後八時)行法一度 三宝(仏法僧)礼。一亥(午後十時)座禅 数息。一子丑寅(午前零時より午前四時まで)三時休息。一卯(午前六時)行法一度有無可随時 礼時理趣礼懺等。一辰(午前八時)三宝礼 小食持経等読誦光明真言四十九遍。一巳(午前十時)座禅 数息。一午(正午)食事 五字真言五百遍。一未(午後二時)学問或書写。一申(午後四時)会師要決」「貞永式目」を定めた鎌倉幕府三代執権北条泰時は、「(明恵上人に)承久大乱の已後在京の時、常に拝謁す、我不肖蒙昧(もうまい)の身たりながら、辞する理(ことわり)なし、政(まつりごと)を務(つかさど)りて天下を治めたる事は、一筋に明恵上人の御恩なり。」(「栂尾明恵上人伝記」)と語る関係を明恵に持っていた。北条泰時の名は、明恵に箔が付かなかったはずはない。この明恵には奇妙な習慣があった。死の前年までの四十年間、見た夢を書き記していたのである。「八月廿七日の夜、夢に、自らの手より二分許(ばか)り之虫、ふと虫の如し、懇(ねんご)ろに之を出せりと云々。即(すなは)ち懺悔の間也。」「狼二疋(ひき)来リテ傍ニソイヰテ我ヲ食セムト思ヘル気色アリ、心ニ思ハク、我コノム所ナリ、此ノ身ヲ施セムト思ヒテ汝来リテ食スベシト云フ、狼来リテ食ス、苦痛タヘガタケレドモ、我ガナスベキ所ノ所作ナリト思ヒテ是(これ)ヲタヘ忍ビテ、ミナ食シヲハリヌ、然(しかして)シナズト思ヒテ不思議ノ思ヒニ住シテ遍身ニ汗流レテ覚メ了(をは)ンヌ。」「(建暦元年)十二月廿四日 夜の夢に云はく、一大堂有り。其の中に一人の貴女有り。面皃(めんぼう)ふくらかをにして、以ての外に肥満せり。青きかさねぎぬを着給へり。女、後戸(うしろど)なる処にして対面。心に思はく、此の人の諸様、相皃、一々香象(かうざう)大師の釈と符合す。其の女の様など、又以て符号す。悉(ことごと)く是(こ)れ法門なり。此の対面の行儀も又法門なり。此の人と合宿、交陰す。人、皆、菩提の因と成るべき儀と云々。即ち互ひに相抱き馴れ親しむ。哀憐の思ひ深し。此の行儀、又大師の釈と符合する心地す。」あるいは弟子が書き留めたこのような言葉こそが、明恵の真骨頂である。「若(も)しは一管の筆、若しは一挺の墨、若しは栗・柿一々に付きて、其の理を述べ、其の義を釈せんに、先づ始め凡夫、我が法の前に栗・柿としりたる様より、孔・老の教へに、元気、道より生じ、万物、天地より生じる、混沌の一気、五運に転変して、大象を含すと云ひ、勝論所立の実・徳・業・有・同異・和合の六句の配立、誠に巧みなりと云へども、諸法の中に大有性を計立して能有(のうう)とし、数論(しゆろん)外道(げどう)の二十五諦も、神我時自常住の能生を計して、已(すで)に解脱の我、冥性の躰に会する位を真解脱処と建立せる意趣にもあれ、又仏法の中に先づ自宗の五教によるに、小乗の人空法有(にんくうほふう)、始教の縁生即空、終教の二空中道、頓教の黙理、円教の事々相即、又般若(はんにゃ)の真空、法相(ほつさう)の唯識無境の談、法華の平等一乗、涅槃の常住仏性にもあれ、一々の経宗により一々の迷悟の差異、其の教宗に付きて、栗・柿一の義を述せんに、縦(たと)ひ我が一期を尽して日本国の紙は尽くるとも、其の義は説き尽し書き尽すべからず。」明恵は、栗一個柿一個ですらこの世のどのような教え知識をもってしても、いい尽くすことは出来ないというのである。晩年、明恵は仏光観の実践に費やしたという。若修行者求大菩提心者、無労遠求。但自浄一心。心無即境滅。識散即智明。智自同空。諸縁何立。仏、釈迦の教えを光として捉(とら)え、その光を受けた世界、教えによるところの世界の有様(ありよう)を、瞑想によってあたかも光のように己(おの)れに取り込み、己れ自身と世界との隔(へだ)たりが失われ、無くなり、成仏、悟った者としての己れ、あるいは真の己れをそこに見ることが出来るというのである。冬空に響き渡った自分の声を、疑いなく自分の声として自分の耳で聞きとめること、智自同空、が明恵のいう悟りである。高山寺の神鹿は、春日社詣での折、明恵の前で並び臥した東大寺の鹿に因(ちな)むという。その牝の哀しく鳴く顔は、鹿の顔ではない。転生した人間の顔である。

 「窓に うす明りのつく 人の世の淋しき」(「旅人かえらず」西脇順三郎西脇順三郎全詩集』筑摩書房1963年)

 「帰還率8割に 福島・川内、仮設と借り上げ住宅無償提供終了要因」(平成29年6月11日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)