織田信長と十一年の間、石山寺で戦った武装教団真宗本願寺は、紀伊鷺森、和泉貝塚、大坂天満と居場所を移し、信長の死後、豊臣秀吉に己(おの)れの目の届く京都七条堀川に移転させられる。信長との和議に応じた十一代宗主顕如(けんにょ)の死後を継いだ嫡男教如(きょうにょ)が、その継職の顕如の譲状を巡って秀吉と揉め、僅(わす)か一年後に顕如の弟准如(じゅんにょ)に宗主を譲り、隠居の命に応じたのであるが、秀吉の死後、徳川家康教如の持つ勢力を見逃さず、七条烏丸に広大な地を与え、よって本願寺は東西に二分してしまう。その政治によって分裂したまま今日に至る巨大な仏教教団の姿は、それを俯瞰(ふかん)して見れば、背を向け合う双子のように奇妙な姿である。浄土教信者徳川家康は、東山の知恩院香華院(こうげいん)として大伽藍に変貌させ、側近に天台宗南光坊天海と、臨済宗の最高位南禅寺の以心崇伝(いしんすうでん)を持っていて、法華宗徒の衰えた京都の大寺(おおでら)仏教は、徳川幕府の手の内にあった。寛永十八年(1641)その分派に手を貸した東本願寺から、地面の拡張を請われ、三代将軍家光は、東西一九四間、南北二九七間の土地を寄進する。これは言うまでもなく、東本願寺の力を示すものである。寛永九年(1632)に出た末寺帖令に従った東本願寺は、幕府の手の内にあってなお、積み上げた末寺の数の力を家光に示したのである。その東本願寺の二町(にちょう)東、寄進地の百間四方が、十三代宣如(せんにょ)が隠居所とした渉成園(しょうせいえん)である。舟を浮かべたという池があり、池の中に点々と小島があり、小流れがあり、水辺や築山に茶室があり、持仏堂があり、楼閣のような左右に登り階段がある四畳半の花見の二階部屋があり、燈籠(とうろう)が立ち、梅林があり、松が生え、大広間の亭の前に広々とした芝地がある。が、いま印月池(いんげつち)と名づけられている池には、水が一滴もない。侵雪橋(しんせつきょう)と呼ばれている反橋(そりばし)の工事のため、水を抜いているのである。池に水がなければ、趣(おもむき)は変わる。あるいは趣は損(そこ)なわれ、あるいは茫然と失われる。乾いて罅(ひび)の入った泥の池は、池ではない。その故(ゆえ)に中に下り、底に立って辺りの写真を撮る者がいる。その様(さま)は夢でなく、水のある景色の方がいまは夢である。水辺に建つ建物は火事に遭い、すべて再建されたものである。臨池亭(りんちてい)、滴翠軒(てきすいけん)、閬風亭(ろうふうてい)にはガラス戸が嵌(は)まり、水のない渉成園をそのように映している。露地を設けた二階建て二間の茶室蘆菴(ろあん)は、昭和三十二年(1957)の再建である。二階四畳半の肘掛窓から外を眺め、ここで点(た)てて喫む茶は煎茶である。窓にいい風が通る。昭和三十二年の窓に吹き込むのは、昭和三十二年の風である。昭和三十二年は、南極越冬予備隊の、南極大陸初上陸の年であり、茨城県東海村の原子炉が、初めて臨界に達した年である。その火は、数を増やし点(とも)り続けたのであるが、六年前の大津波に飲み込まれ、ひとたまりもなかったのである。掲示によれば、下の池に水が戻るのは、十一月である。

 「秋雨のそぼふる夕暮の京都はいかにもよい。よいと思ふだけ、自分は東京がやはりなつかしい。上田君に半日、ワツトーの画、ダヌンチオ、春水なぞ、つまり人種固有の特徴から出た特種の文藝と云ふやうな事を語つた。京都の生活の内面は到底他の土地の人の覗(うかが)ふべからざる処らしく感じられる。」(「斷腸亭尺牘(だんちょうていせきとく)」永井荷風荷風全集 第二十五巻』岩波書店1965年)

 「「放射線量」立体で可視化 小型カメラ開発、JAEA実用化へ」(平成29年9月12日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)